物理と数学:老人のつぶやき

物理とか数学とかに関した、気ままな話題とか日常の生活で思ったことや感じたこと、自分がおもしろく思ったことを綴る。

marginal stabilityとは

2008-08-31 15:18:32 | 物理学

marginal stabilityという語の日本語訳に困っている。これは今訳しているGoldstein,"Classical Mechanics"の11章「古典的カオス」に出てくる用語である。惑星の軌道の安定性がmarginal stabilityであるというのだが、どうも限界安定とか中立安定とか訳すのは憚られるようなのだ。

惑星の軌道は安定なのだが、それは10^{9}年くらいのオーダーでの話らしい。とすると普通の意味では安定といってもいいと思う。しかし、このような長期間にわたって安定ではあるが、数学的には安定とはいえないだろう。

「傍注つきの」安定性と訳そうかと冗談を言っているが、そうもいかないだろう。どなたか日本語の定訳というか適訳をご存知の方はいませんか。(marginalは「余白の」というのが辞書のはじめに出てくる訳語だが、「傍注つきの」という訳語をつけている辞書もある。それで安定だが、注釈つきの安定性とシャレようというわけである)。

たんぱく質の生成等で極めてきわどい条件での安定性が成り立つという話があるようだが、それらと話を一緒にしていいものかどうか。専門用語であるので、マージナルな安定性という訳語もゆるされるかとも思うが、悩んでいる。

(2017.5.12付記)  マージナルという言葉でまた悩んでいる。これはここで述べたmarginal stabilityとは関係ないが、『昭和後期の科学史思想史』(勁草書房)に掲載されている、金山浩司さんの「武谷三男論」にはじめの方に「武谷三男はマージナル・マンである」とあるのだが、このマージナル・マンの意味がよくわからない。

いま辞書でmarginalを引いてみたが、どうも適訳を見つけることができない。marginとは本などの余白のことである。


いくつかの言葉

2008-08-30 11:39:52 | 学問

このブログの名称physicomathは昔数学会と物理学会が分かれていないときに数物学会として活動していたときの名称がPhysico-mathematical Societyといったことを踏まえて数学と物理といった意味で使っている。

レスリングに自由型に加えてグレコローマン型というのがあるが、あれもグレコというのが聞きなれない言葉であって、これがGreek(ギリシア語、ギリシア人)から来ているのだと気がついたのはかなりたってからであった。はじめて聞いたときはむしろギリシアではなくてトルコの方を誤ってイメージしていたとおもうが、Greco-Roman styleというのだろう。

どうもphysicomathはpsychopath(サイコパス:精神病者)に似てイメージがよくないかもしれないが、変な意味はないつもりである。しかし、かなり多くの人にpsychopathと同じ語感を与えているとすれば、申し訳ない。因みにpsychopathの語頭のpは英語では発音しない。

物理にpseudo-scaler(擬スカラー)というのがある。私の先生の一人はカタカナで書けば、プシュードスケーラと発音されていたが、これもpは発音はしないでシュードと発音をする。もっとも英語の発音をカタカナで書くととてもおかしくてうまく表記できない。


偶然の一致1

2008-08-28 12:23:05 | 物理学

偶然の一致があった。先日カタストロフィーについて書いたが、最近の「素粒子論研究」で山形大学の方が「Qボールとカタストロフィー」という報告をしているのを昨夜読んだ。

私はこのことを知らないで先日の「自発的対称性の破れとカタストロフィー」のことを書いたのだが、それと関係したことをその直後に見たという偶然があった。

先日の記事ではどうしてそういう潜在意識が出てきたのかわからないといったが、いまゴールドスタイン著の「古典力学」の第11章「古典カオス」という章の翻訳を進めている。

直接にカオスとカタスロフィーとは関係がないが、アトラクターが出てきたりして、昔の勉強した脳の痕跡に刺激が与えられたかららしい。

ただ、「素粒子論研究」の報告ではカタスロフィー理論を安定性の判定に使うということなので私のその当時の理解というか関心とは少し違っているようだ。

その当時には分岐(bifurcation)というか、安定な状態の数がコントロールパラメータの値によって変わるということに関心があって、安定性といった観点からは見ていなかったような気がする。

私のカタスロフィー理論の理解はそういうものであった。しかし、ちょっとの間にせよ関心をもったことが使われているのを見ると懐かしい。


小さな発明・工夫

2008-08-27 11:42:07 | 科学・技術

今日のブログのテーマを入れようとして科学技術という項目がないのに気づいた。

「仕方がないので社会・経済に入れた」と以前に書いたが、その後科学・技術の項目を追加したので今は科学・技術の項目に入っている。

小さな発明とか工夫だが、これは日本人の得意とするところであろう。

ホッチキス(stapler)で書類をとめるとその裏側が丸く盛り上がって書類をたくさん重ねるとそこの部分が盛り上がって困るというので、このホッチキスのピンの裏側がぴったりと紙にくっつくという改良されたホッチキスが出ている。これなどは小さな改良の最たるものであろう(注1)。

今朝、つめを切っているときに思い出したのだが、昔の爪切りは爪をきると爪の切った破片が四方に飛び散って困ったが、いまではそういうことのないように工夫されている。

これも小さな改良だろう。しかし、それで新聞紙を広げてそのところで爪を切るという不便はなくなった。

海外に行くとタクシーを降りたときに日本人はドアを閉めないというので、海外のタクシーの運転手から嫌がられるそうだが(注2)、日本でタクシーのドアは自動ドアであり、乗客がドアを自分で閉めたり開けたりすることはほとんどない。これも小さな工夫といえるであろうか。

このごろはOHPのプロジェクターをほとんど使わなくなったが、OHPのプロジェクターでカーテンをして、部屋を暗くしなくてもよく見える、強力で明るいレンズのOHPプロジェクターも開発されている。

パワーポイントが普及した現在では、これも現在では無用の発明だったかもしれないが、以前の私の研究室で卒業研究をした学生がフレネル(Fresnel)レンズの応用だといっていた。これも小さな発明・工夫であろう。

星野芳郎によれば、大きな発明にはその発明のもとづく原理が変わることが必要だが、小さな発明には原理が変わる必要はないという。

それでも大きな発明も小さな発明もどちらの発明も必要なのだ。小さな発明が要らないという立場を私はとらない。しかし、異なった原理に基づく発明が同時にもっともっと必要なのはいうまでもない。

(注1)最近は金属のピンを用いない方法ができていると聞くが、まだお目にかかってはいない。

(注2)ヨーロッパではタクシーのドアが運転手が閉めることができるようになっていない。

日本では客の降りた後に運転手が自動的にドアを閉めることができるのが普通であるので、自分の降りたドアを閉める習慣がない。それでヨーロッパでは「日本人は自分を王侯貴族とで思っているのか」とタクシーの運転手がとても怒ると聞いている。

それで、フランス語でもドイツ語でも、またイタリア語やスペイン語を教える先生でもヨーロッパではタクシーを降りたときに自分でドアを閉めるようにと講義中にいつも警告をしている。


自発的対称性の破れとカタストロフィー

2008-08-26 12:41:37 | 物理学

「自発的対称性の破れとカスプカタストロフィー」というのは私たちが1970年代の半ばに私たちが書いた論文の題名である。

もう30年以上も前の短い論文である。そのことなどまったく忘れていたのだが、夢うつつの中で「自発的対称性の破れ」についての「ファイ4乗理論」の話をどうも思い出していたらしい。

これは私が自発的対称性の破れの意味をはじめて理解した例であって、本当は南部陽一郎さんの論文を読んで知るべきところをこのファイ4乗理論で自発的対称性の破れということの意味をはじめて知った。

私にもわかるようにphysics reportに書かれていたのだ。多分これはAbers and Leeのレビューであったろうか。それを読んでやっと自発的対称性の破れがどういうものかを知ったのであった。

大学院を出た後に、基礎物理学研究所に非常勤講師として半年ほど勤めていた頃に所長の湯川先生が自発的対称性の破れという概念は物性から来た概念だが、いまは素粒子で一般化しているとよく言われていた。

1968年のことだから、Weinberg-Salamの理論は出されていたはずだが、W-S理論はまだまったく注目はされていなかった。

湯川先生にとっても旧知の南部さんが出された重要な概念ということはわかっておられたのであろう。なんどか「自発的対称性の破れは---」とか言われるのを伺った気がする。

「Gell-Mann何するものぞ」という感覚の湯川先生だのにこの自発的対称性の破れは新しい概念だということは認識しておられたに違いない。

話は違うのだが、ある事情でカタストロフィーという概念を知り、その中で一番簡単なカスプカタストロフィーがファイ4乗理論のポテンシャルと同じ形だということにはすぐ気がついた。

それでこのポテンシャルをカタスロフィーの観点から見るとどういうことになるのかというのが、私たちの論文の要旨である。

なんてこともない論文だが、特にレフェリーの異論もなく英国の雑誌Proceedings of Royal Societyに載せられた。

その論文は共著者の人たちが英文を書いてくれたり、図を描いてくれたりしたが、アイディアはあくまでも私自身のものである。こんなことを言うと共著者のNさんとUさんとがくしゃみをしているかな。

ちなみにfirst authorは当時私の上司のA教授だった。共著者のNさんとUさんとが私の置かれた状況を知っていて文句を言われなかったのは有難かった。

どうしてこんなことを夢見るのか、今朝の夢うつつの状態の無意識から浮かび上がってきたのか不思議であるが、その理由は特に思い当たるものがない。

(2009年5月27日付記) その後、2008年度のノーベル賞を「自発的対称性の破れの発見」の業績により南部陽一郎さんが受賞するとノーベル賞委員会から発表されたのはこのブログを書いてから数ヵ月後の2008年の10月半ばであった。


朗読劇を聞く1

2008-08-25 11:41:16 | 芸能ネタ

昨夜、前進座の人が演じた朗読劇を枝松の寺院「多聞院」で聞いた。

出し物は松本清張の「ある小倉日記伝」であった。小倉日記というのは森鴎外が小倉にいたときの日記だそうである。

それが失われて所在がわかっていないというので、その空白を埋めようと40年前の小倉における森鴎外の交友等を調べるある人を中心とした話である。

多分松本清張の処女作であろうか。丹念に取材をして小説を書いたという清張にふさわしい。朗読劇はどれくらい原作を脚色しているかはわからないが、十分にその雰囲気は出ていたと思う。

この朗読劇は松山での前進座の友の会の発足の機会に行われたものである。私自身は前進座の友の会に入る気はないが、そういう前進座の努力には敬意を表したい。

北九州市には松本清張記念館があり、そこでここ数年行われてきた朗読劇だという。

森鴎外の「小倉日記」について書いた清張の目の付け所がいいと思う。もっとも朗読があった後で3人の人が朗読劇の感想を述べていた。それは大体においていいと思うが、しかし注意しておかねばならないこともある。それは森鴎外の評価の問題である。

もちろん文学における森鴎外の寄与は大きいが、彼の本職である医学界での森鴎外の寄与については脚気の原因の究明を遅らせて多くの人に被害を与えた人として記憶しておく必要があろう。このことを私は板倉聖宣氏の脚気の研究の歴史についての講演のインターネットの記録で知った。

ただ、森鴎外がドイツ語に堪能なのは有名だが、小倉時代にフランス人の宣教師についてフランス語も一生懸命勉強したというのは新しい知見であった。


講義の面白さとは

2008-08-24 08:26:32 | 受験・学校

昨日の徳島科学史研究会年総会である講演者に「先生、講義で面白ってことはどういうことですか」という質問があった。講演者の答えははっきりとは覚えていないのだが、「面白いというのは面が白いと書きますから、思考がまったくできなくなるというか頭真っ白になるという感じですかね」いうような答えだったと思う。

その後の懇親会で私にとって面白いとは「驚き」を意味するといったら、それではそのときだけびっくりするだけで頭には残らないだろうといわれた。そうかもしれないが、びっくりするということの内容をそのときは話さなかったので、少し補足的に述べてみたい。

原子核の中には電子は定常的に存在するわけではないが、それにもかかわらず原子核から電子が飛び出してくるという現象がある。ベータ崩壊である。

そのことについて授業で問題提起してしばらく考えてもらう。電子が原子核から放出されるからには、そこに定常的に電子が存在するに違いないと誰でも素人的には考える。だけどそうではないといわれるとどんな可能性があるのか。論理的に困ってしまうのではないか。

少なくともそんなことが起こるのはどうしてかと疑問が生じて欲しい。そういった概念上の驚きを経験して欲しいというのが私の「講義ではびっくりして欲しい」という意味である。

すでに現代物理学を学んでいる人にはその答えは難しくはないが、やはり一時でも人類の出くわした難問について考えて欲しいのだ。

答えを現代物理学に詳しくない人のために記しておくと、それはベータ崩壊で電子はつくられて原子核の中から放出されるのである。もっと正確にいうと原子核の中では中性子という粒子として定常的に存在しているのだが、その中性子が陽子と電子とニュートリノに変換されて電子とニュートリノは原子核から放出されるのである。

答えを聞けば、「なあんだ」ということであるが、一瞬でもいいから疑問に思うという、そういう思考経験をして欲しいというのが、私の長年の授業をする者としての願いであった。

蛇足だが、朝永さんの物理の本、「量子力学 I, II」(みすず書房)とか「物理とはなんだろうか」(岩波新書)を読むとそういう問いがところどころにあって、それに対する答えはどうなるのだろうかとひきずられて読むという趣がある。朝永の書が名著といわれる所以はこのミステリーを読むような感じがするところにあるのではないかと思っている。


人の親切と会の開催

2008-08-23 22:39:32 | 日記・エッセイ・コラム

今日、徳島科学史研究会の年総会を工学部講義棟で行うことができた。10数人の参加でいろいろの分野の講演があった。これは偏に西條敏美先生の年来の活動の成果である。

このたびの総会の開催には電気電子工学科の専攻長O教授とその研究室のご尽力が大きかった。ここに大いに感謝したい。O教授は篤実な方であって、世話をするとなると、とことん親身になって世話をしてくださる。10時半過ぎに行くとすでに講義室がエアコンがかけてあってパソコンのケーブル等も戸棚から引き出されてあった。それで私のしたことはパソコンにケーブルをつないだだけであった。

また、会の終わりもケーブルを片付けるとかそういうことも全部してくださった。誠に申し訳がなく有難いことであった。O教授の大学院の学生さんにも手伝ってもらった。これは私がお願いしたことではないが、心配りが細かい。私はO教授の方に足を向けて寝れないという感じである。

それでO教授の社会活動の点数が直ちに上がるわけではないかもしれないが、こういう人を評価し、大切にする風潮が大学にも欲しいと思う。ともかくも今回は主催者と同じ、いやそれ以上のご尽力を賜った。会の主たるメンバーにもそのことがわかっているのだろうか。会とは表に出たところだけではない、裏の活動があるのだということを知った今回の会であった。

しかし、ともかくも皆さんが気持ちよく会に参加していただいたことはよかった。


徳島科学史研究会の開催

2008-08-21 11:16:28 | 科学・技術

明後日の8月23日に愛媛大学工学部の41番講義室で表記の研究会が開催される。日本科学史学会の四国支部と共催の年総会である。世話人は私である。

ということで昨日は会場を見に行ってきた。友人のW先生と会場に行って、パソコンを設置してみて、プロジェクターに写るかどうかを確かめてきた。キーボックスをどう開けるかがわからなくて工学部の学務まで聞きに行った。

その指示通りにやってもなかなか開かなかったが、Wさんが3回ほど試行錯誤しているうちにやっと開いた。これで一応会場の方は状況が確認できた。正門の守衛室にも寄って車で来る人があれば、入れてくれるようにと頼んできた。

さて、土曜日の午後うまく会が進行するかどうか。楽しみである。


老齢と暑さ

2008-08-20 13:58:28 | 日記・エッセイ・コラム

先日の15日に兄弟姉妹等の親戚が兄の家に集まった。そのとき兄がいうのに暑いのは若いときには苦にならなかったが、寒いよりも今は苦になるという。妹がそんなことはないだろうといったら、妹の夫と私とが異口同音にいやそうだといったので、みんな年をとると暑さがこたえているのだとわかったらしい。

確かに亡くなる人も寒いときとか暑いときが多い。このごろは病院もエアコンがきいているのでそれほど寒い、暑いは感じなくなってはいる。しかし、それでもまったく感じられないわけではない。それが暑いときと寒いときに老齢の人が亡くなる季節である理由らしい。

いま統計に基づいて話しているわけではないので、 もしかしたら亡くなる人の数は季節にはよらないのかもしれない。統計といえば凶悪犯罪がこのごろ多いと感じる人が多いと思うが、統計によれば最近急に凶悪犯罪が増えたわけではないらしい。むしろ過去の方が凶悪犯罪は多かったという。でも統計とは別に人の感じる、感じ方はちがう。いまでは全国どこで凶悪犯罪があればテレビや新聞または週刊誌に取り上げられる。そうすると世間的には凶悪犯罪が増加しているような気がする。統計と感じ方とは違うのだ。もっともそういうことを政治に悪用される可能性はある。

話は変わるが、暑さと関係したことでいうとドイツではいまもエアコンがあるのはデパートのような特別なところに限れられている。普通の家ではエアコンはない。というのはドイツでももちろん暑いときもあるのだが、それほど長くは続かないからである。それに湿度が低いためにさらっとしている。暖房のない家はないが、エアコンは普通はいらない。

しかし、それでもエアコンのあるところも少しづつではあるが、増えてきているらしい。エアコン、シャワートイレ、カラオケ、アニメ、マンガは日本の誇るべき文化的産物だ。


シェーマと数学

2008-08-19 11:25:00 | 数学

進んだ段階の数学ならイメージはそれを学んでいる人または研究している人が勝手に作ればよい。

しかし、義務教育の中学校とか準義務教育の高校の数学とかになるとそういう風にイメージをつくれる人ばかりではないだろう。

そこで教育ではやはりイメージをつかませる必要があるが、なかなかイメージがつかめない。

いや、教える方がイメージとして提供しようとするものをまずもっていない。これが大問題なのだが、やはり画期的なものは今のところないように思われる。

それでも整式については文字タイルを用いた教え方があるが、これが平方根とか立方根とかはたまた対数となれば、どういうイメージを描けるのか。

いろいろな試みはあるのであろうが、私自身に「そうだ」とか「なるほど」とか「これだ」と言っていいと思われるイメージは思い浮かばない。

アイディアの貧困なのだが、そこをなんとかしないとやはりいけない。対数についての考えの一つは森毅先生の手作り対数であるが、これをイメージ化する方法がまだぴんとこない。

森先生はなんとかイメージ化しようと本に書いておられるのだが、私の方がついていけてないという状況である。

遠山啓の「数学の広場」シリーズ(ほるぷ)があって、昔、子どもが中学とか高校に行っていたころ、学校の図書館で借りてきてもらって読んだことがあり、これはそのときは楽しかった。

数年前にこれを手に入れたが、いまのところ読む気がしない。もっとカラフルで楽しい本だったように思うが、どうもそうではなさそうである。

2進法とか、7進法とかの絵があってなるほどと思ったものだが、それがどこにあるのか見つからない。少しひまになったら、もう一度読み直してみようか。


インフレターゲット政策

2008-08-18 12:42:05 | 社会・経済

現在の経済と政治の閉塞感を打ち破る方法はあまりない。800兆円を越える国債の発行額は国民に重く負いかぶさっている。赤字国債を発行しないで国の財政のできることはあまりない。そうすると年金や医療費の抑制といった福祉の切捨てが中心となる。それが嫌なら消費税をあげるしかないという。

消費税をあげるとしても確かに社会福祉がよくなるのであればまだいいが、現在の政府はそういう保証をしているわけではない。消費税の増税によって太った予算を福祉に使うとは限らないそういった危惧を国民の多くはもっている。その点をはっきりさせないでは消費税の増税は国民の理解を得られないだろう。

ところが800兆円にも上る国債の残高を減らす妙案がないわけではないらしい。それがインフレターゲット政策らしい。年2~3%のきわめてコントロールされた状態のインフレ政策をきっちととることができると800兆の国債赤字は将来的には解消可能だという。

現在の政府はそういう政策をとってはいないが、そういう政策をとるべきだという考えは底流としてある。もちろん、800兆円の赤字をよしとした、いままでの政府の政策を検証すべきだと思うし、その責任の所在ははっきりとさせるべきだと思うが、しかしもうできてしまったことはある意味で仕方がない。

それにしてもそういうことが机の上の計算のようにうまく実現するのかどうかはほんとうのところはわからない。そして日本ではひどいインフレに苦しめられた経験があるので、インフレと聞くとアレルギー反応を起こす。

しかし、これからの国民の大多数の収入は減っても増えはしない。その上にこの物価高である。世界の財政当局は原油の価格暴騰になすすべもない。30年くらい前にある経済学者から聞いたところでは国が財政と金融をコントロールする方法を手に入れたのではないかと言っていたが、それはどうなってしまったか。

あるブログでインフレターゲット政策の成否がいろいろと論じられる土壌はそういうところにあると思われる。


金メダル

2008-08-17 14:25:10 | スポーツ

北京オリンピックが行われている。日本人の金メダリストは先回のアテネに引き続き連覇をした人もいるが、4年の間に挫折を味わったことのある人が多い。そういう曲折を経て再度金メダルに輝くというのもこれは初めてメダルをとるのよりも大変だろう。

また、金メダルがとれなかったからといって価値がないわけではない。オリンピックに出ることでさえとても努力のいることなのだから。マラソンの野口みずき選手のけがのための欠場はいかにオリンピックに出るということが重圧になっているかということを示している。

それで、早々に出場取りやめの決定を下したことに対して関係者に敬意を表したい。こういったことは国民の期待もあるかもしれないが、無理をするべきではない。たかがスポーツである。

谷亮子選手の銅メダルはそういう意味で価値があった。これは子育てがそんなに簡単ではないことを示しているし、それでも挑戦をした谷選手は柔道が好きなのであろう。もちろん、家族の理解も重要である。JOCは金メダルの個数を5+アルファと予測していたが、それは当たったようである。

これはテニスの仲間が言っていたことだが、オリンピックと高校野球の時期とが重なっているが、今年は高校野球に関心が向かない。これは仕方がないであろう。しかし、ここにも努力をずっと傾けた若者たちがいる。


「対数とは何か」のエッセイ

2008-08-16 13:45:21 | 数学

「対数とは何か」についてのエッセイを書いている。

いまはゴールドスタインの「古典力学」〔吉岡書店)の下巻の訳の途中だが、11章を除いて出版社に訳をすでに完成させて送った。

11章の訳にすぐとりかかるべきなのだが、8月23日に徳島科学史研究会と日本科学史学会の四国支部年総会が愛媛大学工学部の講義室であるので、その講演の準備を兼ねている。

この頃だからパワーポイントで講演を行うのだが、残念ながら私はまだこのパワーポイントに慣れていない。それで早くパワーポイントをその講演のためにつくらなければならない。しかし、それは後に回してエッセイを書いている。

これはゴールドスタインの訳の途中の気晴らしの意味もある。気晴らしといえば、イタリア語でdivertissement(気晴らし)という語があり、これはモーツアルトの曲の題名でもある。

いつかこのdivertissement(ディベルティスマンと発音する)のCDを買いたいと思いつつ、まだ買っていない。

今朝妻に対数と指数とは同じものだということを説明するのに30分ぐらいかかったが、このことを最後には了解してくれた。これが予定された講演のテーマである。

(2011.2.14 付記)「対数とはなにか」はすでに徳島科学史雑誌に発表しているが、このpdfファイルをほしい人はメールをしてくだされば、お送りすることができる。


終戦記念日

2008-08-15 10:40:34 | 日記・エッセイ・コラム

何か天皇の大事なラジオ放送があるというので、I 市の今のハローワークのところに放送を聞きにいった。なにかもぐもぐというようなラジオからの天皇の声を頭を垂れて聞いたが、まったく聞き取れなかった。もっとも聞き取れても言葉を知らない幼児だからわからないはずである。

父が夕方会社から帰ってきて戦争に負けたことを知った。軍国少年ではあったけれど、空襲がなくなるなと単純に考えたことだけを覚えているが、空虚感とかは感じるほど年はいっていなかった。それよりも日ごろの空腹の方が問題だったかもしれない。

朝鮮から1945年の2月に帰り、人に貸していた自宅が空くまで知り合いの家に間借りをして生活していたので、4月になって自宅に引越しをして落ち着いた後に、幼稚園に1ヶ月遅れて入り、少し通ったが、空襲等もあり、そのうちに幼稚園も焼夷弾で焼けてしまってなくなった。

だから幼稚園生活は1ヶ月くらい通っただけである。幼稚園に行かなかったことで自分自身としては別に情緒に欠けているとか思ったことはない。いずれにしても小さくても自分では気持ちは子どもではなかった。それで子どもらしさに欠けた子どもであった。

二人の兄がいたから、字とかも知らず知らずに学んだ。兄二人は小学校に入って字の書き方等を母から手取り足取り教えられたが、私の時にはもうそういうことはなかった。腹に回虫をもっていたらしくて貧血で少し歩くと息がぜいぜいといった。その回虫は小学生の2年生か3年生のときにとてもいい回虫の駆除薬を飲んで駆除した後にやっと元気になってきた。

いまとちがって野菜等にも下肥が肥料として使われていたので、戦中戦後の時期には日本人の多くが回虫に悩まされた。全国中みんな貧乏で家もなく、古着を大事に着ていた。

いつだったか、10年以上前だが京都で知り合った中国人の物理学者を松山に招待したことがあったが、そのときにその学者が中国の現状をこぼしたので、いや日本も40年前は無残なものだったですよと慰めた。また10年位したら一挙によくなりますといったが、現に中国の発展はめざましい。

中国も報道の自由等をめぐっていろいろ議論はあるが、いずれはそういうことも昔話となる日が来るのは私の生きている間には実現しないとしても子どもたちが私の年齢になるくらいには実現をしているのではないだろうか。なんでも息の長い視点が必要である。