神田川 「まる歩き」 しちゃいます!!

ー神田川水系、支流はもちろん、旧水路、廃水路、全部 「まる歩き」ー

下荻窪村分水

2017-03-25 07:49:09 | 善福寺川2

 青梅街道と環八通りが交差する四面道交差点付近で、千川上水七ヶ村分水(明治に入り六ヶ村分水)から分岐、下荻窪村の水田を灌漑しながら、余水を善福寺川に落とす支分水がありました。文献上最初に登場するのは寛政6年(1794年)の「星野家文書」で、「下荻久保村八寸廻り竹筒」と書かれているものです。「八寸廻り竹筒」とは周囲8寸の竹筒のことですが、明治10年(1877年)の「星野家文書」でも、樋口の大きさは縦1.56寸横1.554寸しかなく、→ 「段彩陰影図」に見るように、白山神社と光明院に挟まれた、現在は環八通りとなっている狭い谷筋を灌漑するだけの、ごく小規模な支分水でした。明治初年の数字で灌漑面積は、下荻窪村の水田総面積7町7反のうち1町4反なので、下井草村の24町などに比して、その少なさは際立っています。

 

Simenm42

    ・ 「陸地測量部発行の1/20000地形図(明治42年測図) / 東京西近郊図」  この地域を描く「1/10000地形図」は、区画整理後の「昭和4年測図」が最初なため、今回の支分水にかかわる水田はすでに消滅していて参考になりません。

 明治、大正期までの下荻窪村分水は、東電荻窪支店の北側を流れる左岸流に余水を落とし、共に左岸段丘沿いを数百メートル流れて、春日橋付近で本流に合流するコース取りでした。それが、区画整理による左岸流の廃止に伴い、東電荻窪支店前交差点で環八通りに沿い、荻窪橋で善福寺川本流に合流するルートに付替えられます。出来るだけ下流に水を廻らしたい田用水の流路設計に対し、排水路の場合は最短距離で本流に合流させようとする、これまでもたびたび見てきたパターンの付替えです。

 

0718a

    ・ 荻窪橋  井荻町の区画整理後路線図を見ると、水路は環八通りの東側に沿い、桃井第二小学校前で善福寺川に合流していました。左手奥がその桃二小です。

0718b

    ・ 環八通り  荻窪橋上の陸橋から四面道方向です。一つ先の信号がすずらん通りと交差する東電荻窪支店前交差点、その奥でJR線の下をくぐった先が四面道です。