神田川 「まる歩き」 しちゃいます!!

ー神田川水系、支流はもちろん、旧水路、廃水路、全部 「まる歩き」ー

南四面道口

2015-05-08 06:55:02 | 千川用水2

 青梅街道と環八通りの交差する付近が四面道です。現在は交差点の名前となっていますが、その四面道付近には、七ヶ村分水の中で唯一、善福寺川に向かう支分水がありました。下荻窪村の田用水となったもので、寛政6年の→ 「星野家文書」では「下荻久保村八寸廻り竹筒」と書かれていました。「八寸廻り竹筒」とは周囲8寸の竹筒の意です。明治10年(1877年)の「星野家文書」でも、樋口の大きさは縦1.56寸横1.554寸しかなく、(現在は環八通りとなっている)白山神社と光明院の間の狭い谷筋を灌漑する、ごく小規模な支分水だったようです

 

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    ・ 本町上荻通り  上下荻窪村を分けていた通りです。→ 「嘉永二年絵図」に見るように、四面道手前で分水し青梅街道を越えた用水は、この付近を右手から左手に流れ、右折して環八通りの西側を南下していました。

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    ・ 光明院  善福寺川を南に、今回の谷筋を東に臨む台上にあり、荻窪の地名由来とも伝えられる、通称荻寺です。なお、上掲写真の本町上荻通りの東側にありますが、村境は境内を迂回していたため、光明院は上荻窪村に属していました。

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    ・ 荻窪橋  環八通りに架かる荻窪橋から善福寺川の下流方向です。南四面道用水は左手の桃二小学校裏を流れ、善福寺川の左岸流となっていましたが、昭和初期の耕地整理で、この付近を合流地点とする付替えがなされました。

 <上下荻窪村>  「上荻窪村は、郡の東北にあり、郷庄の唱を失ふ、村名の起こりを詳にせず、正保の頃のものには上下の分ちなし、『元禄郷帳』には上下二村を出せり、されば此間に分れしことしらる、・・・・御入国の頃伊賀の者五十人の給地に賜り、又もとより御料の所もあり、・・・・」 「下荻窪村は、上荻窪村のつゞきにあり、・・・・当所は江戸麹町山王の神領なり、何れの頃附せられしや詳ならず、・・・・」(「新編武蔵風土記稿」)
  下荻窪村が日枝神社領となったのは寛永12年(1635年)、上荻窪村が伊賀者五十人に与えられたのに対し、下荻窪村はその棟梁、服部半蔵の領地だったと伝えられ、服部家が改易され一時天領となったあとのことです。なお、荻窪の地名由来に関しては、仏像を背負った遊行僧が当地に立ち寄ったところ、突然背中の仏像が重くなり、前へ進むことが出来なくなります。そこで、付近に自生していた荻を刈り、荻の草堂(荻堂)を編んで仏像を安置した云々、という光明院荻寺の伝承があります。