物理と数学:老人のつぶやき

物理とか数学とかに関した、気ままな話題とか日常の生活で思ったことや感じたこと、自分がおもしろく思ったことを綴る。

場の理論は日本にはなかったか

2008-02-29 14:20:57 | 学問

「素粒子論研究」の最新号の研究会報告にKさんとOさんの講演が載っている。二人とも場の理論的なアプローチを得意とした学者である。

Oさんは坂田先生に自分の研究の話をするときには必ず場の理論的な側面をはずして話していたとのことである。きわめて場の理論家としては肩身の狭かったことであろう。

Oさんはしかし場の理論以外のこともやっているし、その素粒子理論へのU(3)の導入は彼とIさんの大きな業績でもあるから、坂田先生からそれなりに評価はされていただろう。

確かに50年代から60年代の場の理論の勢いはあまりなかったというのは本当だろう。しかし、湯川とか朝永はやはり場の理論を主軸とした研究をやっていたといえるだろうし、また場の理論から離れてはいなかっただろう。特に朝永は1955年以降は論文を発表はしていないが、密かな研究としては場の理論的な研究を目指していたらしい。

今回の研究会ではある程度広島大学付置だった「理論物理学研究所」に焦点があたっているが、広島大学の素粒子論研究室には光はあたっていない。その辺が不満である。

しかし、それはある意味では武谷の業績の軽視でもあるような気がする。朝永、湯川、坂田はもてはやされるが、武谷以下の人たちの寄与はどうも無視される傾向にある。もちろん、武谷の寄与が前の三者ほど華々しくない。学問の世界も「やはり勝てば官軍である」ことは紛れもない事実であろう。


「四元数の発見」のエッセイ

2008-02-28 14:43:56 | 数学

標記のエッセイをほぼ完成した。

これはHamiltonの四元数の発見の跡をたどったエッセイである。こんなエッセイを書いて誰が読んでくれるのだろうか。しかし、私のような者が一人ぐらいてもいいだろう。それが私の個性なのだから。

「オイラーの公式」に続いての力作と思っている。それにしても早く自分のホームページを開く必要がある。というのは愛数協の「研究と実践」はごく少数の人にしか読んでもらえないし、いやほとんど読む人はいないだろう。いても一人か二人いればむしろいいほうだ。

このところブログも書けないくらいこのエッセイに没頭していた。昨日はちょっとした図をpicture環境で描いた。出来上がったものを読み返していると細かな手直しが必要のようだ。

それを直すのは簡単だが、ページがまた8ページに及んだ。私の書くものはどうしても長くなる。これは対象とする読者が数学の知識のあまりない人だからである。ひとりよがりにならないためにかなり詳しく書いている。多分、数学のよくできる人なら冗長すぎることだろう。

今晩はドイツ語の今期の打ち上げ会がある。

(2013.11.4付記)  この「四元数の発見」およびその続きの四元数のシリーズのエッセイを「数学・物理通信」に連載中である。

検索で「数学・物理通信」を検索すれば、すぐに名古屋大学の谷村先生のサイトに届く。そこで目次を見て頂ければすぐにわかる。

(2020.9.15付記)このタイトルと同じ『四元数の発見』(海鳴社)を2014.10に上梓したのはもう旧聞に属する。その本の第2章のタイトルが「四元数の発見」となっている。これの元の原稿が発表されたのは「研究と実践」(愛数協)第101号(2009.9) 24-31 である。記録のためにここに記す。

もっともこの第2章以外にも第3章「Hamiltonのノートの解読」にも四元数の発見のなぞ解きをしているが、第2章でもある程度わかる。

電気カミソリ

2008-02-25 11:53:13 | 日記・エッセイ・コラム

つい数週間前のことだが、長年使って来た電気カミソリが壊れて動かなくなった。仕方なく新しいのを買ったが、前と同じオランダのフィリップス社のものを選んだ。電気カミソリはフィリップスに限る。

これは次兄が就職をしてはじめての給料でフィリップスの電気カミソリを購入していたのを見たからである。そのころは松下電器が下請けで生産をしていたと思う。

亡くなった長兄はブラウンの電気カミソリを愛用していたが、これは深剃りができるという理由だった。

学生の頃フランス映画ではじめて電気カミソリを使っているシーンがあって、便利らしいなと思ったが、まだそのころ日本にはなかった。私は頬にひげが伸びて来る方なので、電気カミソリは羨ましかった。

後年大学に勤めてから、羽仁五郎が対談か何かで彼が電気カミソリを嫌っているのを知って意外な気がしたものだ。

私の記憶がともかくも変なことだけ覚えていて本質的なことはどこかへいってしまうというよい例だろう。


武谷の処女論文の発見

2008-02-25 11:51:58 | 物理学

一昨日、いままで分かっていなかった武谷の処女論文のありかがわかった。これは台湾博物学会会報に出た論文であった。私は日本の地質学会誌を探していたので、見つからなかったのだ。

これは武谷が旧制の台北高校生のときの論文である。台北帝大教授の早坂一郎の英訳だという。出版は1936年(昭和11年)なので武谷が24、5歳のときの出版であるが,書いたのは1928、9年頃だから17、8歳位のことである。

量子電気力学の業績でノーベル賞を1965年に朝永やFeynmanと共同受賞した早熟の天才Schwingerがはじめて論文を書いたのは16歳のときだというから分野は違うが年齢的にはそれに匹敵する。

山へ登っては貝やかたつむりを採取してそれを分類したらしい。また若い学生の論文を英訳された早坂一郎先生の尽力と分け隔てなさがすばらしい。武谷が学問のふるさとして台北帝大の地学の先生、早坂、丹先生たちとその学問の雰囲気を懐かしんでいた理由がわかる。

ローマ字でMituo Taketaniと入れて探したら、「台湾貝類資料庫」という中に武谷の論文が出ていた。そのPDFコピーがインターネット上から手に入りそうだったが、なかなか取り込めないのでメールを書いた。親切な人に出会うかどうかはわからない。しかし、やるだけのことはやってみた。

これで多分武谷の論文で現在のところ存在がわかっているものは尽くしたと思う。念のためにCitation indexを調べる必要があるが、これは大学に行って誰かの端末を使わないと調べることが出来ない。

ただし、このような発見は自分の体の中で興奮がない。自分が新しいことを研究して小さなことでも発見があると興奮してある種の満足の感覚が体を満たすものだが、今回はどういう感情も起きない。オリジナルのことをやらないのはさびしい。


仕事の意外な展開

2008-02-21 12:02:29 | 物理学

一昨日、昨日と全然思ってもみなかった方に仕事が展開している。もちろんある意味ではそれを志向してはいたのだが,それよりも広がりをもった。そして元の課題はまだ残っている。

武谷三男が台北高校の学生だったときにカタツムリの化石を採集して、台湾での種類と中国大陸での種類を比べることによって中国大陸と台湾とが陸続きであったかどうかを考察しようとしたらしい。それを論文に書いてそれは台北大学の地質学の教授早坂先生が英語に訳してくれて学会誌に載ったという。これは多分29年か30年に学会誌に載っているだろう。

それを地質学会の雑誌から探そうとしているのだが、インターネットではまだうまく見つけられていない。そういうことをやっているうちに物理関係でまだ私が収録していないものがあることがわかった。

このうちの一つは湯川さんが多分ネーチャーに投稿して掲載を断られて未発表となった論文草稿が85年の中間子論50年の会議のプロシーディングの付録に載っていることがわかった。

多分この論文自体はこのプロシーディングをもっているので知っていたと思うが,失念をしていた。そういう副産物があるが、武谷の地質学の処女論文はまだみつかっていない。知り合いのT先生の頼んで探してもらおうと思いながら,果たしていない。

(2012.1.24付記) 上に書いた武谷三男の地質学の論文はすでに見つけて、彼の業績リスト(第2版)の第一番目に載せてある。これは「素粒子論研究」第116巻第5号(2008.12)159-168である。このごろはciniiで簡単にダウンロードできる。


willの用法

2008-02-20 11:53:51 | 学問

大西先生はwillには二つの用法があり、その基本イメージは精神力のwillだという。未来のことは確定ではないから、じっと耐えるような精神力がいるという。それを基本にして(1)意志を表すwillと(2)予測のwillがあるという。

「ーーーだろう」という語が未来を表すと考えていたが、どうもwillは未来を表していないでむしろ現在の気持を表していたり、推測を表している。また、be going to は行為が行われようとしているか進行中であるので、とても近いがwillよりも前のことを示すという。

従来の文法でも意志未来と単純未来とに分けられていたと思うので,それほどの違いはないのだろうが、単純未来はむしろ予測だという。それは多分正しい。

ドイツ語でも未来の形を表す動詞werdenがあるが、これは未来を表す訳ではなくて、意志とか推測を表すとこの頃では教えられる。むしろ未来を表すのに現在形を使う。教え方が進んで来たのはやはり言語学の進歩のお陰なのだろうか。


英語会話と英語文法

2008-02-18 11:44:13 | 学問

ごく最近のNHKの英語会話でのお薦めは大西泰斗先生の「心で感じる英文法」である。なかなか身にはつかないが英語を母語としている人の感覚が少しづつときほぐされて解説されている。

いままでにもこれに似たことを主張された英語の先生は居たのかもしれないが、その主張が徹底している。学校英文法からはるか遠くになってしまった身には眼から鱗がおちた。

そういえば、昔竹村健一の「英語会話1週間」だったかを読んでひょっとしたら、本当に1週間で英語を話せるようになるのではと淡い期待をもったりした。

彼はMay I have--- ?  Will you---? 等のいくつかのフレーズを覚えれば英語会話はできるという主張でそれはなかなか新鮮だった。

そのとき思ったのは、しかし相手のいうことは簡単に聞き取れるようにはならないということだった。そのときから比べれば,私の英語の聞き取りのレベルも随分上がっているはずだが、でもまだ十分に英語を聞き取れるレベルには至っていない。


宇宙と物質、その一様、等方性

2008-02-18 11:40:47 | 物理学

いま急に思い出したのでメモしておく。

湯川秀樹監修の岩波講座「物理学の基礎」はだいぶ以前に出た本だが,この中の古典物理学の力学のところに豊田利幸先生が弾性体の力学と相対論を同時に学ぶような趣旨でテンソルについて書いている。これは優れた観点である。

弾性体力学での、物質の等方性、一様性の仮定は、宇宙論での宇宙の等方、一様性の仮定とまったく同じであり,同じ仮定がまた結晶学でも使われている。人間はその対象分野は違っても同じ仮定から、その理解を始めている。

たとえば、宇宙の分野での独自な理解の仕方を結晶学や弾性体力学へと応用して、これらの分野の理解を進める。またはその逆の試みがされてもいいのではないかと思った。

よくは知らないが,レッジェポールで有名なReggeはそういう趣旨で重力論を展開したことがあるらしい。

もちろんいつまでたっても、等方性と一様性の仮定から離れられないのならば,物性物理学の進歩はないだろう。

現在では一様でない物質とか結晶とかも、現代の物性物理学では同様に対象にされている。格子欠陥とかアモルファスなどが主な研究の対象になっている。

(2013.2.20付記) 表現が未熟であったので、趣旨がはっきりするように文章を改めた。どこをどのようにという記録は取らなかったが、より趣旨をはっきりさせたつもりである。

この文章を検索されて、読んだ方がいたことがその契機となった。感謝をしたい。


英語と辞書

2008-02-15 16:24:32 | 受験・学校

Can you read me? といわれて「お前の何を読んだらいいんだ」と思っていはいけない。これはよく映画やテレビのニュースで宇宙飛行士とヒューストンとの会話でやり取りされる言葉である。同時通訳とか字幕では「聞こえますか」と訳している。Can you hear me ? と絶対にいわないのかどうかは知らないが、普通にはCan you read me? のようだ。

中学生の昔You had better (should) book a seat. とかいった文章を読んでbookが動詞として使われることにぶったまげた。そういえば、予約するという意味にbuchenという語をドイツ語でも使うことがあるようだ。一昨日だか昨日だかテレビの英語会話でreasobnable priceを「手ごろな値段」と訳していたが、このreasonableをどう訳していいかいつも困ってしまう。合理的なというのもおかしいし、適当なとかいつも訳に困る。

昔、論文を書いてほんとに真っ赤に添削されて自分の使った元の語彙がところどころ大海に浮かぶ島のように残っているというそんな頃だが、「実際に」という語にreallyと訳をつけたら、さりげなくactuallyと添削されて、このactuallyを覚えた。「実際の場合に」というときにはin actual casesなどという。

それよりもっと後だが、8年ぐらいアメリカにいて英語の達者だった同僚のS先生と懇意だったので、論文の英語をみてもらったが、「完全に」をなんだか訳がおかしいよなあと思いながら, totallyと訳しておいたら、entirelyとさりげなく直してもらった。これなどはentirelyが英語に出てくれば、まったくとか完全にと訳せるが、日本語から英語としては私には思いもつかなかった。そうやって一つ一つの語を覚えていくのだ。まだまだ語彙は不足している。

物理の本を読むときはそれでも辞書を引く回数は多くないが、これを日本語にしようと思うとつい訳語探しに辞書を引く回数が増える。しかし、辞書にはなかなかこなれた訳が載っていない。それで訳しにくいことが多い。identityなんて語もそのうちの一つだ。identity cardといわれると身分証明書とわかるが、identifyという語の訳はぴったりするものを知らない。

そういえば、長男と品川のホテルで会って、食事にホテルの前のレストランに入ったときアメリカ人が隣の席に座った。何の用で日本に来たのかと尋ねると仕事だという。そして彼はIBMに勤めていることがわかった。それで技術者かと聞いたらそうではないという。仕事は何に関係しているかと聞いたら、logisticsだというそれで物品の調達の取引に来ていることがわかった。

彼が帰った後で長男にlogisticsをどう訳すかと聞いたら、即座に「兵站」と答えたので、お互いに笑ってしまった。これは大抵の辞書にそう出ているからである。長男しばらくあって「物流かな」とつぶやいた。物流とか物品調達などという訳は辞書にはまだ載っていないのだろう。


長所を伸ばせ

2008-02-14 13:20:27 | 受験・学校

昨日は「短所が長所に変わる」ということを述べたが、教育のもう一つのあり方はその人の「長所を伸ばして短所には目をつぶる」という方法がある。日本ではあれもできないではないか、これもできないではないかと言われるが、アメリカ等ではいいところを伸ばそうとする。そうすれば、その人が自信をもってのびのびと伸びて行ける。

ドイツ語で教育とはErzihungすなわち直訳すると「引き出すこと」であって、日本語の「教えて育てる」という語感とはかなり違っている。ヨーロッパやアメリカで音楽教育を受けて演奏家になる人はその音楽で「何を君はあなたは表現したいか」といわれるといつか聞いた。

ドイツ語のクラスでYさんが「言いたいことが十分にいえるようになりたい」というのはいわゆる発信型のコミュニケーションを目指しているのであろう。確かに発信型の人間の育成は大切なことではあるが、長い間普通の日本人をやってきたのだから、その特徴を生かした言語とか思想があるはずだ。「控えめさ」「受容力」とかの長所を生かしながら、かつ外国人とも互いに理解できるような程度に言語もレベルアップできたらと考えている。


短所は長所に変わる

2008-02-13 14:47:30 | 受験・学校

昨日NHKの「プロフェッショナルの条件」を見ていて、「短所は長所に変わる」ということを聞いた。少なくとも可能性があるということだ。

例えば、私はいまでは数学好きな人間と思われているが、決してそうではなかった。多くの人が理系志望から文系志望に変わるという現象が日本ではある。これは大抵数学ができないためである。しかし、その反対に少数だが純然たる文系人間から理系に変わる人もいる。

私が文系から理系に変わったというつもりはないが、日本でもいくつかの知られた例はある。数学者の八杉真利子さんは哲学か科学基礎論専攻から転向したのだし、もっと若い人では新井紀子という数理論理学者がいる。

彼女は法律か何かを専攻していたらしいが、いまではいくつかの啓蒙的な数学書を書いている。二人とも数理論理学とか数学基礎論を専攻しているところがちょっと似ている。また、アメリカで勉強をしたところも同じだ。新井さんの本を買って読もうかと思いながらまだ果たしていない。

また竹内薫という名で物理の啓蒙書を書いている人もはじめは東大経済学部か何かの出身である。もっとも竹内さんの場合はその後東大の物理学科に学士入学して、物理学科を卒業している。大学院はカナダのMc-Gill大学だと思う。

数学の得意な理系出身の人が数理経済をする例は多い。これは理系から文系への転進とは一概に言えないだろう。私の子どももその範疇に属している。

外国では有名なノーベル賞学者のde Broglieは30歳くらいまで西洋史の専攻だったというし、素粒子理論のスーパーストリングで有名なある学者は先年数学でフィールズ賞を受けたが、彼はやはりはじめは大学で文系の学問を修めていたとかいう(2013.12.9 付記)。

私はまだ現在のところまだ図を描くのが下手だが、そのうちにいずれかのグラフィックスを習得して弱点が克服されるかもしれない。

大学でドイツ語を習ったときにその語法がまったく理解ができず、これを克服することが困難な課題であったが、現在ではカタコトでもドイツ語を話せるようになった。もちろんその間には涙ぐましい努力があったはずだが、そういう風に自分で思ったことはない。

数学だって高校のときに因数分解ができず、また方程式と恒等式の区別を知らなくて大いに数学の学習で苦労した。そして、それを克服するのに多くの時間がかかった。だが、そういう経験が今に生きていると思う。もし私が高校のときに数学をなんなく理解して得意であったのなら、現在の私はないだろう。

(2013.12.9 付記) この学者の名前はWittenであった。どうしたものかこのブログを書いたときには度忘れをしていたが、物理学者の亡くなった木村利栄先生のこと思い出したときに、このWittenという名前も同時に思い出した。木村さんがWittenがどうとか言われていたということを。


「四元数の導入」の草稿

2008-02-12 11:30:13 | 数学

標題のエッセイの草稿をつくった。以前から書こうとは思っていたのだが、なかなかその暇がなかった。それで数日前からHamiltonの論文を読み返し、計算をし直していた。 

昨夜一気に草稿をつくる。もっともその後がよく寝られなかった。後はパソコンに入力して図をつけたり、して出来上がるが、いまはいろいろな仕事を平行してやるようにしているので、完成はかなり時間がかかるだろう。

いつかの仕事を平行してやるのは私の子どもの仕事のやりかただ。一つ一つの仕事の仕上がりはもちろん遅くなるが、飽きが来ないという長所がある。ある一つの仕事で飽きが来たら、別の仕事に切り替える。

私自身は一つの仕事にこだわってしまう方だが、どうも仕事を分散してやる方式の方がよさそうである。


波動幾何学と岡潔

2008-02-11 14:06:14 | 物理学

昭和10年代に三村、岩付と彼らの学派の波動幾何学が盛んに取りざたされていた頃、一方で同じ大学、広島文理科大学(後に広島大学となる)に勤めていた岡潔が多変数関数論の難問に取組んでいた。

岡の多変数関数論の業績は世界に鳴り響き、戦後に彼の文化勲章受賞で日本の社会一般にも知られるようになった。私が岡の名前を知ったのは湯川秀樹の自伝『旅人』(朝日新聞社)に湯川たちの数学の先生として出て来たからであった。

他方、広島文理科大学の付置の理論物理学研究所の設立にまで至った「波動幾何学」の研究は数十編の論文を生んだが,業績としては行き止まりとなった。

波動幾何学研究の一翼を担った竹野兵一郎先生にこの波動幾何学の一部の紹介する講義を大学院の頃に受けたが,そのときに竹野先生から岡さんが波動幾何学に対して大いに対抗意識を燃やして居られたということを伺った。

岡の多変数関数論の業績は類い稀なる岡の才能によるものとは思うが,それだけではなくこういう環境も作用していると思う。

最近、岡潔の詳しい伝記が出版されているが、こういった事情にはまったく触れていないようだ。物理を専攻する人にでさえもう波動幾何学なんて知っている人は少ない。

(2013.6.12 付記) このブログもときどきアクセスがある。どういう方がアクセスするのかはわからないが、岡潔に関心のある方か広島大学の卒業生の方かはわからない。波動幾何学の研究者の一人、数学者の岩付教授は右翼だったらしい。

西谷正さんの『坂田昌一の生涯』(鳥影社)に坂田さんの述懐として金沢かどこかの学会で中性子の崩壊か何かの講演をしたら。質問で岩付教授(名前は秘してあったかもしれない)から、戦時下でそういうアカデミックなことを研究しているのはどうかと思うというコメントがあったと書かれている。

ところが、その後原爆の放射線の中性子線が原因かどうかはわからないが、岩付教授は原爆で亡くなってしまった。坂田さんはその運命の不思議さに驚いている。このことは武谷三男の『思想を織る』(朝日選書)にも出ていたと思う。


炭鉱(やま)は終わらない

2008-02-09 12:24:50 | 映画

昨夜、標題の映画の試写会に行った。これは本来なら妻が出かけるところだが、他に用があったので私が代わりに行ったのだ。

三池炭鉱の歴史というかそういうものだが、1959年に三池闘争があり、労働側の敗北に終わった。また、その4年後の1963年には三池の炭鉱大事故が起こった。そして1997年に炭鉱は閉鎖されて炭鉱の歴史は閉じられた。

この映画で主に取り上げられた1950年代の終わりから1960年代の初めの時期は私の青春時代と重なっている。

私の関心事で言えば、武谷三男が三池炭鉱の事故調査団の団長になって大牟田市に行ったということもある。武谷三男は彼の父が炭鉱の技術者であったことから、1911年にこの大牟田で生まれた。もっともその後の彼と大牟田の縁はそれほど深くはないが、それでも一つの縁があったわけだ。

それでこの映画にも関心があったのだが、見てみるまではどんな映画かは知らなかった。三池炭鉱の組合側の立場から描いた映画ではないかと思っていた。もちろん炭鉱労働者の証言は欠かせないが、それだけではなく会社側の人や三池炭鉱の第二組合に入った労働者にも取材をしていてその点が興味深かった。

会社の方針をはっきりとは描いていないが、労働者1400人の一斉解雇とは過酷な方針だった。しかし、それだけではなく組合側というか総評側の団結の指令もかなりきついものがあった。会社側は220億円の金を使い、組合側も22億円を費やしたという。「総資本対総労働」という懐かしい言葉も出てきた。

闘争の経過で第二組合がつくられた。私などの当時の印象では第二組合を組織するなど会社の回し者というか労働運動に対する裏切りという印象が強かったが、それにしてもそういう第二組合へと走った個々の労働者にはそれぞれやはり事情があった。

もっともこの闘争を指導した向坂逸郎氏が間違っていたのではないかとの関係者の証言もあった。墓の下で向坂さんくしゃみをしているかもしれない。

映画監督の熊谷博子によれば、三池炭鉱の歴史を映像としてとして残すことを言い出したのは大牟田の炭鉱の記念博物館(正式名称は失念)に勤める職員だったという。

市の予算を獲得するのに3年かかったという。映画では批判的または批評的な視点はあまり感じなかったが、歴史として残しておきたいという気持ちは伝わった。

三池炭鉱の歴史を大牟田の人たちは誇りに思ってこれからも生きていく。それにしても三池炭鉱は大牟田に何を残したのだろうか。松山でのこの映画の上映は約1ヵ月後である。


一歩進んだ段階へ

2008-02-08 11:42:44 | 健康・病気

昨夜もドイツ語のコースがあったが、ここ数回はディスカションが続いている。なかなかディスカッションに十分な学力がないのだが、それでも一歩進んだ段階に至ったように思える。

確かに私たち日本人の発想をドイツ語にしようとするとおかしなドイツ語になるのかもしれない。しかし、最終的な私たちの目標が思想の交流だとすれば、言葉はそれに付随したものにしかすぎない。

昨夜もはじめはお決まりのことから始まったのだが、そのうちになかなか本質的なことに入っていった。それは国が行おうとしている保険医療制度についてであった。口火は私が切ったが、そのうちに夫が医学部に勤めるKさんの独壇場になった。これはたとえそのことを日本語でまたは私たちのつたないドイツ語で言おうといずれにしても本質を衝いたことになっているところが素晴らしい。このことがいままで欠けていたことだが、一番大切なことではなかったのだろうか。

もちろん、先生としてまたディスカッションのリーダーを勤めるRさんの寄与はとても大きい。また、このコースの世話人のOさんや私たちの中で一番高いレベルにあるYさん等の寄与はある。また、ドイツ生活30年のTさんやドイツに深い関心を持つもう一人のTさんの寄与も見逃せない。

しかし、いわゆる語学力を超えて一歩進んだ段階に私たちのドイツ語コースも入った考えるのは早すぎるであろうか。これからどう進化できるか楽しみである。地道に言い回しや表現法を覚えること等を繰り返しながら、本質的な思想の交流へと向かえたらいい。