神田川 「まる歩き」 しちゃいます!!

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天保新堀用水2

2015-05-20 06:30:21 | 千川用水2

 前回UPの→ 「迅速測図」の左下隅に描かれているのが成宗弁天池です。元々あった湧水池ですが、新堀用水が青梅街道を越えるのに必要な水位を得、泥やごみを沈殿させるための中継点として、新堀用水開削と同時に拡張、整備されました。当時の規模を450坪とする文書がありますが、大正の中ごろには個人所有となり、徐々に埋め立てられて姿を消しました。その跡地に成宗弁天社が祀られ、境内には明治13年(1880年)に建立された「中野村、高円寺村、馬橋村三ヶ村用水記念碑」があります。

 

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    ・ 成宗弁天社  成宗村本村の鎮守だった須賀神社(江戸時代は牛頭天王社)に隣接して祀られています。なお、弁天池は左手マンションの敷地にありました。

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    ・ 「中野村、高円寺村、馬橋村三ヶ村用水記念碑」  石碑には以下の碑文とともに三ヵ村の名主、水盛大工(設計施工責任者)の名、そして「明治十三年三月建立」と刻まれています。

 <三ヶ村用水記念碑碑文>  「武州多摩郡中野村高円寺村 / 馬橋村之地平原乏水屡羅凶 / 旱三村之民相謀上請開新渠 / 引池水以灌漑時懸令中村氏 / 給費天保十二年辛丑正月工竣」 工事から40年の歳月の間には、「代官」を「県令」と読み替えるだけの時代の大転換がありました。にもかかわらず「灌漑時懸令中村氏給費」の文字が、自ら実地見分の上、善福寺川の水利権を有する(私領だった)成宗、田端両村との調停や、合計420両に及ぶ補助金の供出など積極的にかかわった、当時の代官中村八太夫の尽力の大きさを物語っています。
 なお、碑文では「天保十二年辛丑正月工竣」となっていますが、新堀用水が一応の完成を見たのは天保11年(1840年)9月ごろ、それが獺(カワウソ)の巣穴による漏水や秋の大雨により崩壊、「田端村大堰より弁天池迄堤崩場所長延千二百間余」という被害をこうむります。そこで、一部ルート変更の上、被害個所の工事をやり直し、改めて完成したのは天保12年末でした。結局総延長2.3km弱、うちトンネル部分は二ヶ所で、合計700m近くに及ぶ大工事でした。