物理と数学:老人のつぶやき

物理とか数学とかに関した、気ままな話題とか日常の生活で思ったことや感じたこと、自分がおもしろく思ったことを綴る。

同じ発想

2008-11-29 13:23:21 | 日記・エッセイ・コラム

同じ(または似た)発想に出会うというのは前に「小さい秋見つけた」という歌を話題にしたときに触れたが、先日NHKの歌の番組を見ていたら、ちらっとちょっとした歌の文句に出てきたのにそういうのがあった。

それは「いつまで待っても来ぬ人は死んだ人(またはこと?)と同じこと」とかいうのである。これはこの歌の歌詞を作った人が知っていたのかどうかしらないが、フランス語のことわざにA quitter, c'est un peu mourir(ア キテ―、セ タン プー ムリ―ル)というのがある。つたない訳だが、訳して見ると「別れ、それはちょっとした死である」とでもなろうか。

同じ発想が東洋と西洋とに別々に出てきても不思議はないが、ひょっとしたら前に述べた歌の作詞者はフランスのことわざを知っていたのかもしれない。それをちょっとした歌の文句に使ったのかもしれない。これをアイディアの剽窃とはいうまい。

明日は日曜日なので、ブログはお休みするが、明後日には「生け花とflower arrangementとの違い」について妻から聞いた話を書いてみよう。どうもどこかに記録をしておかないとこの頃はすぐに忘れてしまうので、前もって予告しておく。

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helicity ampltitude

2008-11-28 11:19:28 | 物理学

専門的になるが、helicity ampltitudeというのを何年ぶりに勉強し始めた。有名なJacob-Wick の論文を読み返している。とはいっても以前に読んだときも結局よくわからないままになって使えるようにならなかったので再挑戦である。

何回か同じようなことを繰り返して70%くらいは理解しながら、100%の理解になっていないのだ。まあ、私のやることはいつもアマチュアぐらいでどうも専門家とはいえない傾向にある。

今度は以前の3回の経験を踏まえてそれぞれの計算ノートを参照しながら、Jacob-Wick の論文の完全理解を目指している。これはもちろん後にこれを使ってみようという計画をもっているのだが、いつも息切れをして最終の目的に行き着けるかどうかはわからない。

単なる知的好奇心でやっているわけだから、何かの他の関心事が出てきたら、また他のことに注意を奪われてしまうかもしれない。だが、誰かからやれといわれたわけではないので、注意を奪われてもまた同じところに帰ってくるのではないかと期待している。

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平成の突破力

2008-11-27 12:42:20 | 社会・経済

「平成の突破力」とはNHKの番組「爆問学問」の早稲田大学スペシャルでのテーマである。11月25日夜の放送の一部を見た。普通は11時からは教育テレビの英語会話の番組を見ているが、一昨日は11時を過ぎてもこの番組を見続けた。

爆笑問題の太田光は天才だ。その太田が尊敬するのが、たけしであり、たけしもまた天才であろう。もし羽仁五郎が生きていたならば、太田光は天才という意見をどこかで述べたに違いない。太田光はいう。自分たちはオウム真理教の事件でも、911事件でも笑いの題材にしてきたと。

ある意味ではそれは不謹慎なことでもあろうが、あえてそれをしてタブーを破ったことに爆笑問題の天才性が現れている。残念ながら、彼らがこれらの事件をどのように扱ったかは知らなない。

田原総一朗がゲストとして来ていて、彼は早稲田大学の卒業生なのだろう。学生の誰かが彼を成功者として質問していたが、彼がいうには10社か何かの就職面接に行ったが、どこも落とされたという。そして落ち込んだという。というのは彼の同僚の学生はどこかの企業に内定をもらえたからだという。だが、そういう失敗が田原は自分のためにはなったと思うとのことである。

彼のいうところでは田原は70年代初めに学生だったいわゆる全共闘世代らしい。そして強烈な自己否定ですべてを破壊して見たが、後には何も残らなかったという。その辺がしかし、ヨーロッパの68年世代とは違うように気がする。

それはともかくも田原はまだ自分は世の中を変革しようと思っていると意気盛んであったし、太田光は漫才師をたけしのようには一番目の目標だった東大に入って数学者になれなかったので、第二目標の映画監督等になったとは捉えないと断言する。そして、学問はその根底がしっかりしているとは捉えてはいない。

工学または理学それに数学を含めてもいいが、これらはしっかりしたものだとロボット工学の教授がいっていたので、ある程度救われたが、金融工学はあまりしっかりした基礎をもったものではないとの見解はある程度もっともと思われた。しかし、それについてもある程度の留保付きかも知れないが、太田光は異議をさしはさんでいた。

金融工学の問題に関して言えば、多分利潤を上げようとする資本のあくなき貪欲さを私などは感じてしまう。そこの認識を抜きにしては議論が空疎になってしまうだろう。その辺が工学とか理学の自然現象に基づいたところとは違うような気がする。

結局「平成の突破力」とは何かというのはわからなかったが、大田の今の時代が面白いのだという肯定的な断定は力強かった。

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ブログのテーマ

2008-11-26 11:33:26 | 日記・エッセイ・コラム

ブログのテーマについては前に取り上げたことがあるが、パソコンの前に座ってはて今日は何を書こうかと迷っている。一つか二つテーマを持っていたはずだが、いざというときには忘れてしまっているのである。折に触れて書きたいことを書いているのだが、それでもじぶんの思いはまだ尽きてはいないらしい。だが、いざ書こうと思ったときにはそれについて忘れてしまっている。

人間多分そういうものではないだろうか。だが、文章を書く習慣のない人にはそれを口に出して誰かにいうことはあるかもしれないが、ブログに書き留めるというようなことはしない。私は書くことが好きだし、あまり話すのは上手な方ではない。元教育者としては困った資質だが、これはしょうがない。

よく人の文章を推敲する機会があるが、文章を読んでそれを敷衍して書き足してあげると「じつはこういうことが言いたかったんです」といわれる。だが、その人が思ったように書けるかというとそれは一般に難しい。日ごろ文章を書く習慣がないとやはり文を書くことは難しいと思う。別に英語で書くわけではなくても、やはり文を書くことが一番難しい。

しかし、外国語の学習で一番難しいのは聞くことだと思う。もし聴くことができるようになれば、もし十分に話すことができなくとも話しの座にいて「針の筵の上に座っている」という感覚は生じない。話の内容にある程度ついていけているから。しかし、これは長い間の聞くという時間がないと聞き取ることは難しい。しかし、そういう訓練をしてくれる学校はほとんどない。

友人のドイツ人の教師が20数年前に日本にやってきてドイツ語の先生のためのコースを開いたが、そのコースに出席していて、達意のドイツ語を話せるようになったドイツ語の先生は一人しかいない。あとの人は前からドイツ語を話せた人と、そこそこにドイツ語が上達した人であるが、大部分の先生はコースに来なくなってしまった。そのうちにそのコースもなくなってしまったが、先生方の大分は聞き取りができないために、話の話題についていけなかったというのが真相だと思う。なまじ、ドイツ語を専攻しているために自分の自尊心が傷ついてしまうのだ。

私はドイツ語の教師ではないから、その点は話の中身がわからなくてすっとんきょうなことをいっても笑ってすませてもらうことができる。そこが違うところである。なににせよ、専門というのはつらいものである。

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元次官の殺人

2008-11-25 11:12:46 | 日記・エッセイ・コラム

元厚生省次官とその妻の殺人事件があった。そして先日その殺人を犯したという男が警察に出頭してきた。どうもこの殺人と関係がありそうだが、まだ彼の犯行とは警察も断定してはいない。それでいつも思うのだが、こういう犯罪がおこるとそれほど連絡のない自分の子どもがこういう犯罪の犯人なのでないかと密かに心配する親は多いのではないかと思う。

ある程度事態が明らかになってくるとどうも通常の意識からはこういう犯罪を犯すのは難しいことはわかるが、親はいつでも自分の子どもが変な狂気に駆られて殺人とかいうような犯罪を犯してはいないかと心配になるものだ。

別に自分の子どもを信用していないわけではないが、人間はいつでも環境によっては変な狂気に駆られてもおかしくはない。普段連絡を密にしていればそれほど心配はしないが、連絡がおろそかになると要らぬ心配をするようにもなる。これはどの親も多分にそうなのではなかろうかと思う。

子どもをもった親の心とはそのようなものである。

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「数学の積み上げ」2

2008-11-24 12:41:36 | 数学

「数学の積み上げ」について先日書いたが、日曜日にちらっと遠山啓の昔の本を見ていたら、現代数学は三角の公式を知らなくても学べるから、数学が積み上げというのはどうかと書いてあった。

高校数学でも代数に落ちこぼれた人が追いつくチャンスは例えば対数関数のところであろうか。または順列組み合わせとか確率のところもそうであろう。

大学を1年ダブったので再度の1年生で大学の級数のところよりも先に多重積分や偏微分を学ぶというようなことをした経験がある。ちょっと困ったけれどそれでも本質的に困ったことはなかったような気がする。

そういう経験をまとめていうと「数学は積み上げ」は一つの神話なのかもしれない。群論などもあまり計算の代数を知らなくても学べる候補の一つであろう。

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年金を貰っている人は億万長者?

2008-11-22 11:40:15 | 社会・経済

出入りの米屋さんが言っていたそうだ。年金を貰っている人は億万長者に相当するって。

ええっ、本当?ということで計算をして見た。いま年に200万円の年金を貰っている人がいるとしよう。ええっ?それでは生活できないって。

まあ、計算の簡単のためですから、我慢してください。いま定期預金の金利は0.3%ですからもし200万円の利息を預金で貰おうとすれば、およそ6.7億円の預金をもっていないと200万円の利息をもらえないことになる。

ただ、日本の金利が安すぎるので、0.3%はあまりにもひどすぎる。せめて3%の利息だとすると一桁減って6千7百万円の財産となる。全世界ではこれくらいの利息が普通だろう。

日本の利息はどうかしている。全世界が不景気になったからまた公定歩合を日本も世界に協調して引き下げたが、本来これはする必要のないことであったはずだ。これは私の子どもなんかの主張とはまったく相反するが、本当は私の健全なる常識の方が正しいのではあるまいか。

結局日本の金利が安いことから現在の世界中の変な経済情勢が助成されたという見方もできるのである。まあ、現在の経済情勢では致し方のないことであろうが、民が富まないと生活は豊かにはならない。

それも老後の生活の不安があるから、どしどし預金を使って現在の生活をエンジョイすることなどはできない。結局は社会福祉保障が国としてどれくらいきちんとされるかにかかっている。

(2013.10.25付記) いくらアベノミクスが成功しているからといっても上記の論を変えるつもりはまったくない。それに第一アベノミクスが成功しているというのも金融の異常次元の緩和だけである。

その他のアベノミクスが成功しているとはとらえていない。それに金融の異常次元の緩和だっていつまでも続けられるものではない。そうだとすると現在の経済政策は本当は根本的に考え直すべきであろう。

だが、それに対する有効な方法は少なくとも現在ではないのではないか。そうだとするとますます困ったことになるのだが、経済学者さんたち、果たして有効な手がありますか。

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数学の積み上げ

2008-11-21 13:25:16 | 数学

「数学の積み上げ」とは数学や物理学では前の知識を理解してつぎへ進めるという意味である。そうなのだが、どうも私にはそれが十分に耐えられないという感じがしている。

というのは級数の和の収束云々で最近昔の微積分のテキストを出してきて級数のところを読もうとしてみたのだが、これが読めない。

どうも気が短くてどうも面白いところだけをつまみ食いをしたいという気が強すぎて一歩一歩進んでいるのに、それを追う気がしないのだ。これでは数学の本は読めないのだが、どうもそれが現状である。

だから、先日級数の和のことを書いたのだが、それについてのことをしらべることができない。ホグベンの「百万人の数学」上、下(筑摩書房)のどこかに級数の和のことについて書いていたように思ってチラッと見たのだが、どうも見つけることができない。

ホグベンの本は面白いもので全体を通読したことはないのだが、一部は読んでいる。一番はじめにこの本に関心をもったのは最初にオイラーが神の存在を示したという言説で百科全書派のディドローを惑わすという話だった。Donc Dieu existe, Repondez! (ドンク ディユー エグジスト、レポンデー) (ゆえに神あり、返答せよ)という文句は真に迫っている。

ところが「数学入門」を書いた遠山啓によれば、これはホグベンのフィクションだろうという。というのはディドローは数学の論文もかいているからだという。ホグベンは唯物論者であり、その論説は小気味がいいが、ときどき困惑を与えている。

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柿2

2008-11-20 12:40:34 | 日記・エッセイ・コラム

昨年も書いたが、今年もデザートに柿が出てくる季節となった。今年は柿の当たり年か方々から柿を貰ったり、また生協から柿を買ったりしている。

昨年も言ったかも知らないが、30年以上昔のことだが、ドイツで柿がスーパーに店先に出ていたので妻が柿がといって喜んだことがあった。

そのとき、一緒にいたドイツ人のKarlさんが、これはder KakiといってSpanienスペインから来たんだと言ったので二度びっくりした。日本と同じ名だったので。

でもいまKakiを辞書を引いても果物としては出ていない。カーキ色という意味でKakiまたはKhakiとして出ている。derではなくてdas Khakiである。私が覚え間違えたのかどうだろうか。

昨年は子規の有名な句「柿食えばーーー」を挙げたので、今年はもっと世俗的なことわざを挙げておこう。それは「柿が赤くなると医師が青くなる」ということわざだ。柿は体にいいのだろうか。そういえば、このごろ私も一日にたくさん柿を食べている。冷蔵庫の中も柿で満杯だ。

昨夜奥歯が割れたので今日歯医者さんにいったら、その病院前の平和通の句碑に漱石の

      城屹として秋の空

があった。昨日は冷え込んで初冬に近く秋も深いが、通りの並木はまだそれほど紅葉してはいない。しかし、もうすぐ紅葉してくるだろう。

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無限級数の和

2008-11-19 11:33:38 | 数学

無限級数の和が必ずあるわけではないことは承知していたが、最近読んだ遠山啓の「数学入門」下でまたこのことへの関心が復活している。

オイラーの公式を導くときに勝手にsinの展開部分にあたるところとcosの展開部分にあたるところをまとめるように無限級数の項を勝手に移動しているが、こういう項の移動はいつでもできるわけではない。

その辺のことは気にはなっているが、大学で微積分を学んだときに級数の章でいくらか学んだのだが、それから復習をしたことはないし、数学者でないものだからそのままになっている。

いや数学者でなくともきちんとした人はこの辺も十分理解しているのだろうが、少なくとも私はまあ当面計算ができればいいというのんきな方である。

無限級数の和の値が足し算の順序を変更すれば変わる例は「数学入門」にもいくつかの例が出ているが、他にも探して問題点をより明確にし、それについてのエッセイを書きたいとは前から思っていることだが、なにせそういう欲求はいままで自分のなかからは起こってこなかった。

ここに来て少し本気でとりくんでみようかと思い出している。しかし、これはすぐに実現するかどうかは疑わしい。

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新聞の広告

2008-11-18 12:41:28 | 日記・エッセイ・コラム

私に購読している朝日新聞に限るのかどうかはしらないが、一面広告の頁がこのところ増えている。これが何を意味するのかわからないが、少なくとも朝日新聞は好況を呈しているとはいえるのではないだろうか。

世の中には不況の影が強くさしているので広告が少なくなるのかと思っていたが、いまのところは逆のようである。これはある意味で不況だから広告を出して購買意欲をそそろうと会社がしているようにも思えるが、広告くらいでは購買意欲は上がらないのではないだろうか。

やはり生活の先行き不安が大きい。会社が派遣労働者を使っていたということは景気が悪くなればすぐに首を切るわけだが、そうすると国内の需要は絶対に延びるはずがない。結局大きな意味では自分で自分の首を絞めていたのだが、企業はこのことに気がつかなかった。

いや気がついてはいたのだろうが、当面の業績をあげるためにそのことまで手がまわらなかったのだろう。でも、使い捨ての労働者という構図は資本主義の根幹を却って揺るがしている。マルクスの生国ドイツで資本論がこの頃読まれているというニュースが新聞に出ていた。もっともこの本はやはり難解で読むのが難しいという。

長男が中学生の頃にこの本に挑戦していたが、彼が読み終えたとは思えない。というのは原語のドイツ語でも難しいのだが、それに加えて日本語の訳の問題が大きいからである。多分、まだ原語のドイツ語で読むほうがまだ楽だと思うのである。確かにいくつかの用語には始め苦労するだろうが、その後はあまり難しくはないのではないか。

もっとも私は資本論ははじめから読む気がない。それよりもパウリのDie Allgemeinen Prinzipien der Wellenmechanik(波動力学の原理)はぜひ読んで見たいと思っている。なにもすることができなくなったら、この本は日本語の訳も以前に出ているが、もちろん原語で読んで見たい。

この本とDiracの量子力学の本と朝永の量子力学の本は量子力学の3大名著と言われている。

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Fermi solution

2008-11-17 11:41:53 | 物理学

Enrico Fermiは物理学者である。それも実験と理論の両方にまたがって偉大な業績をあげた類まれな物理学者である。現在では多分理論と実験にわたって才能を発揮するというような芸当は多分できない。

Fermiは中性子が減速されてその核反応の断面積を大きくするということを発見してノーベル賞に輝いた。その後イタリアからアメリカに移住して世界で始めての原子炉の設計と運転に成功した。また、理論ではベータ崩壊の理論をつくったことやFermi統計で有名である。

そのFermiはまた独特の考えの持ち主であったが、その一つにFermi Solutionと言われるものがある。同名の本は誰かの物理学者が書いているのだが、その中の一つとしてシカゴ市のピアノ調律師の数を推定するというのがある。詳細はよくは覚えていないのだが、シカゴの人口からピアノを習っている人の数を推定し、またピアノの調律を必要とするピアノの数を推定して、そのピアノ数に対してピアノ調律師の数を推定するというものであった。

最近インターネットでその話をどこかでちらっと見たような気がするが、定かではない。昨日用があって本棚の中を探していたら、そのFermi Solutionの本が出てきた。読み返した訳ではないが、その話の記憶がよみがえってきた。

これはいわゆる数学の問題ではないかもしれないが、人が何かを推測をしたりするときには必要な考えであろう。数理統計等でこの頃重要なのは推計学だとか聞いているが、この考えに近いのかまったく違うのかは知らない。それにしてももっともらしい推定をしてシカゴ市のピアノ調律師の数を推定するという独自の方法はなかなか興味深いものがある。この方法は別にピアノ調律師の問題だけではなく、現在問題の経済の問題解決とかその他に応用が広いからである。

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関数の導入法

2008-11-15 11:20:32 | 数学

関数をe-Learningでどのように導入するかを考えている。ブラックボックスとして導入するのが最近の導入法なので結局はブラックボックスで導入することになるだろう。

しかし、そう思ってはいるが、遠山啓著「数学入門」下でどう書いてあるかとちょっと読んで見ている。この本では関数をまだブラックボックスでは導入していない。しかし、関数の導入への話がなかなか見事なので感心している。

遠山啓著「数学入門」下によれば、変化をする対象を捉える数学はルネッサンスの時代の新しい数学であったという。

商品がつくられて売られるようになるためには封建領主との争いが不可欠だった。冒険商人(marchant adeventurer)のインドへのルート開拓やその他のことがあって、航海術の発展のために天文学が進み、戦争のための火薬の合成によって化学が進み、大砲の弾道の予測の必要から物理学が進んだという。

デカルトは方程式の複素解を現実的なものとは考えなかったという保守的な一面もあるが、たとえば、xという文字で表される数に変わる値をとる数、変数を考え出したという点では画期的であった。

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携帯電話の紛失

2008-11-14 12:37:25 | 日記・エッセイ・コラム

私は携帯電話をもっていない。

だからそれをもっている人がそれを紛失したらどれだけ困るかを実感としてわからないのだが、先日妻が携帯を一時紛失してしまった。

もっとも次の日には電車の会社に電話して聞いたら、電車の中で落としたらしくて、紛失物の中にあったので取り返すことができた。

でもほぼ一日携帯を失くしていたので誰かに電話しようとしても電話番号がわからないという事態でお手上げだった。そのうえに、もしか彼女の車が故障していたら、手足をもがれたようであったろう。

幸いなことに車は故障していなかったが、携帯がないだけでも困ったらしかった。数百人の電話番号がその携帯には登録してあった。もし悪い人に拾われて悪用されていたらと身がすくむ思いだ。

一応、本人が悪用されないようにとの最低の措置はドコモに連絡をしたようだが、電話番号は個人情報そのものである。便利な世の中になったが、それでも一旦そのシステムが破綻すると困った事態が生じるのは別に携帯だけの話ではない。

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外国人留学生への日本語教育

2008-11-13 11:21:40 | 受験・学校

知り合いの女性が外国人留学生への日本語教育への手伝いをしている。ときどき話をもれ伺うところでも結構面白い話があるらしい。

他の文化の中で育った人がその文化圏から出て他の文化圏に住むだけでもいろいろのことがあるが、まして言語では思わぬ反応があり、日本語に関してでも日本人である私たちがうんとうなってしまうようなことがあるらしい。

文化が違うとその人の考え方も違ってくる。以前に人の考えていることがわかる超能力をもったという触れ込みの人がいたりしたが、これなどは絶対にありえない話である。というのは文化が違うと感覚も思考も違ってくるからである。だから、そういう超能力などは存在し得ない。これが異文化を、異言語をしっかり学んだ人の見解である。本当は別に異文化、異言語を学ばなくともわかっている話ではあるが。

ヨーロッパで電車の切符を窓口で買おうとして売ってもらえなかったという友人のいたが、彼はひょっとしたら、何かを考えて窓口の人の顔をよく見なかったからかもしれない。

これは私の子どもが小さいときにドイツでのことだが、小学校の友達が家の前を通りかかった。言葉ではKomm, komm hier !(こっちに、おいで、おいで)といったのだが、手招きが日本風であっちへ行けという風に取られたので友達は彼のところにはこなかった。私も挨拶を隣人に返さなかったというので、隣人の不興をかったことがあった。これは言葉の問題ではなくて、文化とか動作とか習慣の問題である。

10年くらい前にもうなるが、フライブルクの近くの町のレストランに入ったときに挨拶をしなかったら、不穏な空気が流れたこともある。これにはそのときどうしてだか理由がわからなかった。でもかならず「今日は」と挨拶すべきであった。そういう失敗はかなり多い。友人の言語学者はやはりそういう失敗の例をいくつか話してくれたことがあったが、内容は忘れてしまった。

私たちは郵便局や銀行等へ用事で行ったときに日本では「今日は」とは挨拶しないが、外国では絶対に挨拶をしないといけない。そうはわかっているつもりだが、実際になると挨拶の言葉が出るかというと自分でもあやしいものである。ああ、長年の習慣はなかなか変わらない。

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