→ 「東京近傍図」を見ると、三味線橋の次に描かれているのは慈眼堂橋で、これも青梅街道から分岐した「薬師みち」に架かっています。宝仙寺横で青梅街道から分岐、左岸に渡ったあと左折、右折で北西に向かい、途中三味線橋からの道と合流します。大正5年発行の「豊多摩郡誌」では「新井道」となっていて、三味線橋経由の「谷戸道」に対し、こちらのほうが本線扱いで、現在の印象とは異なります。なお、同誌の橋梁リストでは「慈眼堂橋 水流及び所在地 善福寺分流、新井道(仲町) 構造石造 延長1.33間 幅員2間」となっています。
- ・ 慈眼堂橋 昭和8年(1933年)の「中野町誌」では、「橋長5.76m 幅員5.45m 橋種木橋」となっていて、区画整理時、石橋から木橋に架け換えられました。
- ・ 慈眼堂橋 右岸には二つの坂があり、どちらも青梅街道に出ますが、「東京近傍図」の描き方からは、左手のものがメインだったようです。
- ・ 慈眼寺 橋名の由来となったお寺で、天文13年(1544年)に橋の西方に創建、現在は鍋屋横丁交差点近くにあります。
ところで、「豊多摩郡誌」の橋梁リストによると、同じ新井道にもう一つ、「榎戸橋」が架かっています。「水流及び所在地」は「善福寺分流、新井道(谷戸)」となっていて、谷戸は左岸の小字なので、左岸流に架かっている橋と思われます。注目は同じ「善福寺分流」としていることで、これまでの左岸流を「用水路」としていたのと違い、本流と同様の扱いになっていて、その「榎戸橋」付近から左岸流を描く、→ 「明治42年測図」の扱いとも軌を一にしています。