神田川 「まる歩き」 しちゃいます!!

ー神田川水系、支流はもちろん、旧水路、廃水路、全部 「まる歩き」ー

天沼陸橋

2015-05-13 05:20:09 | 千川用水2

 青梅街道に戻り、荻窪駅の先でJR中央線を越えます。現在は天沼陸橋でショートカットされていますが、陸橋の完成は第二次大戦後の昭和30年(1955年)のことで、それまでは荻窪駅東側の大踏切を経由していました。→ 「東京近傍図」の右下隅で、新旧青梅街道にズレが生じているのはそのためです。七ヶ村分水ももちろん、旧道沿いを流れていました。

 

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    ・  「昭和22年米軍撮影の空中写真」  天沼陸橋の着工は昭和17年(1942年)、同19年12月に米軍の爆撃で破壊されました。昭和23年に工事が再開され、車馬程度の通行は可能になったようです。その直前の写真です。

 ところで、荻窪駅は青梅街道を新宿まで運行する都電杉並線の起終点でした。天沼陸橋完成後の昭和31年(1956年)以降、それまで南口にあった停留場を北口に移し、陸橋経由で運行していましたが、前年に荻窪まで延長された地下鉄丸ノ内線の影響で、昭和38年に廃止されます。こうして、西武軌道線時代からの52年間の歴史に幕を閉じましたが、これはその後に相次いだ都電廃止の第一号だったそうです。

 

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    ・ 青梅街道  荻窪駅前歩道橋から荻窪駅方向です。左カーブの先が本線の天沼陸橋、右手のバスが出てきた方が旧街道で、間に交番が建っています。

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    ・ 天沼陸橋  その上り口にあたる荻窪駅前入口交差点です。左手に向かうと昨日UPした八幡神社前に出る天沼八幡通り、右手は旧街道と連絡しています。

天沼弁天池

2015-05-12 06:41:01 | 千川用水2

 以下は「新編武蔵風土記稿」の天沼村の水利に関する記述です。「用水 多摩川上水の分水なり、青梅街道のほとりより当村へ流る、所々の水田にそゝぎ、阿佐ヶ谷村へ入、村内をふること十町ばかり、小名中谷戸に広さ一段許の池あり、池中蒹葭生茂れり、是を用水とす」 池の傍らには、同書に「小祠、村内蓮華寺の持」と書かれた弁天社があり、大正末までは雨乞い信仰の対象でもありました。なお一段(反)は面積の単位で1000㎡弱です。一方、明治初年の「東京府志料」によると、天沼村の土地質は「高燥ニシテ平坦ナリ 動スレハ旱魃ノ患アリ」とされ、田面積は4町17歩(同じく「平坦ニシテ旱燥」な隣村、阿佐ヶ谷村は12町4反5畝)、そして、明治10年前後の「星野家文書」は、千川用水のかかわる田面積を天沼村4町(阿佐ヶ谷村12町4反)としており、水田のほぼすべてを千川用水に依存していたことになります。

 

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    ・ 天沼弁天池公園  関東大震災以降、荻窪周辺の宅地化で湧水が減少、結局30年ほど前に枯渇、大半は埋め立てられました。西武鉄道関係の所有地になっていましたが、最近杉並区が買い取り公園としました。

 「荻窪風土記」にも、「天沼八幡様の鳥居のわきにある弁天池」に関して、次のようなする一文があります。「一筋のきれいな水の用水川が流れ、それとは別に、どこからともなく湧き出る水で瓢箪池が出来ていた。」 この後に、同行した知人の短歌が引用されます。「このあたり野良低みかもわが踏める足元ゆらに清水湧くかも」 雨が降り続くと、弁天池の湧水は溢れて大沼となり、いつしか雨沼(転じて天沼)と呼ばれるようになった。そんな地名由来の一説がもっともらしく感じられる描写ではあります。

 

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    ・ 天沼八幡通り  奥の茂みが八幡神社、前を横切っているのが、前回の最後の→ 写真から100mほどの用水跡の遊歩道です。→ 「東京近傍図」で、北四面道口からの用水と弁天池の水の合流地点はこのあたりと思われます。

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    ・ 八幡神社  「新編武蔵風土記稿」では小名中谷戸の鎮守、「東京府志料」では「村ノ鎮守」です。創建は17世紀末の天正年間、ないし江戸初期といわれていますが、詳しいことは伝わっていません。

北四面道口

2015-05-11 06:23:08 | 千川用水2

 四面道交差点から荻窪駅に向かって450mほど、銀行の建物の陰に北四面道口の遺構があります。荻窪駅前から100mに満たないため、現在の土地勘からは「四面道口」の呼称に違和感がありますが、明治の初めの「四面道」は天沼村の字名で、青梅街道と現日大二高通りに挟まれた三角形の部分でした。というわけで「四面道口」でもセーフ、ただ、今なら「天沼口」のほうがピンとくるのは間違いないところです。この支分水が寛政6年→ 「星野家文書」のいう「天沼村阿佐ヶ谷村堀割流落し」と、厳密な意味で同一かどうかは不明ですが、「堀割流落し」との表現からは、開削当時の七ヶ村分水の余水は、ここですべて桃園川に流れ込んでいたと推測できます。

 

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    ・ 北四面道口  → 「東京近傍図」では分水口付近は描かれていませんが、残された水路跡はここから大きく右カーブ、350mほどで天沼弁天池からの流れを合せ、桃園川となって東に向かいます。

 昭和2年(1927年)から平成5年に亡くなるまで、関東大震災直後の区画整理で誕生した荻窪の住宅街に居を構えた井伏鱒二は、昭和57年に荻窪界隈の変遷を随筆風にまとめます。「荻窪八丁通り」から始まる「荻窪風土記」です。井荻村字下井草(現清水1丁目)に家を新築する間、上掲写真に隣接する平野屋酒店二階に下宿していました。以下は「荻窪風土記」中、「平野屋酒店」の一節です。「昭和二年の五月から十月にかけて、私は井荻村のこの場所にこの家が出来るまで、四面道から駅よりの千川用水追分に近い平野屋酒店の二階に下宿した。(今、公正堂の所在する場所である) 千川用水追分は田用水追分とも言い、水路が半兵衛堀と相沢堀に分れている分岐点である。」

 

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    ・ もえぎ公園前  天沼弁天池からの→ 水路が、左手から合流しているところです。より下流の八幡社前で合流している「近傍図」と異なり、弁天池から南下する水路と垂直に交わっており、付替えがあったのでしょう。

 「荻窪風土記」の続ですが、別の個所では半兵衛堀は井荻村の者が、相沢堀は阿佐ヶ谷村の者が、年に一度掃除していたこと、相沢堀は今の杉並区役所の手前から阿佐ヶ谷田圃ヘ入り、東流して高円寺、中野へと向かうことなどが書かれ、最後にカッコ付きで桃園川と付記されています。ここでいう半兵衛堀の井口半兵衛は井草村の名主で、宝永4年(1707年)の田用水転用を主導した一人です。一方、相沢堀の相沢喜兵衛は阿佐ヶ谷村の名主で、想像をたくましくするなら、当初は四面道口までだった用水堀を、彼が率先して杉並口まで延長したのかもしれません。

 


南四面道口2

2015-05-09 05:43:01 | 千川用水2

 南四面道口の用水跡は、青梅街道の北側に向かった他の用水に比べ、その痕跡をほとんど留めていません。これは谷筋を縦断する環八通り、横断するJR中央線によって寸断されたためです。ただ、途中、環八通りからズレた白山神社前からJR線を越えた先にかけ、車止め付きの路地となって残っています。なお、→ 白山神社は下荻窪村の鎮守で、「新編武蔵風土記稿」に「五社権現社 除地、百十坪余、村の西北の方にあり、本社六尺四方、拝殿二間に一間半南向、神体は白幣、木の鳥居をたつ。鎮座の年代は詳ならず、上荻窪村光明院の持なり」と書かれています。

 

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    ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。)

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    ・ 「昭和22年米軍撮影の空中写真」  上掲地図のグレー枠の部分です。同一個所に同一番号を振っています。

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    1. 環八通り白山神社北交差点からJR線方向です。左手の茂みが白山神社、水路はこの先で環八通りの右手にシフトします。

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    2. 白山神社前で右折します。車止め付きの路地が100m弱続きます。

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    3. JR中央線前で中断です。右写真は光明院前から荻窪駅方向で、谷筋が見て取れます。

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    4. JR線の先です。百数十メートルで環八に合流、その東側に沿って→ 荻窪橋に向かっていました。

南四面道口

2015-05-08 06:55:02 | 千川用水2

 青梅街道と環八通りの交差する付近が四面道です。現在は交差点の名前となっていますが、その四面道付近には、七ヶ村分水の中で唯一、善福寺川に向かう支分水がありました。下荻窪村の田用水となったもので、寛政6年の→ 「星野家文書」では「下荻久保村八寸廻り竹筒」と書かれていました。「八寸廻り竹筒」とは周囲8寸の竹筒の意です。明治10年(1877年)の「星野家文書」でも、樋口の大きさは縦1.56寸横1.554寸しかなく、(現在は環八通りとなっている)白山神社と光明院の間の狭い谷筋を灌漑する、ごく小規模な支分水だったようです

 

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    ・ 本町上荻通り  上下荻窪村を分けていた通りです。→ 「嘉永二年絵図」に見るように、四面道手前で分水し青梅街道を越えた用水は、この付近を右手から左手に流れ、右折して環八通りの西側を南下していました。

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    ・ 光明院  善福寺川を南に、今回の谷筋を東に臨む台上にあり、荻窪の地名由来とも伝えられる、通称荻寺です。なお、上掲写真の本町上荻通りの東側にありますが、村境は境内を迂回していたため、光明院は上荻窪村に属していました。

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    ・ 荻窪橋  環八通りに架かる荻窪橋から善福寺川の下流方向です。南四面道用水は左手の桃二小学校裏を流れ、善福寺川の左岸流となっていましたが、昭和初期の耕地整理で、この付近を合流地点とする付替えがなされました。

 <上下荻窪村>  「上荻窪村は、郡の東北にあり、郷庄の唱を失ふ、村名の起こりを詳にせず、正保の頃のものには上下の分ちなし、『元禄郷帳』には上下二村を出せり、されば此間に分れしことしらる、・・・・御入国の頃伊賀の者五十人の給地に賜り、又もとより御料の所もあり、・・・・」 「下荻窪村は、上荻窪村のつゞきにあり、・・・・当所は江戸麹町山王の神領なり、何れの頃附せられしや詳ならず、・・・・」(「新編武蔵風土記稿」)
  下荻窪村が日枝神社領となったのは寛永12年(1635年)、上荻窪村が伊賀者五十人に与えられたのに対し、下荻窪村はその棟梁、服部半蔵の領地だったと伝えられ、服部家が改易され一時天領となったあとのことです。なお、荻窪の地名由来に関しては、仏像を背負った遊行僧が当地に立ち寄ったところ、突然背中の仏像が重くなり、前へ進むことが出来なくなります。そこで、付近に自生していた荻を刈り、荻の草堂(荻堂)を編んで仏像を安置した云々、という光明院荻寺の伝承があります。

 


清水口2

2015-05-07 05:58:42 | 千川用水2

 清水口の支分水の二回目です。→ 「東京近傍図」で、四面道付近から妙正寺川に向かう流れは二筋描かれていました。西側からの流れを併せ妙正寺池近くで合流するものと、その東側を並行して妙正寺川の右岸流となるものです。現在残された水路は杓屋口からのを併せており、前者と重なりますが、妙正寺川の右岸流を形成していたものもあったことになります。「新編武蔵風土記稿」は上鷺宮村の水利に関し、「多摩川上水を竹下新田にて分水、天沼村をへて村内に入、処々の水田にそゝぎ、末は前の川(妙正寺川)に合せり」としています。天沼村は妙正寺川の右岸に位置しており、これは右岸流となった清水口用水のことなのでしょう。

 

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    ・  「下井草村村図」  杉並区教育委員会「下井草村編年史」に収録された明治9年(1876年)の村絵図を元に、ブルーの水路、薄いブルーの水田を中心に、その一部をイラスト化したものです。元図にない村外については、沓掛用水の先端など補充しています。

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    ・ 清水用水跡  清水森公園脇を北上する清水用水跡で、ワンブロック先で左手からの沓掛用水と合流します。清水森公園は屋敷林を整備し、昭和61年に開園しました。

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    ・ 沓掛用水跡  右手からの清水用水と合流するところです。沓掛用水には日産工場跡地からの水路も合流しており、この先で左折、右折を繰り返しながら妙正寺川を目指します。

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    ・ 右岸流跡  沓掛小学校前で左折、妙正寺川との合流地点、→ 寺前橋に向かうところです。これは昭和初めの付替えの結果で、元はそのまま右手に流れていました。

清水口

2015-05-02 07:00:37 | 千川用水2

 四面道交差点の北東角に白っぽい三角形の建物があり、都第三建設事務所四面道排水場とあります。その建物の裏側に回り込むと、水路の痕跡を留める路地を見つけることができます。「清水口」、寛政6年の→ 「星野家文書」では「清水田養水口」にかかわる水路の痕跡です。途中清水森公園先で杓屋口からの流れを併せ、妙正寺川に合流するまで、およそ1400mをほとんど迷わずたどることができます。車止め付の遊歩道や、水路を含んで一区画だけ広くなった道路、自然の谷筋を思わせる微妙な起伏など、耕地整理のあと暗渠となった水路をたどる、絶好の教材がぎっしり詰まったコースです。

 

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    ・ 四面道交差点  交差点の北東角に向かってのショットで、正面の白っぽい建物が四面道排水場です。環八通りは谷筋にある上、青梅街道とJR線を潜って越えており、地下水の排出が欠かせないのでしょう。

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    ・ 水路跡の路地  四面道排水場の裏の水路跡の路地です。この先100m弱で左に折れ、そのまま200mほど北上、あとは右折、左折を繰り返しながら、全体としては北東に向かいます。

 <清水>  清水口の清水ですが、下井草村字沓掛内の通称で、文字通り湧水地だったところです。昭和7年(1932年)の杉並区の発足に伴い、正式な行政区分名に格上げされ、現在の住居表示にも引き継がれました。大震災後に売り出された新興住宅街としては、イメージに合っていると考えられたのでしょう。たびたび御世話になっている「荻窪風土記」の井伏鱒二も、昭和の初めに清水に居を構えた一人です。

 

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    ・ 清水頭付近  清水1丁目24~28には、このような窪地が散見されます。ちなみに井伏宅は撮影地点の左手後方、ツーブロック離れているだけのお隣です。

 以下はその「荻窪風土記」の一節です。「私のうちの近所の曾我医院のそばに、昔から清水と言われていた大型の四角い古井戸がある。(そのため、この土地を清水と言ったり、清水町と言ったりした)」 古い写真で見ると湧水の周囲に玉石を積み上げた、井戸というより小さな池のようなものです。四面道排水場の北側3~400m付近には、この古井戸を含めた湧水群があり、付近は清水頭と通称されていました。→ 「段彩陰影図」に見るように、そこから妙正寺川に向かう自然の谷筋を清水口用水は利用していたわけです。

 


杓屋口

2015-05-01 10:43:55 | 千川用水2

 杓屋(しゃくや)口、あるいは柄杓屋(ひしゃくや)口は、厳密な意味で同一かどうかはわかりませんが、寛政6年の→ 「星野家文書」で「八丁下井草村沓掛田養水口」と書かれていたものです。分水口は青梅街道の八丁通りと通称されるところにあり、付近に柄杓を商う店があったのでしょう。現在、青梅街道に直接面する個所の痕跡は失われていますが、二ブロック先の桃井公園の前から、車止め付の遊歩道が北に向かっています。途中、数回前に紹介した日産工場跡地(現桃井はらっぱ広場)からの水路と合流、東に向かって環八通りを越え、次回テーマの清水口(清水田養水口)からの流れを合わせ、妙正寺池を出たばかりの妙正寺川に流れ込みます。その間およそ1200mですが、大部分が車止め付の遊歩道となっていて、迷うことなくたどるのことができます。

 

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    ・ 「昭和22年米軍撮影空中写真」  水路が沿っている道路は、八丁交差点から一つ四面道よりのものですが、 この付近の上下井草村の境でもありました。白点線で重ねたのは井荻村(のち町)当時の大字上井草(字中通道南)と大字下井草(字沓掛)の境です。

 なお、「星野家文書」の「八丁下井草村沓掛田養水口」ですが、「沓掛(くつかけ)」は下井草村の字名です。青梅街道から妙正寺川に至る一帯を指し、妙正寺池の近くに沓掛小学校が現存します。名前の由来は不明ですが、杉並区教育委員会「杉並の地名」は、街道沿いによくある地名なので、所沢道等に関係があるのではと推測しています。この所沢道(石神井道)は「新編武蔵風土記稿」が下井草村の項で、「東北の界に所沢への道あり、豊島郡下石神井村より当郡中野村に達す。村にかかること十五町許」としているもので、早稲田通り(大場通り)から旧早稲田通りへと至る経路と重なります。

 

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    ・ 水路跡  上掲「空中写真」の水路の先端は、植込みのある細長いスペースになっています。このまま右手に向かえば、150mほどで青梅街道で、「杉並の通称地名」はそこを杓屋口としています。

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    ・ 水路跡  上掲写真の北側にある桃井公園横です。ここから車止め付きの遊歩道、ないし路地が日産工場跡からの水路と合流するまで、400mほど続きます。