物理と数学:老人のつぶやき

物理とか数学とかに関した、気ままな話題とか日常の生活で思ったことや感じたこと、自分がおもしろく思ったことを綴る。

8月よ、さようなら

2017-08-31 14:03:16 | 日記

8月も今日で終わりである。東京では8月は雨天続きで嫌な天候が続いたらしいが、松山はほとんど晴天続きであった。もっとも数日前に雨が降ったら、その次の日は涼しくてとてもよかった。もっともその後また暑さは元に戻っているが、今日は普段はあまり吹かない東風で心地よい。多分湿度が下がっているのであろう。

そう思って室内の温度計と湿度計を兼ねそなえた計器を見たら、温度はちょうど30度を指していたが、湿度はなんと40%を指していた。

これではさわやかに感ずるはずだ。湿度が少しづつ下がってきている感じがしてはいたが、ここまでさがっているのははじめてである。いままで65%くらいの湿度が普通であった。

いつもこの時期に書くのだが、暑さはまだまだ暑いのだが、すこしづつ秋がきている。歌に「小さい秋見つけた」というのがあるが、あれは本当の秋ではなく、夏の終りの歌だというのをいつだったか歌を歌うグループの人が来て歌の合間のトークで言っていた。それくらい日本の夏のしのぎ難さがあるということであろう。

冬が長くて、寒く厳しいドイツでは、夏の方は暑くても湿度が低いこともあって、それほど問題ではない。問題なのはむしろ冬であって、みんな冬が終わるのを待ち望んでいる。それを象徴するのが2月または3月にある、ファスナハトである。これは日本ではカーニヴァルという語で知られているが、私自身はあまりカーニヴァルという語をドイツでは聞いたことがない。住んだことがあるのが、フライブルクとかマインツとかであったからであろう。


アルザスの村々

2017-08-30 12:56:22 | 日記

ストラスブール近郊はアルザス地方である。ここは歴史的にフランスに属したり、ドイツに属したりした地方であり、その地方で話されている言語はむしろドイツ語の方言のようである。

pour sant'e(プールサンテ:健康を祝して)というワインとかの飲むときの言葉としてGsuntheit(スントハイト)はドイツ語なら、Gesundheit(ゲズントハイト)であろう。昨夜のNHKの「旅でフランス語」で常盤貴子さんがアルザスを訪ねる2回目であった。もう40年ほど前にストラスブールとコルマールを訪れたことがあるが、じっくりこの地方を旅してみたい感じた。

コルマールの教会だったが、美術館だったかを訪れて、グリュ―ネバルトの絵を見た覚えがある。もっともその絵の中に「ほほえむマリア」という絵があるそうだが、それの記憶はない。その絵のことを知ったのは武谷三男の「若き日のあこがれ」というエッセイの中でほほえむマリアの絵はとても少ないのだと読んだときであった。

わが子のクリストが後に磔になるということを知っているので、画家はほほえむマリアなどはあまり描かなかったのだろうという。ではなぜグリュ―ネバルトはほほえむマリアの絵を描いたのか、彼は30年戦争(1618-1648)でこのあたりの農民が戦争と飢饉と病気で心がとても暗かったときに、農民たちに希望を与えるために「ほほえむマリア」を描いたのだという。

残念ながら、コルマールのこの美術館は第3回の次週の放映でも多分出ては来ないだろうが、アルザスの村々の景色とワインと料理は一度経験してみたいものである。


車の運転

2017-08-29 12:57:08 | 日記

はアメリカでは誰でもできるので、車の運転ができない人が珍しがられて、「女性にもてるのだ」とか嘘かほんとかわからない話をはやらしたのは作家の小田実であった。いまでは日本でも車の運転免許を持っていない人の方が持っている人よりも少ないであろう(注)。

数学者の遠山啓は1909年の生まれだから、かなり古い人である。その彼が一時期、車の運転免許をとろうとして自動車学校に通ったという記述をいつだったか読んだ覚えがある。彼の場合には途中で断念したと思う。

友兼清治『遠山啓』(太郎次郎社、2017)には多分そういうことは書いてなかったと思う。もちろん、車の免許云々は遠山にとってはどうでもいいことである。だが、転居して交通の便が悪くなって車の運転免許があった方がいいと考えて自動車学校に通ったのであろうか。

私が自動車学校に通ったのは53歳のときであり、このときを逃せば車の免許取得をするチャンスはないと思った。それでも途中で1週間くらいやむを得ない理由で休まなければならなかった。それで1週間後に自動車学校に出掛けたら、自動車学校の先生から「もうあきらめたのかと思った」と言われた。あきらめる気はまったくなかったから、意外な気がしたが、先生は私につらく当たったとでも思っていたのだろうか。

実はこの先生は教え方が合理的であり、いい先生だった。それにきつく叱るということなどなかった。これは私が彼の高校の時の同級生の知人であるとか、またその同級生のお姉さんとやはり知り合いであるとかいうこともあったであろう。10月3日にはじめてこの学校に行き、その年の12月24日だったかに免許取得をした。

今年の5月にその自動車学校で高齢者講習を受けた、そのときにまだ S 先生が在籍されておられるかどうかを自動車学校の教官の名前から探したが、出ていなかった。この人は車が好きなだけではなく、大学を出ていた人だった。珍しい人である。

もっとも私が車の免許をとったのはもう25年前のことであるから、その当時の教官が非常勤にしても勤めているはずはないのかもしれない。自動車学校の教官には口ぎたない人も多いとか聞いているが、私はそういう経験はあまりしなかったのは幸いだったかもしれない。

(注)「英語カタコト辞典」だったかに小田実がアメリカの名うての女たらしは"I love you"と言って"I love you very much"とかのvery muchみたいな修飾語をつけないのだと書いてあって本当かなと半信半疑だったが、フランス語でも Je t'aime(ジュ ティム)といって Je t'aime beaucoup(ジュ ティム ボークー)とかは言わないと聞いてヨ―ロッロパ言語ではそうなんだということを後で知った。

副詞の beaucoup をつけると相対的になってしまい、「愛している」という感じが「君のことを好きだよ」というような軽い感じになってしまうという。だから、本当に愛しているときには beaucoup(ボーク―) だのvraiment(ヴレマン)だのという副詞は厳禁だという。そういう話を聞いてようやく小田実・開高健の「英語カタコト辞典」の記述を信じることができるようになった。もっともこれにあたる話はドイツ語では聞いたことがない。

 

 


差異と共通性

2017-08-28 12:16:07 | 日記

で共通性よりは差異の方が目につきやすいと思う。これは身内に起こったことだが、息子が先日理髪店から帰ってきたときに孫が知らない人が来たと思ったらしく、お母さんにしがみついて泣いたということがあった。

これは息子がそれまではやしていた髭を理髪店で剃ってもらったために孫が自分の父親だとは認識できなかったためである。こういう話は他にもあるのであろうから、結局はなにかの特徴を捉まえて人を判断しているのであろう。

話はまったく違うが、そういえば、私の先生の一人の O さんが陽子、中性子、ラムダ粒子の共通性に目をつけて後でIOO理論とかU(3)理論とかかよばれるようになった理論の端緒となる、短いletter論文を書いたという話を数回聞いたことがある。これらの3つの粒子は(1)強い相互作用をする、(2)質量が同じくらいだとかいうような共通性に目をつけたという。もっとも陽子と中性子の質量はとても近いが、ラムダ粒子はちょっと離れているので、(2) の質量が同じくらいということを認めるという物理学者はあまり多くはなかったらしい。

それほど共通性を大づかみにつかむということは難かしい。もっともそれらの粒子が同じ土台の上に扱われるということが学会のいわば常識となるのにそれほど時間はかからなかった。それが素粒子物理学における群論的扱いの流行となった。これは一つにはその当時の素粒子物理学の先端を走っていたGell-Manのセンスと権威によるものでもあった。


男性か女性か

2017-08-28 11:46:17 | 日記

は日本人ならば大体名前で判断がつく。もちろんときどき男性の名前に使われる名前をもつ女性がいたり、その逆もある。

だが、おおよその判断は名前でつく。外国人の名前もどうしてかはわからないが、おおよそ判断がつくと思う。もっとも自分の母語ではない言葉を話す人の男性か女性かの判断だから100発100中というわけにはいかない。だが、およそ見当がつくと思う。

イタリア語で語尾がaで終われば、女性名詞だし、0で終われば男性名詞である。eで終われば男性名詞のこともあれば、女性名詞のこともある。フランス語ではeで終われば、大抵は女性名詞である。もちろん本 livre のような例外はある。木 arbreも男性名詞だったと思う。

Mariaは女性の名前だし、これがMarioとなれば、男性の名前だと自然とわかる。たとえばMarleneとあれば、これは女性だろうと判断してまちがいがない。しかし、こういう感覚はどこから得られたものだろうか。ちょっと不思議である。


数日前の日照りが

2017-08-26 12:59:37 | 物理学

嘘のような雨降りである。水不足が心配されていただろうから、ちょっと一息をついただろうか。今年は東京は2週間以上雨降りが続いた一方、松山などでは雨がほとんど降らなかった。台風のときに少しだけ雨が降ったが、どうも水不足の根本的な解消にはならなかった。

もっとも、水不足が心配されていたのは愛媛よりは香川とか徳島であったかもしれない。この2県の水がめとも言われる早明浦ダムはかなり渇水で困っていたはずだから、台風で一息ついたであろう。それで、今回の雨は恵のあめかもしれない。

長年ブログを書いているから、もう何回か同じことを書いたと思うが、人間なんて威張っているようでも、数か月雨が降らなければ、お手上げだからやはり自然の恵みによって生かされているという感を深くする。

人間が自然に働きかけて自然を征服するなどということも言葉としてあるが、それは思い上がりだとは大学のときに講義を聞いた右翼の物理学の教授 O さんの言だったが、そのことだけはあまり反発していたわけではない。

O 教授はまた、現実に体験できる力である、「遠心力を仮想的な力だ」という考えには反対の立場に立っていたが、こちらも私は O さんに賛成である。だから政治上の思想では右翼であるからといって、O さんをいつでも毛嫌いをしていたわけではない。たとえば、車に乗っていて右にまたは左に車がカーブするときは外向きに力が働くので車のフロントグラスの近くにおいてあった、例えばティッシュペーパーの箱が動くなどいうことは実際に体験することである。

誰か世間的に有名な物理学者の方が、研究留学してイギリス人だったかの研究者から「遠心力などという力はない」と説得されたという話を書いているのを読んだことがある。だが、遠心力にはそういう性格はもちろんあるけれども、一方でロケットの発射基地が地球の赤道近くに設置されることが多いのは、地球の自転による遠心力が赤道近くの方が南極とか北極よりも大きいからである。

また、重力という力は地球上の地点、地点によって大きさが変わるが、これもその地球の地点、地点の遠心力の大きさが変わるからである。「重力は物体に働く万有引力と地球上の遠心力の合力」である。


N さんのところへ

2017-08-26 12:33:47 | 日記

行ってきた。「数学・物理通信」7巻6号の編集後記の執筆をお願いするためである。もっともそのためには編集している段階の原稿をUSBメモリーに入れて、彼のパソコンに保存して帰った。

そのファイルを開いて紙に印刷して読むのか、またはディスプレイ上で読んで、編集後記を書いてくれるだろう。締め切りを8月末までとして頼んでおいた。締め切りがないとなかなか一日伸ばしに仕事がなってしまう恐れがあるので。

この機会に7巻5号のファイルも保存してきた。これは先回 N さんのところへ行ったときにはまだでき上がっていなかったものである。

 


今日も忙しかった

2017-08-25 17:54:55 | 日記

から、ブログを書くのを忘れていた。もっとも忙しいといっても私的なレベルであって、外から見たところではまったく忙しそうではない。

いつかのメールに対する返事を書いたりしたので、私的には忙しかったという表現になるけれども。なんだか体に力が入らなくて、友人の N さんのところに行き損ねた。これでは明日の午前中に行く必要ができた。なんでも後へ後へとまわす方なので、仕事が片づかない。

それでも「数学・物理通信」7巻6号の編集には取りかかった。編集後記と私のエッセイを除いては著者からはほとんどOKの許可を得た。もっともひとりだけまだ返事をもらっていないが。

昨日の夕食に缶ビールを1本飲んだら、NHKのニュ―スを聞きながら、眠ってしまい、NHKのEテレでTEDの放送をしている途中で目が覚めた。これでは夜中に目が覚めて眠れないかと思ったら、朝まで快眠。もっとも私にしては早く6時半ころに目を覚まして、新聞を読み、妻が起きてきたときにはほぼ朝食の準備ができているという具合であった。

9月になって、夏の暑さで披露が体がたまって、まいってしまうかもしれないが、いまのところは快調である。


そろそろ編集開始

2017-08-24 12:13:55 | 日記

しようか。「数学・物理通信」7巻6号のことである。ちょうど9月までにあと1週間となった。昨日から編集を開始しはじめた。いつものごとく、はじめはゆっくりとである。ちょっと編集を始めてみるとどうも30頁には足らないので、どうやってその数ページを埋めるか考えなくてはならない。

一つは読者の方からの声を載せるという選択肢がある。もう一つは私の書いた本『四元数の発見』のミスプリントの修正ページの提示である。後の件はちょっとまだ技術的にどうしていいかわからないところがある。

それで、読者の声に関連して、四元数に関係した書籍をあげるということも考えられる。これはマイナーなりに四元数が関心をもたれているということからである。そういうことを考えている。


ブログを書くのを忘れていた

2017-08-23 18:10:23 | 日記

毎日、ブログを書くことを自分の大事な仕事の一環に位置付けてきた。

ところが他にする仕事がある場合、例えば今日のように、ブログを書くことを忘れていた。そろそろ自宅に帰ろうとして今日は何も書いていないことに気がついた。書くことがなかったのであろうか。

そういうことはない。昨夜、NHKの総合テレビでヨットマンの白石康次郎さんの話を見たので、これはとても興味深かった。世界一周のレースに出たり、レースではないが、世界一周に出かけた人だが、何回も挫折を味わっている。

一回のレースに出るために3億円もかかるとなれば、普通の人はへこんでしまう。白石さんはくじけない。だが、2回続けて世界一周の旅にヨットで出かけたのが、2回とも初期の段階で失敗してしまったという。

3回目に成功したわけだが、さすがの白石さんもしょげしまって、3回目にはなかなかとりかかれなかったという。

ヨットレースで賞金は出るそうだが、それはエントリー料よりも低く、世界一周のヨットの旅に出るような人はだれも少なくともお金を稼ぐというようなことには関心のない人達だという。

そして、冒険が好きなのかと聞かれたら、冒険がしたいわけでもないという。それでも他人から見れば、それは大冒険になっているとのことである。

おかしなことが好きな人が世の中にはいるものだと思う。


時間をおいて原稿をみると

2017-08-22 12:31:45 | 日記

けっこう新鮮な気持ちで不都合なところや不十分なところが見えてくる。時間をおかないで、続けて原稿をみていると悪いところになかなか気がつかない。1週間ほどおいておいた原稿を昨日見返した。これは9月発行のための「数学・物理通信」の原稿として用意したものである。昨日はそれを修正するのにほとんど一日を費やした。

その後に材料力学の初歩をテクストで読み返し始めた。もっとも鉛筆を使って計算するのはやめにして読むことに集中している。最後には自分で計算をチェックしないといけないのだが、それはまだ先である。

これは多分20年くらい前に少し勉強した事柄である。そのときにあまりきちんとした理解にまで至っていなかったので、今回はもうすこしきちんとした理解ができればいいのだが。もっともこれはいつかはサーキュラーに掲載できればいいと思っている


暑いのはまだ暑いが

2017-08-21 11:17:09 | 日記

湿度が少しづつ下がってきている。70%を超えていた湿度が70%をきって来ている。だからまだ暑いのは暑いのだが、耐え難いというほどではなくなってきた。それでもまだまだ暑さが続く。

睡眠時のエアコンの使用で何とか夏バテをしないですんでいる。昔はエアコンなんてなかったから、耐え難かった。土曜日だったか日曜日だったかにNHKのEテレで英語の単語についてのクイズを高校生を対象にしてやっていたが、なかなか難しかった。

四捨五入なんてものが出て来て、それでも答えをできる人がいたのには驚いた。なんでも経験を最大限に生かせる人がいるものだ。四捨五入はroundという。「四捨五入する」はround off というとの説明があった。数値解析等で丸め誤差とかいうときにround-off errorとかいう。四捨五入は数の「丸め」である。

なんでも「英語でなんというか」というと大抵のことを私たちがよく知っているわけではない。その上に、ある意味での文化の違いがある。これはこのブログでも何回も述べたことがあるかもしれないが、数式等のカッコの使い方でも日本では( ),{ }, [  ] 順に使うが、世界的に( ), [  ], {  } の順に使われるのが普通である。私はこの{  }の形が嫌いなので、世界的な用法に従いたいと思っている。

日本人の書いたテキスト等で、その人がアメリカで教育を受けた人は別だろうが、世界的な慣用のカッコの順番に使う人は少ない。1967年のことだが、Goldbergerの”Collision Tehory"という本を読んでいたときにカッコを( ), [  ], {  } に使われていて、そのときには日本風にあまりに慣れていたので、日本風に書き変えたことがあった。その後、放送大学の印刷教材でどうもカッコの使い方がちょっと違うと知った。

そういうことでいうと~もあまり使われず、3-4みたいに使うことが多いことも知った。もっともこの場合には3-4は「3マイナス4」と誤解される恐れがある。これはオランダのElsevierという出版社から発行されている雑誌に投稿したときに経験したことである。

 


材料力学

2017-08-21 10:51:04 | 科学・技術

を大学で学んだことはないのだが、その一部を2年ほど教えたという経験がある。とはいっても専門家ではないので、あまり具体的な棒とか板の曲げとかを詳しく講義したわけではない。3次元空間での応力とひずみの関係とかを調べて講義したのだが、役に立たない講義の最たるものであったかもしれない。

庭の書庫にその関係の本があるはずだと思って日曜の朝探したら、10冊近くの本が出てきた。その中にはテキストとして使った本もあったが、たいていは出版社からの献本であるらしい。それと卒業していった学生が残したテキストとかもある。

ラメの定数の導出を書いた本があるかと思ったが、そういう本は1冊もなかった。いや本当は1冊あったのだが、まだ詳しく読んでいない。何でも結構面倒な話である。機械工学科で、材力、機械力学、熱力学というのが難しいとそういうざれ歌まであると承知しているが、式だけを見るとけっこう面倒である。


徳島科学史研究会

2017-08-21 10:40:59 | 日記

の発表に8月19日に徳島に行ってきた。とはいっても発表がすんで、会がおわると即日松山にトンボ帰りをするという行程でまったくおもしろくもないやり方である。それでも夜の10時半過ぎには駅まで迎えに来てくれた妻の車で帰り、簡単な夕食後に早々に床についた。

会はいつものごとく各人のそれぞれの思い入れのあるテーマでの発表であり、昨日の日曜日の朝食後に妻にその講演のいくつかの話をしたら、「まあ老人たちが好きでやっていることが大切なのだね」という話で肯定的反応であった。

来年はまた松山で開催することを引き受けてきたことも話したが、お世話できるときにはお世話するのがいいというようなことを言われた。まことにそうである。


科学の再現性と人間の理解可能性

2017-08-18 10:26:03 | 日記

これは私自身の経験である。ある論文を発表したことがある。内容が何でであったのかは忘れたが、すくなくとも私の主張に沿うデータが得られたのであった。ところがこの数値計算は大学院生だった学生に委ねていたのだが、その彼が卒業して他の人に同じプログラムでやらせたら結果が上手く出ない。同じ入力データを使えば、同じ結果が出てくることはいいのだが、そのデータの近くの数値を入れると結果がまったく異なってくる。

いわゆる数値計算の安定性がないのである。それでその論文の拡張版を出すことができなかったというお粗末な次第であった。ある特定の入力データでうまく望みの結果を出すことができたのは多分間違いがないだろう。だが、もしそれが十分にいいモデルならば、その数値の近くの入力データに対しても同じようにいいモデルとならねばならない。ところがその条件が満たされていないのである。これは私の大失敗の一つであった。そういうことが起こっているとは思いもしなかったので、吟味が十分ではなかった。

昨日、科学にも再現性がなかなか得られない例が生命科学を中心としてあるのだという。特に実験室が移転した後などで実験の再現性がなかなか得にくいことがあるという。これでは科学としての名に値しないことになる。

一昨日(2017.8.16)の朝日新聞の記事にはあるAIの研究者が「還元主義的な科学からAIは卒業した」とあったが、これはちょっと問題ではないか。この研究者はつづけてAIが自ら機械学習という方法をくり返して強くなった将棋ソフトのポナンザ指す手を人間が理解できないことがあるという。将棋ソフトの作者は「その過程は私にもブラックボックス。でも人間が全部理解できるというのは傲慢で、今後も未知の領域は拡大するかも」といっているそうだ。だが、そこのところをなんとか理解するのがやはり人間のするべきことではないのだろうか。簡単ではないしても。