神田川 「まる歩き」 しちゃいます!!

ー神田川水系、支流はもちろん、旧水路、廃水路、全部 「まる歩き」ー

杉並口

2015-05-16 07:02:18 | 千川用水2

 天沼陸橋下から300mほど、青梅街道の北側に杉並口の遺構があります。寛政6年→ 「星野家文書」の「天沼村阿佐ヶ谷村堀割流落し」が、一つ前の北四面道口を指すとしたら、七ヶ村分水の開削当初はこの支分水口はなかったことになります。あるいは北四面道口と杉並口双方を、まとめてこう呼んだのかもしれません。同じ寛政6年の「井口家文書」中の分水口リストも、「天沼村口 堀割流落シ 阿佐ヶ谷村口 右同断也」とあって、両様に解釈できる書き方です。

 

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    ・ 杉並口付近  青梅街道に面した建物の裏に、コンクリート蓋の→ 路地が街道と平行しています。前回UPの→ 「東京近傍図」で、青梅街道沿いに出現した水路が、街道からやや離れてしばらく並行している部分です。

 ところで、杉並口の「杉並」ですが、街道南側にあった成宗、田端両村の領主岡部氏が、街道沿いの杉並木で領地の境を画したのが由来といわれています。江戸時代に通称地名として定着、明治に入り杉並木自体はほとんどなくなりますが、明治22年(1889年)の町村制施行の際、街道北側の天沼、阿佐ヶ谷、馬橋、高円寺を含めた杉並村(のち杉並町)の名前に引き継がれます。というわけで、現在の杉並区に至る地名の発祥の地は、(成宗、田端の合成地名である成田という住居表示を持つ)青梅街道沿いのこのあたりだったわけです。

 

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    ・ 杉並七小前  コンクリート蓋と車止めの路地は、ここで中断しますが、水路は杉並七小キャンパスを横切り、阿佐ヶ谷駅を経由、駅東側にあるけやき公園付近で、四面道口や天沼弁天池からの桃園川と合流します。

 <阿佐谷村>  「阿佐ヶ谷村は、郡の東の方にあり、郷庄の唱を傳へず、江戸日本橋には三里半の行程なり、村名の起りを詳にせず、・・・・江戸麹町山王の神領に附せらる、村内はすべて平地にして土性は野土なり、陸田多く水田少なし、・・・・用水 保谷新田にて多摩川上水を引分、天沼村より當村に入、處々の水田にそゝぎ、村内をながるゝこと四町許、流末は馬橋村に至る」(「新編武蔵風土記稿」) 「東京府志料」によると田12町4反5畝、畑72町5反7畝余、水田のすべてを千川用水に依存していました。なお、地名由来としては、桃園川流域の浅い谷筋の意と解するのが一般で、泥が浅く耕作しやすい、麻の生い茂る、葦の生い茂るなどもありますが、いずれにしても谷筋にある地形由来は間違いないところです。