物理と数学:老人のつぶやき

物理とか数学とかに関した、気ままな話題とか日常の生活で思ったことや感じたこと、自分がおもしろく思ったことを綴る。

政権交代

2009-08-31 11:40:50 | 国際・政治

「政権交代があるのではないか」とは新聞がこのところ書いていたところだが、本当にこれが起こるような票が多量に出るとは思わなかった。これは、しかしそれくらいどうも世の中は閉塞感に満ちていることを示しているのであろう。

「どうしたら、生活がよくなるのかの処方箋は誰にもないようだが、新しい政権をちょっと任せてみたい。もう今までの惰性はあきあきだ」というのが国民の声なのだ。

アメリカのブッシュからオバマに大統領が変わったことも間接的に日本にも影響を与えているかもしれない。あれほどかたくなで国際協調を嫌ったアメリカの百八十度の転換であった。

日本では60年以上も自民党政権が続いてきた。それが簡単に変わるものかという気持ちも一方ではあったが、ものの見事にひっくりかえってしまった。これはすべて一票の積み重ねではあるが、すごいものである。

人々は民主党がいい政治をすぐに展開できるとはどうも考えてはいないらしい。だが、現在では新しい勢力に政治を任せてみたいという気持ちであろう。どこか新しい政策がでてくるのではないか。そうだとするといままでの政策についての先入観が打破されるということで、これから行き詰ったら、いつでも再シャッフルすればよいということであろう。

そういうことの経験をもったということだけは少なくともすばらしいのであろう。それ以上を期待することは過剰な期待かもしれない。

私が生きている間に政権交代が起こるという慣行が定着するかどうかはわからない。が、しかし、そういう慣行が定着するというスタートにやっとついた。


Anilir Serkan

2009-08-29 12:59:56 | 日記・エッセイ・コラム

Anilir Serkanは日本に現在住んでいる、天才的な建築家である(注)。

インフラフリーの住居を研究しているという。インフラフリーが何を意味しているかすぐにはわからなかったが、水道とか電気とかガスとか電話とかはインフラストラクチャーであろう。

そういうものがいらない住居がすぐに作れるとは思わないが、特定の状況にある人々が一時的に住む住居としての可能性を考えることは意味があるだろう。

インフラフリーの住居に住むのは難民であったり、地震や台風とか水害に襲われて家を失った人だったりする。

電気は太陽電池が作動すれば、うまくいくかもしれない。水をどう自分たちで確保するかこれは水のろ過装置がいるかもしれない。ガスは電気で調理ができればいらないだろう。電話は携帯があれば十分であろう。インターネットは無線LANがあればそれでいい。

本日の朝日新聞be面ではAnilir Serkanは宇宙物理学者と紹介があったが、本来建築家というべきであろう。8ヶ国語を操り、天才というにふさわしい発想の豊富さであるらしい。

私が関心をもったのはこの人はどうやって基礎的な数学とか物理を身につけたかということである。いま三角関数のe-Learningのコンテンツを書いているので、たとえば余角の公式とか補角の公式とかをどう理解したのだろうとか考えた。

「これらの公式を覚えなさい」と高校のときにある数学の先生から言われたのを覚えているが、「こういうのは覚えられるものではないし、また覚える必要がない」ということをその後に本を読んで知って大いに憤慨をした。

私の数学教育への関心の起源の一つは昔の私のような不幸に間違った教育を受ける生徒を一人でも少なくしたいということである。

昨日補角公式、余角公式等をどう導くかということの説明を数冊の本で読んで考えたところである。日本ではこういう基礎数学教育はあまりしっかりとしていないように思うが、これは私だけが感じていることだろうか。

Anilir SerkanのブログのURLはhttp://blog.anilir.net/だという。多才な若い学者である。

(注) ここでAnilir Serkan氏のちょうちん持ちをしたようでもあるが、下のコメントを読まれてセルカン氏についてのより正しい実像を推測してみてほしい。

その後セルカン氏がどうなったかは承知していない。上のブログは削除すべきかもしれないが、記録なのでわざと残しておく。

ただし、下のかなり多くのコメントを全部読んでほしい。


暑さの戻り

2009-08-28 11:29:57 | 日記・エッセイ・コラム

ここ数日涼しかったが、昨日からまた暑さが戻ってきた。いまパソコンの前に座っていて汗が噴出してくる。昨日基礎物理学の再試験を6人した。全部口頭試問である。一人二人を除いてほとんどわかっていないが、いちおう口頭試問であるから、ヒントを出して、むしろ説明をして試験を終わった。それで今朝成績を提出してきた。

口頭試問であるから、その物的証拠は残っていない。点数だけが残っている。教務委員の先生にはレポートで成績を評価して欲しいという意向もあったあったようだが、レポート提出はまったく役に立たない。なんでもレポートさえを提出すればいいという考えが強いからである。ちっとも自分で分かろうという考えがない。そういう意欲を持たないことを恥ずかしいという感覚がないのだ。

できないことは仕方がないが、自分でわかるようになりたいと思わなければどうしようもない。


藤堂高虎の築城術

2009-08-27 11:41:27 | 科学・技術

藤堂高虎は生涯に主君を6人も変えたと朝日新聞に出ていた。その築城術と砲術が優れていたために簡単に主君を変えることができたという。

今治市(私は今治出身)の城は藤堂高虎の建てたものだという。今ある今治城は市制何周年かに再建されたもので、私の子どものころには今治には天守閣は残っていなかった。

ところで藤堂高虎はどこで築城術を学んだのだろう。またその築城術とはどんな技術だったのだろう。そういう疑問をもったが、それにすぐに答えてくれそうな文献はないだろう。部下にそういう技術に優れた者がいたのか、はたまた自分自身がそういう技術をどこかで学んだのか。

砲術もどれくらいの角度で大砲を撃つとどれくらいの距離を砲弾が飛ぶかといったことをどうやって知ったのだろう。空気の抵抗があるから、空気のないところでの砲弾の飛び方とは少し違ってはくるが、基本は物理の放射物体の運動である。

そういえば、江戸時代末期から明治維新へと洋学が伝わってきてその核心は航海術であったというのは、数学者の武田楠雄さんの書いた岩波新書で知ったことである。航海術から天文学や三角測量の技術とかが必要になってようやく洋学が学ばれたという。


ゆりの香り

2009-08-26 11:36:30 | 日記・エッセイ・コラム

妻の友人がくれたゆりが満開でその香りがいい。つぼみが多い段階でもらったのだが、水を毎日換えていたら、つぼみも徐々に開いてどれも咲いている。2,3輪ならたいしたことはないのだろうが、10輪ぐらいになると壮観である。

朝起きたときとか、帰宅したときに香りが香ってくる。食卓の上に置いた大きな花瓶で満開である。ゆりはきりりとしていてこの暑さにも負けたような様子がない。

このゆりをくれた人は自分の家でゆりを栽培している。もちろん商売として栽培しているのだが、その一部をくれるらしい。いつも歌の歌唱指導をしてくれる先生にも病気見舞いにこのゆりをあげたいというので、妻が頼まれて車でもって行ったという。

私は花粉症なので、ちょっと閉口気味であるが、しかしその厚意には感謝である。


肩痛

2009-08-25 11:01:10 | 健康・病気

先日、肩を痛めていたが、直ったのに、また肩を痛めた。寝るときに右肩を下にして寝ることが多いので右肩を痛めている。これはテニスで動かすほうの側なので、肩が痛いとテニスに支障が出る。

痛めるときには一晩で痛めるが、直るのは何日もかかる。それでもテニスをしないわけにはいかないので、テニスには行くが、スイングに影響を与えることは間違いがない。

まあ、どうせ上手なほうではないのだから、どうでもいい話ではあるが、それにしてもラジオ体操で首を右横に向けるときも痛くて思い切りは右に向けなくなった。


量子力学の完成はいつか

2009-08-24 17:41:44 | 物理学

普通には量子力学の完成は1925年のマトリックス力学の提唱やDiracの非可換な代数の代数の発見とかまた1926年のSchr"odingerの波動力学によって量子力学は数学的に完成したといわれる。

ところが、量子力学の数学的な完成の一方の立役者の一人である、HeisenbergやBohrは1926年に至ってももう一つ量子力学が腑に落ちてはいなかった。

そのため量子力学の理解のための必死の研究が続けられ、1927年のHeisenbergの不確定性関係の発見とBohrの相補原理の発見またはやはり1926年に提唱されたBornの確率解釈によってはじめて、その方向での研究が一段落をしたのであった。

いま、問題にしたいことはこれを武谷三段階論で見るとどういうことになると考えるのだろうかということである。広重徹のように考えると1925年あるいは1926年の段階では量子力学は完成していなかったということになろうか。

だが、普通にはやはり1925年または1926年が量子力学が出来上がった年と考えるのだと思う。それらは確かに水素原子のエネルギー準位を正しく再現することができたのだから。

だが、人間は単に正しい方程式が導出されて、それから実験が確かめれても粒子性と波動性の相克のために心から納得できたとは考えなかった。

電磁場の本性についても同様なことがあったと考えるべきであろう。そうだすれば、そういうものの分かり方をどういう風に位置づけするのがよいのであろう。これは武谷三段階論で扱えないのではないかという難問が出てきている。


討論の相手

2009-08-24 13:39:16 | 学問

私自身はあまり討論が得意ではないが、ときに討論の相手がほしくなる。この相手は自分のもっていないような視点をもっていて、私の視点に疑問を投げかけるような人である。

アイディア豊富で機敏に観点を変えたり、根本的な疑問を呈したり、そういう人にはあまりお目にかからない。日ごろから色々と深く考えている人はどれくらいいるのだろうか。あるときに出会った人とエネルギー問題の将来のありようについて話したことがあったが、こういうことを考えている人はほとんどいない。

この人は将来のエネルギーのことをどこに求めたらよいか政策として真剣に考えているようであった。こういうことを政治家といえどもしっかりと考えている人は少ない。


徳島科学史研究会の発表 

2009-08-21 14:50:22 | 学問

8月22日(土)午後に高松で徳島科学史研究会がある。その発表の準備をやっと終わった。といってもここ数ヶ月の間に夜に自宅で広重徹の武谷三段階論批判を読んで、それに対して私の考えたことを書きとめていたのをパワーポイントに入力しただけである。

今回は引用等で文章が長かったので、大事なところを色を変えて示した。これは昨日妻と話をしていて、示唆されたことであった。いつもならパワーポイントに書く言葉や文章はできるだけ短くするのだが、今回は引用が多いので、長くなると言ったら、それなら大事なところを色を変えたらといいと言われた。

いつも学生に卒論発表のときなどパワーポイントに書く言葉が多すぎるといって指導してきた。自分自身の発表でもできるだけ言葉は少なくして口頭での話で補うのが常であった。それからスライドの数は(講演時間(分))/2にする。これは少なくともスライドをよく見てもらうには2分はそのまま提示する必要があると何かで読んだからである。

ところが今回は広重の言い分をそのまま引用するので、どうしても長くなる。全体で20分の講演であり、その内訳は15分が講演で、あと5分が質疑である。そうすると、スライドは本来7~8枚しか許されない。だが、ある節だけに議論を限ったのだが、それでも21枚のスライドになった。

これではもちろん全部をカバーはできないなと考えていたのだが、重要なところを色を変えて示したので、ここを中心にして説明すれば、なんとか21枚のスライドでもカバーできそうである。しかし、それにしても21枚のスライドは発表としてはいいことではない。

発表の後で9月末でこれを論文にまとめねばならない。もっともこれは発表より簡単である。これは特に引用を短くする必要はないからである。昨年の発表も論文にまとめるつもりなので、今年の9月も忙しそうである。


山本義隆『力学と微分方程式』

2009-08-20 11:03:43 | 物理学

山本義隆著『力学と微分方程式』(数学書房)を数日前に入手した。

なかなか読む時間がとれないのだが、ぱらぱらとめくってみた。彼の駿台文庫の『物理入門』と似た感じの書物である。これはページの余白を本文の脇にとっているからだろう。数学と物理のファンにとってはまた一つ楽しい本が出た(これは昨年10刊)。

本文の両脇に余白を取り、そこに傍注をつけたことで読みやすくなっているところもあるが、またその制約のためかと思うが、微分公式と不定積分の公式が並べて書けなくなるという不利な点も出ている。

やはり、余白を気にしないで一行に対照して微分公式とそれに対応する積分公式をおいた方がよいと思う。分かりやすさの点を優先すべきでしょう。

積分の導入として区分球積法から入るのは、積分の意味がはっきりしていいが、「微分と不定積分とが逆演算である」ことの印象が希薄になっているような気がする。全体をみればそういうことはないのだが、やはりそういう印象をもってしまう。

「微分と不定積分とが逆演算である」ことを強調すると、積分の意味が不明確になってしまうので、積分を区分球積法で導入したのだと思うが、この相反する要求にいつも直面してしまう。

運動方程式が力の定義式という側面と運動を決定する因果法則を表す二つの側面をもつという説明はやはりあまり他では読んだことがないが、数学とは違った物理の顕著な側面を表している。

私も物理には循環論的側面があるということをいつも強調しているが、さすがに山本さんが物理のそういう側面を見逃してはいないのがうれしい。

この本の特徴の一つに方程式からすぐに描ける相空間での図が多く出ているのはいい。

普通の力学の本ではあまりこういう図が出てこないのだが、微分方程式の解を解析的に得る前に定性的、直観的に解の様子を知るのはいい。

2次元、3次元の運動でマトリックスで速度や加速度を計算しているのはいい。こういう風に計算した力学の書がどうして少ないのだろうと思っていた。

私自身が力学を教えた少ない経験でもできるだけマトリックスを使った。もっともマトリックス全体を例えば時刻tで微分するとはマトリックスの各要素を微分することだと説明は必要だろう。

ベクトル記号として上に矢印を用いているが、これは線分OPの上に矢印を使うのは他にいい方法がないので仕方がないが、一般には使わないでゴチック(太字)でベクトルを表した方がわかりいいと思っている。

テイラー展開だが、テイラー展開の剰余項を付け加えた数学的に正しいマクローリン展開の式よりも、無限回微分可能な任意の関数をべき級数で表されると仮定してその係数を決めるという方針で書いた方がテイラー展開が直観的にわかりやすい。

もっともこれは数学書であるから、そんなあまり数学的ではない記述は滅相もないといわれれば、それまでだが。

主に表現法に注文をつけたが、いいテクストであることは間違いがない。しかし、これは一般の高校生ではなく、むしろ定年退職した科学者や技術者が読んで楽しむ書かもしれない。


くりこみの意味

2009-08-19 13:00:40 | 物理学

くりこみの意味がK. G. Wilsonによってはっきりしたと、つい先日南部陽一郎さんの「素粒子の発展」を読んで知った。K. G. Wilsonが臨界現象の臨界指数をくりこみ群を使って計算をして、業績をあげてその後ノーベル賞をもらったことを知っているが、彼の業績がそういう意味をもっていたとは思わなかった。

もう40年以上昔にちょっとそれを勉強しようとしたのだが、まったくわかならないままとなってしまった。くりこみ群の提唱者の一人である、Petermenのレビューを読もうとしたのを覚えているが何を言おうとしているかまったくわからなかった。

ごく最近になって、10年前くらいの「数理科学」の記事「くりこみの地平」を読んだが、それはよく分かったとはいえないが、おおよそはわかった。これはHal Tasaki(田崎晴明)さんが筆者の一人に入っていて明確に書かれていた。

この人はなんでも明確に考えるという思考の持ち主で優れた物理学者の一人である。さらにくりこみ群についてHal Tasakiの書いた、「パリティ」の記事もあるようだが、これはまだ読んでいない。

朝永振一郎がくりこみ理論を提唱したときには、彼はまだ本物の理論ではないと思うといっていたが、そうすると「くりこみ理論」も単なる間に合わせの方法だとはもう言えないのだろう。


encourageする

2009-08-18 11:41:07 | 日記・エッセイ・コラム

encourageとは日本語で言うと「励ます、激励する」とでもなろうか。encourageの反対語はdiscourageである。

これらの語の中にcourageが入っている。これは「勇気」とか「元気づけ」とでも訳されるだろうか。英語の発音をカタカナで表すとカレージとでもなって、単科大学を表すカレッジとよく似た発音になってしまうが、r と  l との違いがある。

フランス語ならクラァージュと発音される。Bon courageというと日本語で言えば、「がんばってね」とでもいうニュアンスだろう。もっともこれをフランス語を知らない日本人が聞いたら、「ぼんくら」と言われたと勘違いするかもしれない。発音はボン クラァージュである。

私たちのテニスクラブに最近入ってきたKさんは学校でテニスをやっていたらしいが、私のテニスを見て、あまりミスが多いので、いつも気の毒に思っているのだろう。たまに私のいいショットがでたりでもすると、「もっと喜んだらいいのに」と元気づけてくれる。

だが、本人である私はたまたま出たいいショットなので、うれしいと感じたことはない。私の反応がいかにも人間らしさに欠けて奇妙だと感じているのだろう。

だが、励ましてくれるという感覚はよくわかる。しかし、私たちのテニスクラブは他のプレイヤーの方が私よりは上手なのだから仕方がない。

それで思い出したのだが、昔、はじめてレターと呼ばれる研究論文短報を友人と二人で書いてそれが雑誌に出版された後に、O教授とY助教授に「もっと自信を持て」とencourageをされたことを思い出した。

しかし、このときも励ましてくれる先生方に気の毒なくらい、私自身は自信がもてたり、元気にならなかった。多分、しょんぼりと私はその当時もしていたのだろう。

自分自身にまったく自信がないのかといわれればそうとも単純には言いかねるが、自信満々だったことはない。だが、そういうこともあったなと思い出した、この頃である。

discourageされたことは何回もあるが、こちらの方は都合よく忘れてしまった。しかし、encourageされたことはそういう機会が少ないだけに忘れないものである。


休息の日曜日

2009-08-17 12:48:17 | 日記・エッセイ・コラム

昨日は珍しく妻が家にいて何か絵らしきものを描こうと準備していた。それで、午後には南部陽一郎さんの「素粒子の発展」(みすず書房)を取り出してきて読んでいた。夕方近くになったので「どこかへ気分転換のドライブに行こう」といったら、「そうね」ということで北条の海岸を見に出かけた。

ここは瀬戸内の人工の海浜ではあるが、白い砂がかなり多量に入れられていて、砂浜が結構広くてそれに海は波があまり来ないようにいくつかのきれぎれの防波堤ができており、サメ等が入ってこないように網も張られているらしい。しずかな夕方である。近くの海岸には南国らしさを演出するためだろうか、フェニックスの並木がある。

まだかなりたくさんの人たちが、特に小さな子どもが波打ち際でばちゃばちゃやっている。砂浜にはあちこちにテントが建てられてその中には自分たちのもってきた持ち物や飲み物等が置いてあった。あまりに静かな海浜なので、私たちも波打際のところまで降りていったが、川岸のような感じである。風は海からではなくすぐ後ろの山の方から微風が吹いてくる。

日も翳ってきたので、テントをたたんで帰り支度をする人たちもいる。その海浜の前の国道をわたる、歩道橋のところで上からその様子をしばらく見ていたが、近くのレストランに行って冷たい飲み物を飲もうということでIvyというレストランまで足をのばした。

むかし、このレストランの傍を車で通っていて妻に「Ivyってなんだっけ」と尋ねられたことがあった。そのときにすぐには思い出さなかったのだが、アメリカ東海岸にアイビーリーグというのがあって、それはそれらの大学の建物にはつたで覆われているところから来ているということだったのを思い出した。そういえば、このレストランもつたで覆われている。

その海辺のレストランで冷たい飲み物とアイスクリームを食べ、穏やかな瀬戸内の海と遠くにかすかに見える島を見ながら、思い出された知人のことを話したりして、しばらく気持ちのよいひとときを過ごした。

こういう日曜日は久しぶりだった。


グリーン関数のエッセイ

2009-08-15 13:12:04 | 数学

グリーン関数のエッセイをようやくまとめた。もっとも複素積分の図を二つ描かなくてはいけないのだが、これを除いての話である。

グリーン関数についてのメモはすでに2004年7月に雑誌パリティを読んで、つくっていたのだが、今回の動機はある方から「グリーン関数について知りたい」といわれたことにある。

それで「メモのコピーをあげます」と約束したのだが、メモは人に読んでもらうことを前提にしてはいないので書き直しをしようということで一週間ほどかかった。

インターネット上でも分かりやすく書いたグリーン関数の話がでている。もっともそれがわかる人は世の中の人でどのくらいになるのだろうか。やはりごく一部の人しかわからないのだろう。

それはともかくきっかけを作ってくれた人にはすぐにメールで原稿を送っておいた。

(2013.9.24 付記) アクセスがあったので、付け加えるとこのエッセイは数学・物理通信2巻6号(2012.12 )にこのエッセイを発表している。

「数学・物理通信」で検索をすれば、名古屋大学の谷村先生のサイトにリンクされているから、ダウンロードもできる。

もっとも難しいことは書いてない。それは他の書に任せてある。「グリーン関数とは何だ」という風な疑問をもった人へのIntroductionのつもりである。


駿河湾地震

2009-08-14 11:41:43 | 学問

駿河湾地震で東名高速道路の一部が崩れてしまった。それで東名高速道路の上り線が不通になっている。東名とか名神高速とかは日本の幹線道路である。大きな地震ではあるが、こんなに簡単に不通になるとは驚きである。

幹線道路だから復旧が急務であって、日夜をついで復旧作業に励んでいるが、なかなか作業は進まない。これははじめの工事の作業計画が事態の深刻さによって変更を余儀なくされたからである。これも想定外だというのだろうが、想定外ということが多すぎるような気がする。

おりしもお盆の休暇時であって、東京からの地方への帰郷がピークとなる日時であったことは不運であった。東名の不通は予期して帰郷計画を立てていた人も実際の交通渋滞で少しいらいらしているようである。

そういえば、フランス語で交通渋滞をbouteillageという。bouteilleというのはビンのことでビンの首のところがくびれていることから来た言い方らしい。これがドイツ語ならばVerkehrsstauとかAutoschlangeという。Stauというのは水が滞っていることであるが、それに交通というVekehrをつけたものである。もう一方のSchlangeは蛇のことであるが、車が蛇のように長く延びているというのは日本でも理解されるだろう。