神田川 「まる歩き」 しちゃいます!!

ー神田川水系、支流はもちろん、旧水路、廃水路、全部 「まる歩き」ー

中野村用水

2016-11-16 06:02:39 | 桃園川3

 「用水には神田上水を用ゆ、是は田方十一町の所にかぎれり、残り二十丁余は所々の清水を用ゆ、旱損の時は上水も減し、自ら所々の清水涸るゝゆへ患少なからず」(「新編武蔵風土記稿」)引用文中に「所々の清水」とありますが、善福寺川からの助水を得る以前の桃園川、及び中野駅北側からのその支流が主要なものでした。なお、現在の中野のイメージからすると、神田川により多く依存していてもよさそうですが、旧中野村は青梅街道までなので、神田川といっても淀橋・小滝橋間に限られていました。以南の本郷、雑色村と合併、旧中野町が成立したのは明治30年(1897年)のことです。

 

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    ・ 「中野村絵図」  成立年代不詳の「中野村絵図」(首都大学東京蔵「堀江家文書」)を元に、ブルーの用水、薄いブルーの水田を中心にイラスト化したものです。

 「風土記稿」の完成から10年後の天保11年(1840年)、天保新堀用水が完成し、善福寺川の助水が桃園川を満たします。当時の水田面積は中野村全体で31町6反余、新堀用水関係が11町2反ほどで、面積自体は前後で変化していません。これは用水開削の目的が新田開発ではなく、既存の田圃の用水確保にあったためです。それでも、天保7、8年の旱魃時の収穫の落ち込みは回復しており、当初の目的は達しているといえます。

 

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    ・ 桃園川緑道  中野通りを越えるところです。この区間の中野通りは→ 「東京近傍図」にも描かれた青梅街道から桃園へと至る古道と重なり、桃園橋が架かっていました。

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    ・ 谷戸川  左岸から桃園川に合流する支流は、大正、昭和期には谷戸川とも呼ばれました。写真は中野駅北口裏に残るその水路跡の道路で、奥に中野サンプラザが見えます。