「井ノ頭上水 西北の方久ヶ山村より入、下高井戸宿に達す、水路堀幅多摩川上水に同じ」(「新編武蔵風土記稿」) 多摩川上水に関しては「村内を流るゝこと廿一町許、堀幅三間」となっています。下掲「村絵図」に見るように、上高井戸村の田圃は神田川流域に限られていました。久我山村と同様、本流(大川)の左右に用水(小川)が並行し、その幅は100~200m、延長は「風土記稿」に「廿一町許」とありますが、おおよそ2km、面積は「東京府志料」の数字で二十一町七反余でした。ちなみに畑は百七十八町以上なので、久我山村と同様「陸田多くて水田少し」です。
- ・ 「上高井戸村絵図」 「杉並近世絵図」(平成5年 杉並区教育委員会)に収録された「上高井戸村絵図」を元にしています。なお、元図は現人見街道以北が一部欠落しています。
「村絵図」には描かれていませんが、上高井戸村にもいくつかの堰が設けられ、左右に田用水を分岐していました。現在確認できるのは、上流から紺屋堰、百閒堰、山中堰、弥左衛門堰(池袋堰)の四つです。うち、久我山村境の現高砂橋手前にあった百間堰は、→ 「久我山村絵図」の右端に描かれています。「途中、富士見ヶ丘駅の百メートル程、南の月見橋のところに百間堰(しゃくけんぜき)があった。川の中に杭を打ち土俵を積んで本流の流れを一部せき止めて、両側の田圃へ分水するためのもので実際には八メートル位の堰だったが、堰上は天然のプールで当時の子供達の水遊び場であった。」(「高井戸の今昔と東京ゴミ戦争」 平成17年 内藤祐作)
- ・ 神田川 富士見ヶ丘駅前に架かる月見橋から下流方向で、奥に高砂橋がチラッと見えています。昭和に入ってからの架橋の月見橋ですが、百閒堰が設けられていたのはその手前です。
「高井戸の今昔と東京ゴミ戦争」には、昭和初期と思われる高井戸の田圃の記述もあります。「この神田川を挟んで幅の広いところでは、200メートル程の田圃が上流の三鷹から下高井戸方面へと続いていた。・・・・高井戸田圃は米作地帯のような水田ではなく、田圃の土は黒色で浅い所で三十センチ、深い所で五十センチ以上もあって、その作業は大変な重労働であった。専業農家の一戸当たり平均して一反歩足らず、しかも反収五、六俵であった。」 高井戸田圃は第二次大戦後も耕作されていましたが、生活排水による用水の汚染や、昭和27年(1952年)の台風被害もあり、同35年に完成した750世帯入居の都営アパートや、41年計画発表、57年完成の清掃工場の用地となるなどしてその役目を終えました。