神田川 「まる歩き」 しちゃいます!!

ー神田川水系、支流はもちろん、旧水路、廃水路、全部 「まる歩き」ー

石神井村分水2

2015-05-23 06:43:43 | 千川用水3

 石神井村分水の二回目です。幕末にかけて、千川用水への依存を深めていたかのように見える上下石神井村ですが、明治に入り用水組合から脱退します。「上下石神井村両村・・・・千川用水不用ニ付口揚ケ致候ニ付明治三午年より水料取立止ミ相成候」 これは明治4年(1871年)の「千川家文書」の一節で、では両村が「千川用水不用」となった事情は何なのか、そのあたりを推測させる記述が「東京府志料」(明治5年 1872年)の上石神井村の項にあります。「用水ハ関村溜井ノ流レ及び村内三宝寺池ノ流レ又千川用水ヲモ引漑ク 猶又辛未ノ春玉川分水新川一條ヲ開鑿シテ村内ヲ通シ用水トナル」 明治4辛未年の玉川分水の新堀開削によって、千川用水が不用になったと読み解けます。

 

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    ・ 「迅速測図 / 神奈川県武蔵国北豊嶋郡土支田村埼玉県武蔵国新座郡橋戸村」  現在の石神井川の流路、三宝寺池、石神井池を薄いブルーで重ねています

 上下石神井村の田用水中、最大の供給源は、石神井川の水源の一つでもある三宝寺池でした。「池 三宝寺の側にあるをもて、三宝寺池と称す、石神井川の水元なり、古は大さ方四五町余もありしか漸く狭まりて、今は東西六十間余南北五十間余となれり、水面清冷にしていかなる久旱にも水滅することなし」(「新編武蔵風土記稿」) その流れが下石神井村において、「関村溜井の余流」と合流し、石神井川となっていました。現在は間に石神井池がありますが、元は三宝寺池からの流路にある水田で、昭和初期にせき止めてレジャー用の池としたものです。

 

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    ・ 三宝寺池  「風土記稿」の数字ではおよそ1ha(110m×90m)ですが、現在の面積は2.4haほど、水深は2mです。正面の中之島には厳島神社が祀られています。

 <田柄用水> 冒頭で触れた玉川分水新川は、一般に田柄用水と呼ばれています。玉川上水田無用水は、それまで余水を田無宿の東で石神井川に落としていました。関、上下石神井を含む10ヶ村は田無用水を富士街道(大山道)沿いに延長、後半は田柄川上流の谷筋を利用して土支田、田柄方面(現練馬区光が丘団地一帯)の田用水としました。一応の完成を見たのは、「東京府志料」にあるように明治4年の春といわれています。上掲「迅速図」の左上隅を横切るのが富士街道で、並行する田柄用水も描かれています。昨日UPの→ 「石神井村絵図」では、道者に先導されて富士や大山に詣でたことから「道者道」となっていますが、もちろん田柄用水は描かれていません。なお、同絵図にある「神田道」のうち北側のものは旧早稲田通りです。