大宮前下水が迂回のため描くU字の底のところまで来ました。その右(東)半分の水路はまったく失われています。おそらく宅地造成のためでしょう、舌状台地の高さに合わせて、谷筋自体が埋立てられたためで、→ 「段彩陰影図」の細長い帶状の部分がそれです。逆に左(西)半分は宮前中学の敷地整備のために掘り下げられ、その意味では谷筋は失われましたが、水路はお隣の大宮前体育館との間に残されました。ただ、大宮前体育館の移転に伴う再開発によって、この区画の痕跡も失われそうで、あとは西隣の井口山慈宏寺境内に残るだけです。
- ・ 水路跡のスペース 宮前中学と大宮前体育館の間に残された細長いスペースを、慈宏寺前から振り返って撮影した数年前のものです。現在は体育館の移転に伴う工事中で、このスペースは失われました。
- ・ 慈宏寺境内 本堂裏手の道にはコンクリート蓋が埋め込まれています。「慈宏寺の裏側の当りは、低地で荒れ地であり、一部は沼地になっておりました」(「杉並郷土史会史報」 平成10年 第152号)
<大宮前新田> 「大宮前新田は、郡の東北にあり、・・・・豊島郡関村の土民八郎左衛門と云もの開きしと云時は、万治年中のことなるべし」(「新編武蔵風土記稿」) 慈宏寺の山号にもその名を残す開拓者の井口氏ですが、その一族は井草村や関村など一帯の名主として知られ、大宮前のほか関前、連雀前、無礼前の各新田を同時期に開発しています。なお 大宮前の名前の由来ですが、「杉並風土記(下)」(平成元年 森泰樹)は、(京から見て)大宮八幡宮の手前にあるからとしていますが、村の鎮守、春日神社の前との説も有力です。
- ・ 春日神社 慈宏寺の東隣にあり、共に五日市街道に面して建つ春日神社は、大宮前新田の鎮守で、その開村と同じ万治年間(1658~60年)の創建と伝えられています。
大宮前新田は明治に入り、隣接する上・下高井戸、中高井戸、松庵、久ヶ山とともに高井戸村(のち高井戸町)となり、昭和7年(1932年)の杉並区の成立に伴い、杉並区大宮前(1~6丁目)を名乗りました。現行の住居表示は表題ともなっている宮前(1~5丁目)です。上掲写真にも写る「大宮前鎮守」の石碑は、住居表示の実施によって失われる大宮前の地名を残すため立てられたそうです。