神田川 「まる歩き」 しちゃいます!!

ー神田川水系、支流はもちろん、旧水路、廃水路、全部 「まる歩き」ー

天祖神社

2016-11-11 07:03:35 | 桃園川2

 桃園川緑道にいったん戻りますが、次の谷中橋と谷中下橋の間で、今度は右岸に向かいます。緑道と並行する大久保通りを越えて100mほどで、「杉並の川と水源」中の湧水地リストにも記載されている「かえる公園」、そして、その東南に隣接する天祖神社(江戸時代は神明社)です。「神明社 除地六畝十歩、小名小澤にありて村の鎮守なり」(「新編武蔵風土記稿」) 創建は不詳ながら、寛治元年(1087年)との伝承があります。高円寺村がかって小沢村だったこと、その小沢村の本村と思われる字小沢にあることから、この神社が小沢村の鎮守だったことがうかがえます。それが、江戸時代になって高円寺村となり、高円寺に近い氷川神社が並んで村の鎮守となったと推測できます。

 

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    ・ 桃園川緑道  谷中橋の次の谷中下橋の手前で、桃園川緑道は左カーブします。高円寺地区内の緑道が唯一カーブするところで、ここまで1.5km弱直線だったことになります。 

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    ・ かえる公園  杉並第三小学校のある右岸段丘の際は、小規模ながら崖線を形成しており、湧水のあったことが十分推測できる地形です。 

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    ・ 天祖神社  かえる公園と杉並三小の間の、段丘斜面上にあります。上掲写真の奥の茂みが天祖神社境内のものです。

 <高円寺村の字>  煩雑さを避けるため、これまで省略していた「高円寺村絵図」ですが、字を書き加えたのが→ こちらで、11の字が書き込まれています。これに対し「新編武蔵風土記稿」に収録されたのは、本村、原、御殿前、小沢、南小沢、金ヶ沢、柏葉、向山谷で、うち「村絵図」にない原については「北の方馬橋・上沼袋村の境を云」、柏葉は「前(金ヶ沢)の続きにて少く南による」と書いています。また本村に関しては「街道の左右民家並たる所なりともいひ、又高円寺のあるほとりなりともいふ」とし、小沢村当時の青梅街道沿いから、高円寺村となって高円寺近くにシフトしたと推測しています。

 


谷中3

2016-11-10 06:52:56 | 桃園川2

 中山谷下橋で左岸から合流する水路を追っての最後で、たかはら公園から百数十メートル北上した先端部分までです。なお、「杉並の川と橋」(平成21年 杉並区立郷土博物館)は、たかはら公園一帯の通称、「谷」について、「甲武鉄道施設工事用土を掘り出した所があり、その跡地から湧水で池が出来ていたと言われている。その流れを使って缶詰製造が行われていたそうである」と書いています。池に関しては未確認ですが、缶詰工場はたかはら公園のところにあって、昭和初期の地図に描かれています。

 

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    ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。)

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    1. たかはら公園の西縁にそって水路跡は北上します。なお、同公園は昭和50年(1975年)の開園です。

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    2. 公園から北に80mほどのところで復活しますが、通り抜けはできません。

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    3. ワンブロック回り込んで、最先端を振り返っての撮影です。右写真は西側からのショットで、突き当りが中野区との境です。

 <中野御囲>  五代将軍綱吉の「生類憐みの令」によって、10万頭ともいわれる野犬を収容した中野御囲(中野御用屋敷)ですが、その一部は高円寺村にも及んでいました。元禄10年(1697年)作成の平面図によると、5万坪前後の5つのブロック(御囲)から構成されていますが、中野駅前のサンプラザや区役所一帯が二の御囲、西隣の警察学校跡地(再開発で大学キャンパスになっていて、上掲の最後の写真に写っています)が三の御囲、そしてその西隣の四の御囲は大半が高円寺村に属していました。→ 「東京近傍図」の右上隅で、長方形のブロックが二つ並んでいますが、右側が三の御囲、オレンジ線を跨いでいる方が四の御囲です。さらにその南側で同じくオレンジ線を跨いで五の御囲がありました。→ 「高円寺村絵図」では省略しましたが、「御在宅御屋敷」の右隣りのブロックに、「字御囲跡」と書き込みがあります。元の五の御囲の高円寺側に当たります。

 


谷中2

2016-11-09 06:45:29 | 桃園川2

 中山谷下橋で合流する小水路を追っての二回目で、断続的に続く水路跡の路地を北上、JR線を越えます。途中、路地の右手(東側)に、谷中商店街がありますが、谷中は杉並村(杉並町)大字高円寺当時の小字でした。二つの谷筋にまたがっており、地形由来なのは間違いないところです。なお、→ 「高円寺村絵図」で、鳥見の役宅を意味する「御在宅御屋舗」のあったのはこのあたりで、元図には「字谷うら」との書き込みもありました。「杉並風土記」は、谷の下流地域(方言でウラ)が谷うら、中ほどは谷中と解釈しています。

 

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    ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。)

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    1. 同じ場所を撮った10年近く前の写真には、谷中湯という銭湯の煙突が写っていましたが、今はありません。

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    2. 次のブロックですが、すぐに通り抜けできなくなります。

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    3. 全区間のなかで水路跡が最も顕著なところで、コンクリート蓋や車止めも付いています。

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    4. JR線に突き当たります。右写真は右手からのショットで、谷筋が明らかです。

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    5. JR線を越えた先にあるたかはら公園の西縁に連続します。

谷中

2016-11-08 06:45:46 | 桃園川2

 高円寺橋の次の橋が中山谷橋、その次が中山谷下橋ですが、そこに左岸からの水路の合流があります。「杉並の通称地名」(平成4年 杉並区教育委員会)の中に、高円寺北1丁目のたかはら公園付近の通称、「谷」の解説として、「やや低い土地で湧水があり南方に流れ、・・・・桃園川に入る」とあるものです。昨日UPの→ 「迅速測図」には水路こそ描かれていませんが、二本並行する谷筋のうち東側のもので、たかはら公園はその谷頭付近の、西隣りのデバないし鉄池とほぼ並ぶ位置にあり、同じ水脈の湧水だったものと思われます。

 

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    ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。)

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    ・ 「陸地測量部発行の1/10000地形図(大正10年第二回修正) / 新井」と「同 / 中野」を合成したもので、上掲地図と同一場所、同一縮尺です。

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    1. 中山谷下橋の左岸から合流があります。中山谷は西山谷、東山谷に挟まれたこの付近の右岸の小字でした。

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    2. このあたりまでが田圃で、左岸流も流れていました。改修以前は左岸流に合流していたのでしょう。 

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    3. 正面の鉢植えの奥から水路、というよりほとんど排水溝が始まりますが、通り抜けはできません。 

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    4. ワンブロック先に回り込んだところで、通り抜けできる路地ががありますが、すぐに中断します。 

宮田3

2016-11-07 07:20:48 | 桃園川2

 氷川神社や高円寺の北側から発し、環七通り沿いに南下する小支流を追って、JR線を越えます。→ 「東京近傍図」では、JR線の南からの水路が描かれていますが、その元となった「迅速測図」では、ちょうどJR線のあたりに池が描かれています。当時は鉄道敷設前なので、前回の三角池とは考えられず、「杉並風土記(中巻)」にいう「高円寺北二丁目にあった”デバ”という泉」、あるいは「杉並の川と橋」にある「杉並第四小南の鉄池」のことと思われます。「杉並の川と橋」は続けて、「池底が赤っぽくなっていたので名付けられたのであろうか。村田家の大根洗い場として長年使われていた。『デバ』という」と書いています。

 

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    ・ 「迅速測図 / 東多摩郡高圓寺村」(参謀本部測量課 明治13年測量)の一部を加工したものです。 

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    ・ JR線北側  JR線の北側です。高円寺駅北口と環七通りを結ぶ幅広道路を越えた先に、それらしい隙間がありますが通り抜けはできません。

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    ・ JR線北側  環七通り側からのショットで、二百数十メートル奥が高円寺駅北口です。横から見ると、はっきりした谷筋が横切っているのが分かります。

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    ・ 杉並四小南  迂回した先にフェンスで囲まれた細長い空間が残されています。このワンブロック先が杉並四小キャンパスなので、このあたりに鉄池はあったのでしょう。

宮田2

2016-11-05 06:12:33 | 桃園川2

 環七通り沿いに南下する小支流を追っての二回目で、途中左カーブで環七通りを越え、高円寺や氷川神社のある台上の北側に回り込みます。宮田と称される細長い田圃のあったあたりですが、現在残されているのは断続的な排水路の跡です。なお、「大正10年第二回修正」に描かれた田圃の北端の池は、鉄道工事の用土を採取した後できたもので、その形態から三角池と通称されていました。(環七側から撮影した中央線南の窪みの写真は→ こちらです。)

 

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    ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。)

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    ・ 「陸地測量部発行の1/10000地形図(大正10年第二回修正) / 新井」  上掲地図と同一場所、同一縮尺です。

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    1. 左折して環七通りを越えます。「杉並の川と橋」は、カーブ付近にあった池からの合流を指摘しています。

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    2. 環七の先に連続しますが、すぐに通り抜けできなくなります。 

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    3. 100m弱先まで回り込み、戻った途中から撮影した水路跡です。 

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    4. 若干左手にシフトしてなおも続きますが、その先通り抜けはできません。 

宮田

2016-11-04 06:01:00 | 桃園川2

 環七通りを越えてすぐ、左岸からの合流があります。作成年代不詳の→ 「村絵図」にも描かれていて、氷川神社から高円寺にかけての北側は、この小支流を水源とする田圃となっています。表題の宮田はその田圃を指していて、氷川神社とかかわる名前だと思われます。→ 「東京近傍図」には二流が描かれ、途中合流して桃園川の左岸流に流れ込んでいますが、現在たどることのできる流路跡は単線化されたもので、田用水から排水路への機能の転換が読み取れます。

 

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    ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。)

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    1. 環七通りを越え桃園川緑道が再開してすぐ、左岸からコンクリート蓋の路地が合流しています。

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    2. 環七通りの東側を並行しながら北上します。

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    3. 消防署の横で通り抜けできなくなり、迂回してその先を探します。

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    4. ワンブロックだけ一般の道路の一部となります。道路右手が水路でした。

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    5. 車止めが復活しますが、やはり通り抜けできないので迂回します。

中島橋、高円寺橋

2016-11-02 06:21:43 | 桃園川2

 杉並村大字高円寺の小字を冠した中島橋は、(名前はどうだったかは分りませんが)→ 「村絵図」→ 「東京近傍図」にも描かれた、青梅街道から高円寺前へと至る古道に架けられた橋です。以下は、「杉並歴史探訪」(昭和50年 森泰樹)の抜粋ですが、当時の桃園川は右岸段丘沿いに膨れていたので、中島橋は数十メートル南にありました。「ピンクの花もうせんを敷きつめたように、れんげ草が咲き乱れている田圃の中を、ゆっくりと桃園川が蛇行し、中島橋から原(北岸)を眺めると、青たたみを敷いたような麦畑が高円寺、氷川神社、長仙寺の森まで一面に拡がり、畑のあぜや農家の垣根に、赤い桃の花や白い雪柳、こてまりの花が咲きこぼれ、やや右手(高円寺南五丁目)に切花用の華かな花桃の群落が見え、本当に美しい風景でした。」 

 

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    ・ 中島橋  右岸に向かってのショットで、坂の中腹には光塩女子学園があります。昭和6年(1931年)開校のカトリック系の学校で、学校名は聖書の一節、「世の光、地の塩」に因っています。

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    ・ 高円寺橋  中島橋の先で環七通りを越えます。環七通りは昭和2年(1927年)の「大東京道路網計画」で計画されましたが、実現は遅れて同39年オリンピック開催時です。

 <六つ塚>  中島橋から古道を青梅街道方面に向かう途中の右手に高円寺図書館があり、その敷地の一角に「六つ塚跡」の解説プレートが立っています。付近にはかって六基の塚があり、「六つ塚」と呼ばれていたこと、太田道灌に滅ぼされた豊島方の落武者を葬ったのではとの説もあること、などが紹介されています。大正末から始まった区画整理事業の際、桃園川流域の低湿地を埋め立てるため、周囲の台地ともども取り崩されてしまったそうです。

 

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    ・ 高円寺図書館前  中島橋から青梅街道に向かう途中で、環七通りを越える手前です。環七と光塩女子学園の間の一角には、体育館もあります。

 

 

 


西山谷橋

2016-11-01 06:55:33 | 桃園川2

 高円寺前に架かっているのが、杉並村大字高円寺の小字が由来の西山谷(にしさんや)橋です。その左岸段丘際に杉並第八小学校がありますが、昭和7年(1932年)創立当時の桃園川の様子を「創立50周年記念誌 わたしたちの杉八」は次のように書いています。「川の南側は低くて、いつもじめじめしていました。せりがたくさんはえていて、いねも作れないあれ地になっていました。おかとの境め(今の学校の北門のあたり)からは水がわき出て沼地になっているところもあり、そこには、高さ二メートルぐらいのあしがいちめんにしげっていました。おかの方には林や原っぱがあってすすきなどがはえていました。」 

 

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    ・ 西山谷橋  高南通りの先は氷川小橋、氷川橋ときて、この西山谷のシリーズで、前後に西山谷上橋、西山谷小橋も架けられています。

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    ・ 杉並八小北門  西山谷橋の南、100mほどの右岸段丘の際にあります。この付近の湧水も「杉並の川と橋」の湧水リストに収録されています。

 <高円寺寺町>  杉並第八小学校の背後の台上には、明治末から大正にかけて寺町が形成され、現在も10近いお寺が立ち並んでいます。「杉並風土記(中巻)」(昭和62年 森泰樹)によると、地場産業だった藍染業が化学染料の輸入で打撃を受け、紺屋も兼ねていた地主が土地を手放したのがきっかけだったとか。折から区画整理で郊外に土地を探していた寺院が、四谷、市ヶ谷、浅草などの都心から次々と移転してきました。江戸幕府成立前後に創建されたお寺が多く、「農政本論」を著した佐藤信淵、浮世絵師池田英泉など、歴史上の人物のお墓もあります。

 

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    ・ 祥雲山福寿院  杉並八小の東隣にあります。明治41年(1908年)に四谷箪笥町から移転、寺町形成の先駆けとなったお寺です。