神田川 「まる歩き」 しちゃいます!!

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小日向村

2019-02-07 06:41:01 | 神田上水

 「小日向の地は古へ小日向村と号す、・・・・御入国以後は御料にして正保年間は御代官及び町年寄三人の支配たり、明暦二年村内へ町屋を起立せられ、寛文十二年より御代官のみの支配に属し、元禄改には小日向町と記せり、其後次第に町屋増加して、正徳三年町方支配に属し、十一ヶ町に分れて御府内町並となれり、されど其地の貢物は元の如く御代官進退す、然りしより残れる在方分の地五町六段四畝十五歩となれり」 これは、神田川右岸に残った小日向町在方分に関する「新編武蔵風土記稿」の記述ですが、本来は左岸の小日向台地を中心とする地名です。

 

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    ・ 「東京近傍図 / 下谷区」(参謀本部測量局 明治13年測量)の一部を加工したもので、本来の縮尺は1/20000、パソコン上では1/12000ほどです。オレンジ線は区境で大半が文京区、下端が新宿区です。  

 小日向の名前は「北条役帳」に「恒岡弾正忠十六貫五百七十文小日向之内」などとあるのが初出で、地名由来については、「続江戸砂子」(享保20年 1735年 菊岡沾凉)がよく引用されます。「小日向 往古此所は鶴高日向と云人の領地なり。断絶の後古日向の址といふを、いつの比か小日向といひ来れり。上水端鶴高山善仁寺と云一向宗の寺は、此鶴高の開基也」 もっとも、この一節を引用している「新編武蔵風土記稿」も、「其拠を知らず」と否定的な扱いです。なお、小日向の読みは、現在の住居表示では「こひなた」ですが、「こびなた」も優劣つけがたく共存しています。

 

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    ・ 小日向神社  明治2年(1869年)に小日向の鎮守で、日輪寺上にあった氷川神社と、音羽の田中八幡宮が合祀、小日向(こびなた)神社になりました。 

 冒頭の引用文中にあった明暦2年(1656年)起立の町屋が小日向水道町です。関口水道町や金杉水道町と同様、神田上水の定浚いなど、担当個所の維持、管理を負担したことから、水道町の名前が付けられました。当初は他の水道町と同じく江戸の町年寄三人が代官を兼ねていました。町年寄というのは、町奉行の下、町名主の上にあって行政を司る町役人の筆頭で、江戸の場合は御入国当時から世襲の奈良屋、樽屋、喜多村の三家が勤めていました。彼らは元禄6年(1693年)、上水支配が道奉行の所轄となるまで、上水の維持、管理にもかかわっており、芭蕉のところで引用した神田上水の惣払いに関する町触れも、この三人の名前で出されたものです。