神田川 「まる歩き」 しちゃいます!!

ー神田川水系、支流はもちろん、旧水路、廃水路、全部 「まる歩き」ー

庚申坂と切支丹坂

2019-02-13 06:09:00 | 神田上水

 → 「東京近傍図」にも描かれていますが、今回の谷筋の中央を横断する通りがあります。その両側にあるのが庚申坂、切支丹坂です。「切支丹坂は御用屋敷のわき新道の坂をいへり、わつかの坂なり、世に庚申坂をあやまりて切支丹坂と唱ふ」(「改選江戸志」) 本来は左岸の小石川台に上るのが庚申坂、その対岸の切支丹屋敷にちなんだのが切支丹坂ですが、所在に関しては古地図類でもまちまちで、少なからぬ地図が庚申坂と混同しています。なお、「御府内備考」によると、「切支丹屋舗元表門通り」に獄門橋(幽霊橋)が架かっていました。「東京名所図会」が切支丹坂の説明に、「庚申坂の西、小溝に架したる橋を渡りて」としており、今回の大下水にかかわるものなのでしょう。

 

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    ・ 庚申坂下  谷筋の東縁に沿う道路を北上する途中です。右手に折れると小石川台に上る庚申坂、左手のガード上は東京メトロ小石川車両基地で、丸ノ内線の車両が留置されています。  

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    ・ 切支丹坂  明治に入って開削されたもので、江戸時代の切支丹坂そのものではありません。なお、撮影地点の後方、数メートルが最も低くなっており、小溝に橋が架かっていたあたりと思われます。 

 「切支丹屋敷跡は浅利坂の北の方なり、構内およそ表の通四十八間余は北西の方へかけいり、北の方は六十間余、南の方八十間余、西の奥へいりては三十八間余といへり、昔はことに広かりしを、元禄十四年辛巳二月廿五日、北の方そくはくの地を御家人の宅地に賜へり、今七軒屋敷という」(「御府内備考」) 切支丹屋敷の始まりは正保3年(1646年)、初代の宗門改役、井上筑後守政重の下屋敷内にあった座敷牢に、切支丹を収容したのがきっかけで、享保9年(1724年)に火災で焼失するまで、いわゆる「転び伴天連」を収容、情報集めに用いました。

 

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    ・ 切支丹屋敷跡碑  坂を上った右手の住宅街の一角にあり、傍らには「東京都指定旧跡 切支丹屋敷跡」と書かれた、都教育委員会の解説プレートが立っています。