物理と数学:老人のつぶやき

物理とか数学とかに関した、気ままな話題とか日常の生活で思ったことや感じたこと、自分がおもしろく思ったことを綴る。

「算数の探検」の復刊

2011-06-30 13:00:40 | 本と雑誌

遠山 啓著「算数の探検」が日本図書から復刊された。各冊の定価が3,780円だから、全10冊で37,800円となるが、復刊されたということは要望が大きいのだろう。また、確かにそれだけの価値はある本である。

もっとも私にしても本の購入に使える予算はほとんどないので、本を購入するときにはかなり考慮しなければならない。私自身はこのシリーズを古書で手に入れてもってはいるが、もう一つ買っておこうかどうしようかと再度苦慮している。

昨年の夏休みの医療生協での、宿題クリアのための無料塾では参考資料としてこれらの本をもって行ったし、今年ももって行くつもりである。

この「算数の探検」シリーズを読んだことはなかったが、購入してもっているとこのブログで書いたら、記録に残っている限りでは70回ほどのアクセスがあったことが記録を先ほどチェックしてわかった。

いずれにしてもブログとしてはかなりのアクセスがあった方である。どういう方がそのブログにアクセスされたかはわからないが、塾の先生をしている方とかや子どもの算数教育に悩んでおられる親御さんなのであろうか。

遠山さんの「さんすうだいすき」などでも古本市場に出ても数万円の値段がついている。もちろん、1冊4000円以下ではなかなか復刊できないだろうから、2万円くらいだったら、安い買い物なのかもしれない。私は妻の友人から格安でこのシリーズをゆづってもらった。

しかし、私が一番感激したのは遠山さんの「数学の広場」であった。これは子どもの通っていた学校の図書館にあったので、子どもが借りて帰ったときにそれを読んだ覚えがある。その後、古書で買ってもっているが、いまはもっぱら辞書代わりに使っている。


『スターリン言語学』精読

2011-06-29 13:32:45 | 学問

田中克彦氏は名著『ことばと国家』(岩波新書)の著者であるが、優れた言語学者だと思う。ところで、その彼が岩波書店の要請に応えて書いたのが標題の本である。

安孫子誠也氏の「広重徹の武谷三段階論批判」にこの『スターリン言語学』のことが出ていたので、一度読んでおこうということで古書で購入した。

4章の「スターリン言語学と日本」と2章の一部を読んだだけであるが、なかなかこの書が興味のあるであることがそこを読んだだけでも窺える。

安孫子氏から彼の論文「広重徹の武谷三段階論批判」(物理学史ノート No.11) のコピーを送ってもらった身としてはちょっと安孫子氏の論に異論を立てるのは申し訳がないが、それでも異論を唱えたい。

確かに後世からみて、「スターリンの独裁についていい」という人はいないが、だからと言ってこの『スターリン言語学』と共通の業績を武谷三男が誇っているのは赤面するようなことであるというのはやはりおかしいと思う。

それに私自身は武谷が『スターリン言語学』と共通の業績を誇っているとは思っていない。

また、毛沢東の『実践論』や『矛盾論』についての非難も同様である。確かに文化大革命は中国の近代化を30年遅らせたと後世の私たちはいう。

だが、だからこれらの毛沢東の著作がおかしいというのとは話がちょっと違う。「ほんとうにこれらの本を読んでそんなことを書いたのですか」と問いただしたくなる。この二つはあまり長くなく、岩波文庫に入っているので、2回ぐらいは学生の頃に読んだが、なるほどとそのときに感心をしたものである。

こういうことを書くとどこか別の文脈で同じようなことを言ったり、聞いたりしたようにも思うので、それとどう違うのだと問い詰められそうな気がするけれども。

武谷三男本人の言では、毛沢東のこの二つの著作はあまり教訓じみていて好きにはなれないとの評をどこかで読んだ。それでも毛沢東の矛盾の概念の分析については今でも学ぶべきところがあると思う。

毛沢東自身は『矛盾論』よりも『実践論』の方が基本的と言っていたらしいが、私には『矛盾論』の方が面白かった。それは『実践論』は普通の唯物弁証法のことを書いた書と主張が同じではないかと思ったので、それほど新味を感じなかった。

『「スターリン言語学」精読』の全体を読むことができたらいいのだが、息切れしないかと心配である。それに私にはするべき仕事が多すぎる。

(2011.7.3付記) 先日から読んだ箇所が増えた訳ではないが、問題は社会主義と言語であり、どうも正統的な社会主義は一般には民族なりその言語なりを統一するような傾向にあったのだが、スターリンの主張は民族の自決やその言語の独立を推奨し、保障するようなものであったということらしい。

現在なら社会主義は必ずしも理想でもないといわれるかもしれないが、スターリンにはその二つの相反はうすうすは感じられたであろうから、民族の自立とその言語の尊重を主張した『スターリン言語学』は特異な位置にある。

そこら辺の特異さを田中克彦さんは敏感に感じていたのだろう。この書はなかなか興味深々であると思う。そのことを安孫子氏は知っておられた上での上記の発言ならば私にはちょっと頂けないと思う。


食物連鎖

2011-06-28 12:44:59 | 科学・技術

「食物連鎖」は私が「生物濃縮」といつか表したものと同じである。これは一昨日にKさんの山の家にテニス仲間と訪ねたときに、I さんが U さんに原発事故で放出された放射性元素が一般には薄まるはずだが、そうではなくて濃縮されるという事実のキーワードとして「食物連鎖」があると言われていた。

それを聞いた U さんが十分に理解されたかどうかはわからないが、さすがに I さんは弁護士さんだけあってそれについての十分な理解があるのだと思われた。

ビキニ環礁で水爆実験を行ったときに日本人のマグロ漁の漁師さんたちが被曝して、その中の一人、久保山愛吉さんが亡くなった。そして、そのときに漁獲されたマグロは放射能に汚染されているとして地下深くに穴を掘って埋められ、廃棄処分をされた。

普通に物理学での熱力学第2法則によれば、安定な化学物質のPCBでも放射能でも自然界に拡散して薄まることが予想される。

ところが、実際にはさにあらずでマグロに放射能が濃縮されたり、ほうれん草にPCBが濃縮されたりということが起こる。これは熱力学第2法則に反しているようだが、実は理由がある。

マグロの放射性はまずプランクトンが汚染されており、そのプランクトンをマグロが食べるとことによってマグロに放射能が蓄積したのであった。だから動物とか植物とかは負のエントロピー(ネゲントロピー=負のエントロピー)を持つといわれる。

それらの生物濃縮という作用を使って、逆にひまわりを植えたり、ひまを植えたりして、放射性物質を集めてもらい、除染を進めるということを最近新聞で読んだことでもある。このように生物には濃縮作用があるから、極端に食物には神経質と思われるくらいでなければならない。

特に、放射性を帯びた食物として人間の体内に摂取されたものは、その一部は体外に排出されるとしても、一部は体内に留まり、内部被曝を起こすので、放射線量が低線量でもそれが持続する。それで内部被曝の方が体への影響が大きいというのはいまでは一般によく知られたことである。外部被曝の場合は高線量でも時間的には一時的なのでその影響はあまり大きくはないといわれる。

もちろん、自然界にも放射線は存在するが、それでも不必要な放射線は受けないに越したことはないと現在では言われている。一般に閾値があって一定以上の放射線量でないと人体には影響がないという説もあるが、それでも一般には放射線量は少ない方がいい。

しかし、自然界には地球外から常時やってくる宇宙線のように私たちにはどうしようにもできないものもある。だから、不必要な放射線は受けない方がいい。

武谷三男の主張では「許容量」とは他の利益のために放射線等を「我慢する量」であって、ここまでは人体に大丈夫という量ではない。


直面する

2011-06-27 11:05:25 | 科学・技術

原子力発電の問題点はもうすでに何十年も前に指摘されていた。啓蒙書でいえば、岩波新書の武谷三男編「原子力発電」(1976)であるが、これにはすでに放射性廃棄物の後処置がとても難しいことが述べられている。

昨日、テニス仲間の弁護士Kさんの山の家に招かれて大勢でお邪魔をしたのだが、そこでKさんとMさんとの話の中でもそのことが話されていた。数万年単位でのプルトニウムを中心とした放射性廃棄物の監視保存は人類の歴史の中でも類がないことであり、いわゆる原子力の技術はそういった放射性廃棄物の問題までも含めて考えれば全く完成していない。

ところがそこは全く頬かむりをしてやってきたのがいままでの原子力発電行政であり、国策としての原発政策である。科学的とか技術的にはこの放射性廃棄物の一点でもどうしようもないものである。

もちろん、放射性廃棄物をガラス状に焼いて、地下に長期間それも短くても500年、長期にとれば2,3万年の長期間にわたって、監視しながら保管する。そんなことは理性的に考えたら、人間にはできそうもないということであり、それがたとえ技術的に可能であったとしても、企業の利潤ベースでは全く引き合うはずがないが、それが全く無視されていた。

そういう放射性廃棄物のことまで考えたら、現在1キロワット20円前後といわれている原子力による電力料金はもっとはるかに高価になって1キロ数十円には収まらないだろう。だが、その多量に出る放射性廃棄物の管理の費用は計上はしないで、後世に付回しにして、考えないから20円に収まるのである。

この構造は現在の税収不足を国債の発行でしのいで、多額のつけを後の人に回しているということとまったく類似である。

こういった利潤の構造が福島の事故の後でようやく直視され始めた。一言でいうと、世の中は理性では動いていない。そうではなくて、むしろ産業が主導していた。今の場合には電力業界の利潤で動いている。

だが、それに対しておおぴらに反論を唱える人が出てきたのだと思う。

(2011.7.1付記)  上に原子力による電力の費用を20円/キロワットと書いたが、先日の朝日新聞によると1キロワット当たり5~6円とあった。ところがいろいろの放射性廃棄物処理等の費用とかあからさまに計上されていない費用を勘案すると10円前後になるとどこかの大学の先生の試算があった。

またこれには最終的に放射性廃棄物が無害となるのに必要な2万年間どこかの地下に保管する費用は含まれていない。この費用は2兆円と試算されているようである。いずれにしても1キロワット5~6円の原子力料金は後世に付けを残した値段であることは間違いがない。

私が学生の頃の電力料金は13円/キロワットだったと思うので、現在の20円/キロワットはあまり値上がりはしていないことになる。だが、問題点がない訳ではない。


虚脱

2011-06-25 11:17:17 | 日記・エッセイ・コラム

6月1日に数学・物理通信7号を発行し、つづいて6月22日にその8号を発行した。ちょっと無理をして続けて2号を発行したのでちょっと虚脱状態である。

7号についてはNさんの指数・対数関数の論文を読むのにちょっと苦労をしたので、それがちょっと後に残っていた。それが今度は自分の数学エッセイの図の入力やそれがすんでからの読み直しに時間がかかった。何度自分のエッセイを読み返したかわからない。

自分が書いたものは時間をおかなければ、いくら読んでも読まないのとあまり変らないのである。ところが、今回はできるだけ早く出したいと思ったので、どうも無理がいってしまった。

できあがったものをみるとどこがそんなに手がかかるのであろうと思われるのであるが、実はかなり手がかかるのである。すこし大げさないい方をすれば、寿命が数ヶ月短くなるという感じがする。

うまくいって当然であり、もしまずいことがあると汚点になるので、きつい。もちろん人間のやることであるから、間違いがあってもおかしくないし、またもし間違いがあれば、あとで訂正を出せばいいのであるが、そう気楽にはなれない。そこらあたりが私の気性なのはとても因果なことだ。

虚脱から立ち直るにはどれくらいの時間がかかることであろうか。


アクセス解析から

2011-06-24 14:23:08 | 日記・エッセイ・コラム

昨日のアクセス解析から1日に24,5件のトップページアクセスがあったことがわかった。これは項目で選んだ人は検索から私のブログを見に来た人であるが、トップページは多分私のブログのURLをお気に入りに入れている方であろう。その方々が24,5人はいるらしいことが推測される。

大部分の方は私とは面識のない方であろうと思われるが、その中の1/2くらいは面識のある方もおられようか。面識のないと思われる方で私のブログを特にたくさん引用して下さっている方にsaitamanodorujiさんがおられる。以前に引用したときに間違ってsaitamadorujiとしてしまってnoが欠けていたことに後で気がついたが、そのまま失礼をしてしまった。

saitamanodorujiさんは新しい事実とか考え方に敏感な方で、私のブログのいくつかを引用して下さったために一時的にアクセス数が増えたことがあった。そのうちに元へともどったが、彼の引用の影響は矮小な私のブログでも大きく受けた。このことをここで感謝をしておきたい。

それにもかかわらず、そんなに注目を引くようなことを書けることはごく稀である。これはいつだったかも述べたが、フランスの物理学者Louis de Broglie(電子が波動性の提唱者)が何かの機会に述べたという、言葉

人は偉大なアイディアを人生に一回しかもてない (いまこのフランス語は忘れたので正確には復元できない。この文は高林武彦氏の書のde Broglieの追悼文の冒頭に引用されている)

にあるぐらいだからである。

いつだったかのこのブログでこの文をフランス語で書いたが、それがいつだったかは自分でもわからない。


エアコンなしでは

2011-06-23 11:30:43 | 日記・エッセイ・コラム

今日、エアコンなしでは生活ができない。

昨夜も暑そうだったので、結局エアコンをつけて寝た。そうでないと眠れそうにもなかったのだ。それで、エアコンをつけたら、おかげでぐっすりと眠れた。もっとも今こんな具合だと今後が思いやられる。むしろ暑いのはこれからだろうから。

ということで世の中の節電対策がいわれるのと全く反対であるが、これはどうも仕方がない。

ところが我が家の冷蔵庫が壊れたらしい。先日、買い置きのアイスクリームを食べようと取り出したら、溶けていたが、それを気にしていなかったら、妻に昨日か一昨日だか叱られた。もしか異変に気がついていたのなら早く言うべきだと。

ということで、夫婦二人だけだからあまり大きな冷蔵庫を買うことはしないで、小さめのものにしたと昨日聞いた。まだ入っていないがあさって新しい冷蔵庫が入る。

また、言葉で申し訳ないが、フランス語の口語では冷蔵庫のことをfrigoという。refigirateurというのが正式の名称だが、口語ではfrigoと短い。英語でも同じようであるが、fridgeというようだからフランス語は英語と言い方が似ている。

言語としてのフランス語と英語は語族が違うが、語彙としてはかなり同じものがある。学生の頃に夏休みのフランス語の講習会に参加したとき、フランス語の語彙の1/3は英語から来ていると先生が言っていた。

もっとも生活に密接に関係した言葉は違うかもしれない。

    


今日は眠い

2011-06-22 15:03:19 | 日記・エッセイ・コラム

昨夜は暑かったらしい。深夜の3時ごろだったか妻が起き出して寝室の戸を開けたらしく夜の外気が入ってきて目が醒めた。それから眠ろうとしたが、老人性の不眠症か何かで眠れない。

それで仕方なく、起き出して階下に下りて新聞をとり込んで読んだ。だから、もう6時ごろには新聞を読んでしまっていた。そのうちに妻が起きて階下に下りてきたので、Yさんのインタビューのテープの録音を紙に聞き取りの続きをした。

それでもぐずぐずしていたので、仕事場に来たのはそれほど早かったわけではなく、いつもと同じくらいで11時少し前であった。

しかし、それからがいけない。お昼のラジオ体操をおざなりにした後で、ブログを書こうとパソコンの前に座ったら眠ってしまったらしい。しばらく前に目を覚ましてお昼の弁当を食べ、ようやくこのブログを書いている。

昨日は日中は梅雨の一時休みで急に暑くなった。そのせいで夜が暑かったのであろう。私はその暑さを感じていなかったが、やはり暑かったのであろう。

今日は夏至である。一年中で一日の昼の時間が一番長い日である。ドイツ語ではどう言うかと思って辞書を引いたら、die Sommersonnenwendeとあった。これだと冬至はdie Wintersonnennwendeというだろう。ちなみに春分とか秋分はdie Tagundnachtgleicheという。

これは「昼と夜との長さが等しい」という事実をそのままドイツ語にしたものである。こちらのドイツ語は一度覚えたらもう忘れない。

夏至とか冬至とかの中に入っている、Wendeという語は日がそれまで少しづつ長くなっていたのが、これからは日が短くなるという方向に向う分れの時点ということであろう。

英語で水曜日をWendnesdayというがこれは水曜日で一週が折り返す日だということから来ているとはいつかR氏が教えてくれた。

ちなみにドイツ語では水曜日はMittwochという。文字通りに訳すと「週の真ん中」であろうか。


梅雨と都市砂漠

2011-06-21 13:13:50 | 日記・エッセイ・コラム

梅雨の真っ最中である。バケツをひっくり返したのではないかと思われるような雨が降る。しかし、一度雨が止むと最近の都市は砂漠のような暑さである。

これは道路がアスファルトで舗装されており、水は土にはほとんどしみこまないので、下水に流れてしまうからである。

都市砂漠といわれる。確かに、年々都市は砂漠化した気候となっている。東京のような大都市だとそれなりに緑地も多く、必ずしも砂漠化はしていないかもしれないが、それでも以前と比べれば都市の砂漠化が進んでいるのは確かであろう。

しかし、いいところもある。私が小学生のころにはまだ道路が舗装されていないところがほとんどで、舗装がされているのは、よほど大きな道路に限られていたので梅雨の時期には雨靴が欠かせなかった。

ところがこのごろは道路がほとんど舗装されているので、雨が一旦上がると道路はすぐに乾いてくるので雨靴が必要でなくなり、普通の靴ですむようになった。もちろん、雨のときは少し靴が湿ることはあるが、それでもたいしたことはない。

これはよくなったことの第一であろう。それにこのごろでは降った雨の幾分かは下水ではなくある特殊な道路の舗装の表面から地中にしみこむというものまで開発されているらしい。

あの雨が乾かず道路の表面がじめじめしているのを経験した子どもときを考えると梅雨の苦痛が幾分かは和らいでいる。

あのじめじめした季節は耐えがたかった。いまでも梅雨の時期には押入れの中でカビが生えたりはするであろうが、家の中も以前ほどじめじめはしていないと思う。


創造的「誤読」

2011-06-20 11:31:09 | 学問

昨日は日曜日だったので朝日新聞にいつものように書評があった。その中に『井筒俊彦 叡智の哲学』(慶応義塾大学出版会)の書評があった。

この本は価格が3,570円と結構高いのでそう気楽に買うことができる本ではない。しかし、ある種の研究書だと思うので、哲学とか思想とかの専門の方にはいい本なのであろう。

私の子どもがこの井筒さんの岩波新書をもっていて、読んで見たら興味深かったといっていたので、『イスラムの哲学』(岩波新書)だったかを読もうと思ってみたが、まったくわからず、あえなく途中で挫折してしまったことがあった。

そういう個人的な経験があるのだが、それはともかくこの書評のいうところがなんらかのヒントになるのではないかと思っている。それはこういう箇所である。

(引用始め) 井筒は、独創的な思想家が生まれる背後に「創造的『誤読』」の存在を見た。思想家の「読み」は時に強引で、不正確だ。しかし、その偶然的誤読こそが、意味の深みへと我々を導く。井筒は確信的に誤読を繰り返し、そこからオリジナルな哲学をつくりあげた。(引用終わり)

私が考えたことはつぎのことである。武谷三男の三段階論の提唱も広重徹氏のような科学史家の科学史の詳細な研究から言えば、誤読だったかもしれないが、その誤読から新しい認識をつくりあげたのではないか。

科学史の中で武谷三段階論は間違いだと広重徹氏などがいうが、それは科学史の詳細な研究の観点からはあたっているかもしれない。だが、それだから武谷三段階論が新しい創造的な認識であったことを否定できるわけではないと思う。

武谷三段階論に対して、そういうことをいった人はいなかったのではないか。そして、それがあたっているとすれば、科学史の研究で歴史的な事実と武谷三段階論があっていないと、事実をいくら積み重ねてもそれは評価がちがうのではないか。

 


陰関数の曲線を描くには?

2011-06-18 13:44:03 | 数学

もちろんコンピュータで陰関数の曲線を描くのだが、いままで文献を詳しく調べたことがない。

昨日数学者のNさんに会いに行ったら、F(x,y)=0のグラフを微分方程式の解として描くことをNさんが考えられてそのことを本に書いたことがあるという話をされた。実はその本をもらっていたのだが、忘れてしまっていた。

新居浜高専の数学の先生だった、Y先生という方が、これは私の「どうやってある微分方程式の解曲線を描いたらいいですか」という問いに答えて、ある描くことのとても難しい曲線を微分方程式の解として描かれたことを知っている。

このY先生からその論文の別刷もその後頂いたと思うので、ファイルキャビネットかどこかを探せば出てくるであろう。

また、コンピューターグラフィックスの本を数冊もっているので、それらに陰関数の曲線をどう描くかについて、なんと書いてあるかを知りたくなって昨夜からそれらを集めて見ているが、まだ走り読みで詳しくは読んでいない。

しかし、いつものように本を読むのは苦手である。だが、私のもっている本には意外に微分方程式の解曲線として陰関数F(x,y)=0のグラフを描くことは出ていない。

ニュートン力学での惑星の運動とか彗星の運動とかの軌道も運動方程式の解として描けるはずなので、微分方程式の解としてF(x,y)=0のグラフを描くことはどうももっとも正統的な方法のような気がする。

だから、世界的にみれば、N先生の考えは完全にオリジナルというわけではないかもしれないが、いい方法であることは間違いがない。


ラップ

2011-06-17 10:18:57 | 日記・エッセイ・コラム

ドイツ語のクラスではじめてラップを聞いた。はじめ何を歌っているのかわからなかったが、R氏の解説で少しづつわかってきた。

Lass die Leute reden ! という題だということもわかった。このことを聞き取ったのは若いYさんで私たちの中では抜群に聞き取りに優れている。

この歌はラップだから早口で聞きとれない。一番年長のOさんはお手上げといった感じだ。

彼はテレビとかのドイツ語のニュースはよく聞き取れるが、これは駄目だという。

丈の短すぎるワンピースを着て、高いヒールの靴を履き、つばの広い?帽子をかぶってでかける。そういう風だと近所の恥だといわれ、オサマ・ビンラディンの愛人だとのうわさが立つのではないか。

銀行強盗をしてお金があるから家賃を払えるのではないか。庭に死体が埋まっているのではないかとのうわさでKripo(刑事警察)が訊問と捜査のために家のドアを叩くのではないかといった内容らしい。

このような内容を早口で歌うのである。Oさんが聞き取りはお手上げだというと、R氏はこれはネーティブの自分でも一回聞いただけではわからなかった。3回聞いてようやくわかったという。これはわざと(absichtlich)早口で歌っているのだという。早口で歌っているから、何のことを歌っているのであろうと真剣に聞いてくれることを期待しているらしい。

まだ、最後まで聞いていないのでまだ後どういう内容が歌われるのかわからないが、意外なハチャメチャで破廉恥な行為をしていると思われるとのことであろうか。

KripoはKriminal Polizeiの略であるが、Kripoという語を知らなかった。そしてこの語に対してはじめ犯罪警察という訳語が思いついたが、やはり日本語では刑事警察というのであろうなと今朝仕事場に来る途中で思いついたが、念のために独和辞典を引いてみたら、やはり刑事警察という訳語だった。


秀才は同窓会に出ない?

2011-06-16 13:35:49 | 日記・エッセイ・コラム

高校の同窓会を10月に計画している。その開催準備の幹事になって、いま、およその参加予定者をはがきで返事を聞いている。ところが高校時代に秀才と思われた方々の出席率が悪いような気がする。

秀才でなかった私の僻みなのかも知れないが、そんな感じがどうしてもぬぐえない。私が高校時代に尊敬していた友人のO君とかH君はほとんど同窓会では見かけたことがない。Y君やK君はこのO君やF君ほどはご無沙汰ではないが、それにしてもそんなには度々は見かけない。もっともK君は続けて2回ほど顔を見せたが、そのうちに亡くなってしまった。

私も家庭の事情があって、2年ごとの同窓会がはじまったころの東京と大阪での同窓会は同窓会に出席するなどという心の余裕はなかった。しかし、それからの第3回目くらいからは都合がつけば出席しているから割と出席率は高い。

もっとも高校の同級会に出かけて楽しいかと言えば、それほど楽しいと思ったことはあまりない。高校のときから人とは一人、二人を除いてはあまり親しくつきあいがなかったので、仕方がない。

それでも同窓会の幹事を引き受けたのは小学校から同級だったK君が引き受けてくれと熱心に何回か電話をかけて来られたので、それにほだされて引きうけたのである。

いまほぼ50年以上前に卒業した高校の同窓会に80名前後の参加が見込まれている。妻によればその数はかなり立派なものだという。卒業生は350人くらいはいたと思うが、現在住所のわかって連絡が取れる同期生の数は250名くらいである。

そのうちの返事が来ないのは100名弱である。もっとも高校時代にあまりいい思い出がない人なら、同窓会には来たくはないだろう。


雨のときに傘をさすか

2011-06-15 12:00:32 | 日記・エッセイ・コラム

昨日聞くともなく、ラジオを聞いていたら、これはスペイン語の講座だったらしいが、スペイン人は少々の雨では傘をささないといっていた。

たぶんこれはスペイン人だけの話ではなく、ヨーロッパ人の共通の傾向であろうと思う。ロンドンのシティに勤めている人があまり傘をささないと言うのをどこかで読んだか聞いた気がするからである。ドイツ人でも同様だと聞いたと思う。

確かに国々によっては少しづつ気質がちがったりもするが、やはり共通のところもある。イタリア語の講座をこれも仕事をしながら耳にしたところでも、旅行に行ってもお土産を買い込んだりはあまりしないが、旅先から絵葉書に一言書いて送ったりするという。

イタリア人の化学者ロラーと車でイタリアからアルプス越えをして、スイスに入ったときだったが、彼は2時間だかある一定の時間車を運転するとバールに入ってエスプレッソを注文して、それを飲んだ後に絵葉書を購入して彼の両親にほんの一言書いては投函をしていた。

このときは彼の特有の習慣かと思ったが、そうではなくてヨーロッパ人が持つ普通の習慣なのだということは何年も経ってある方の家でのパーティで、やはりこれはアメリカだったかヨーロッパだったかは忘れたが、外国滞在の経験のある方からそういう話を伺ってなるほどと納得したものである。

雨のときに傘をさすかということと同じではないが、雨に関することでいえば日本では雨の中を歩くと言うが、フランス語では雨の下を歩く(marcher sous la pluie)という。これは前にフランス語修業シリーズの何回目に書いた。発想の違いがあるのはおもしろい。

un, deux, trois、すなわち、1、2、3と数えるときでもヨーロッパ人は日本人や韓国人のようには指を折って数えることはしないで、閉じた指のグーの形から親指、ひとさし指の順に指を突き出していく。

人を呼ぶ寄せるときでも自分の方に手の指を上向きにして手招きする。日本風に下向きに手招きすると向こうへ行けという風に取られるから、たかがジェスチャといえども大変である。


数学・物理通信8号

2011-06-14 13:32:39 | 数学

数学・物理通信8号の発行ができそうになってきた。ここ数日というかむしろ2週間ほどこれに投稿する私の原稿の図の入力に明け暮れた。それが数日前に終わって、その後は文章の読み直しをして細かな修正を施してきたが、ほとんど出来上がったと思っている。

だが、私はいつでもそそつかしくて思わぬミスをするので、もう数日は手元においておこう。そうしないと一度発行するとそこでミスを見つけると後の始末が大変になるからである。

共同編集者のNさんに読んでもらおうと思って電話をかけるのだが、電話がなかなかつながらない。それでまだ仕方なくそのままになっている。自分もよく読み返さないといけないが、他人に見てもらうことが必要な気がいつもしている。

6月1日に7号を発行したばかりなので、約2週間とちょっとで8号を発行しようとしているので、ちょっとつらかった。これでまた、9月はじめには9号の発行となる。なかなか忙しい。

それに8月27日には徳島で徳島科学史研究会の20周年記念の年会が行われることになっているので、それの話も用意しなければならない。まだテーマをきちんととは決めていないが、安孫子誠也氏の武谷の三段階論批判について話したいと思っている。ただ、数冊の本を大学の図書館に借りにいったりしなければならないが、一日、二日と延ばしている。