神田川 「まる歩き」 しちゃいます!!

ー神田川水系、支流はもちろん、旧水路、廃水路、全部 「まる歩き」ー

桃園橋

2016-11-24 07:10:34 | 桃園川3

 大久保通りの先で左にカーブした桃園川緑道は、すぐに中野通りを越えます。そこには川名の由来ともなった桃園橋が架かっています。現在の橋は親柱に「昭和十一年二月完成」とあるので、同12年の中野区役所土木課の橋梁表の、「種別鋼鉄桁橋 面積100.80㎡ 河川名桃園川」と同一なのでしょう。これに対し、昭和8年発行の「中野町誌」には、「橋長5.5m 幅員4.65m 面積25.58㎡ 木橋」とあり、構造、面積を一変させています。この間に中野通りの拡幅にあわせ、桃園橋の架け換えがあったことになります。

 

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    ・ 桃園橋  中野通りとの間には高低差があり、階段で上り下りする構造になっています。通りの正式名称は都道420号線、この区間は→ 「東京近傍図」にも描かれた青梅街道から桃園へと至る古道と重なります。 

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    ・ 中野五差路  中野通りと大久保通りの交叉に、桃園に上る古道を加えての五差路で、写真左手の古道(現桃園通り)については、八代将軍吉宗の創設した桃園との絡みで次回詳細します。

 <石神井橋>  「その御立場(桃園御立場 → 「中野村絵図」 の左端のもの)のほとりの小流に石神井橋といふあり、長二間幅二間、先年御成の時しばしば渡御ありしゆへ、公より修理を命ぜらるゆへに、わづかなる橋なれどもこゝにのす」(「新編武蔵風土記稿」) 「江戸名所図会」の「桃園」の項では、「岡の前を流るゝ小川に架せる橋を石神橋と唱ふ」としています。この橋名から川自体、「明治の中頃までは、石神井川あるいは石神川と呼ばれ」と、これは桃園川緑道に掲示された中野区の解説プレートで、同区の公式ホームページでは「明治17年 石神井川と呼ばれる」とより具体的です。
 これに対し、現行の桃園橋の名前は、陸地測量部の「明治42年測図」に書き込まれ、大正5年発行の「豊多摩郡誌」では、「桃園橋 構造木造 延長3間 幅員1.5間」となっています。江戸時代の「長二間幅二間」と規模はかわらず、その間、大規模な道の拡幅も、川の改修もなかったのでしょう。なお、「豊多摩郡誌」では、桃園橋が架かる川の名前は善福寺分流とされていて、石神井川でも桃園川でもありません。区画整理後の昭和8年に発行された「中野町誌」でも善福寺分流、昭和12年の中野区役所土木課の橋梁表で、ようやく桃園川の名前が登場します。