神田川 「まる歩き」 しちゃいます!!

ー神田川水系、支流はもちろん、旧水路、廃水路、全部 「まる歩き」ー

関口大洗堰

2019-02-02 06:20:45 | 神田上水

 「堰 神田上水と江戸川の分水口にあり、大洗堰と号し、御普請所なり、石にて築畳み、大さ長十間幅七間の内水口八尺余、側に水番人の住せる小屋あり」(「新編武蔵風土記稿」) 大正8年(1919年)の調査では、「旧堰堤は上幅八間で両側に高さ約二尺の袖石垣があって、中央部に幅八尺、深さ五尺の溝を有し、奥行八間通りを石畳とした石造堰堤」とあり、基本構造は変わっていないようです。この調査の際、水門を鉄製にするなど若干の改修も行ったようですが、結局、大洗堰からの取水は昭和の初めには廃止され、江戸川改修工事によって堰自体も撤去されました。

 

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    ・ 「江戸名所図会 / 目白下大洗堰」  天明6年(1786年)の洪水で崩壊、従来より一尺ほど低くして再建したので、増水時オーバーフローが機能し壊れなくなった旨、本文に記されています。

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    ・ 関口大洗堰跡  江戸川との分岐点の大洗堰は、現大滝橋のやや下流にありました。昭和の初めに大洗堰からの取水は停止され、神田上水の流路を含む細長い区画は、江戸川公園として整備されています。  

 延宝8年(1680年)に深川に移るまでの4年間、松尾芭蕉は当地で神田上水にかかわりました。同年6月11日の町触に、「神田上水の水上の惣払い(大掃除)につき、桃青方へ申し出るように」といった記述があり、桃青は当時の芭蕉の俳号です。この町触から読み取れる芭蕉の仕事は、惣払の受け持ちの打ち合わせ、徹底、記録といったところで、水利、土木の専門職説から雇われ人足説まで諸説ある中で、町年寄の下で働く手代、あるいは水番人あたりと思われます。

 

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