神田川 「まる歩き」 しちゃいます!!

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祗園橋(氷川橋)

2019-06-25 06:04:02 | 谷端川・小石川3

 簸川神社のところでUPの→ 「江戸名所図会」の左下隅に、小石川に架かる祗園橋が描かれています。「続江戸砂子」(享保20年 1735年)によると、「七八間の土橋」でした。ただ、「新編武蔵風土記稿」にその名はなく、小石川村のところで「橋二を架す各長二間、一は板橋にて氷川橋と唱へ、一は石橋にて猫股橋と称す」とあるうち、氷川橋のことと思われます。それが、「東京府志料」の橋梁リストでは再び祗園橋となっていて、「板橋長二間半幅四尺 名義詳ナラス」と書かれています。

 

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    ・ 湯立坂  中腹からのショットで、坂下に祇園橋(氷川橋)が架かっていました。左手の茂みは→ 窪町東公園で、坂沿いの細長い公園です。 

 なお、湯立坂の由来に関して、「御府内備考」は「江戸志」を引用しています。「里人の説に、往古はこの坂の下は大河の入江にて、氷川の明神へは河を隔てゝ渡ることを得ず、故に此所の氏子とも此坂にて湯花を奉りしより坂の名となれり」  小石川の入江がこのあたりまで食い込んでいたことは、対岸の網干坂や隣町の戸崎町の地名由来ともかかわり、広く伝承されていたようです。(戸崎町の由来については、該当個所で詳細します。)

 

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    ・ 占春園  湯立坂の北側の段丘斜面にある大名庭園で、園の中央を占める池は落英池、架かる橋は折柳橋と呼ばれていました。現在は自然観察園の一部になっています。

 占春園を含む北側一帯一万数千坪は、陸奥守山藩(福島)二万石、松平家(藩祖は水戸光圀の弟)の上屋敷及び抱屋敷でした。明治36年(1903年)、東京高等師範学校の敷地となりましたが、その後身の東京教育大学が筑波に移転してからは、筑波大付属小学校など関連施設を除くと、段丘上の敷地の大半が教育の森公園となっています。一方、千川通りに近い段丘斜面には、その起伏を利用して大名庭園が造られ、占春園と呼ばれました。青山の池田邸、溜池の黒田邸とともに、江戸の三名園の一つとされたとか。現在は附属小学校の自然観察園ですが、一般にも公開されています。