物理と数学:老人のつぶやき

物理とか数学とかに関した、気ままな話題とか日常の生活で思ったことや感じたこと、自分がおもしろく思ったことを綴る。

武谷三男に関する作業

2010-01-30 16:00:53 | 物理学

武谷三男の年譜、伝記作成とか著書リストの作成、論文リスト作成等が私の仕事の重要な一つであるが、最近はこのことには仕事の重点をおいていない。

「素粒子論研究」に武谷三男の著作リスト2、業績リスト2を出してから、また新しい発見というか不十分な点がすでに判明している。存在の判明した書籍を公立の図書館から取り寄せるという確認の作業をまだしていない。

私の現在の仕事の第一の優先は初歩の数学や物理e-Learningのコンテンツの作成であるので武谷関係の作業は中止せざるを得ない。一月の半ばに「広重の三段階理論批判を考える」という徳島科学史雑誌に出したエッセイの別刷を科学史家の数人に送ったが、今のところその反応はない。

哲学者鶴見俊輔さんからはこの別刷に対する返事のはがきをもらったが、彼の反応は自分には広重ー武谷論争の是非を判断する力がないという率直なものであった。もちろん彼は物理学者でも科学史家でもないから、この表明は彼の名を傷つけるようなものではない。さすがに真に偉大な人は実に率直に自分の不十分さを表明できるものだとむしろそのことに彼の偉大さがあると感じている。

物理学者や科学史家には読んでわからないようなことは書いていないつもりなので、多分興味がないというか関心がないということであろう。編集者の西條敏美先生のところへは二人ほど科学史関係の方から反応があったと聞いている。


骨髄損傷

2010-01-30 15:11:46 | 健康・病気

いろいろな事故で骨髄損傷を起こす人がいるということは知っているが、それがあまり身近ではなかった。いや今でも身近とはいえないが、昨日からそれの関係の文書を少し読んでいる。

骨髄損傷かどうかは知らないが、車椅子テニスのチャンピオンである国枝選手などはそういう障害に負けずに車椅子テニスのパラリンピックでの優勝とかその後のプロ転向等で話題となった。

また、このことは暗く沈みがちな身障者に勇気を与えていることも事実であろう。人間は希望があれば生きていける。これは障害や病気に犯されていても同じことであろう。

どうやって沈みがちな自分の人生に希望を与え、生き甲斐を見出すか。これは難しいことであるが、そういう取り組みをやることができるのが人間の素晴らしいところであろう。

大江健三郎の「広島ノート」(岩波新書)だったかに重藤文夫という医者の先生のことが出ていた。重藤先生自身が広島で原爆を受けたのだったと思うが、薬や包帯とかいろいろな医療品も足りていないときでも希望を捨てないで医者としての治療に尽力をされたという。

大江さんの描いた「広島ノート」はそこが救いであったと思う。大江さんは文章が重厚でくどくどと何かを述べるという感じがしたが、やはり彼は見るべきことは見ている。

彼の卒業した松山東高校のキャンパスが私の仕事場からかいま見えるが、緑あふれる学校である。 ごくまれに午後この学校の近くを散歩するとテニスコートで生徒が練習をしている。

私も少しテニスをするので、いつだったかしばらく見ていたら、ボールを拾いに塀のそばまで来た生徒さんに「今日は」と挨拶をされたことがあった。OBの人が自分たちの練習を見ていると思ったのかもしれない。だが、残念ながら私はこの伝統ある高等学校の卒業生ではない。


Burgfried(天守閣)

2010-01-29 14:43:44 | 外国語

またまたドイツ語の話題で恐縮だが、先日のドイツ語のコースでK夫人が質問をされた。

それはFreiburgの新聞に出ていた写真で、お城に塔みたいな建物が下水の蓋かなんかに載っているものであった。それでこれをなんというか。

R氏が答えて曰く。これはBurgfried(またはBergfried)という。そうしたら、K夫人すかさず質問した。これはFriedhof(墓地)とどういう関係にあるのか。R氏はそれはちょっと複雑ですね、とホワイトボードを消しながら、答えた。その答えのあらましはつぎのようであった。

もともとFrieden(訳すると平和)はゲルマン民族のことばであるが、これに対するラテン語としてpasificare(これは多分動詞?)という語があった。

昔、ローマ人がヨーロッパの各地を支配したときにもちろんその各地の支配階級として君臨した。そのときに支配された現地の者たちには不満が鬱積するということがあったが、その現地民の要求のすべてを満たしたわけではないが、その一部の不満を和らげるという宥和政策をとった。

これがpasificareという語の意味である。ドイツ語にはそれに対応する語としてFriedenという語ができた。だからFriedenとは日本語でいう「平和」ではないという。ある意味で「戦争状態ではない、まあまあの状態」を指す。

支配されている者たちには不満や抑圧を感じないはずがない。だが、それを何とかなだめて支配するというので、ローマ人にとってはともかく支配される方にとっては完全な幸せではないはずだ。

もちろん亡くなった人々はもう支配者に反抗したりすることはできないので、その墓地をFriedhofというのだという。

そういえば、戦争が終わった後で、互いに講和条約を結ぶが、この講和には少なくとも純粋な平和というニューアンスがちょっと欠けているように思う。平和という語にも含意があったということだろうか。

ちなみにfriedという語を含む語にbefriedigen(満足させる)とかzufrieden(満足した)とかいう語がある。また、このbefriedigenにdをつけてbefriedigendとすれば、これは成績評価の一段階の日本でいう「良」にあたる。


グレイクリスマス

2010-01-28 12:57:11 | 芸能ネタ

先日、市民劇場で演劇「グレイクリスマス」を見た。これはまったく予想とちがって戦後の日本のある伯爵家の話を劇としたものであったが、敗戦直後から朝鮮戦争で日本が特需景気に湧くというあたりまでの話であるが、最後には日本国憲法の復習まであり、きわめて教育的である。

最後にこの日本国憲法の九条の条文を五條華子を演ずる三田和代さんがモノローグでしゃべるのは、心を寄せていた日本人二世の軍人ジョージ伊藤が朝鮮戦争で亡くなってその遺品のオルゴールがO Tannebaumの曲を奏でるときであった。

このO Tannebaumのメロディーはよく知られた曲である。私もあやうくO Tannebaum, O Tannebaum !  Wie treu sind deine Bl"atter ! と口ずさみそうになった。

最後が教訓めいてちょっと鼻白んだが、どうも日本人の感覚はまったく戦争中と変わらなかったというか、天皇中心の考えが残っており、その上にその天皇について考えたことがないということを示唆された劇であった。

いま「示唆された」と書いて思い出したことがある。先日聞くともなくラジオを聞いているとsuggestとproposeという語の説明をしていた。proposeは積極的な提案なのに対して、suggestは控えめな提案であるという。

何十年か前に初めてletterと呼ばれる短い論文をProgress of Theoretical Physicsという雑誌に出したときに、論文の末尾にこのテーマについてはSさんにsuggestされたと書いた。このときにsuggestと書き加えてくれたのはその当時指導教官であったYさんだったが、suggestという語がよくわからなかった。

いや、その感じがわからなかったわけではない。わかったのだが、その当時に辞書を引いてみたら、「示唆する」とあった。示唆という語はどうも犯罪をそそのかす場合にも使うので一般の人にはいい意味にはとられないと思うが、「~してみたら」と勧めることであろう。しかし、示唆するという語感がそのときはあまりに控えめすぎるように感じていた。


ようやくわかったこと

2010-01-27 13:01:56 | 日記・エッセイ・コラム

guten Tag, guten Abend, guten Morgen(順に、「こんにちは、今晩は、おはよう」の意、ちなみにこれらはすべて4格)では形容詞の語尾にenがついているから、Tag, Abend, Morgenは男性名詞だということは知っていた。

また、gute Nacht(「おやすみなさい」の意)のNachtはguteと語尾eがつくから、女性名詞ということも。

だがvielen Dank(「どうもありがとうございます」の意)は形容詞viel(多くの)に語尾enがついてvielenとなっているのでDankは男性名詞だとわかるとは思ってもいなかった。

私はなんとぼんやりと長年ドイツ語をやっているんだろう。

ドイツ語は形容詞の語尾変化が難しいのでむつかしい言語だといわれる。それはそうだが、私に難しかったのは語尾変化というよりは文のつくりかた(syntax)であった。

私が大学で学んだ昔のドイツ語の授業では文をどうつくるかよりも冠詞や形容詞の語尾変化だとか動詞の人称変化とかが主であった。

これについて「昔の大学でのドイツ語教育はひどかった」といつかこぼしたら、R氏が「それはドイツ語の文の作り方は英語と同じという風に捉えられていたためだ」といった。

彼からもう何回も聞いたことだが、独文学会に行って「ドイツ語の平叙文の文頭には動詞以外はなんでもおけるといったら、お前はドイツ人ではない」といわれたとか。

それが本当にその当時の独文学会レベルでのドイツ語認識だったというのはいくぶん疑わしいとは思うが。

それがいまでは彼のいったことが当然として一般のドイツ語教育においても普及しているというのが、R氏の述懐である。

そして文頭に動詞以外の何でも置けるという例を集めているwebのサイトまであるとのことである。


スプーンの中の像

2010-01-26 11:40:50 | 物理学

世の中には注意深い観察者がいるものである。

これは大学の英語の授業で学んだことだが、スプーンの中に写る自分の像は倒立である。どうだったか確認のためにいまあわてて台所へ駆けて行って私はスプーンを出して見てみた。

確かに倒立で間違いがない。私は高校物理の中で直線光線の鏡やレンズがつくる像について学んだものであるが、そのうちにそのことも忘れてしまっていた。凹面鏡では実像ができるはずであるが、スプーンは理想的な球面の凹面鏡でないので、像がひずんでいる。

私は物理を学んだのにいい加減な理解が至るところにある。たとえば、反射望遠鏡では像を肉眼で見ることができないと思っていた。たぶん写真をとるとかしかできないのだと思っていたようである。

子どもが小学生の頃に望遠鏡で星を見ることに関心があったので、大学の建物の屋上にある球状のドームに望遠鏡があるのではないかと言い出し、そこには望遠鏡はないということを子どもに納得させようと思って、ドームのところへ連れて行ったら、暗に相違してそこに望遠鏡があり、クラブの人たちが毎晩のように星を観測していた。

そこである晩に星を見ることに招待されて、子どもと一緒にそこに星を見に行った。そこで見たのは小さいながらも反射望遠鏡で接眼レンズから、星を見ることができた。

物理の考えが十分身についている人から見たら、おかしくて笑ってしまうような観念を私がもっていたということである。このようにいつも奇妙な観念の持ち主である、私は。


その日の印象

2010-01-25 10:58:33 | 日記・エッセイ・コラム

今日は小雨がちの曇りの天気であって、空がどんよりと曇って暗い。これが普通の冬の天候であろう。ところが昨日の日曜は晴れて冬とはいえもう春かと思うような光が居間にさしこみ、暖かかった。天候によってその日の印象がまったく違う。

昨日の午後はコタツに入ってe-Learningのコンテンツのプリントアウトを見る。ずいぶん推敲したつもりであったが、まだまだである。

それで、赤のボールペンで修正をする。それはいいのだが、この部分はすでにPDFになっていて私にはすぐに訂正ができない。元の原稿はwordで書いた。実はlatexで書きたかったが、E大学の窓口のWさんがlatexにあまり堪能ではないから、wordを使った。

アルバイトの学生さんが図を描いてくれてそれを原稿に挿入してくれてPDFにしてくれたのだ。latexからPDFにするのはそんなに難しくはない。PDFを編集できるソフトを買ってあるので、これで変更しようと思ったが、使い方を練習していないのでうまくいかない。

かなり多量のコンテンツができつつある。代数コースとはいってもこれは高校数学の分野だが、A4で10の章までで64ページ、それにまだ4章プリントをしていない。

微積分コースはまだ作成途中だが、それでも20ページ以上は出来上がっているだろう。物理も「基礎物理」というコースと「質点力学(演習)」はページ数がどれくらいになるのか、やはり100ページのオーダーだろう。それにその解答もある。数百ページにはなろうか。そのすべてが完成したわけではないが、大分その形が見えてきている。

4月からのe-Learningの公開に向けて準備中である。


第三回雑談会

2010-01-23 17:43:39 | 日記・エッセイ・コラム

さっき第三回の雑談会を終えた。この雑談会もだんだん、定例化してきつつある。

今回は『「坂の上の雲」と歴史』というテーマであったが、歴史と小説との違いはどこにあるかとかいうことがテーマになった。日本の明治維新以来の歴史に中央主権や富国強兵や植民地主義以外に選択肢がありえたのかについては議論していてどうも否定的にならざるを得ないような気がした。これはそれがよかったかどうかは別にしてである。

司馬遼太郎の小説はある一面のその作者が小説を書いた当時の世相を反映していたと考えられるが、それはまた別の一面の世相を反映していなかったのではないかという議論もでた。

1968年から1972年にかけて司馬は「坂の上の雲」を書いている。私にとってはその頃は大学に勤め始めた初期の頃のことでもあり、大学闘争とかその後の公害反対運動の雰囲気を色濃くもった時期である。だが、そういう思想的な影響は司馬にはあまりないかもしれない。

歴史小説は歴史的な事実から離れてはもちろん存在しないが、だからといって歴史的事実というにしては微妙に食い違っているということだ。


巡礼

2010-01-23 13:29:42 | 日記・エッセイ・コラム

巡礼(Pilgrimage)は日本だけにある習慣ではない。巡礼をする人、巡礼者をPilgrimといい、巡礼という名詞Pilgrimageよりもよく知られている。日本では四国の八十八箇所遍路というのが有名で故池田勇人元総理大臣が総理大臣になるずっと以前に遍路をしたとか、最近では「いら菅」のあだ名がある、菅直人財務大臣が民主党の党首選挙に敗北して「歩き遍路」に出たとかで新聞ダネになった。

フランスの国境に近い、スペインのサンティアゴ・デ・コンポステーラSantiago de Compostela)はキリスト教の聖地として有名である。カトリックの巡礼者がこの聖地を目指す。これは日本の四国八十八箇所めぐりと同じで病気になった老人とかが、家族に迷惑をかけないようにと巡礼の旅に出かけたといういきさつもある。だから、旅の途中で病に倒れて帰らぬ人になることも多かったようだ。

キリストの奇跡に引かれて聖地へと赴く人もあれば、覚悟の旅立ちをした人もあったと聞くといつの世もそう変わりはないなと思ったりする。

いつだったか愛媛新聞にある「四季録」というコラムで絹谷政代さんというE大学医学部の先生がこの巡礼のことを書いていた。フランスでの話だったと思うが、そこでpèlerinageという語を知った。

この語のつづりをよく覚えていなくてperilnageだと思っていたので先刻見当をつけてフランス語の仏日辞典を引いて見たのだが、該当するものが見当たらなかったので、巡礼という語はあまり普通の語ではないのかなと思った。

WEBのサイトの日仏辞典で調べてみたら、「巡礼」はpèlerinageであった。なかなかうろ覚えの知識は確認が難しい。「巡礼に出る」とはフランス語ではaller en pèlerinageとかfaire un pèlerinageというらしい。 もし、「私は巡礼に出ます」というのなら、je vais en pèlerinageとかje fais  un pèlerinageという。


老齢と若さ

2010-01-22 14:56:54 | 日記・エッセイ・コラム

長生きして老齢になった人はもう余命が少ないので、希望がもてないのか。

それはそうばかりとは限らない。確かに生物学的にいえば、余命が少なくなったのは確かだろう。だが、一方でいえば、70年、80年生きてきたことは確かである。それはまだ若い人のもちえない利点というか確実さである。

どういう生き方をしてきたにせよ、またその生において成功した人もそうでない人も確かに何十年を生きたという事実は誰にもこれは神様にも犯すことのできない。そういう意味では老齢の人が私にはある意味でうらやましい。

一方で若い人はどうか。彼や彼女らは未来という未知の大きな可能性を秘めている。これは誰にも共通に期待できることであろう。もちろんその後の生き方次第だが、その可能性をもっているということで若い人がうらやましい。

だが、その可能性はある意味ではもろいものである。途中で老年に至らずにそれも成功することもなく単に若くして亡くなるという悲惨な可能性もまたもっている。

しかし、悲惨であるからといって私たちがかってにその人にとって惨めであったとか決めつけるのはやりすぎだろう。その人がどう感じるかは客観的なものとはちがう。

若い人のもつ未知の未来はこれを老齢の人がもうもつことはできない。だから、未知の未来をもつことは若者の特権であろう。

「生と死」とか「老齢と若さ」とを考えるときにいつもこの相反する思いが私の頭の中を交錯する。


検診結果

2010-01-21 17:12:53 | 健康・病気

がんセンターで肺がんの精密検診を受けた。そのヘリカルCTスキャンの画像を診察で解説をしてもらった。左右に一つずつ影があるが、多分炎症か何かだろうという。一ヶ月前の像と比べて大きさが変わっていない。ただ、完全に肺がんでないと診断されたわけではないので、3ヵ月後の検診をすることになった。その後の影像の大きさがあまり変わらないようだと半年後の検診となる。

やれやれ。一応は覚悟をしていたのであるが、今回はなんとか切り抜けられた。しかし、私の母の場合には肺の影の像の大きさが何回かのレントゲン写真で変わらないから多分大丈夫と思ってその後検診を受けなかったので、発見されたときはかなり大きく、たまご大の大きさであった。それで私も安心をしてしまってはいけないのだと思う。

ガン細胞は3年で倍の大きさになるとNHKのテレビで見た。それで少なくとも3年に一度は検診を受けるようにはしているのだが、このごろの年金生活でその検診も滞りがちになっている。


MonogamyとPolygamy

2010-01-20 11:21:10 | 社会・経済

MonogamyとPolygamyとはあまり聞かない言葉かもしれない。訳をつけるとMonogamyとは一夫一婦(制)でPolygamyは一夫多妻である。近代的な西欧や日本の法律では一夫一婦制であり、一夫多妻ではない。もちろん事実として一夫一婦(制)に反する例は日本でも枚挙にいとまがないかもしれないが、少なくとも建前はそうである。

ところがイスラムの社会ではこれが必ずしも建前としても原則ではない。むしろ一夫多妻であることが普通である。

30数年前にフライブルクのゲーテインスティチュートで知り合いになったシャバーナ氏はエジプトの放射線化学者であったが、仲間の日本人がこのイスラム社会の一夫多妻制をからかったときにまじめにそれはちがうのだと言っていた。

イスラムの社会で女性が一人で生きていくことが難しかったという歴史的な状況からこのような一夫多妻制度ができたのだという。それはもしかしたら男性の勝手な理屈かもしれないが、それだけではなくイスラムの社会の理にあったものだろうと思った。

もっともシャバーナ氏夫人もまた放射線化学の研究者であって、彼が一夫多妻を実行しているわけではなかった。シャバーナ氏がドイツに来た後でエジプトから彼の子供さんたちも来て、親子仲良くカールスルーエに一家で住んでいた。

私たちが外国語を習う理由の一つに自分たちの考え方以外の自分たちとはちがった考え方を知るということがある。そして、自分の母語以外で外国人と話したり、意見を交換したりするようになると、自分の考えが良し悪しは別としても如何に限られたものであったかを悟るのである。


名前の読み方

2010-01-19 14:32:19 | 日記・エッセイ・コラム

名前をどうつけるかは親の考え次第であろう。

浩という名前を「ひろし」と読むのが、普通であろうが、これをあえて「こう」と読むとする親もいる。徹を「てつ」と読むか「とおる」と読むかは半々くらいだろうか。私のペンネームの香山徹では「てつ」と読む。これは科学史家だった、広重徹の徹からとったものである。

正章という名の知人がいるが、この人の読み方は「まさあき」ではなく「せいしょう」が戸籍の上の呼び方らしい。

芥川龍之介は「りゅうのすけ」が正しいのだろうが、「たつのすけ」と読まれるのを嫌ったとかで、子どもに読み替えのない名前をつけた。也寸志と比呂志である。也寸志は作曲家であり、比呂志は俳優であった。

野球で有名な、打撃の神様といわれた、川上哲治さんは「てつじ」だと思っていたら、「てつはる」と読むようだし、名前の読みは難しい。


(続)山宣のこと

2010-01-18 13:31:58 | 日記・エッセイ・コラム

いつも仕事場にこもって外に出ることもない私であるが(これは「け」の状態)、昨日と一昨日はツアーにのって京都南座の観劇をしてきた。いわゆる「はれ(晴れ)」の状態である。

「はれ」と「け」という語は先日このブログに書いた羽仁進の講演ではじめて知った語である。

昨日は宇治市を訪れた。平等院の見学した後に、花屋敷浮船というレストランで昼食の後、Hさんという山宣の研究家の話を約30分聞いた後に山宣の墓を訪れた。

山宣の墓はこの花屋敷から10分くらいのところにあり、そう遠くはなかった。自然石の山本家の墓というその裏面に「山宣一人孤塁を守り・・・」という文句の入った文章が彫り込まれていた。

この裏面も何回もセメントで塗り固められたとかでそれをはがす過程ではじめの彫り込まれた字の形が欠けたとの説明がHさんからあった。

山宣とは山本宣治で労農党の国会選出の議員であったが、1929年に右翼の青年に刺されてなくなった。彼は治安維持法に最後まで反対したただ一人の代議士であった。

彼は一時をカナダのヴァンクーバーで青年期の4年間を暮らした。その4年間が彼の思想の大半を形成したということである。彼はカナダから帰国して同志社中学、三高、東大へと進み、動物学者になり、性科学の研究者となる。

その後、京都大学の講師となるが、その講演で弁士停止となり、京都大学を退職せざるを得なくなる。その後国民選出の国会議員になったのだが、41歳(webによれば39歳ともあるが、これは満年齢であろうか)で暗殺された亡くなったという。

産児制限の持論をもっていたので、そのために国家として好ましからざる人物と写ったのであろうが、時代を先駆けた大人物であったことはまちがいない。


村上密さんのブログから

2010-01-15 14:11:28 | 日記・エッセイ・コラム
以下の記録は村上密さんのブログからの無断コピーです。だから失礼なことになるのですが、あえて載せます。

村上 密 Blog
physicomathさんへ

ブログ「physicomath」を読みました。
「思想の科学研究会」編の『転向』をカルト救出に活用したことを評価くださりありがとうございました。今でこそカルトに関する書籍は山ほどありますが、カルト問題に取り組み始めた頃はほんとうにわずかでした。特に人の考えが変わるためにどのようなアプローチをしたらよいかについての本はありませんでした。私は思想、哲学、宗教、心理学を読みあさり、鶴見先生の本に出合いました。数年前あるカルトの被害者の会に鶴見先生と同席して、講演したときは、喜びひとしおでした。こんな出合いもあるんですね。長年カルト問題に取り組んでいますといろいろな本、人との出合いがあります。全てから学べると思っています。最近、何度か佐々木秀典弁護士と協力して、ある団体に閲覧請求をしました。佐々木弁護士は以前民主党の衆議院議員で、細川内閣では法務政務次官をされました。その働きの中で、宗教法人改正にも取り組まれました。この改正案によって閲覧請求ができるようになり、これを共に用いることができたときは感慨無量でした。宗教法人改正に関する書籍はずいぶん買い求め読みました。今ずいぶん助かっています。カルトの被害者から学ぶこともたくさんあります。民俗学は聞き取りから始まると言いますが、カルトもひとつの文化を持っています。カルト用語、意味付け、行動形態、支配系統、家族関係、思想形態等など、数を当たり、聞き取りを重ね、その人の属するカルトを知らなければ闘えません。勝つためには「己を知り、敵を知る」のみです。

by maranatha
(2007/08/11 7:31)