三味線橋から慈眼堂橋を経て、(次回テーマの)高根橋までの桃園川左岸は、豊多摩郡中野町当時の小字を谷戸といいました。昭和7年(1932年)以降の中野区城山町、新住居表示によって中央1丁目となった区画に相当します。谷戸はこれまでもたびたび登場しましたが、本来は丘陵地帯に形成された谷状の地形を指す普通名詞で、そこから〇〇谷戸といった地名が生じたものです。「段彩陰影図」から見て取れる、中野駅北口から発した支流と桃園川が合流する前後に形成された、二等辺三角形の低地が今回の谷戸に当たります。
- ・ 「段彩陰影図 / 桃園川3」(1/18000) 「迅速測図」及び「東京近傍図」を参考に、明治初期の桃園川の流路及び谷戸の支流を重ねました。以前指摘したつなぎ目部分は修正しています。
- ・ 谷戸運動公園 公園前の解説プレートには、「このあたりは、もと城山町とよばれ、谷戸運動公園裏に幅5.4米ほどの土塁が残っていました」とあります。
<城山> 大正5年の「豊多摩郡誌」には、「大字中野小字谷戸なる、農事試験場の東方に接続せる地にして、今も尚ほ幅三間許の濠を廻らし古城塞の俤を存す」とあり、昭和8年「中野町誌」では「近年まで巾二間余の濠を廻らし、・・・・歴然として古城塞の面影をなしたりという」となっていて、両者を隔てる十数年間に城塞跡は失われたようです。なお、「豊多摩郡誌」は「此の地は太田道灌の城址なりとも云ひ、又遠く平忠常が城砦を構へし址なりとも云ひ傳ふれども詳かならず」と書いており、一方、解説プレートはそうした伝承も紹介しつつ、延宝3年(1675年)の「中野村鑑帳」の記載を根拠に、後北条氏の時代、中野郷の代官を勤め、江戸時代には名主となった堀江氏の小城砦兼屋敷だったと解しています。
- ・ 城山公園 昭和6年(1931年)、一帯の住所は谷戸から城山(翌年から城山町)となりますが、昭和41年(1966年)の新住居表示によって失われ、現在は公園や通りの名前として残るだけです。