神田川 「まる歩き」 しちゃいます!!

ー神田川水系、支流はもちろん、旧水路、廃水路、全部 「まる歩き」ー

右岸の水路

2016-11-19 07:25:53 | 桃園川3

 昨日UPの最後の写真は大久保通りを越えた桃園川緑道ですが、その右手から合流する道路がありました。→ 「大正10年第二回修正」で、大きく左カーブする本流とその外側で弧を描く右岸流(兼水車の回し堀)があり、合流後しばらく右岸段丘沿いに流れ、桃園橋に向かいますが、この流路と重なる道路です。同測図には描かれていませんが、青梅街道から区境沿いに合流する小支流もあったため、区画整理の際、一部が排水路として存続することとなり、現在、断片的ながらその痕跡をたどることができるのは、この区画整理によって付替えられた後の水路です。

 

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    ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。)

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    1. 大久保通りを越え左カーブする桃園川緑道ですが、その右手から合流する道路をさかのぼります。

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    2. 右岸段丘沿いに南に向かいます。左手の崖面上にある桃花小学校は、大正11年(1922年)桃園第三尋常小学校として開校しました。

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    3. 桃花小正門前の庚申橋の遺構です。その先には細長い空間が残されていますが、すぐにフェイドアウトします。

 <庚申橋>  庚申橋は「大正10年第二回修正」で、本流と右岸流(兼水車の回し堀)が合流した後、右岸段丘から離れる途中に架けられていた橋です。親柱に「大正十三年一月二十六日成」とあり、とすると区画整理事業着工前なので、桃園川本流に架けられたことになります。「中野町誌」(昭和8年 1933年)に、「橋長4m、幅員3.9m、橋種混凝土、河川名宮園川」とあるのに対し、昭和12年の中野区役所土木課の橋梁表では、「在来下水」に架かるとされているのは、改修後下水として付替えられた事情を反映しているものと思われます。
 なお、その名前から付近に庚申塔のあったことが推測できますが、以下は慈眼寺(中央3-33)境内の解説プレートの引用です。「 ここには、元禄三年(一九六〇)から寛保ニ年(一七四二)までのものが六基あります、このうち四基は、上宿(中央ニ丁目付近)、新町(本町六丁目)、西町(中央五丁目)の青梅街道の沿道にありましたが、道路拡張のため、桃園第三小学校の大ケヤキの根元に移設され、さらに、昭和三十年(一九五五)に当寺院の境内に安置されたものです。」