先日、投稿論文への返事というブログを書いたが、このブログを読んでいただいている方で、かつ、数学・物理通信への投稿者となってくださっている方が少なくとも2名はいる。
どちらの方も熱心な方であることはまちがいがないのだが、それを読んで掲載できるかどうか判定する人にはとても負担がかかっている。どなたかの論文を読むとそれをどうするかはなかなか責任が重いのである。
普通の雑誌ではある程度は投稿論文の質は保たれている。それで具合がわるいと思えば、簡単に掲載不可が出せるが、私たちの雑誌ではそういう一定の質が保証はされては一般にはいないのである。
これは最近の話ではないが、数学史のある論文と称するものが投稿になった。結局、掲載可には私はしなかったのだが、ある科学史関係の雑誌に紹介したら、そこでは掲載可となり(その雑誌は査読性がないから)、そしてその投稿者はその論文を英訳して、外国の雑誌に投稿された。その外国雑誌では日本の雑誌で掲載されたことの保証が必要だったから、その雑誌の主任編集者がそれを保証したら、外国雑誌にも掲載になったといういきさつがある。
ただ、私は自分がその論文を掲載しなかったことを間違っていたとはまったく思わない。この方は査読のある雑誌への投稿歴にある方ではあったが、数学・物理通信にはふさわしくはないと判断したのである。しかし、なかなかこういう判断は難しいところがあり、論文の価値の判断は人にもよるし、雑誌にもよるとは思う。
もう一つそのような経験はあるが、こちらの方の論文も外国の雑誌に掲載されたと思う。それもノーベル物理学賞を受賞されたあるアメリカ人がレフェリーとなられていた。そういういきさつがあるが、こちらも私自身は判断を間違っていたとは思っていない。しかし、どちらのケースも外国の雑誌に掲載可となった論文である。
ということは数学・物理通信で掲載拒否となってもめげる必要はないということでもあろうか。なかなか論文の価値の判断は難しい。それに論文を読む人はまったくのボランティアである。報酬も何もないのである。願わくば論争のあまり起こるような論文の投稿はご遠慮願いたいとしか言いようがない。
フレデリックとイレーヌ・ジョリオー・キュリーの簡単な評伝についてはセグレ『X線からクォークまで』(みすず書房)のpp. 327-343を読んでほしい。また、フェデリックについては参考文献の『ジョリオ・キュリーの遺稿集』(法政大学出版局)を参照して下さい。イレーヌは言わずと知られた有名なキュリー夫人の長女であり、体つきも性格も母親そっくりであったという。血筋とその母親からの教育によって母親と同じ放射線科学の研究に入った。
一方、フレデリックは物理学者ランジュバンの学生であったが、その並外れた技術的な才能を買われてキュリー夫人の助手として推薦された。彼は陽気で活発な上に気持も優しくまた想像力に富んだ人物であった。
彼らは後にチャドウィックが中性子を発見するきっかけとなる現象を発見した。また1938年の核分裂反応の発見にもきわめて近いところにいたが、この発見も逃している。しかし、1934年には人工放射能をもった物質を創成することに成功して1935年にノーベル化学賞を夫妻で受賞した。
フレデリック等はハーンの核分裂反応の発見後、すぐにその追試に成功し、またその核分裂の際に2個以上の中性子が放出されることを発表した。すなわち、原子核からエネルギーが取り出せることを示し、このことを機密にしておこうと思っていたシラードたちを大いに慌てさせたのであった。
これは雑誌『燧』という雑誌に「ドイツ語圏世界の科学者」というタイトルで掲載したものの(14)である。
(14)ローレンツ (K. Lorenz 1903-1989)
今年(1989)の2月末に動物行動学者のローレンツが85歳で亡くなった。雑誌「科学朝日」の5月号で京都大学教授の日高敏隆さんが思い出を書いていたので、すぐにでもローレンツをとりあげるつもりでE大学法文学部のUさんにSpiegel(1988年11月7日号)での彼の最後となった対話の記事のコピーとかローレンツの対談「Leben ist lernen」(Piper)とかを借りたが、なにせドイツ語が十分読めないので、そのままになっていた。せめて日本語に訳された『攻撃』くらいは読んでから、ローレンツのことを書こうと思っていたが、それも果たせそうにない。雑誌「みすず」(1989.8月号)にSpiegelの対話の部分の訳が出たのでそれらを頼りにはなはだ不十分だが、ローレンツについて述べてみよう。
ローレンツの業績は一口に言って動物行動学とか行動生物学とか言われる学問分野を確立したことにある。『生物学辞典』(岩波書店)によれば、「放し飼いにした動物、特に鳥類(ガン、カモ類、カラス類)や魚類(シククリット類その他)の行動について、厳密な認識論に裏付けられた観察を行い、リリーサーの概念をはじめ、行動の生得的解発機構の認識を打ち出して、行動生物学を確立した」とある。「厳密認識論」というものがどんなものかも知りたいが、それはおいておくとしても、上の文章を読んですぐ何のことかわかるだろうか。専門家の方は別として、何を言おうとしているのかよくわからないのが本当だろう。
リリーサーという専門用語は別としても「解発」という語もいくらか専用用語的で普通の日常生活では使わない。例えば、カモメが危険を知らせるための鳴き声をあげれば、そのひなが逃げ隠れするといった行動をする。このような、その動物に特有の行動を引き起こすメカニズムを動物というものは生まれながらに持っているものだというのである。そして、そのような行動を引き起こすもとになる特性、上の例では、カモメの危険を知らせる鳴き声をリリーサー(releaser, Ausloeser)というらしい。
いつでも学問というものはしゃちこばってとっつきにくいものだ。日常の言葉で言ってもらえれば、すぐに了解できることでも改まって専門用語を用いて言われるとなんのことだかわからなくなることはしばしばある。市民運動等においてもいわゆる科学者でない市民はいつでも日常の言葉で科学者に言い直してもらう必要があろう。
ローレンツは上に述べたような業績によってフリシュ、ティンバーゲンとともに1973年ノーベル賞を受賞した。ローレンツが「私たち人間が行う行動は石器時代の人々が行った行動と同じように本能に縛られている」というとき、ほかならぬ人間自身もローレンツから見ればカモとかガンとかいう動物と同じ動物であると考えられていると言った点はひょっとしたら物議をかもすところだろう。しかし、私はローレンツのいうことの方が真実を衝いていると思われる。人間は地球というある種の生き物の中に巣食うがん細胞なのかもしれない。すなわち、自分たちを破滅に導くまで本能の赴くままに自己増殖し、環境を破壊するといった点で、
もう一つだけ触れておきたい点は、第2次世界大戦下でのローレンツとナチスとの関係である。ローレンツのいい方によれば、「自分の関心事に重点をおくあまりに政治的問題を避けてきた」とのことである。音楽界の巨匠フルトベングラーとか哲学者のハイデッガーとか対ナチ協力のかどで非難される学者や芸術家は多い。ローレンツは積極的ではなかったとしてもその点については非難されてもしかたがないようである。しかし、私自身が同じ状況におかれたらどうするだろうかと考えるとき答は簡単に見つかりそうにない。(1989.9.26)
(2023.2.13付記)
このローレンツをもってもともとの「ドイツ語圏世界の科学者」の再掲載は終わる。あと数人ドイツ語圏世界の科学者」について書いたことがあるので、その原稿が見つかればあと数人について述べることができるであろう。
これは雑誌『燧』という雑誌に「ドイツ語圏世界の科学者」というタイトルで掲載したものの(16)である。
(16)コッホ (R. Koch 1843-1910)
年も改まって1990年となった。ヨーロッパ、特に東欧世界の1989年の政治情勢の変動は、情報通の人々の予想をもはるかに上まわっていた。東欧世界の自由化の兆しを喜ぶ一方で、我々の「自由」世界がこれでいいのかと本当に疑問に思う。例えば、記録映画「核分裂過程(Kernspaltung)」に見られるような国家権力や地方政府当局の市民への抑圧や市民の抗議行動について報道をしないといったことは別に核廃棄物処理工場の建設を強行しようとした西ドイツのバッカスドルフについてだけ見られる現象ではなく日本においてもしばしば見られるものだからである。
前置きが長くなったが、今月はコッホをとりあげよう。コッホは結核菌やコレラ菌、羊や牛の病気である炭疽病の病原菌を発見したこと、および、ツベルクリンの創薬等で知られている。これだけを聞いたら、コッホは大学とか研究所に勤める学者、いや現代風に言えば、研究者のように思えるだろう。しかし、彼の伝記によれば、炭疽菌や結核菌の発見は彼が一介の田舎医者だったり、保健省の役人だったりしたときに行われたものだという。数学者ワイヤストラウスが高校の教師をしながら、偉大な数学研究を行ったと同じように。その後、コッホはベルリン大学教授になり、伝染病研究所の所長となったが、彼の研究の方法はすでにそれ以前に彼の手によって独自に形成されたものであった。
パスツールが発酵や腐敗は微生物の作用によることをすでに確立していた時代ではあったが、それでも病原菌についてのいろいろな研究方法はまったく確立していなかったし、それについての専門的教育も専門家も存在していなかったときだけに、このコッホの研究の独創性はいくら高く評価しても評価しすぎることはないだろう。低温殺菌法を意味するpasteurizationという用語に名を残したパスツールの方が「微生物の狩人」としてはわずかに先駆者であろうが、我々は非常に多くのものを医学の分野でコッホに負っている。
パスツールと彼より約20歳も年下のコッホはライバルで、「犬猿の仲」であったという。これはいくつかの分野で二人の研究が交錯していたことによるらしい。それはともかく川喜田愛郎の『パスツール』(岩波新書)によれば、1880年代のはじめを境にして、病原微生物学の主流はパスツ-ル学派からコッホとその学派に移ったという。
一医学生のころ遠い異国を旅する冒険旅行家となることを夢見たコッホは、妻からの贈物の顕微鏡によって人類の知らなかった微生物の世界を旅することとなった。彼の若いときの夢は形を変えてではあるが、実現したといえるだろう。(1990.1.4)
(2023.2.10付記)
こういう伝記まがいのエッセイを書くためにはそれなりの読書が必要であり、執筆当時は数冊の本を読んだりしている。このシリーズ以外でもあまり長くではないが、数人の科学者について書いたことがある。
もう一人でこのシリーズ「ドイツ語圏世界の科学者」は終わるが、その後にもなお数人の科学者についてのエッセイを書くことができるだろう。その原稿がうまく残っていればの話ではあるが。
これは『燧』という雑誌に「ドイツ語圏世界の科学者」というタイトルで掲載したものの(12)である。
(12) マイトナー (L. Meitner 1878-1968)
いままで女性科学者を一人も紹介していなかった。女性の科学者といえば、だれでもキュリー夫人を思い出す。それほどキュリー夫人は偉大だし、かつ有名である。しかし残念ながら、彼女はドイツ語圏世界の科学者というのははばかられるであろう。ではドイツ語圏世界は著名な女性の科学者を生まなかったのであろうか。そんなことはない。リーゼ・マイトナーやエミー・ネタ―といった名がすぐ思い浮かぶ。力学の「ネタ―の定理」で知られる数学者のネタ―のことは別の機会に譲ることにして、今月はマイトナーをとりあげよう。
マイトナーといえば、すぐにペアとなって第1回目に紹介したハーンを思い出す(ベルリンにハーン・マイトナー研究所という彼らの名にちなんだ研究所がある)。マイトナーは、放射線化学者であったオット・ハーンの30年にもわたる共同研究者であった。今日ではあり得ないことだが、昔のドイツでは女性の科学者が大学や研究所の実験室に出入りすることを許可しないというようなこともあったらしく、マイトナーははじめの数年は研究所の木工場の一部を借りて実験を行っていたと言う。
ユダヤ系のオーストリア人であった彼女は、1938年のヒットラーによるオーストリアのドイツ併合と共に「人種法」による身の危険を避けるためにやむなく、ベルリンをはなれてスウェーデンへと亡命する。その直後に、シュトラースマンの意見によって動かされたハーンはイレーヌ・キュリーやフェルミらの実験を追試することになった。綿密な化学実験が何日も何日も続き、その結果ハーンは破天荒な実験結果に達する。すなわち、「天然に存在する最も重い元素ウランに中性子を当てるとできるのはウランよりも重い超ウラン元素ではなく、それよりはるかに軽い二つの元素である」。これがいわゆる「核分裂」の発見である。その意外な結果に驚いたハーンは急いで論文を1938年12月末にNaturwissenschaften誌に投稿すると共にその結果を長年の協力者であったマイトナーに直ちに知らせた。
ハーンには自分の発見が何を意味するのかは十分にはわからなかったが、そのことを深刻に受けとめたのはマイトナーであった。彼女はハーンがどれほど緻密にかつ注意深く実験するかを十分知っていたから、その実験事実は疑う余地はなかった。
では、ハーンの発見は何を意味するのだろうかと彼女は思い悩んでいた。そこへ、マイトナーの甥の物理学者のオット・フリッシュが伯母とクリスマスの休暇を過ごすためにコペンハーゲンからやってきた。マイトナーは甥の顔を見るやいなや、自分の疑問について議論をふっかける。フリッシュははじめいやいやながらであったが、そのうちに自分も熱心にハーンの発見の解釈についての考察を伯母と共同で行い、結局彼らはいわゆる「核分裂」反応が起こっているという結論に達する。ちなみに、核分裂(nuclear fission)という語はフリッシュによる命名という。
こうしてマイトナーはハーンの発見の意味を解明した世界最初の科学者となったが、またわずかな差でノーベル化学賞へのチャンスを逃した科学者ともなった。後年マイトナーはハーンに「1938年にあなたは私を亡命させるべきではなかった」と述べたとハーンの自伝に書かれている。
優れた科学者は自己の命よりも研究を優先したい願望をもっているものらしい。(1989.7.14 フランス革命200年の記念日に)
(2023.1.26付記)ハーンの回にも核分裂とはなにかを説明できなかったし、今回もその説明はスキップしている。ウラン元素に衝突させる中性子のエネルギーは小さなものである。高速の中性子を当てるのではない。原子炉のことを知っている人は中性子の減速材として軽水とか重水を使うことを知っているであろう。減速されてよたよたの中性子の方が高速の中性子よりも核分裂を起こさせる断面積が大きい。
高速中性子で核分裂を起こさせる原子炉もあるが、そういう元素はプルトニウムであり、核分裂を起こさない天然のウラン元素U238が中性子を吸収してプルトニウムをつくり、そのプルトニウムは高速の中性子によって核分裂を起こす核分裂断面積が大きい。そいうふうにしてプルトニウムをつくりながら、エネルギ-を取り出す原子炉を高速増殖炉という。もっともそういう炉は実用化されていない。将来的にも実用化できる見込みはあまりない。
「ドイツ語世界の科学者」の(1)である。これは雑誌『燧』という雑誌に掲載したものの(1)である。
オットー・ハーン (Otto Hahn 1879-1968)
今月から、毎月一人ドイツ語世界に関係の深い科学者を紹介しよう。
ここ数十年の間、ドイツ語圏の科学者が脚光を浴びることは少なかったが、ごく最近になって、いくらか往年の科学界における栄光をヨーロッパ、特にドイツ語圏の世界がとりもどしつつあるように思われる。
ところで、ハーンと聞いても「はてな」と首をかしげる人が大部分だろう。近ごろのような「反原発」運動が盛んになっても一般の人には原子核分裂(die Atomokernspaltung)の発見者としてのハーンの名をご存じないかもしれない。この発見は1938年末にシュトラ―スマンと共になされ、1944年ハーンはノーベル化学賞を受賞する。ハーンのこの画期的な発見はほぼ60歳のころであったことは注目すべきである。
ハーンはそ率直で謙虚な人柄で知られていた。原子爆弾が広島・長崎に投下されたという報を聞いたときに、彼には何の責任もないにも拘らずしばらく口がきけなかったという。
「科学者の社会的責任」という概念に深刻に直面した科学者の一人であったろう。彼の発見は原子爆弾の開発への端緒を与えはしたが、爆弾そのものとは「春風が吹けば、桶屋が儲かると」といった体(てい)の関係しかない。(1988.9.13)
(2023.1.23付記) 核分裂と核融合との違いとかは物理屋しかわからないだろうが、その説明はここでは省略する。一時期だが、こういうことも大学での講義で教えていたことがある。これは私の上司のA先生が行っていた講義の一部を受け継いだためではあるが、そのうちにそういう講義はしなくてもよくなった。それでもそのときの講義ノートは今でも私の手元に残っている。