水戸徳川家の初代藩主頼房が当地に屋敷地を拝領したのは寛永6年(1629年)、同年九月には後楽園を含む小石川邸が完成しました。当時の御三家は江戸城内吹上に屋敷があり、明暦の大火(1657年)後、吹上が防火上の理由から空地とされて以降、小石川邸が水戸藩上屋敷となりました。→ 「段彩陰影図」からも見て取れますが、小石川邸は大きく三区画から構成されており、東側の東京ドームのところは、小石川流域を宅地造成したもので、表御殿が置かれました。北側の小石川台上には台御殿が設けられ、その南側の舌状台地の先端は、切り崩されて回遊式庭園(後楽園)が造られました。神田上水は切り崩された小石川台を、迂回することなく東に抜けており、給水範囲を本郷台の裾まで拡大するうえで、不可欠な流路設計だったものと思われます。
- ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。)
- ・ 「参謀本部陸軍部測量局の1/5000実測図(明治16年測量)」 「紙久図や京極堂 古地図CD-ROM」収録の北西部の一部で、同社の基準(72dpi)で掲載、上掲地図のグレー枠の部分です。
- 1. 巻石通りの終点の牛天神下交差点からのショットで、正面の建物のあるブロックから旧水戸藩邸になります。
- 2. 神田上水が後楽園に流れ込む手前です。水戸藩邸当時は裏長屋のあったところです。
- 3. 左折、右折のクランクで上水は後楽園内に流れ込んでいました。
- 4. 上掲写真の塀の内側を振り返っての撮影です。10年ほど前の写真では、空堀の途中から給水されています。