昨日UPした大泉水や大堰川の余水はそのまま南下、園内南際を流れる龍田川、木曽川を経て、小石川御門の上流で神田川に注いでいました。この余水落ちの部分は、築園当初は深く幅もあり、三代将軍家光が小舟で乗り入れたこともあったと、「後楽記事」(元文元年 1736年)は書いています。「御舟入 このなかれ大泉水の末ならひに大井川の末なり。古老の曰、この水むかしは水かさも深く広して舟のかよひもなりたる処なり。昔将軍家大猷公御狩野還御の節はかならす小石川御門前より小舟にめしかへられて御園のうちゑ乗いらせ給ふ処なり。この流百間長屋東辺を出て小石川御門前へ出るなり。近年は水もほそくなり流も狭くなりたるとそ」
- ・ 「参謀本部陸軍部測量局の1/5000実測図(明治17年測量)」 「紙久図や京極堂 古地図CD-ROM」収録の北部の一部で、同社の基準(72dpi)で掲載しています。
- ・ 龍田川 大堰川の流末は左折し、大泉水と南側の築地塀の間を東に向かいます。その前半が龍田川、後半が木曽川と名付けられています。なお、引用文の百間長屋は築地塀の外にありました。
- ・ 内庭 南東の一角はかって書院のあったところで、唐門によって大泉水のあるブロックとは分けられていました。内庭の大半を占める蓮池の水は、→ 寝覚の滝によって木曽川に落ちています。
- ・ 神田川 小石川橋から上流方向で、一帯は市兵衛河岸と呼ばれる荷揚場でした。余水の合流地点には現在、水道橋分水路の吐口が設けられています。