神田川 「まる歩き」 しちゃいます!!

ー神田川水系、支流はもちろん、旧水路、廃水路、全部 「まる歩き」ー

巻石通り2

2019-02-09 06:49:27 | 神田上水

 巻石通りを東に向かっての二回目です。音羽通りから旧水戸藩邸までの神田上水は、明治9年(1887年)頃、水質を保つため暗渠化されました。その際「巻石蓋」と呼ばれる石蓋をかけたことから、巻石通りの名前が生まれました。幅10尺の上水の上に、一枚の平石を渡したのではなく、数個の石をアーチ状に組んで蓋をしたようです。明治初めの「実測図」に描かれているのは、この巻石蓋による暗渠の様子と思われ、橋も撤去されないままになっています。なお、大正の初めには巻石蓋に代わって、直径3尺の鉄管二本が埋められましたが、昭和に入ると、砲兵工廠への給水停止により、神田上水自体の歴史も幕を閉じました。

 

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    ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。)

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    1. 服部坂下です。坂名の由来となった旗本の屋敷跡には、明治に入り→ 小日向神社が祀られました。  

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    2. 大きく左カーブするこのあたりまでが旧小日向水道町でした。この先右手は御持筒組(将軍警護の鉄砲隊)の大縄地です。 

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    3. 一転右カーブです。この先左手は寺町になります。左岸の大縄地ともども、上水の安全確保のための配置なのでしょう。 

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    4. 小日向の地名由来にも出てきた鶴高山善仁寺前に差し掛かります。 

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巻石通り

2019-02-08 06:48:05 | 神田上水

 音羽通りを越えた神田上水を追って、巻石通り(水道通りとも)を東に向かいます。「神田御上水 右者承応二年の頃掘割に相成候由、尤白堀通と相唱申候、右唱訳相知不申候、幅凡五間程、但不同に有之、且西の方関口水道町より当町内の地所に移り、北の方四町程相流、東の方津田外記様御組屋敷の方へ流行申候」「御府内備考」の小日向水道町の記述です。「右唱訳相知不申候」とありますが、白堀というのは素堀と同様、開渠の水路を指す言葉です。なお、承応2年(1653年)の当否については、今回のクールの冒頭で触れたとおりです。

 

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    ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。)

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    1. 江戸川公園を出て音羽通りを越えるところから始めます。正面奥が巻石通りです。  

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    2. 東側の鼠ヶ谷下水(水窪川)と交差します。 

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    3. ほぼ真東に向かう巻石通りです。この右手の神田川(江戸川)までの間が、旧小日向水道町でした。 

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    4. 大日坂の上り口です。坂の中腹にある妙足院大日堂が坂名の由来で、→ 「江戸名所図会」にも描かれています。 

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    5. 文京総合福祉センター前です。センター建設前の調査で神田上水の白堀跡が発掘されました。  

小日向村

2019-02-07 06:41:01 | 神田上水

 「小日向の地は古へ小日向村と号す、・・・・御入国以後は御料にして正保年間は御代官及び町年寄三人の支配たり、明暦二年村内へ町屋を起立せられ、寛文十二年より御代官のみの支配に属し、元禄改には小日向町と記せり、其後次第に町屋増加して、正徳三年町方支配に属し、十一ヶ町に分れて御府内町並となれり、されど其地の貢物は元の如く御代官進退す、然りしより残れる在方分の地五町六段四畝十五歩となれり」 これは、神田川右岸に残った小日向町在方分に関する「新編武蔵風土記稿」の記述ですが、本来は左岸の小日向台地を中心とする地名です。

 

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    ・ 「東京近傍図 / 下谷区」(参謀本部測量局 明治13年測量)の一部を加工したもので、本来の縮尺は1/20000、パソコン上では1/12000ほどです。オレンジ線は区境で大半が文京区、下端が新宿区です。  

 小日向の名前は「北条役帳」に「恒岡弾正忠十六貫五百七十文小日向之内」などとあるのが初出で、地名由来については、「続江戸砂子」(享保20年 1735年 菊岡沾凉)がよく引用されます。「小日向 往古此所は鶴高日向と云人の領地なり。断絶の後古日向の址といふを、いつの比か小日向といひ来れり。上水端鶴高山善仁寺と云一向宗の寺は、此鶴高の開基也」 もっとも、この一節を引用している「新編武蔵風土記稿」も、「其拠を知らず」と否定的な扱いです。なお、小日向の読みは、現在の住居表示では「こひなた」ですが、「こびなた」も優劣つけがたく共存しています。

 

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    ・ 小日向神社  明治2年(1869年)に小日向の鎮守で、日輪寺上にあった氷川神社と、音羽の田中八幡宮が合祀、小日向(こびなた)神社になりました。 

 冒頭の引用文中にあった明暦2年(1656年)起立の町屋が小日向水道町です。関口水道町や金杉水道町と同様、神田上水の定浚いなど、担当個所の維持、管理を負担したことから、水道町の名前が付けられました。当初は他の水道町と同じく江戸の町年寄三人が代官を兼ねていました。町年寄というのは、町奉行の下、町名主の上にあって行政を司る町役人の筆頭で、江戸の場合は御入国当時から世襲の奈良屋、樽屋、喜多村の三家が勤めていました。彼らは元禄6年(1693年)、上水支配が道奉行の所轄となるまで、上水の維持、管理にもかかわっており、芭蕉のところで引用した神田上水の惣払いに関する町触れも、この三人の名前で出されたものです。

 


鼠ヶ谷下水

2019-02-06 06:01:53 | 神田上水

 神田上水は江戸川公園を抜け、音羽通りを越えます。その音羽通りを越える手前で弦巻川と、越えた先で水窪川とクロスします。天和元年(1681年)、五代将軍綱吉が護国寺を創建、その参道として音羽通りを開いた際、通りの両側を流れる人工的な水路となり、共に鼠ヶ谷下水と呼ばれるようになりますが、この大下水は神田上水と交差する際、暗渠となってその下を通過していました。上下水が交差する際は、文字通り上水は上を、下水は下を通るのが基本的なパターンです。

 

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    ・ 「参謀本部陸軍部測量局の1/5000実測図(明治16年測量)」  「紙久図や京極堂 古地図CD-ROM」収録の北西部の一部で、同社の基(72dpi)で掲載しています。

 以下は「御府内備考」の引用で、音羽通りの南端を占める桜木町にかかわるものです。「埋樋二ヶ所 右は東西鼠谷下水落口に而横一間建五尺程有之石に而たゝみ神田御上水並道下共凡七間程相懸り江戸川へ相流落申候・・・・万年樋と相唱申候」 一方、上水の方は谷筋を越えるため、若干の底上げが必要で、中堤三ヶ所が設けられました。その規模は高さ2尺ないし7尺、幅は5尺、これは桜木町の対岸の小日向水道町の記述です。

 

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    ・ 江戸川公園  音羽通り手前の江戸川公園で、高架は首都高5号池袋線です。神田上水はこの付近で、西側の鼠ヶ谷下水(弦巻川)と交差していたものと思われます。 

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    ・ 江戸川橋  音羽通りに架かる江戸川橋の左岸には、東西の鼠ヶ谷下水を代替する雑司ヶ谷、坂下下水道幹線の雨水合流口が口を開いています。手前の開口は江戸川橋分水路の呑口です。

江戸川公園

2019-02-05 06:39:13 | 神田上水

 大洗堰跡から音羽通りまでの神田川左岸は、神田上水跡や段丘斜面を含む、延長500mほどの細長い公園になっています。公園として整備するきっかけとなったのは、明治43年(1910年)の大洪水のあと、大正に入ってから着工された神田川の護岸改修工事でした。完成は大正8年(1919年)ですが、同じ年に公園も開園し、当時の神田川の名前から江戸川公園と名付けられました。(音羽通りに面した公園入口には、「江戸川公園」と表書きのある大きな石碑が建っていますが、裏面には大正14年の日付が刻まれています。)

 

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    ・ 「陸地測量部発行の1/10000地形図(昭和4年第三回修正) / 早稲田」  江戸川公園を薄いグリーンで重ねています。公園開設後も神田上水が一部開渠で併存していたのが分かります。

 さらに、昭和の初めの取水の廃止、大洗堰の撤去や堀割の埋め立てを経て、現在の形に整備されました。江戸川公園といえば、お花見のスポットでもありますが、神田川の拡幅工事に伴い、昭和58年(1983年)に植えられた、比較的新しいものです。なお、神田上水は上水としては明治34年(1901年)に廃止されましたが、その後も、水戸藩邸跡に建てられた砲兵工廠の工業用水として存続、その移転に伴い昭和10年(1935年)頃までには取水が停止されました。

 

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    ・ 江戸川公園  大瀧橋左岸を振り返って撮影しています。江戸川公園のなかで最も幅の広いところで、江戸川と神田上水はこのあたりで分かれていました。

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    ・ 江戸川公園  一休橋の下流の最も幅の狭い個所です。「御府内備考」によると、この付近の江戸川と上水は「高八尺幅五間程」の中堤で隔てられていました。 

関口大洗堰2

2019-02-04 06:42:28 | 神田上水

 以下は「新編武蔵風土記稿」の描く、江戸川と神田上水の分流の様子です。「神田上水堀 北寄りにあり、幅五間余。東の方に至り、中間に堤を築きて二派に分ち、一派は上水となり、一派は堰を設けて江戸川に注けり。上水の流れ分派より五十間許を経て、余水江戸川に沃くもの二あり、一は里俗関口の瀧と称す、幅九尺、一は水幅五尺程瀧壺いと深き故、俗に摺鉢の瀧と称す」 「上水記」付属の大洗堰の平面図をみると、「大洗堰」下流に「小洗堰」および「小吐口」が並んで描かれ、江戸川の対岸にある水車(「持半兵衛」及び「持善左衛門」)まで、二本の懸樋が渡されています。

 

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    ・ 関口大洗堰平面図   水道橋の傍らに設けられた文京区土木部公園緑地課の解説プレートに、「上水記」をベースにしたと思われる関口大洗堰の平面図が掲載されています。

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    ・ 取水口の石柱  大洗堰の取水口に、水量調整のための角落(かくおとし)と呼ばれる板をはめ込むための石柱で、大洗堰の廃止に伴い撤去されたものが保存されています。 

 「御府内備考」の関口水道町のところの記述によると、半兵衛水車は元禄13年(1700年)の稼働で、その規模は「差渡壱丈七尺幅壱尺八寸」、懸樋は「長二十三間横二尺二寸深サ壱尺三寸」とあり、米搗と製粉を業としていました。安永3年(1774年)には、数十メートル下流に善左衛門水車も稼働し、こちらは綿実油絞りのためのものです。また、幕末の文久2年(1862年)には、関口大砲製造所が当地に建設され、砲身に穴を穿つ動力として水車が利用されました。ただ、時代遅れの青銅製大砲だったので、間もなく鉄製大砲製造のための反射炉が、滝野川に建設されることになります。

 

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    ・ 神田川  一休橋から下流方向のショットです。二本の懸樋のうち上流側の半兵衛水車のものは、このあたりに渡されていました。 

関口大洗堰

2019-02-02 06:20:45 | 神田上水

 「堰 神田上水と江戸川の分水口にあり、大洗堰と号し、御普請所なり、石にて築畳み、大さ長十間幅七間の内水口八尺余、側に水番人の住せる小屋あり」(「新編武蔵風土記稿」) 大正8年(1919年)の調査では、「旧堰堤は上幅八間で両側に高さ約二尺の袖石垣があって、中央部に幅八尺、深さ五尺の溝を有し、奥行八間通りを石畳とした石造堰堤」とあり、基本構造は変わっていないようです。この調査の際、水門を鉄製にするなど若干の改修も行ったようですが、結局、大洗堰からの取水は昭和の初めには廃止され、江戸川改修工事によって堰自体も撤去されました。

 

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    ・ 「江戸名所図会 / 目白下大洗堰」  天明6年(1786年)の洪水で崩壊、従来より一尺ほど低くして再建したので、増水時オーバーフローが機能し壊れなくなった旨、本文に記されています。

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    ・ 関口大洗堰跡  江戸川との分岐点の大洗堰は、現大滝橋のやや下流にありました。昭和の初めに大洗堰からの取水は停止され、神田上水の流路を含む細長い区画は、江戸川公園として整備されています。  

 延宝8年(1680年)に深川に移るまでの4年間、松尾芭蕉は当地で神田上水にかかわりました。同年6月11日の町触に、「神田上水の水上の惣払い(大掃除)につき、桃青方へ申し出るように」といった記述があり、桃青は当時の芭蕉の俳号です。この町触から読み取れる芭蕉の仕事は、惣払の受け持ちの打ち合わせ、徹底、記録といったところで、水利、土木の専門職説から雇われ人足説まで諸説ある中で、町年寄の下で働く手代、あるいは水番人あたりと思われます。

 

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神田上水2

2019-02-01 06:27:25 | 神田上水

 神田上水のうち、関口大洗堰以降の人工的な区画についても、その成立年代を確定する史料はありません。「御府内備考」は「神田御上水 幅四間余 右は承応二年之頃掘割に相成候由尤白堀通しと相唱候」と、承応年間(1652~1655年)のこととし、「新編武蔵風土記稿」は、「此上水は御打入の後幾程もなく堀通せられし事は『武徳編年集成』等にも載たり、・・・・今の如く直流となりしは承応二年よりのことなり」と書いていますが、「寛永江戸全図」(1643年頃)や「正保年中江戸絵図」(1644年頃)には、今日確認できるのと同様の掘割が描かれており、開削にしろ直線的な改修にしろ、寛永年間までさかのぼるのは間違いないところです。

 

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    ・ 「寛永江戸全図」  寛永20年(1643年)頃とされる「寛永江戸全図」(之潮刊)をイラスト化しました。右端の茶で囲んだのは水戸藩邸(現小石川後楽園)で、小石川(谷端川)も大下水化しています。 

 承応以前の二つの「江戸図」と、「明暦江戸大絵図」(1657年頃)や → 「寛文図」(1672年)を見比べると、直線的な改修がされているのは、神田上水を分岐した後の江戸川の方で、おそらくそれとの混同があったのでしょう。あるいは承応2年(1653年)は玉川上水の開通した年でもあり、それとの混同の可能性も考えられます。ちなみに、引用した「新編武蔵風土記稿」は小日向古川町にかかわるもので、同町は江戸川が蛇行しているところに、寛文元年(1661年)頃成立ました。町名はこの個所の江戸川の旧名によっています。 

 

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    ・ 小石川後楽園  水戸藩上屋敷(当初は中屋敷)内の庭園、後楽園は成立当初から神田上水の水を利用、明治に入り砲兵工廠用地となってからも、昭和初期まで工業用水として利用がありました。 

 確定的な史料はありませんが、関口以降の掘割が今日確認できるような形で完成したのは、3代将軍家光の治世が始まった、寛永年間(1624~44年)初頭とする説が有力です。関口の地名が文献に登場するのは寛永2年で、関口が大洗堰とかかわっていると考えれば、これも有力な状況証拠となります。また、上述の水戸藩中屋敷の成立は、「水戸紀年」によると寛永6年(1629年)、同年には家光が水元を井の頭池と命名したとの伝承もあり(「江戸名所図会」ほか)、これらは神田上水の完成後のことと考えられるからです。(神田上水の成立を寛永6年、ないし寛永6年頃とする文献も多く、都水道局のホームページでもそうなっています。)