神田川 「まる歩き」 しちゃいます!!

ー神田川水系、支流はもちろん、旧水路、廃水路、全部 「まる歩き」ー

宮前

2017-03-13 06:12:22 | 善福寺川2

 環八通りを越えた神明通りを西に向っています。→ 「段彩陰影図」を見ると環八の西側にも舌状台地があり、それを迂回するために大宮前下水はU字の流路を取っているのが分ります。今回は神明通りをいったん離れ、U字部分の右(東)半分のウォーク&ウォッチですが、全行程のうちで最も流路が失われている部分です。農地から宅地への転換が昭和4,50年代と遅く、既存の水路を再利用することなく下水道網の整備が行われたこと、また、最初に触れた事情によって私有地のままだったため、宅地化の際個別の埋立てが可能だったことなど、この地域の特殊事情が関係しているものと思われます。

 

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    ・ 「地理調査所発行の1/10000地形図(昭和33年第二回修正) / 上高井戸」  上掲地図と同一場所、同一縮尺です。

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    ・ 神明通り  上掲地形図に当てはめると、クランクで通りに出て来たのはこの付近です。ただ、道幅が変わるなどの痕跡はありません。  

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    ・ 水路跡のスペース  神明通りと並行する区画です。水路跡は直接確認できませんが、こうした細長い空間が断続的に残されています。  

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    ・ けやき緑地  Uの字の東側の底に差し掛かるあたりです。この周辺を除くとほとんど宅地造成され、水路の痕跡は失われています。    

柳窪

2017-03-11 07:52:14 | 善福寺川2

 神明通りに突き当たって右折すると、左手は旧大宮前新田です。→ 「段彩陰影図」で今回の谷筋が舌状台地を迂回、北上して善福寺川を目指すところがあり、その迂回する部分の低地は柳窪(やなぎくぼ、やないくぼ)と通称されていました。文化3年(1806年)作成の「大宮前新田絵図」には、青梅道脇道(五日市街道)付近に「字柳窪」との書き込みがあり、現在も環八と五日市街道の交差点やバス停の名前として残っています。「段彩陰影図」に書き込んだ本来のハケ水路は、迂回して柳窪を経由していましたが、舌状台地の先端を切通してショートカット、神明通りに沿うように付替えられました。元の流路は宅地造成でまったく失われたため、ここでは神明通りを西に向かいます。

 

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    ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。)

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    1. 旧環八通り(商栄会通り)を越えます。舌状台地を迂回したハケ水路は、ここで左手から神明通りに戻っていました。

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    2. 左手に見える柳窪公園は舌状台地の先端にあり、その前は切通しになっています。

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    3. 環八通りの手前です。ハケ水路はスーパーのあたりで迂回を開始していたものと思われます。

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    4. 環八神明通り交差点です。ここから千川通りまでの環八通りは、井荻町の区画整理時に整備されたものをベースにしています。

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    5. 環八通りの先を引き続き西に向います。区画整理後路線図では、通りの右手を水路が並行しています。

界堀4

2017-03-10 06:40:12 | 善福寺川2

 下荻窪村と田端村の村境を流れる、通称界堀をさかのぼる四回目で、中道寺前からの本流を南に向かっています。車止め、段差のある路地が続き、単調ですが迷うことはありません。なお、環八通り先からの支流が直線的なのと対照的に、現行の地図でもそれと分る微妙な蛇行も残されていますが、区画整理を行わなかった田端村との境にあり、本格的な付替えを経ていないためと思われます。井荻町の区画整理後路線図でも、支流しか描かれていません。

 

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    ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。)

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    1. 地図上でもそれとわかるクランクが二つ連続しますが、その最初のものです。

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    2. 二つ目のクランクで、最初のと同様右折すぐに左折です。

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    3. クランク以外にも微妙な蛇行が散見されます。

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    4. 蛇行を抜けた後は、ほぼ直線で神明通りに向かいます。

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    5. 神明通りに突き当たります。右折なのは道幅の様子から明らかで、すぐに旧環八通りと交差します。

界堀3

2017-03-09 07:20:26 | 善福寺川2

 下荻窪村と田端村の村境を流れる、通称界堀をさかのぼる三回目です。中道寺前に戻って、本流を南に向かいます。ところで、→ 「段彩陰影図」を見ると、善福寺川と今回の水路に挟まれた舌状台地が形成されています。その先端にあるのが→ 松渓公園ですが、このような場合のお約束通り、縄文時代の遺跡が発掘されています。堅穴住居跡三基など、縄文時代中期(約4500年前)の遺跡があり、その保存のため昭和51年(1976年)開設されました。

 

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    ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。)

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    1. 中道寺前の合流地点に戻り、今度は左手の本流をさかのぼります。

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    2. すぐに車止め付きの路地が出現します。水路単独と思われる狭さです。

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    3. 旧環八通りとシャレール荻窪(旧荻窪団地)を結ぶバス通りとクロスします。左折して100mほどで松渓公園です。

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    4. 道路と交差するたびに車止めの付いた路地が続きます。

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    5. 上高井戸村や大宮新田との境だった神明通りまで、500m強の行程の半ばです。

界堀2

2017-03-08 06:09:38 | 善福寺川2

 下荻窪と田端の村境を画していた、通称界堀をさかのぼっての二回目です。途中中道寺前で右手からの合流があります。300m強のごく短いものですが、それでも先端は環七通りを越え、その西側に延びています。これも区画整理時の開設で、→ 「段彩陰影図」を見る限り、浅いながら自然の谷筋に沿っているので、雨水の流れによって形成されたハケ水路を整備、改修したものと思われます。なお、中道寺は「新編武蔵風土記稿」に、「年貢地境内四百坪余、小名本村にあり、大光山と号す」とあり、→ 鐘楼門は安永2年(1773年)に建てられたものです。

 

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    ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。)

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    1. 右折すると中道寺前に出る通りです。その手前で、コンクリート蓋どうしが合流しています。

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    2. 今回は支流をさかのぼるため、右折して右手の路地を西に向います。

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    3. 旧環八通りまで150mほど、見とおすことのできる直線コースが続きます。

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    4. 旧環八通り(商栄会通り)を越えます。その先も狭いながらコンクリート蓋の路地が連続します。

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    5. コンクリート蓋は終了、カクカクの様子から右折しているのが分ります。

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    6. 環八通りの手前の水路は失われていますが、越えた先に数メートルだけコンクリート蓋が残されています。

界堀

2017-03-07 06:34:21 | 善福寺川2

 松見橋下流の合流地点から、大宮前下水を谷頭に向かってさかのぼります。うち、合流地点から神明通りに出るまではほぼ南下しますが、この水路を境に西側は旧下荻窪村、東側は旧田端村でした。明治に入り井荻村と杉並村の村境(大正末には町境に昇格)、昭和7年(1932年)の杉並区成立以降もなお、荻窪(1丁目)と西田町(1丁目)の境を画していまいした。そのため、「杉並郷土史会史報」(平成10年 第152号)によると、地元では「界堀」と通称されていたといいます。なお、現行の住居表示では同じ荻窪1、2丁目に属し、境界を画するものではなくなりました。

 

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    ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。)

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    1. 松見橋下流の合流地点からさかのぼります。前々回は逆向きにたどったところです。

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    2. T字を左折、ここからは前々回と重なります。すぐに右カーブで南に向きを転じます。

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    3. 前々回はここで左折しましたが、今回は直進します。

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    4. 松渓中学校のキャンパスに突き当たり右折します。

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    5. 右手に折れると荻窪公園前に出る道路を越えます。

大宮前下水

2017-03-06 06:26:24 | 善福寺川2

 下荻窪村と田端村の境を北上、松見橋下流で合流する水路があります。西荻窪駅南西にある通称松庵窪(男窪)から発し、総延長4kmを越える善福寺川最大の支流で、しかも、先端部分や途中の二、三ヶ所を除き、コンクリート蓋や車止めが連続、とはいえ、遊歩道として整備されているわけでもなく、廃河川ウォッチャーにとっては、絶好のフィールドワークの材料を提供しています。なお、この水路の名称ですが、松庵川といった仮称も散見されますが、ここでは大宮前下水としました。昭和の初めから戦後にかけて地元や杉並区が使用していたもので、後述する今回の水路が果した機能からすると、自然河川を思わせる〇〇川よりも、〇〇下水のほうが適当かと思われます。

 

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    ・ 「段彩陰影図 / 大宮前下水」(1/18000)  書き込んだのは昭和11年発行の「最新杉並区明細地図(1/14000)」などを参考にした流路です。(先端部分を描いた地図は未確認なので、残念ながら書き込めませんでした。) 

 「段彩陰影図」を見る限り、浅いとはいえ谷筋に沿った流路となっていて、歴史上のある時期自然河川だった可能性は捨てきれません。ただ、少なくとも江戸時代から明治にかけては、水田開発が可能な水量は失われており、畑地ないし水はけの悪い荒地だったのでしょう。それが、大正11年(1922年)の西荻窪駅の開設を契機に、周囲の宅地化に見合ったインフラ整備が必要となり、雨水の自然流下によって形成されたハケ水路をベースに、今日見られるような水路が出来上がりました。「大正十二年、西荻窪駅の開設を希望した旧高井戸村大宮前の住民達が、・・・・幅員三尺(両側の土揚げ地を入れて約六尺)深さ約三尺の水路を完成しました。」(「杉並郷土史会史報」平成7年 第131号)

 

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    ・ 合流地点  複数個所設けられたうち松見橋下流にあるもので、前々回は右岸流の合流地点の一つとして扱いました。日本地形社の「昭和11年測図同22年修正(1/3000)」は、ここでの合流を本線として描いています。 

 ただ、大規模な区画整理を行った井荻村(のち井荻町)ではなく、高井戸村(江戸時代は上流から松庵、中高井戸、大宮前新田の各村)にあったため、地域住民による私的な事業として行われ、用地もほとんどが私有地のまま登記されたといいます。昭和に入ると、流域の一層の宅地化に伴いドブ川となり、大雨のたびに水があふれます。そのため、昭和7年(1932年)に成立した杉並区の手で側壁を整備、一部流路の付替えやバイパスの開設も行われました。その後の大宮前幹線など下水道網の整備に伴い、不要な部分は宅地や公道の一部となり、あるいはコンクリート蓋の路地となって現在に至っています。

 


右岸の水路3

2017-03-04 07:30:00 | 善福寺川2

 荻窪公園前を南下する右岸の水路の続きです。松見橋下流で本流に戻る一流もありますが、そのまま直進してさらに下流に向かい、次の松渓橋のやや上流まで追うことができます。また、途中で右手からの合流があります。界堀とか大宮前下水とか呼ばれるもので、西荻窪駅までたどることができますが、次回以降のテーマとします。なお、その名称からも想像できるように、合流する水路が下荻窪村と田端村の境になっていました。現行の住居表示には反映されず、両岸とも同じ荻窪1丁目に属しています。

 

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    ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。)

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    1. 前回の最後でT字を左折したところに戻り、改めて直進します。すぐ右カーブがあり、南に向きを転じます。

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    2. 直進方向から界堀が合流していますが、今回は右岸流を追って左折します。

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    3. 右手は松渓中学のグランドです。昭和23年(1948年)の開校なので、昨日UPの→ 「空中写真」には写っていません。

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    4. 松渓中学キャンパスを回り込みます。下水道台帳を見ると「水路敷」となっているところです。

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    5. 突き当りを左折して本流に戻ります。本来は直進し、→ 「東京近傍図」にある山神社下を回り込んでいました。

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    6.  松渓橋の手前です。→ 「段彩陰影図」のほぼ中央にあるように、右岸段丘が最も迫っているところです。

右岸の水路2

2017-03-03 08:13:26 | 善福寺川2

 忍川下橋から左岸に分岐する水路を追っての二回目で、前回の最後に荻窪公園前に来ました。同公園は杉並区立公園としては最も古く、昭和12年(1937年)、区画整理事業で造成された一角に開園しました。「杉並の川と橋」(平成21年 杉並区立郷土博物館)は「井荻土地整理組合が第二期工区完成を記念して寄付した土地で、その多くを占めていた池沼を埋め、盛り土・地ならしをして公園にした」と書き、その湧水リストにも掲載しています。

 

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    ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。)

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    ・ 「昭和22年米軍撮影の空中写真」  上掲地図のグレー枠の部分です。同一個所に同一番号を振っています。

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    1. 荻窪公園前で左手に向かう車止め付きの路地があり、ワンブロックで善福寺川に合流しています。

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    2. 左折すると松見橋に向かう通りを越えると、左手にコンクリート蓋の水路跡が見えます。

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    3. 右カーブの先がT字になっていますが、とりあえず左折します。 

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    4. すぐに善福寺川に突き当たります。右写真は松見橋からのショットで、右岸に合流口が開いています。 

右岸の水路

2017-03-02 10:32:03 | 善福寺川2

 現環八付近にあった薪屋の堰からの田用水は、しばらく本流近くを流れた後、本流の蛇行に応じて後退する右岸段丘沿いに、西側にふくれるように弧を描いていました。その用水の灌漑していた水田が、下荻窪村で最初に開拓されたものと思われ、付近には本村(ほむら)との屋号が残されています。(後退する右岸段丘については → 「段彩陰影図」を、西側にふくれる右岸流については→ 「東京近傍図」を参照してください。) ただ、区画整理により田用水が廃止されたため、その流路をたどることは困難で、今日目にすることのできるのは、すべて区画整理時に整備された排水路ということになります。

 

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    ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。)

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    1. 忍川下橋から右岸方向です。道幅に変化はありませんが、区画整理後の路線図を見ると、通りの左手を水路が並行しています。

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    2. 段丘斜面に上る手前で左折、段丘沿いの道路の左手を並行します。

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    3. 区民センター前交差点を通過します。2.と比べ右手の崖面が低くなり、段丘が後退してるのが分ります。

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    4. 区画整理時に新設された道路は、ほぼ直線で南に向かっています。

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    5.  荻窪公園前です。杉並区立公園としては最も古く、昭和12年(1937年)、区画整理事業で造成された一角に開園しました。

忍川橋

2017-03-01 06:23:13 | 善福寺川2

 「板橋 下荻窪村ニアリ長二間幅一間」「東京府志料」に収録された下荻窪村の唯一の橋で、→ 「東京近傍図」にも下荻窪村内で唯一描かれている、現環八通りやや下流に架かるものと思われます。「豊多摩郡誌」(大正5年)では「忍川橋 下荻窪字忍ヶ谷戸にあり高井戸道善福寺池流に架す」とあり、高井戸道に関しては「青梅街道大字荻窪地内荻窪停留場の東方より起り、忍川橋を渡り、南進して高井戸村に入り、甲州街道に合す、延長壹里餘」としています。なお、「おぎくぼ いまむかし」(昭和53年 桃井第二小・桃友会広報部)には、「車馬の通れる橋は二つだけで、今の忍川橋(昔は梶橋といった)と中央線ガード下の橋(橋場といった)が板張りであって」との記述がみられます。

 

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    ・ 善福寺川  荻窪橋から下流方向で、左手が桃井第二小学校、正面が忍川上橋です。南口仲通りという商店街にある橋ですが、区画整理以前にはその位置に忍川橋が架かっていました。 

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    ・ 忍川橋  現在の忍川橋は荻窪駅の東から環八通りに直線で向かう、区画整理事業によって整備されたバス通りに架かっています。なお、架橋当初は川南橋と呼ばれました。 

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    ・ 善福寺川  忍川橋から下流方向のショットで、奥に架かるのが忍川下橋です。善福寺川に架かる橋のなかで、このように上下を従えているのは忍川橋だけです。

 <忍ヶ谷戸>  「新編武蔵風土記」の収録する下荻窪村の小名は二つで、本村と「南の方にあり」と書かれた忍ヶ谷戸(しのびがやと)でした。「杉並風土記(上巻)」(昭和52年 森泰樹)によると、伊賀者の棟梁、服部半蔵の領地で、善福寺川の谷あいにあったので、当初は忍び者の谷戸、それが忍ヶ谷戸(しのびがいど)となり、大正時代から現行の様に呼ばれるようになったそうです。その忍ヶ谷戸にある橋なので、元々は「しのびかわばし」と呼ばれていましたが、区画整理時に移り住んだ新住民が、「おしかわばし」と読むようになって定着したと、「杉並の通称地名」(平成4年 杉並区教育委員会)は書いています。