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天祖神社

2019-06-14 06:55:18 | 谷端川・小石川3

 境内にある由緒書によると、天祖神社の創建は元享年間(1321~24年)、豊島氏中興の祖といわれる景村のとき、巣鴨村鎮守として祀られたと伝えられています。江戸時代、鬼子母神信仰により鬼子母神の娘ともいわれる十羅刹女(じゅうらせつにょ)神が合祀され、明治に入り神仏分離によって天祖神社と改称、今日に至っています。一方、→ 十羅刹女堂は別当だった福蔵寺に属しましたが、同寺が火災で焼失し東福寺と合併したため、現在は東福寺境内に祀られています。

 

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    ・ 「江戸名所図会 / 十羅刹女堂」  見ずらいですが右上隅に藤橋の別名、「乞食橋」とあります。また正面にも橋が架かっていますが、 → 「沿革図書附図」の描く、池からの小流れにかかわるものかもしれません。 

 「新編武蔵風土記稿」が「十羅刹社 鬼子母神を合祀す、村内の鎮守とせり」とし、あるいは「江戸名所図会」が「十羅刹女堂 巣鴨本村、藤橋の川より南の方にあり。別当は真言宗にして福蔵院と号す。里老云、昔此地に鬼子母神の像を安置してありしが、賊の為に奪はれて今は雑司ヶ谷にありと。其説是非知るべからずといへども、云伝ふるに任せて是を載すのみ」と書いているのは、こうした事情によっています。

 

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    ・ 天祖神社  天明年間(1781~89年)造営といわれる旧社殿は、昭和に入って改築を経て、第二次大戦末に空襲で失われました。現在のものは昭和40年代の再建です。

 <藤橋>  王子道に架かる藤橋は旧巣鴨村内最大で、「御府内備考」の数字で「長五間」、「東京府志料」は「板橋長六間幅一間二尺 橋辺藤多キ故ニ名トス」と書いています。→ 「巣鴨村絵図」にももちろん描かれていますが、原本には「コジキバシトモ云」と付記されており、この別名は「江戸名所図会」でも確認できます。なお、「嘉陵紀行」の「新曽妙顕寺詣の記」のなかに、大塚波切不動前から庚申塚に向かう途中、「橋をわたりて行ば、浅茅がもとにかやふく家あるは、乞丐(こつがい)の徒のすめる処なりけり」との一節があります。(3kmほど下流の善光寺坂、沢蔵司稲荷境内に保存された→ 親柱には「ふじはし」とあります。)