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石神井村分水

2015-05-22 06:48:35 | 千川用水3

 「芦川家文書」中、元治元年(1864年)に作成された→ 「取調絵図」には、青梅街道を越えた左岸に上下石神井村分水が並行して描かれ、「上石神井村分水口四寸四方樋長六尺 下石神井村同四寸四方長六尺樋」と記されています。ただ、このように上下石神井村の分水が独立し、別個に扱われているのはむしろ例外で、享保7年(1722年)の上水廃止以前と思われる分水リストには、「関村水口内法五寸四方 此水口より上石神井村下石神井村ニ相懸り申候」(「東京市史稿上水編」)とあり、当初は独立した分水口を持たず、関村分水の流末を石神井川に落として利用していたと解釈されます。

 

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    ・ 「上石神井村絵図」  練馬区教育委員会「絵図にみる練馬」に収録された練馬区郷土資料室所蔵「栗原家文書」中の一葉を元に、その一部をイラスト化したものです。この年代は不詳ですが、慶応4年(1868年)の作成で、用水の様子がほぼ同じものも収録されています。

 これに対し、天明年間(1781~87年)の千川上水再興期と思われる「小川家文書」中の「工事見取図」には、「関村分水口」と「上石神井村分水口」が別個に描かれ、同時期の「千川素掘筋普請所積見分」では「関店前橋」から34間(61.9m)のところに「分水口有」と書かれています。どちらも下石神井村分水にあたるものはなく、次いで寛政6年(1795年)の→ 「星野家文書」では、「関村田養水口四寸四方 上下石神井村右同断」と、関村が一つ、上下石神井村がまとまって一つと解釈される書き方です。一方、練馬区教育委員会「絵図にみる練馬」に収録された上下石神井村絵図のうち、分水路が描かれているのは「上石神井村絵図」の一部のみです。乏しい史料から確定的なことをいうのは困難ですが、このように時系列でみる限り、当初は関村分水の流末に依存していたのが、やがて上下石神井村で一つの分水口、ないし別個の分水口を有するようになったと考えられます。

 

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    ・ 千川緑道  村絵図にある分岐している通りは右手奥のものなので、それとの位置関係や34間という距離から推測すると、上石神井村分水はこのあたりから、正面の上石神井体育館方面に向かったのでしょう。

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    ・ 石神井川  都営上石神井アパートの敷地内にある豊栄橋から右岸方向です。上掲写真から900mほどのところで、このあたりの水田を灌漑していたものと思われます。