物理と数学:老人のつぶやき

物理とか数学とかに関した、気ままな話題とか日常の生活で思ったことや感じたこと、自分がおもしろく思ったことを綴る。

大不況をめぐって

2009-11-30 11:41:03 | 国際・政治

「大不況をめぐって」という題での土曜日の雑談会だったが、リポーターのNさん曰く。ものづくりをほったらかして金融だけで利潤を上げようとしたアメリカ資本の失敗ではないか。やはりものづくりを基盤にもなたない経済は危ういとのことである。

経済はもうこれからは好景気というのは期待できないが、それでも買い替え需要はなくならないし、生活の変化によって少しづつ買うものが変わっていく。たとえば、エコ的な車に変わるとかである。

また、日本においては縦割り行政がやはり問題ではなかろうかというようなことが発言された。


第一回雑談会開催

2009-11-28 16:40:18 | 日記・エッセイ・コラム

第一回の雑談会をいま終えたところである。Nさんのリポートもよかったが、ただ時間が一時間のトークでは短すぎた。それで次回の12月26日も同じテーマで続きをすることにした。

討論も活発で広範な議論が出たと思う。大体においてもっともな意見であったと思うが、ちょっとした変わった意見に異論が出るということもあった。大不況ということがテーマであったために議論をしやすかったということもあるだろう。みんな誰も発言をしないという人はいなかった。

参加した人がそれぞれの意見を持った人であり、自分の判断で物事を判断するという気構えをもった人だということがいいように思う。誰かの考えに依存した考えというような意見はなかったように思う。

次回以降も雑談会は続く。次回以降が楽しみである。 


小泉文夫

2009-11-28 13:42:30 | 音楽

「小泉文夫は天才だ」と音楽にも造詣が深いドイツ語学者のMさんから聞いたのはもうかなり前のことである。鶴見俊輔さんがエッセイで書いていたのではどうも天才とまでは感じなかったが、優れた学者であるとは感じた。

小泉文夫は比較的若くして亡くなったらしい。50代の半ばで。私は音楽に暗いので小泉文夫の天才については判定のしようがない。ただ、独特の音楽観を私たちに与えたことは間違いがないのだろう。

今日の新聞に歌謡曲と童歌というか民謡というか、そういうものと同じリズムをもっていたという話が出ていたが、その小泉文夫の指摘は新しい。


したいこと

2009-11-27 12:55:12 | 日記・エッセイ・コラム

「したいこと、しなければならないこと」のリストを挙げておく。

まず遅れている、(1)「数学・物理通信」の発行、つぎに(2)「sin xの級数展開のニュートンの方法」について書く。さらに、(3)「ある連立方程式の解法」の記述、(4)「対数はなぜわかリにくいか」について書く。(5)「超幾何関数2」を書く。(6)「平方根の近似値」の計算法、(7)「公約数の求め方」、等である。

これに(1)のつぎに急を要するのはもちろんe-Learningの三角関数のコンテンツと微積分のコンテンツがある。それに代数のコンテンツの見直し。これらは来年1月末までの期限付き。また四元数についての本を書くこと。こちらの方は厳格な期限はないが、来年の4月頃までらしい。


なぜ対数はわかりにくいのか

2009-11-26 11:04:23 | 数学

「なぜ対数はわかりにくいのか」と言われて数学のよくできる人はそんなことは事実ではないと言われるだろう。だが、対数はわかりにくいという印象を高校生や大学生に与えているのは事実であるようだ。

私の現在の判断では対数がわかりにくいのはそれを表す記号のせいだとしか思えない。

y=log x という記号はなんだか難しげだ。その点については私はいつもこれは命名の仕方だから、なぜアインシュタインがアルバート・アインシュタインというのかと同じことだと答えている。

しかし、それではことがすまないらしい。ではどうしたらいいのか。途方にくれるばかりである。

y=log_{a} xは結局a^{y}=xと数学的に同値であることが知られているので、対数がわからない人は指数もわからないのだろうか。どうもそうとは思えない。だとすれば、結局y=log_{a} xという記号のせいだとしか思えない。

そのうちに何かいい教え方が考え出されるのであろうが、それまではいつでも y=log_{a} xと数学的に同値の表現である、a^{y}=xに帰って学生に理解をしてもらうようにするしかないだろう。

数学教育協議会でも対数を教えるのに有効なシェ-マはまだ考え出されていないように思う。

指数と対数は同じといったが、指数関数と対数関数とは互いに逆関数であり、同じものではない。念のため。

対数が指数であることを示すために、a^{log _{a}x}=xであること有効に活用する方法はないだろうか。


恒例のこと

2009-11-25 13:07:54 | 日記・エッセイ・コラム

月末近くになるといつもE大学の生協書籍部に予約している雑誌とか注文した本とかを取りに行く。これは車で行って、生協関係の駐車場に数分駐車して雑誌や本を受け取って帰る。ときどきティシュをかったり、紅茶を買ったりするがいつもほとんど滞在時間は短い。この書店でときどき知人や友人に会ったりするが、まあそれは稀である。

あまり人と会わないのはいけないということで、ときどき友人や知人で集まって雑談をしようではないかということで雑談会を今月から始めることにした。月に一回の月末の土曜日の午後2時間だけ集まって話をするということでお茶菓子も飲み物も出さない。

時間も2時間に限る。話が途中でも時間が来れば終わるという約束である。これはもし感情的に行き違いがあっても議論が足りなくても2時間で終わるということで、参加者の行き過ぎた感情的な行き違いを防止しようということである。

私は他に毎週火曜日の夜のテニスを行っている。これは妻がやっていたのをただ引き継いだだけである。会費とボールの管理をしている。だから、必ず自分が行かなければならない。

私がテニスが上手だから世話役をやっているのではない。むしろ、私が一番下手で落ちこぼれている。だが、その私が世話役だから、むしろ長続きをしているのかもしれない。会費も月2000円であって高くはないのだが、それでもメンバーの入れ替われりは必然的に起こる。だが、なんとか7人とか8人の人数を確保できている。


昨日はお休み

2009-11-24 16:49:28 | 日記・エッセイ・コラム

昨日は勤労感謝の日だったので、ブログもお休みでした。昨日は今日とはちがって晴れた暖かい日だったので自宅のリビングのコタツで日の光を浴びて暖かさを楽しみました。もっとも前にも言ったように日が当たると読書には適していない。

それで、午後にはレースのカーテンを引いて、二階の本棚から取り出してきた本を読みました。とはいっても午後は大部分お昼寝をしてしまいました。

夜はそのせいか遅くまで起きて以前に買った本を読んだので夜更かしになりました。今日はまた一転して天気がわるく、うすら寒い日です。e-Learningの代数の最後のコンテンツをつくりあげました。


シャワートイレが壊れた?

2009-11-22 13:06:10 | 日記・エッセイ・コラム

日本の誇るものにシャワートイレと漫画アニメがある。

シャワートイレは我が家にもあるが、それが昨日から機能しなくなった。シャワートイレでは便座も暖めるのでこれがつかないと冷たくてかなわない。それでどうしようかと思っていたら、洗面所のライトもつかないことに気がついた。電灯の寿命が来たのだと思った。大体悪いことは重なって起こる。

これらが関連しているとは思わなかったのだが、朝、同じコンセントから電気カミソリに充電しようとしたら、これも電気が入らない。あれっと思って納戸の戸の上の配電盤を開けて見たら、案の定一箇所スイッチが落ちていた。そのテンパルスイッチを上げてから、シャワートイレを見に行ったら、すべてが点灯していた。

なんだ、電源のスイッチが落ちていただけか。それで無事にシャワートイレは復旧した。もちろん、電気カミソリの充電もできるようになった。

妻はいつも私を機械オンチだと馬鹿にしているので、今日は帰ってきたら自慢してやろう。「簡単な推理だよ。ワトソン君って」

昨日庭の手入れに庭園の業者さんが来たので、そのときに電気を使う機械を使って容量オーバーでテンパルスイッチが切れたのだろう。前にもこういうことがあっただろうが、覚えていなかった。


独創は少数派から

2009-11-21 14:37:16 | 学問

もう50年以上昔になるのだが、しばらくの間、ある研究所の非常勤講師を勤めていた。そこである高名な学者から聞いた話だが、なんでも独創性をもつ者は圧倒的な少数派であって、多数派を占めてはいないということだった。この学者は自分がいつも少数派でいることを誇りに思っていた。

独創的な考えは少数派から生まれる。それがいつかは多数派になっていくとしても初めから多数派であることはない。この強い信念を持てるということは多分その人の自身の経験に深く根ざしたものであろう。だから天才はいつでも孤独に耐えられるのだろう。そう感じたことであった。

天才といわれる人の中でもアインシュタインとかディラックとかが孤独の影が強い。もちろん彼らがいつまでも少数派でいたわけではないが、やはり研究の姿勢として孤独の影をもっている。

急にスケールが小さくなって申し訳がないが、私自身のつくっているe-Learnigのコンテンツにしても誰がその作成を助けてくれるわけでもない。入力を手伝ってくれている学生とE大学の中で窓口になってくれている友人がいるだけだ。だが、常に思っている。孤独だからつまらないということはないのだと。

私のもつような構想をもつ人が少ないのだろうと思っている。能力のある人も優秀な人もたくさんいる。だが、私のような発想の人は少ないのだ。だから、別に孤独に作業していることを嘆いたりはしない。


光の二重性

2009-11-20 11:39:22 | 物理学

光の二重性について「大学の物理教育」に論文が出ていた。

私たちのいままでの理解では光はあるときは粒子性が現れ、あるときは波動性が現れる。

ところがそうではなくて光を波動に扱っても粒子として扱っても同じ結果が現れるということをCompton効果で示されたのだと思うが、これが腑に落ちない。

というのは光の波動性は古典的には光の回折、干渉、偏光で示されている。これも粒子として光を扱うことで説明できるのだろうか。現代の物理の実験家は光をほとんど粒子として考えている。

私などもどちらかというと光を粒子として考えてきた。ただ、この光の粒子をある場所に見つける確率は確率波による。確率振幅の2乗がある光の粒子を見つける確率を与える。だが、一つ一つの光は粒子であるという描像である。

波動性は確率波によると考えていた。この理解に達したのはハイトラーの「初等量子力学」(共立)によってだった。そして原島の「初等量子力学」(裳華房)でダメ押しをされた。

この描像でいいと長年思ってきたが、いつだったか江沢洋先生がそうではないというようなことを書かれていたので、私の「粒子性と波動性の理解がまだ十分ではないのだな」と思うようになった。

というかそれまでの素粒子の粒子性と波動性の理解が十分できていたと思う意識に隙間風が吹くようになった。

場の理論はもともと波動的であるが、これから粒子性を取り戻すのは「場の量子化」という操作によるという見解を教えてくれたのは私の先生の一人のOさんだった。

これは彼が北京物理夏の学校へのために準備した「素粒子の複合模型」の講義録を私たちに講義してくれたときにそういう見解を述べられたので、「はっ」としたものである。

今度の「大学の物理教育」の論文は「シルヴィアの量子力学」という本に触発されたらしい。

この「シルヴィアの量子力学」はドイツの高校の女子学生が書いたというので、波紋を呼んだ書である。私もその訳書を買ってもっているが、読む暇がない。なかなか高度な書である。

しかし、こんな書を高校生が書いたというのはまさに驚きであった。


演習問題の解答

2009-11-19 12:33:08 | 数学

e-Learningの演習問題の解答を、コンテンツの入力をしてくれている学生がつくってくれたが、いくつかの解答に自信がないということで問題の作成者である私のところへ解答の依頼がきた。

問題をつくった本人であるから、解答の作成ができないわけではないが、まだ現在コンテンツを作成中なのでその作成を中断したくないという気があったが、どうもそうもいかないらしい。

それで今日から数日かけて解答を作成しようと思っている。学生が解答の自信がないと言ったのには訳がある。それは私がいくつかの文献を読んでつくった問題だったからその意図とか何かが汲み取りにくかったのだろう。

また、ちょっと簡単そうに見えてなかなか一筋縄ではいかない問題もある。

これは4元1次の連立方程式なのだが、これは実は「四元数の発見」のエッセイを書いたときに出てきた連立方程式である。

問題としては中学生でもできそうな問題なのだが、かなり特殊な性質をつかって問題を解くので、その性質を発見することはかなり難しいだろう。

この演習問題がクイズ的要素も含んでいるので、難しいのである。もちろん、これは四元数の観点からは難しくはない。しかし、四元数などという概念は一般の人には知られていない。


解析接続

2009-11-18 10:49:18 | 数学

解析接続とは例えばJRの電車の他の線への接続みたいな用語だが、ちょっとちがう。

高木貞治の名著である、『解析概論』(岩波書店)では解析接続のことを解析的延長(analytic continuation)といわれている。

私は「解析接続とはある領域で定義された関数を他の領域に拡張することだ」と考えているが、これが本当の理解なのかはよくはわからない。その解析接続について解説したサイトがあるのを最近知った。

説明は初等的なのだが、ちょっと眼からうろこが落ちたという感じがした。その記事のコメントに「解析接続は無限級数の和をとる以外にもありそうですね」とあった。

これはその通りでいくつかの方法がある。ところがその例をあげた本が少ないように思う。サイトの著者に私の知っていることを述べ、「これについて調べてくださいませんか」とコメントをしたのだが、この人も会社勤めで忙しそうだ。だから自分の問題意識は自分で解決する以外に道はなさそうだ。

解析接続はこれからリーマン面が導入されたりするということで、大事な概念らしいが、初等的な関数論(このごろは関数論は複素解析というらしい)の本にはあまり載っていない。能代清先生の本に『解析接続』(共立出版)と題する本があるのだが、この本は古本で2万円の値がついていた(付記参照)。

もっとも私はこの本の旧版(岩波書店版)をあるところで本当に安く手に入れたのが、これがまた古くて本でカビが生えそうな本でなかなか読む気が起きない。

(2013.12.25付記) この能代先生の上記の書の比較的新しい版もあるとか聞いていたので、いつかE大学図書館に立ち寄ったときにその書を開いてみたが、どうも解析接続の例示が十分ではないという判断をした。

これはこの書をちらっと見ただけの話なので、間違っているかもしれないが、多分その評価は間違っていないと思う。

 

(2023.3.2付記)

この後にも解析接続のことについてはこのブログに書いたことがあるが、解析接続の方法について述べた書籍は金子晃さんの『複素関数論講義』(サイエンス社)と松田哲さんの『複素関数』(岩波書店)が詳しいことを知ってほしい。

もっとも、もっと豊富な例を書いた書籍とかエッセイがほしいところではある。それはその問題意識をもっている私自身がこのことをエッセイに書くしかないのかもしれないなどと思うこのごろである。

(2023.12.14付記)能代清『解析接続入門』(共立出版)は他に類書がないので、よく読んでみる必要があるのではないかと思っている。

ブログの種

2009-11-17 10:47:46 | 日記・エッセイ・コラム

ブログの種を見つけるのはなかなか難しい。前にも書いたことだと思うが、毎日毎日ブログを書くのはなかなかしんどいことである。だから、ブログを書き始めた頃は少しブログの種をとっておこうとした。

だが、このごろはそのようなことを基本的にはしないことにした。というのはとっておいたつもりのブログの種を忘れてしまうようになったからである。また、しばらくすればまた思い出すのだろうが、そのブログの種の「とりおき」が結局できない。それなら、覚えているうちに書いておこうというわけである。

昨日も2件のブログを書いたが、それは日曜日に映画を見に行って、そのときのメモを使ってブログを書いた。

認知症ではまだないと思うが、認知症気味なのかもしれない。それで、こういうブログを書くことも自分自身のために書いているので、もし読んでくださっている方が居られるなら、申し訳ないことである。

ともかくもブログの種がなくなってしまってもいいから書けるときにどんどん書こうという姿勢でいる。


回文

2009-11-16 10:57:09 | 日記・エッセイ・コラム

回文とは上から読んでも下から読んでも同じになる文である。これをつくる名人もいるようだが、私にはとてもできる芸当ではない。

また現役で大学に勤めていたときだが、乗り換えの駅で中島という海水浴場の広告をみた。それには「まじかななかじま(間近かな中島)」というのをみた。

そのときはよく分からなかったのだが、これは松山市からもちろん中島が近いというだけではなく、回文なのだとわかるには少し時間がかかった。

そういえば、昨日映画を見に行ったが、映画の上映を主催している団体はマネキネマという。これも上から読んでも下から読んでも同じである。キネマに前にマネをつけてマネキネマとしたとは想像できたが、マネというのがわからない。

上映会のときに配布されたパンフに、「キネマにおマネキします」とあったので、その由来がやっとわかった。おマネキという言葉をキネマの前につけてマネキネマという団体名ができたのだと。

そういえば、退職直前に学内で見た演劇の題名が怪人なんとかという長い題だっただったのだが、それが回文になっていた。それは思い出せないのでそれを短くしたバージョンだが、「怪人爺か」というのをつくった。カタカナで書いてみるとカイジンジイカとなる。

有名なものではタケヤガヤケタというのがある。また同僚だった先輩教授が子どもさんの宿題のために必死になって考えたというのが、タイヤキヤイタだといっていた。

回文とは関係がないが、昔読んだソーヤーの「数学へのプレリュード」(みすず書房)にはSeptemberという語が好きな子どものことが出てきたと思う。

Septemberは真ん中のeを中心にして左右に2つ子音が続き、eが来て、その両側に子音sとrが来る。そういうパターンに敏感な人はすばらしい。

すなわち、その子は *e**e**e* というパータンを感じ取った訳である。

ちなみにseptはフランス語では7を意味する。このフランス語ではseptのpは読まなくてセットとカタカナで書くとなる。もちろん英語ではセプテンバーとpを読む。このごろではSeptember 11は有名である。911というのはこのSeptember 11のこともさすが、一方で日本の救急や消防の119はアメリカは911のはずである。

(2013.6.15付記) 回文というこのブログに昨日アクセスがあったので、読み返したらどうも意味がはっきりしないところがSeptemberのところにあったので、書き直しと追加をした後で、どうだったかなと「数学へのプレリュード」を見たら、私の補足の内容があたっていた。

昔読んだときのその内容をよく覚えているはずがないから、勝手に書き足したのだが、それはやはりソーヤーの主張と一致していた。この箇所はp.20にある。

しかし、くだらないことだけ覚えているものだ。


文化的な日々

2009-11-16 10:26:52 | 日記・エッセイ・コラム

土曜と日曜とは久しぶりに文化的な日であった。土曜日は「秋の夜の調べ」という音楽関係の会で愛媛ヴォーカルグループ研究演奏会であった。イタリア語の歌、フランス語の歌、日本語の歌等を聞いた。

昨日の日曜日はコミセン(コミュニティセンター)に行って、800円で田中絹代さん主演の古い映画を3本続けてみた。最後の映画は「楢山節考」でこれは第一回の映画化だそうである。

現在でいえば、後期高齢者の切捨てというような話であるが、それを「ほんとんどおばあちゃんやおじいちゃんが見ているというのは滑稽だね」というのが妻の言である。そういえば、若い人はあまり見かけなかった。

田中絹代は有名な女優さんだが、私は顔をまったく覚えていなかったし、これからまたもし田中絹代の出ている映画を見ても田中絹代だと気づかないだろう。そういう人である。