神田川 「まる歩き」 しちゃいます!!

ー神田川水系、支流はもちろん、旧水路、廃水路、全部 「まる歩き」ー

左岸の用水

2017-10-24 06:22:57 | 神田川2

 富士見ヶ丘駅前に架かる月見橋まで戻り、百間堰で分岐していた左岸の田用水を追います。こちらは前回までの右岸の用水と違って、「昭和4年測図」以降に描かれ、車止め、カラーブロック、段差など顕著な痕跡も残しています。そのため、杉並清掃工場の用地となった区画を除き、最後まで迷うことなくたどることができます。ただ、→ 「昭和22年空中写真」に見るように、高砂橋までの直線コースは現在の流路と重なるため、痕跡は高砂橋の左岸から始まり、あたかもそこで分岐しているような印象です。

 

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    ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。)

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    1. 高砂橋左岸の遊歩道からカラーブロックが分岐します。すぐに富士見ヶ丘駅からの左岸流と合流していたはずですが、痕跡はありません。 

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    2. 左カーブで北寄りに向きを変え、都営高井戸西一アパートの外周道路の外側をめぐります。

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    3. 都営アパートの外周から離れ、井の頭線に突き当たって中断します。 

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    4. その延長上にある車止め付きのカラーブロックの路地です。右手も都営アパート(高井戸西二アパート)です。 

 <高砂橋>  → 「上高井戸村絵図」にも村境に描かれており、「東京府志料」では「鍛冶屋敷橋」(「長三間幅四尺」の板橋)、「豊多摩郡誌」も同じ橋名で、「構造木造 延長三間 幅員一間」となっています。鍛冶屋敷は「新編武蔵風土記稿」に「西よりにあり」と書かれた小名で、高井戸村大字上高井戸の小字として、屋敷、屋敷下に引き継がれます。屋敷は村境の丸く囲われた飛地の区画、屋敷下はその南の田圃のところです。また、隣接する大字久我山の小字として、鍛冶屋敷がそのまま使われています。文字通りには鍛冶を業とするものの屋敷があったことになりますが、そのような伝承は不詳です。あるいは、飛地となった理由とかかわるのかもしれません。なお、昭和初期の地図では現行の高砂橋となっています。