天沼陸橋の続です。四面道以西の青梅街道がそれまでの9mから25mに拡幅され、それに伴い分水が暗渠化されたのは昭和一ケタです。以東の区間はやや遅れて昭和10年代のようで、杉並区立郷土博物館「杉並の川と橋」によると、昭和16年当時、中央線沿いの青梅街道には、素掘りの水路がどぶ川状態で残っていたとあります。こうして整備、拡幅された青梅街道ですが、電車の通るたびに交通がストップする「あかずの踏切」ある限り、拡幅の効果は半減されてしまい、その意味で、天沼陸橋の完成が焦眉の課題だったわけです。なお、戦争中にもかかわらず陸橋の完成を急いだのも、また米軍によりいち早く空爆されたのも、零戦のエンジンなど製造していた中島飛行機がらみといわれています。ちなみに昭和19年11月24日、本格的な東京空襲に先駆け最初のターゲットとなったのは、現武蔵野中央公園にあった中島飛行機武蔵野工場でした。
- ・ 旧青梅街道 荻窪駅前のロータリーを回り込み、JR線に沿ったところです。水路はこの左手を並行し、大踏切のワンブロック先まで線路の北側にありました
- ・ 大踏切 荻窪駅の東側に利用不可ながら現存しています。街道は線路をクランクで越えていますが、これは最短距離で越えるための工夫で、踏切建設時の改修と思われます。
- ・ 旧青梅街道 大踏切でJR線を越えたところです。水路の方はワンブロック先にズレ、正面の建物付近で越えたあと、再び街道左手を並行していました。
- ・ 天沼陸橋 幅25m、長42m強。中央線の前後の駅の中で、荻窪駅だけが高架でない理由として、様々なことがいわれていますが、こうして見ると天沼陸橋がネックになっているようです。