京の四季 名勝散策 写真集

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京都雪景色 大徳寺 織田信長公墓所 総見院 1/17/2011

2011年01月30日 | 洛北 中部 大徳寺方面

  

  大徳寺の続きです。大仙院のさらに北側の芳春院に向かいますが、こちらも拝観はなされておりませんので、玄関までとなります。










  









  









  









  









  
  芳春院から宗務本所まで戻ります。時間も11時近くになってまいりましたので雪もだいぶ緩んで溶けてきました。








  
  宗務本所の屋根です。








  
  宗務本所の前から西に進みます。 右手に特別公開中の織田信長菩提寺の総見院あります、いつもは拝観できず1月8日から3月21日まで「京の
  冬の旅」の特別企画が行われておりますので、伺うことにしました。






  
  総見院の前に建つ鐘楼








  
  総見院は、本能寺の変で亡くなった織田信長の菩提を弔うため豊臣秀吉が建立した寺院で、天正10年(1582)、秀吉が主君信長の冥福を祈るために
  古渓宗陳(こけいそうちん)和尚を開祖として創建いたしました。信長の葬儀はここで盛大に行なわれ、墓地には、信長以下一族の墓が建ち並んでお
  ります。








  
  表門と周囲の土塀は、創建当時のものといわれており土塀は、塀の中に塀があるという珍しい二重構造の塀で「親子塀」と説明されております。







                     









  
  本堂前  総見院は明治維新の時、旧建物を壊して禅僧の修禅道場として一時期は禅堂もあったといわれており、禅道場は龍翔寺に移されましたが、
  それまで大徳寺管長の住まいとして使用されていたため隠寮と呼ばれていたといいます。また、豊臣秀吉が催した「大徳寺大茶会」は、ここ総見院で
  開催されたと伝えられております。









  
  本堂の内陣正面中央に木像織田信長座像が安置されており、公開期間中は、立命館の歴史サークルの学生さんが、来られるお客さんそれぞれに付
  き境内を案内してくださり、大まかな総見院の歴史が理解することができました。








                   
                   本堂に安置されている、信長公の木像 秀吉が、大徳寺に総見院(信長公の法名)を創建するに
                   あたり、遺灰が別の寺院に埋葬されていたため信長の等身大の木像を二体作りそのうち一体を火
                   葬にして、一体を寺に安置したといわれております。






  
  総見院前の鐘楼 創建当時のものとされ信長の家臣寄贈の梵鐘が架かっております。








  
  信長の葬儀は同寺で盛大に行なわれ、境内墓地には信長・信忠の墓や家臣の供養墓もありますが、葬儀に当たって豊臣秀吉と阿弥陀寺の住職・
  清玉(せいぎょく)上人との間に一悶着あったことは有名な話として伝わっております。
  阿弥陀寺の清玉上人は、お世話になってきた信長が本能寺で襲われたとの知らせをうけ、いち早く本能寺へ駆けつけ信長の遺骨(灰)を阿弥陀寺へ
  持ち帰り境内に埋葬いたしました。このことが秀吉の知ることなり、秀吉は阿弥陀寺の清玉上人に対して信長の一周忌にあたり喪主として盛大な葬儀
  ・法要を執り行いたいと懇願いたしましたが、清玉上人からは相当の法事は既に執り行っていると断わられてしまいました。








  
  しかし秀吉は、法事料としての三百石の朱印と永代墓所供養のための寺領を与えるからとも申し出ましたが、これにも上人は辞退したといわれており
  ます。上人は、秀吉の本心は一周忌を自分自身の宣伝のために利用しようとしている、次期政権を継ぐ狙いと感じて断ったと思われております。 
  そこで秀吉は、木像を二体作りそのうち一体を火葬にして、一体を寺に安置したという話につながります。 そういった流れからいたしますと総見院の
  墓は、信長公の供養塔といった意味合いが強いものになります。

  総見院には、三つの茶室があり、本堂のすぐ裏手(北側)にあるのが、表千家の即中斎好みの香雲軒(こうせつけん)です。







  
  その後、清玉上人に恥をかかされた形の秀吉がこのまま大人しく黙っているはずが無く、天正15年(1587)に実施した都市改革令で、蓮台野(大宮今
  出川)にあった阿弥陀寺を寺町通へ移し、その時に広大な寺領は大幅に削減されたといわれております。


  香雲軒の北側にさらにあと二つの茶室が廊下で続きます。 廊下の中央の上部には、信長公の木像を運んだと云えられる輿が置かれております。







  
  香雲軒の北隣の ほう庵








  
  廊下の突き当たりの左手には三つ目の茶室壽庵があります。






  









                       
                       壽庵の前の井戸には、珍しい織部の陶器で作られた滑車が使われております。








                     
                     井戸の左手(南側)に佇む燈籠は、真四角であまり見かけない形をしております。








  








  
  茶室 壽庵の桐紋の襖は、織田家の家紋の一つです。 現代では一般的に、家紋は一家に一つですが、戦国時代には家紋をあげたり貰ったりする事
  も多く、いくつも家紋を持っておりその一つが、足利義昭から拝領した家紋です。元々桐紋は皇室の家紋と言われておりますが、これを足利氏が拝領し
  たもので、武家として名誉ある家紋といえます。







  









  









  
  茶室に通じる廊下の東側は、千利休を祀る聚光院になります。 聚光院は室町幕府の戦国大名三好長慶の菩提を弔うため養子の義嗣が1566年に
  笑嶺宗訢(大徳寺107世)を開山に迎えて開創された寺院です。 笑嶺禅師に参禅した千利休は檀越となり、利休の菩提寺になり墓所となりました。
  それ以降、茶道三千家(表千家、裏千家、武者小路千家)の菩提寺となっております。





  
  








  
  香雲軒








                     
                     本堂裏を通り西側に回りますと、加藤清正が朝鮮から持ち帰った石で造られた、掘り抜き
                     井戸があります。物資を降ろした後、軽くなった船の安定を図るために持ち帰ったと伝わり
                     ます。井戸水は現在も使われており、この水を使って仏前にお茶が供えられるそうです。

   





                       
                       井戸の深さは、13mと聞いたような気がします?が、そんなに深くはなさそうですね。                     






  
  本堂西側に広がる墓所の入口にある侘助椿は、秀吉公の寄進といわれ樹齢4百年と云われております。 以前は、幹が今の数倍もあったと説明をう
  けました。







  









  
  総見院の西側三分の一を占める墓所の北の端に信長公一族の墓所があります。








  









  









  









  
  右側、正室 帰蝶(濃姫)の方と側室お鍋の方の墓石








  
  手前から三番目が信長公です。








  
  尚、総見院が拝観できるのは、3月21日までとなっておりますので、ご注意ください。併せて玉林院も特別公開なされておりますが、この日と2月7、
  16、28、3月7、16、20、21は拝観不可となっております。












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