神田川 「まる歩き」 しちゃいます!!

ー神田川水系、支流はもちろん、旧水路、廃水路、全部 「まる歩き」ー

千川通り3

2019-06-27 06:45:39 | 谷端川・小石川3

 小石川沿いに出来た町屋のうち、もっとも北にあるのが橋戸町、石橋を挟んで隣接していたのが戸崎町です。石橋は「長九尺余巾八尺余」の規模で、橋戸町の地頭伝通院の一手持でした。「東京府志料」の橋梁リストでは、「小石川久堅町ニアリ無名板橋ナリ」となっていますが、明治に入り成立した町名から久堅橋と呼ばれるようになります。なお、橋戸町の町名はこの橋に由来します。「町内中程に古来より橋有之候に付橋戸町と相唱候」(「御府内備考」)

 

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    ・ 千川通り  植物園前交差点です。右手に見えるのが吹上坂の上り口で、橋戸町の由来となった石橋が架かっていました。なお、正面右手は共同印刷ですが、→ 「東京近傍図」には池が描かれています。  

 一方、戸崎町の由来に関する興味深い伝承が、やはり「御府内備考」に収録されています。「往古此辺一円沼川に有之、小石川の流此辺の沼水落込、小川町辺え相流候由申伝、白山御殿御取立以後も通船有之、此辺迄は遠浅にて着船不申故・・・・」 以下長くなるので要約すると、数隻の船が白山御殿に向かって舳先を並べ、荷物の積み下ろしをしていた様から、舳先(へさき)町、その後戸崎(とさき)町となったというものです。

 

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    ・ 吹上坂  「坂 長三拾間、幅弐間半、右当町(善仁寺門前)北の方松平播磨守様御屋敷脇、宗慶寺前に有之候、右御屋敷内に有之候極楽水、高き所より湧吹上水とも申候」(「御府内備考」) 

 一方、右手は新たに開削された播磨坂です。台上の春日通りに至る、意味不明なほどの幅広道路ですが、戦災復興により外苑東通りと結ばれるはずだった、幻の環状3号線の一部として開削されました。坂名は常陸府中藩二万石、松平播磨守によっており、一万六千坪余の上屋敷及び抱え屋敷を有していました。なお、中央分離帯や坂周辺に植えられた150本近い桜並木は、今では区内有数のお花見スポットに成長、→ 「文京さくらまつり」の舞台となっています。