神田川 「まる歩き」 しちゃいます!!

ー神田川水系、支流はもちろん、旧水路、廃水路、全部 「まる歩き」ー

上高井戸右岸

2017-10-31 06:37:45 | 神田川2

 久我山村境の紺屋堰で分岐、右岸段丘に沿っていた用水は、錦橋とやなぎ橋の間で本流に戻っていました。→ 「段彩陰影図」からも読み取れるように、右岸段丘が迫ってきて流路を失ったためです。ただ、すぐに段丘が後退し始めるため、100mもたたないところに堰が設けられ、右岸に再分流していました。この分流は途中、本流からの助水を得ながら下高井戸村へと至ります。だいぶ長いものなので、とりあえず村境までを数回に分けて扱う予定です。

 

Kamitau1

    ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。) 

Kamitaus22

    ・ 「昭和22年米軍撮影の空中写真」  上掲地図のグレー枠の部分です。同一個所に同一番号を振っています。

0110a0110b

  • 1. やなぎ橋の右岸に半月状のスペースがあります。段丘沿いに蛇行する本流の跡で、そこから右岸に分岐していました。 
  • 0110c

  • 2. この幅広の道路は昭和30年代中ごろ、左手に見える都営アパート造成時に出来たもので、その際水路は埋め立てられました。 
  • 0110d0110e

  • 3. 右カーブで環八通りを越えます。正面奥のビルの隙間へと連続します。 
  •  <山中堰>  この分流をもたらした堰は山中堰と呼ばれていました。「杉並の通称地名」(平成4年 杉並区教育委員会)に収録され、「昭和30年ごろまで呼んだ。神田川の用水堰があって沿岸水田に灌漑用水を引いた取入口である」と書かれています。また、近くに農業用の橋がかかり、山中橋と呼ばれていました。同書には書かれていませんが、山中は「新編武蔵風土記稿」に「村の中程を云」と書かれた小名で、「杉並近世絵図」(平成5年 杉並区教育委員会)に収録された→ 「上高井戸村絵図」でも、上流の字鍛冶屋敷と下流の字築田の間の水田に「字山中」と書き込みがあります。