絵師でもあり版画家でもある「井堂雅夫」先生の個展が11月5日より京都文化博物館で開催されます。
同時開催で、京都駅のホテルグランヴィア京都ロービーにて「井堂雅夫展」も10月27日より11月28日まで
開催されております。是非お時間がございましたら立ち寄ってみてください。
尚、常設ギャラリーは金閣寺からほど近いとこにあります。京都市北区平野宮敷町27 ギャラリー雅堂
絵師でもあり版画家でもある「井堂雅夫」先生の個展が11月5日より京都文化博物館で開催されます。
同時開催で、京都駅のホテルグランヴィア京都ロービーにて「井堂雅夫展」も10月27日より11月28日まで
開催されております。是非お時間がございましたら立ち寄ってみてください。
尚、常設ギャラリーは金閣寺からほど近いとこにあります。京都市北区平野宮敷町27 ギャラリー雅堂
4月のある日、桜を見に行った帰りに、お客さんでもある「井堂雅夫」先生のギャラリーに立ち寄らせていただきました。
ギャラリーは、金閣寺の南側にあり、観光客や外国の方々も入りやすい雰囲気になっております。
ギャラリーの方に声を掛けましたら、先生が二階においでになるとのことでしたので、ご挨拶をさせていただきお茶を御馳走になってきました。
当日、京都十景の絵葉書を購入させていただきました。 次回はちゃんと額に入ったものを購入できるよう頑張ります。
お申し込みは、下記のホームページからお願いいたします。
金閣寺や龍安寺に行かれた際には、ぜひ立ち寄ってみてください。駐車場は、4台分有ったと思います。
ギャラリー雅堂ホームページ
地図
http://link.maps.goo.ne.jp/map.php?MAP=E135.43.53.960N35.1.57.630&ZM=10
紫雲山・くろ谷 金戒光明寺(こんかい こうみょうじ)は、法然上人がはじめて草庵を営まれた地であり、十五歳で比叡山に登られた上人が承安 5年
(1175年)四十三歳の時比叡山の黒谷を下り、お念仏の教えを広めるために、紫雲山の山頂の石の上でお念仏をされた時、紫雲全山に光明があた
りを照らしたことからこの地に草庵をむすばれ、これが浄土宗最初の寺院となりました。 金戒光明寺のくろ谷とは法然上人が比叡山西塔の黒谷別所
で修業をしていたことから、この地もくろ谷と呼ばれるようになりました。山門からは、京都市内が眺める丘の上に建ちます。
新選組発祥の地 会津藩と黒谷と新選組 幕末の京都は暗殺や強奪が日常化し、手のつけようのない状態になつていたところ、文久二年(1862)
に徳川幕府はついに新しい職制を作り京都の治安維持に当たらせることになりました。これが京都守護職であります。 京都守護職本陣金戒光明寺
は徳川初期に同じ浄土宗の知恩院とともに城郭構造に改められており、会津藩主松平容保公が幕末の文久2年閏8月1日(1862年9月24日)に京
都守護職に就任すると、京都守護職会津藩の本陣となり、藩兵1,000人が京都に常駐し1年おきに交替いたしました。
昨年は、法然上人の800年遠忌の行事が多数行われておりましたが、現在山門の改修工事が行われており、来年の秋の竣工を予定されております。
山門の東側の参道を回り御影堂に向かいます。 山門東側に建つ塔頭の常光院
常光院の前を北に進み突き当たりますと、右手に墓所が広がり、その高台の上に三重塔が建ちますが、後で回ることにいたします。左手に曲がれば、
御影堂への階段です。
御影堂への階段の前を西に進みますと二軒目の塔頭の西住院の紅枝垂れが見えてまいります。
白壁に紅枝垂れがとても綺麗に映えております。
西住院の東隣の瑞泉院
鐘楼
御影堂 紅葉のシーズンは、御影堂から方丈と回り、奥の庭園でモミジを満喫することが出来ますが、今日は山内の桜だけを見て回ります。
御影堂右手に植えられた、黒松
御影堂前左手に建つ阿弥陀堂
阿弥陀堂前に建つ開山堂
御影堂の前を西に進みますと塔頭の西翁院の土壁が続き紅枝垂れが見えてまいります。
西翁院山門前の紅枝垂れ
西翁院と御影堂の間の参道を北に進みますを真如堂の前に出ます。
その途中に、紅葉の時に良く訪れる、栄摂院が建ちます。 手前のモミジの大木は毎秋感動を与えてくれます。
2011年12月1日撮影
御影堂の裏側(北側)です。
栄摂院の桜
御影堂の前まで戻ってまいり、東側に建つ三重塔に向かいます。
方丈前の勅使門
蓮池に掛る極楽橋
三重塔への階段の右手には、法然上人圓光大師御廟が建ちます。 圓光大師とは、浄土宗の開祖法然上人が、50年おきの遠忌の際に天皇から贈ら
れる徽号(きごう)で、元禄十年(一六九七)、東山天皇 から「圓光(えんこう)という大師徽号をいただいてから、七つ目の大師徽号を持っておられるの
は法然上人のみと云われ、他にれいをみないそうです。ちなみに、「圓光」を初めとして「東漸(とうぜん)1711」、「慧成(えんじょう)1761」、「弘覚(こ
うかく)1811」、「慈教(じきょう)1861」、「明照(めいしょう)1911」、「和順(わじゅん)1961」とされております。
墓地に囲まれた高台に建つ三重の塔は、くろ谷の西にあった中山文殊が、江戸時代初期に豊永宗如が徳川秀忠公菩提の為に建立された三重の塔
内に安置されており、この本尊の文殊菩薩と脇士の像は運慶の作と伝えられております。そのため文殊塔とも呼ばれており、大和阿部文殊、丹後天
橋立の切戸文殊とともに日本三文殊の一つに数えられております。
三重塔を左手(北側)に進みますと塔頭の西雲院が建ちます。
紫雲石 平安時代、1175年、比叡山黒谷で念仏修行していた法然は山を下り、真如堂に詣でた後、この地の半
畳程の岩根の白河石で休んだとつたえられ、念仏を唱えていると、紫雲光明を目にし、薫香漂ったと云われており
ます。 そのため、この地、白河禅坊旧地に浄土宗の道場となる庵、白河禅房を結んだと伝わっております。
その際に腰掛た石がこちらの「紫雲石(しうんせき)」と云われており、法然は、吉水の庵に移ってからも訪れ、修行をしたと云います。 江戸時代、
1624年、中坊長兵衛が祠堂を建立するも、後に荒廃し、1681年、宗信法師が再建されました。
西雲院の東側の会津藩士の殉難者墓地
会津藩と新撰組 当時の京都市内は、治安が乱れ会津藩士のみでは手が回りきらなかったため、守護職御預かりとして関東より呼び寄せた浪人を
まとめ新選組を結成しその支配下に置き治安の維持に当たらせていたという御存じの歴史背景があります。 慶応3年12月9日(1868年1月3日)、こ
の年の10月に行われた大政奉還後の王政復古の大号令によって薩摩藩・長州藩 が京都市中の支配権を確立したため、京都守護職は設置後6年を
もって廃止され、そういった繋がりから、鳥羽・伏見の戦いで戦死した会津藩士の菩提をここくろ谷の地で弔っております。
2011年秋紅葉 金戒光明寺
http://blog.goo.ne.jp/kappou-fujiwara/preview?eid=bfa815c821213615d1afe6d72b03f522&t=1334988581011
2011年秋紅葉 塔頭 栄摂院
http://blog.goo.ne.jp/kappou-fujiwara/preview?eid=74529297ee131d18ee400ac9323a3928&t=1334988677899
今年は、桜の開花も遅れ天候も不順で、なかなか晴れの日が少なかった中、やっと晴天に恵まれ、岡崎近辺から金戒光明寺に向かいました。
写真は、東大路から仁王門通りを東に入り疏水の流れる京都勧業館の西側です。
勧業館の南側から、南禅寺方面
仁王門通りを進みますと南禅寺前に出ます。
二条通りの京都会館南側の橋です。
二条通りから、左に曲がりますと正面に平安神宮が見えます。
京都会館東側の公園です。
平安神宮前を抜け金戒光明寺に向かいます。
金戒光明寺の北側に位置する真如堂は、正式には鈴聲山(れいしょうざん)真正極楽寺(しんしょうごくらくじ)といい、比叡山延暦寺を本山とする天台
宗のお寺です。真正極楽寺とは、「極楽寺という寺は多いけれど、こここそが正真正銘の極楽の寺である」という意味です。一般には「真如堂」と呼ば
れていますが、それはもともとは本堂の呼び名でした。 今回は、金戒光明寺を回り三重塔から北に進んでまいりましたので、真如堂の裏側のこの位
置に出てまいりました。これから本堂裏庭を回り、本堂の正面から三重塔をまわり山門へと逆のコースをたどります。
今から、約1千年前の永観2年(984)、比叡山の戒算上人かいさんしょうにんが、比叡山常行堂のご本尊阿弥陀如来(慈覚大師作)を東三條女院
(藤原詮子 円融天皇の女御・一條天皇の御母)の離宮があった現在の地に移して安置したのが、真如堂の始まりです。
慈覚大師が30才過ぎの頃、滋賀県の苗鹿のうか明神みょうじんで根元が毎夜光っている霊木を見つけられ、それを割ってみると、座像と立像の阿弥
陀さまの形が現れたといいます。大師はこの霊木の片方で阿弥陀如来座像を造立し、自坊に安置し、後に日吉大社念仏堂の本尊とされ立像はそのま
まご自身で持っておられたと云われております。
その後、大師が唐(中国)に留学された帰り、荒れ狂う波間の虚空より小身の阿弥陀如来が香煙に包まれて現れ、大師に引声念仏いんぜいねんぶ
つの一節を授けました。大師はこの如来を袖に包み取り、日本に帰ってから、大切にしまっておいた霊木で阿弥陀如来を完成させ、その胎内にこの3
センチほど如来を納められました。
もうすぐ完成するという時、慈覚大師が「比叡山の修行僧のための本尊になって下さい」と眉間に白毫びゃくごうを入れようとすると、如来は首を振っ
て拒否されました。「それでは都に下って、すべての人々をお救い下さい。特に女の人をお救い下さい」と言われると、如来がうなづかれたところから、
「うなづきの弥陀」とも呼ばれています。
本堂南側の石に囲まれた桜は、「たてかわ桜」と言い徳川家光の乳母・春日の局が、父・ 斉藤内蔵介利三の菩提を弔うために植えた桜といわれてお
ります。 斉藤内蔵介利三は、明智光秀の重臣でしたが、秀吉軍に敗れた後、粟田口の刑場で斬首された首を友人が、奪い返し真如堂に葬られたこ
とから、この桜につながります。現在の樹は、伊勢湾台風で 倒れた樹から接ぎ木をして根付かせたものだそうです。
本堂裏に佇む万霊堂 三井家によって建立され、地蔵菩薩を中心に有縁無縁の精霊を祀っています。こちらの真如堂は三井家の菩提寺でもありま
す。
本堂の北側に建つ書院を結ぶ回廊 書院を拝観するには、本堂正面から上がり受付を済ませますと、この回廊を通り行くことが出来ます。東山を借景
にした、お釈迦様の涅槃を表した庭園が説明付きで鑑賞できます。その他に重森三玲氏のお孫さんの作庭の石庭もインパクトがあります。
左手の階段の下を潜ると、本堂の北側から正面に回ることが出来ます。
三重塔(法華塔) 境内の中でも、とても印象的な建物が三重塔です。宝暦年間(1751ー1763)に建立されました
が、文化14年(1817)に再建され、さらに昭和9年に修理が加えられました。その時、奉安されていた四天王像が
腐食していたために、新たに多宝塔を安置し、現在に至っております。
本堂は、元禄6年(1693)から享保2年(1717)にかけて建立され、木材にはことごとく「○○家先祖代々菩提の為」と記されています。正面「真如堂」の
大額は享保11年(1726)宝鏡寺宮からの寄付によるものです。本堂正面の宮殿(徳川五代将軍綱吉公と桂昌院の寄進)の中には、ご本尊阿弥陀如来
・不動明王(安倍晴明の念持仏)・千手観音がおまつりされております。
弁天池 本堂正面に向かって左側(北側)の弁天さんが祀られている池があります。
和服姿の若い人たちが見受けられましたが、すれ違ってみると中国からの留学生の様でした。
毎年、行く日によって色付きが違いますが、今年の本堂前の木は真っ赤に染まったモミジばかりでした。
三重塔には、いつもの猫が人見知りもせずに昼寝をしておりました。
山門から本堂に向かう参道
正面の参道の左手にある参道は、書院玄関まで続いております。
赤門(総門)元禄年間に建立された真如堂の総門で、赤く塗られているところから「赤門」と呼ばれています。敷居がないのは、神楽岡の神々が毎夜
当寺に参詣する際につまずかないようするためだとの伝説があります。
西日に染まるモミジは、なんとも艶やかでした。
紫雲山・くろ谷 金戒光明寺(こんかい こうみょうじ)は、法然上人がはじめて草庵を営まれた地であり、十五歳で比叡山に登られた上人が承安 5年
(1175年)四十三歳の時比叡山の黒谷を下り、お念仏の教えを広めるために、紫雲山の山頂の石の上でお念仏をされた時、紫雲全山に光明があたり
を照らしたことからこの地に草庵をむすばれ、これが浄土宗最初の寺院となりました。 金戒光明寺のくろ谷とは法然上人が比叡山西塔の黒谷別所で
修業をしていたことから、この地もくろ谷と呼ばれるようになりました。山門からは、京都市内が眺める丘の上に建ちます。
新選組発祥の地 会津藩と黒谷と新選組 幕末の京都は暗殺や強奪が日常化し、手のつけようのない状態になつていたところ、文久二年(1862)
に徳川幕府はついに新しい職制を作り京都の治安維持に当たらせることになりました。これが京都守護職であります。 京都守護職本陣金戒光明寺
は徳川初期に同じ浄土宗の知恩院とともに城郭構造に改められており、会津藩主松平容保公が幕末の文久2年閏8月1日(1862年9月24日)に京都
守護職に就任すると、京都守護職会津藩の本陣となり、藩兵1,000人が京都に常駐し1年おきに交替いたしました。
本堂の御影堂 右側が正面になります。
会津藩と新撰組 当時の京都市内は、治安が乱れ会津藩士のみでは手が回りきらなかったため、守護職御預かりとして関東より呼び寄せた浪人を
まとめ新選組を結成しその支配下に置き治安の維持に当たらせていたという御存じの歴史背景があります。 慶応3年12月9日(1868年1月3日)、こ
の年の10月に行われた大政奉還後の王政復古の大号令によって薩摩藩・長州藩 が京都市中の支配権を確立したため、京都守護職は設置後6年を
もって廃止され、そういった繋がりから、鳥羽・伏見の戦いで戦死した会津藩士の菩提をここくろ谷の地で弔っております。
御影堂前で、方丈と紫雲の庭の拝観手続きを済ませ、靴を持って御影堂に上がります。 御影堂の内陣正面に今年八百年遠忌を迎えられた宗祖法
然上人75歳の御影坐像が安置されております。 御影堂の建物は、昭和19年に再建されたものです。
御影堂と方丈を結ぶ渡り廊下
御影堂の東側大方丈の方丈庭園と勅使門
方丈東側に広がる紫雲の庭 手前の石庭の中の左手の島に配置された五つの石は、法然上人の修業時代の比叡山延暦寺を表したもので、五つ
の石には左から源光・皇円阿闍梨・勢至丸・叡空・源空と名付けられており、法然上人と関わりの深かった方とのエピソードがパンフレットに詳しく説明
されております。 苔の島を比叡山に見立て、後方の池を琵琶湖に見立て、修業時代に関わった人たちを石に見立ててあります。 中央の九つの石
群は、比叡山下山後、この地で浄土開山し寺門興隆しその後関わってきた方々を表しており、右手にも五つの石組があるのは、幼少時代・美作の国
(岡山)の両親や影響を受けた叔父などを表しているそうです。
こちらの庭園の石庭部分は、八百年遠忌を記念して造られたものだそうです。石庭の東側には、茶室が二棟並び、その左手には、琵琶湖に見立てた
池を一周するように散策路が整備されております。
茶室の横を抜け、池に掛る橋を渡り池の西側から一周いたします。
以前は、池の中の浮島までしか行けませんでしたが、昨年から池を一周出来る様に改築されました。
庭内、池の北側に建つ休憩所
この竹林の右手には、後程回る塔頭の西雲院が建ちます。
庭園西側の茶室です。
東側の茶室
庭園拝観を済ませ、方丈に戻り方丈の南側に建つ清和殿を抜けて阿弥陀堂の前に出ます。
手前の松は、熊谷直実(法力房蓮生法師)鎧掛けの松と呼ばれ、熊谷次郎直実(くまがいじろうなおざね)(1141~1208)は、1193年ここ黒谷の法然上
人を尋ね、方丈裏の池(鎧池)にて鎧を洗いこの松の木に鎧を掛け出家したと伝えられているものです。
清和殿の前の石畳を下り、左手に見える、極楽橋を渡り三重塔に向かいます。
石畳の先には、蹴上の都ホテルが望めます。
墓地に囲まれた高台に建つ三重の塔は、くろ谷の西にあった中山文殊が、江戸時代初期に豊永宗如が徳川秀忠公菩提の為に建立された三重の塔
内に安置されており、この本尊の文殊菩薩と脇士の像は運慶の作と伝えられております。そのため文殊塔とも呼ばれており、大和阿部文殊、丹後天
橋立の切戸文殊とともに日本三文殊の一つに数えられております。
三重塔への階段の左手には、徳川家光の乳母春日局の菩提等と、右側に徳川秀忠夫人(江姫 御台墓)の菩提等が建ちます。
階段の中ほどの左手に建つユニークな石像が目につきました。
高台の三重塔前から見た市内 真ん中の木の左手に建つ黒っぽいビルが、河原町御池に有るオークラホテルです。
三重塔の南側の蹴上方面
三重塔を北側に進みますと、塔頭の西雲院が建ちます。
西雲院は、浄土宗の大本山・金戒光明寺の塔頭のひとつで、開基の宗厳は、李氏朝鮮の人で、豊臣秀吉の朝鮮出兵の際に連れ帰られたと伝えられ
ており、北の政所に仕えた後、出家し本山の上人から法然上人ゆかりの「紫雲石」を授かり、石のそばに庵を結んだのが始まりと云われております。
西雲院の建つ位置は、先ほど回った大方丈・紫雲庭の池の東側に位置しております。
西雲院の東側に広がる会津藩士の墓所
会津藩士の墓所の前をさらに北に進みますと真如堂の本堂の裏側に道は続きます。
真如堂本堂裏側
ここ三年、毎年この時期に訪れる黒谷・金戒光明寺塔頭 栄摂院(えいしょういん)は 1589年の創建です。通常は門が閉ざされておりますが、この秋の
紅葉の時期には、一般に開放されている寺院です。
金戒光明寺の御影堂の西側の道を真如堂方面(北向き)に進みますと、栄摂院の山門横の紅葉が目に飛び込んでまいります。あまりの鮮やかさに目
を奪われつつ境内に入ります。
石畳の参道の突き当たりに見える中門。
二年前までは、この中門から先は入ることが出来ませんでしたが、昨年から解放なされております。本来、観光寺院ではないので、拝観料等は掛りま
せんが中門の内側に志納の竹筒が掛っております。
築山の中に佇む釈迦坐像
本堂東側
本堂北側の庭園
西日が当たりだすと、より一層鮮やかさを増していきます。
こちらの写真は、12月5日に再訪したときのものです。
この写真と下の二枚は、2010年11月29日の様子です。
この道を北に進みますと、真如堂に出ます。
こちらの栄摂院に車で行かれる方は、北側の真如堂南側の駐車場に停めるか、南側の金戒光明寺の駐車場に
停めてから、お越しください。
梨木神社で萩を見た後に初めて御苑に足を踏み入れました。 いつもは車で周辺を通り抜けるだけでしたが、歩いてみて広さを実感いたしました。
地図の右側中央の清和院御門から入り、御所の建礼門から南下し厳島神社から
清和院御門を西に進み右手の芝生の向こうに京都迎賓館があり、左手が大宮御所、正面が御所の東側の塀になります。
御所東側の建春門です。 京都御所は、794年、桓武天皇が平安京へ遷都した当時の内裏(御所)で、この京都御苑から約2km西に位置していま
した。現在の京都御所は内裏の焼失等の際に、天皇の仮住まいとなった里内裏のひとつである東洞院土御門殿に由来するもので、1331年(元弘元
年)、光厳天皇がここで即位されて以来、御所とされたものです。 1392年(明徳3年)の南北朝合一によって名実ともに皇居に定まり、明治に至るま
での約500年の間、天皇の住まいでした。建物自体はその間も焼失を繰り返し、現在の建物は安政2年(1855年)に平安時代の内裏の姿にならっ
て再建されたものです。 御所内の参観には宮内庁への事前の許可が必要ですが、春と秋の年2回、一般公開されます。
京都御苑は、江戸時代二百もの宮家や公家の邸宅が立ち並ぶ町でしたが、明治になって都が東京に移り、これら邸宅は取り除かれ、公園として整備
され市民へ開放されました。戦後は国民公園として位置づけられ、御所と一体となった景観を維持しつつ、散策や休養等の場として親しまれています。
現在苑内には百年を越える樹林が育ち、旧公家屋敷跡や庭園等歴史的遺構が点在し、古都の中心で特別な空間となっております。
建春門前を北側(今出川)への大通りです。 右手に、京都迎賓館があります。
御所の南東角から南側を見たところです。 左手は、大宮御所と仙洞御所です。右手は、有栖川宮邸跡
右手は、御所の南側壁と正面に蛤御門があります。 御苑の周りには、かつての公家町と市中の境界であった九つの御門があります。この蛤御門は、
もとは新在家御門と呼ばれ常に閉ざされていましたが、江戸時代の大火で初めて開門されたことから「焼けて口開く蛤」にたとえられ「蛤御門」と呼ば
れるようになりました。また、幕末の禁門の変では、御苑一帯が主戦場となり、この戦いに長州藩が敗れたことで幕末動乱の転機となりましたが、そ
の最大の激戦地だったのが蛤御門で、弾傷らしき跡が残っています。
御所南側の建礼門前から南側(丸太町)の建礼門前大通りです。
建礼門と夏の名残の百日紅
秋の訪れを知らす彼岸花
車体には、消防署ではなく皇宮警察本部の文字が見て取れます。
仙洞御所の御門
建礼門と大通り 京都御所の正門である建礼門前から南に延びる大通りは、沿道の広々とした芝生地とマツと合わせ、京都御苑を代表する風景です。
明治10年に京都に還幸された明治天皇は、東京遷都にともなって荒廃した九門内を嘆かれ、京都府に旧観を保存するよう御沙汰を下されました。こ
れに基づき、明治16年まで行われた大内保存事業により、御苑の骨格となる整備が行われ、この大通りもこの時、初めて設けられました。その後、大
正2~3年に大正天皇の即位大礼を行うための改良工事で、現在の規模に拡幅されています。
京都三大祭りのうち5月には葵祭、10月には時代祭の行列が建礼門前から出発し、この通りを通って市中に出て行きます。
建礼門前大通りの南側の突き当たりには、九条邸跡と厳島神社があります。
九条邸跡前、東山方面です。
九條池と拾翠亭は、五摂家の一つであった九條家の屋敷内に設けられた庭園の遺構です。このうち、拾翠亭は今から200年ほど前の江戸時代後期
に茶室として建てられたもので、貴族の茶室らしく、遊び心にあふれた建築と言われています。 今でもお茶会等に利用されている他、春から秋にかけ
ての毎週金曜日と土曜日に一般公開されています。拾翠亭の前面に広がる池は九條池と呼ばれており、安永7年(1778年)頃、東山を借景とし、拾
翠亭からの眺めを第一につくられたといわれています。今は、木々が伸びるなど、当時の景色とは様子が違っていますが、京都の中心部とは思えない
ようなゆったりとした雰囲気を楽しむことができます。
九条池と高倉橋
橋の西側に建つ茶室の拾翠亭は、週末の金曜、土曜日に公開されております。 また、拾翠亭の九條池の畔にあるサルスベリは、7月下旬から9月
下旬までが花の時期で、漢字で百日紅と書くほど、長い間紅い花を咲かせます。九條池に架かる高倉橋から見るサルスベリは、江戸時代後期の九
條邸遺構の拾翠亭を背後にして夏の京都御苑を代表する風景の一つとなっています。
九条池の北側に建つ厳島神社
厳島神社は、平清盛が母・祇園女御のために安芸の厳島神社を勧請したのが始まりといいます。当初は兵庫の築島にありましたがのちにこの地に
移されたと伝わります。祭神は、市杵島姫命、田心姫命、湍津姫命の宗像三女神を主祭神に、祇園女御を配祀いたします。配祀神は下述するように
本来は平清盛の母の霊であったと思われておりますが、後に著名なその姉(つまり清盛の伯母)の祇園女御に変えられたようです。
安芸国厳島社を崇敬した平清盛が、摂津国兵庫津に築島(経が島)を造成した際に、同島に社殿を構えて厳島社を勧請し、後に清盛の母の霊を合祀
したものに起源を持ち、その神社を時期不詳ながら当地へ遷座させたものと云われております。鎮座地は後世九条家の邸宅に取り込まれて同家の鎮
守として崇敬されるとともに、池泉廻遊式庭園の1部を構成するものともなりました。明治になって九条家は東京へ転宅し、その邸宅も東京へ移築され
ましたが、当神社はそのまま残され、昭和2年(1927年)には社殿が改築されました。
社殿の前に建つ鳥居は、「唐破風鳥居」と称され、北野天満宮境内社の伴氏社の石造鳥居、蚕ノ社の木嶋坐天照御魂神社の三柱鳥居と合わせて
「京都三鳥居」「京都三珍鳥居」とされております。
橋の上に居たおじさんが鯉のエサやりをされており、鯉が集まっておりました。
おじさんの叩く手の音に鴨も寄ってまいりました。
無防備すぎる猫
「誰やオマエ。」と言う声が聞こえてきそうな気怠い様子で、また寝てしまいました。
正面の木が、終わってしまいましたが百日紅の木です。
厳島神社を後にし、北側の宗像神社にまいります。
御苑南部にある宗像神社周辺のクスノキの大木には、毎年4月下旬頃から10月頃までアオバズクが訪れ営巣します。この時期、運が良ければ夕方
から夜にかけて、ホウホウという鳴き声が聞けたり、また、7月以降になると、2羽の親と数羽のヒナと仲良く肩を並べている姿を見ることができます。
平成4年に「アオバズクのすむ森」として、京都府の自然200選に選定されました。
アオバズク(青葉木菟)とは、フクロウ目フクロウ科アオバズク属に分類される鳥で、
夏季に中華人民共和国、日本、朝鮮半島、ウスリーで繁殖し、冬季になると東南ア
ジアへ南下し越冬いたします。インドやスリランカ、中華人民共和国南部、東南アジ
アでは周年生息し、日本では亜種アオバズクが九州以北に繁殖のため飛来(夏鳥)
するそうです。和名は青葉が芽生える季節に飛来することが由来と説明されてます。
宗像神社は、社伝によりますと、延暦14年(795年)、藤原冬嗣が桓武天皇の勅命を蒙り、皇居鎮護の神として筑前宗像神を勧請し、自邸である東京
第(東京一条第ともいう)の西南隅に祀ったものと伝わりますが、当神社の鎮座由来を記す最古のものとしては『土右記』が挙げられ、東京第は冬嗣の
没後、東の花山院と西の小一条第に分けられましたが、同書には当時の小一条第第主師成の語った以下の話を載せております。小一条第は藤原内
麻呂が息子の冬嗣に買い与えた邸宅ですが、その理由は、冬嗣がまだ内舎人であった頃、参内の途中で虚空から宗像大神が呼びかけ、父に頼んで
小一条第を買ってもらいそこに居住して傍らに宗像大神を祀れば、子々孫々にわたって守護しようとの神託があったためであると記されております。
花山稲荷大明神
手水場ですが、水は出ておりませんでした。
元紫宸殿の左近の桜です。 昭和11年に植え替えられる前の桜で、5年前には衰退して枯れそうでしたが、樹勢
回復処置により、元気を取り戻したそうです。
現在の烏丸竹屋町より夷川の両側を小将井町、小将井御旅町と云いますが、昔八坂神社の御旅所があったところで、その地に祀られていた神社で
す。京都市民となじみの深い祇園祭の後祭りの7月24日には、八坂神社より神職がお参りされ幣帛を供進されます。幣帛(へいはく)とは、神道の祭祀
において神に奉献するもののうち、神饌以外のものの総称で、「幣物(へいもつ)」とも言うそうです。 「帛」は布の意味であり、古代においては貴重であ
った布帛が神への捧げ物の中心となっていた そうです。
繁盛稲荷社 京都御所にも古くより、この地を外からの侵入者を防ぐ神として祀られ白狐が稲荷山に繁殖して神社を護ったとの伝説により土地を護り
子孫繁栄、事業発展を願う信仰があります。
左側の琴平神社(金毘羅宮) 讃岐・丸亀藩主の京極能登の神が1807年、常に崇敬厚き象徴の金毘羅宮を京都に祀り旅の都にて、国や藩の泰平
無事を日夜祈願されたとのとの事です。旅行の安全や海産に関係のある方々の守り神として崇敬されております。
宗像神社を後にし、神社の西側、御苑の西南角に位置する閑院宮邸跡に向かいます。
閑院宮家は伏見宮家、桂宮家、有栖川宮家と並ぶ四親王家の一つで、1710年に東山天皇の皇子直仁親王を始祖として創立され、公家町南西部の
この場所に屋敷を構えました。創建当初の建物は天明の大火(1788年)で焼失し、その後再建されていますが、現在の建物との関係など詳しいこと
はわかっていないそうです。 明治2年の東京遷都に伴い、閑院宮が東京に移られてからは、華族会館や裁判所として一時使用され、御苑の整備が
一段落した明治16年、宮内省京都支庁が設置されています。 第2次世界大戦後の昭和24年、京都御苑が国民公園となってからは、厚生省、のち
に環境庁の京都御苑管理事務所などに使用されていました。平成18年3月に改修工事を終え、京都御苑の自然と歴史についての写真・絵図・展示
品・解説を備えた収納展示室と庭園などを開放しております。
収納展示室 |
|
休館日 |
月曜日・年末年始(12月29日~1月3日) |
参観時間 | 午前9時~午後4時半 ※受付は午後4時まで |
入場料 | 無料(ご予約の必要はありません) |
ちなみに、御存じの方も多いと思いますが、京都御所とは中央の天皇の住居及び施設の事を指し、その周り全
体は京都御苑と云います。
管轄省庁は、御所が宮内庁、御苑が環境省、迎賓館が内閣府となり御苑内の警備は、皇宮警察が担当いたし
ます。 迎賓館が建つ前は、市民が利用できる球技場があり、30年のはるか昔に早朝野球で先輩に怒鳴られ
ながら走り回っていたことを思い出しました。
梨木神社(なしのきじんじゃ)は、御所の東側の寺町通りに面して建つ神社です。 明治維新に大きく貢献した右大臣正一位 三條実萬(さねつむ)公
と息子の内大臣正一位 大勲位公爵三條実美(さねとみ)公の二柱をお祀りしている神社です。
実萬公は、才識兼備菅原道眞公の生まれかわりと崇められ、当時の人々から今天神様と称せられたと言われ、早くから王政復古の大義を唱えられ、
明治維新の原動力となられた方でした。明治2年、天皇から「忠成公」の謚(おくりな)を賜り、明治18年10月、旧梨木町の三條家邸跡に隣接する今の
地に梨木神社が創建され、別格官幣社に列せられたもので、あまたある明治維新の元勲、元老、志士の中で唯一人公をお祀りしたものです。
息子の実美(さねとみ)公は、父実萬公の遺志を継がれ、あらゆる困難に堪え、危難に遭遇されながら、明治維新の大業を達成され、明治2年、都が
東京に移されるについて京都御廃止案は中止となったばかりか却って「国家の大礼は京都御所に於いて行う」と定められ、そのため、大正、昭和の
即位は京都御所で行われ、その都度京都は発展したといわれ、いわば公は、京都の恩人でもあります。大正4年、大正天皇の即位式にあたり、第二
座御祭神として梨木神社に合祀されました。 このように父子揃って同じ道を歩み、志を同じくし、御祭神として同一の別格官幣社に合祀されるというこ
とは実に稀有の例と云われます。
旧社格は別格官幣社あり壱の鳥居を潜った所に石碑が建っております。
梨木神社は、萩の名所としても知られ、境内には約500株の萩が植えられており、別名萩の宮とも呼ばれており、
9月の第三日曜に萩祭りがおこなわれ、見頃は、中旬~下旬となります。
9月27日の時点では、鳥居からの参道は8割近くが散っておりました。 毎年、第三日曜に萩祭りが執り行われ萩を詠った短冊があちこちに吊るされ
ておりました。
参道の右手には、日本最初のノーベル賞受賞者であり、当神社「萩の会」の初代会長であった湯川秀樹博士の歌碑建てられ、「千年の昔の園もかくや
ありし木の下かげに乱れさく萩」と、当社の優美な萩を詠んでおられます。
萩の名所として有名な当神社ですが、紅葉のシーズンには隠れた穴場として紅葉を楽しむ方々が訪れておられます。
境内にある茶席「旧春興殿」は、元京都御所のお清殿を梨木神社の神饌所として一部払い下げられたもので、「虚中庵」と共に、名水でたてるお茶を
愉しむ方々に利用していただいているそうです。
京都の三名水(醒ヶ井、県井、染井)のひとつである「染井の井戸」が神社の境内(手水舎)にあり、今も名水を拝受いたしております。この井戸はかつ
て文徳天皇の皇后明子の方の里御所の跡にあったもので、宮中御用の染所の水として染井の水が用いられたという由緒があります。皆さんペットボ
トルを持参して水を汲んでおられました。甘みを感じる実にやわらかい味でした。
萩は万葉の時代には最も愛された秋草で、その字もくさかんむりに秋を書き表し、日本で出来た国字だそうです。鑑賞だけでなく、食料、薬草、屋根材
として暮らしに深いかかわりをもった植物でもありました。万葉集に詠まれた植物のなかで最も多いのも萩の花で、可憐な花、しなやかにたわむ枝が
風にゆれこぼれる優美な姿を、万葉人はことに愛したと云われます。
舞殿前の両サイドには白い萩が植えられております。
本殿
こちらの石碑は、実萬公が天壌無窮と軸に書かれ、日夜皇室の弥栄を祈念しておられたが、破損したため石に刻まれたと伝えられており、明治天皇
はこのことをお聞きになり、日野西侍従に命じ、その石碑を拓本に取られ、2月11日の今の建国記念日にお居間に掲げられ、国家の弥栄、国民の安
泰を祈念されたと言われております。大正14年、時の京都府知事池田宏がこれを聞き、この石碑を三條家から譲り受け当神社に奉納されたものです。
石碑は、舞殿の西側に建ちます。
門の内側には、萩祭りで行われた俳句会の受賞作品が、貼り出されておりました。
樹齢何年を数えるのでしょうか、力強い松が何本もそびえております。
境内には、駐車場もありますが、満車の時は南側に御所の駐車場が控えております。寺町通りから出入りできます。
梨木神社前の御所の清和院御門です。 お天気もいいので御所の中を散歩しながら帰る事にしました。
廬山寺は、御所の東側の寺町通りに面した位置にあり、天台宗圓浄宗の大本山で、正しくは廬山天台講寺と号します。938年比叡山第18世座主・元
三大師良源によって天慶年中(938年~947年)に船岡山の南麓に開かれた興願金剛院にはじまります。 寛元元年(1243年)に法然上人に帰依し
た住心房覚瑜上人が出雲路に廬山寺を開き、南北朝時代にこの二ヵ寺を兼務した明導照源上人によっって廬山寺が興願金剛院に統合され、この時
以来寺名を廬山寺から廬山天台講寺と改め、円、密、戒、浄の四宗兼学道場といたしました。
その後、室町時代に応仁の乱で焼失した後、1571年には、織田信長の比叡山焼き討ちは正親町天皇の女房奉書により免れましたが、豊臣秀吉の寺
町建設によって1573年~1593年に現在地の紫式部邸宅址に移転いたしました。
現在の本堂は、度々の火災のため焼失後、1794年に光格天皇が仙洞御所の一部を移築し、女院、閑院宮家の御下賜でもって改装されたものです。
明治維新までは御黒戸四箇院と云って、宮中の仏事を司る寺院が四ケ寺ありその中の一つでありましたが、廃仏毀釈により宮中より天台宗にお預け
になり昭和二十三年圓浄宗として元の四宗兼学の道場となり今日に至っております。
山門の正面に位置する元三大師堂は、天明大火後の天保六年(1835)の再建で、奥に元三大師を祀る扉付仏壇をおき、毎月三日に護摩を行っており、
どなたでもご自由に参加できる様になっております。
元三大師象・鎌倉時代
元三大師堂の北側に鎮座する賓頭盧(びんずる)尊天像。賓頭盧さんは、十六羅漢の第一とされておりましたが、神通力をもてあそんで釈迦に呵責さ
れ、涅槃(ねはん)を許されず、釈迦の入滅後も衆生(しゅじょう)の救済にあたったと云われております。白髪と長眉(ちょうび)の姿で示され、日本では堂
の前に置き、これを撫でると除病の功徳があるという俗信が広まりました。
京都七福神 三番毘沙門天 境内西の大師堂は元三大師像を本尊として、左右に不動明王、金山毘沙門天、薬師如来像を安置しております。 この
毘沙門さんは聖徳太子作と伝えられており、聖徳太子は父・用明天皇なきあと皇位継承問題で排仏派の物部守屋らと戦いましたが、そのとき戦勝祈
願したのが毘沙門天でした。戦いに勝った太子は仏教をひろめるため四つの天王寺を築きます。
四天王寺の中でも、大阪四天王寺はあまりにも有名ですが、京都北山に建立したのが金山天王寺で、本尊を如意輪観音とし、脇侍に毘沙門天像を安
置したと伝えられており、その後、金山天王寺がどういう軌跡をたどり廃寺となったかはわかりませんが、廬山寺は天慶元年(938)北山に創建され、洛
北の地を転々として天正13年(1585)現地へ移ったと伝えます。金山毘沙門天像を廬山寺で祀るようになったのは明治元年からといわれております。
当初の本尊如意輪観音並びに伽藍等は数度の火難に遭遇し、久しく廃絶に帰しましたが、承願元年(1207)に烏丸一条北に再建され、承久年中(12
19)に上立売室町東に移転するその間、本尊もその当時の大阪・四天王寺の本尊[飛鳥時代]を模倣造立し、旧観に復しました。天正13年(1585)廬山
寺二十二世超空上人が今出川通り七本松に移され、明治7年(1874)二月官許によって廬山寺に合併され現在に至り、現存の本尊如意輪観音は鎌倉
時代の作でありますが、飛鳥仏の姿貌を残す霊験の顕著なること炳として日星の如く、諸願よく成就し、これをもって古来より来たり、詣でるもの雲の如
く集まり、常に香華耐えることはなしと云われております。現在はお前立ちのみ、元三大師堂内に安置されており、本体は京都国立博物館の常設展示
会場にて展示されております。
如意輪観音半伽像 黒戸 宮中で云う仏間のことで、仁孝天皇が宮中で祭られていた光格天皇
と新清和院皇后の御尊碑が安置されております。
元三大師堂を護る獅子像
本堂・庭園の拝観受付には、元三大師堂の南側を回り向かいます。
境内の南側に建つ鐘楼
鐘楼の東側に佇む筆塚 日本画家、池田遙邨(いけだようそん)の筆塚 池田遙邨(1895~1988)は岡山県倉敷市出身で、現在の京都市立芸術
大学の助教授を務めていたことがあるそうですが、廬山寺との接点や筆塚が建った由来等は見つけることが出来ませんでした。 お寺の方に聞くのが
一番ですが、興味がおありの方は尋ねてみてください。
紫式部の歌碑 「めぐりあひて見しや それともわかぬ間に 雲がくれにし夜半の月かな」 紫式部が幼友達に贈った歌がきざまれております。
『思いがけず出合って、その形を見たのかどうか分からぬうちに、雲の中に隠れてしまった夜中の月のように、久し振りにお目にかかり、お姿をみたか
どうか分からぬうちにもうあなたはお帰りになられましたのね。』といった意味の内容が表現されております。 少女時代の紫式部については、有名な
逸話がつたえられています。 紫式部の実弟・惟規が父の為時について「史記」を学び、なかなか覚えられずに難渋していたが、わきで聴いている紫
式部はすらすらと覚えてしまうので、為時は、「この娘が男でないのが残念だ」と歎いたという話である。 もう一つの歌は、紫式部の娘の歌がきざまれ
ております。 「有馬山ゐなの笹原風吹けば いでそよ人を忘れやはする 」 大弐三位
源氏物語の舞台 日本人で唯一人「世界の五大偉人」に選出され、フランスのユネスコ本部に登録された世界最古の偉人並文豪紫式部は、「平安
京東郊の中河の地」 すなわち現在の廬山寺の境内(全域)に住んでおり、それは紫式部の曽祖父、権中納言藤原兼輔(堤中納言)が建てた邸宅(堤
第)であり、この邸宅で育ち、結婚生活を送り、一人娘の賢子を産み、長元四年(西暦1031年)五十九歳ほどで死去したといわれております。 紫式部
は藤原香子と呼び、「源氏物語」「紫式部日記」 「紫式部集」などは、ほとんどこの地で執筆されたものであります。そのため、世界文学史上屈指の史
跡、世界文学発祥の地とも言われております。この遺跡は考古学者角田文衛博士によって考証されたものであり、昭和四十年十一月、境内に紫式部
邸宅跡を記念する顕彰碑が建てられました。
拝観受付のある本堂玄関
磨き上げられた本堂の板張りの廊下は、7月の暑さの中とてもひんやりと一服の清涼感を味わえます。
御本尊の阿弥陀如来三尊(平安時代)は、来迎を現しており、説明により
ますと、両脇侍像に見られる動きのある容姿と風の表現を意図した造形は
この時代にあって出色のものだそうです。
本堂南側の庭園は、「源氏庭」と名付けられ、平安朝の庭園の「感」を表現した白砂と苔の庭で、紫の桔梗が6月~9月まで順次咲いていきます。
紫式部が育ち、未婚時代を過ごしたのは堤第といわれた藤原兼輔(紫式部の曽祖父であり、堤中納言といわれる)が建てた邸宅であり、父・為時の邸
宅においてでした。この邸宅で結婚生活を送り、一人娘の賢子(かたこ)を育て、源氏物語を執筆したと云われており、それは平安京の東に接した中河
と呼ばれる地にあり、現在の廬山寺の境内を中心とする処に営まれていました。昭和40年11月、廬山寺の境内に紫式部の邸宅址を記念する顕彰碑が
たてられました。 また、源氏物語の花散里の屋敷はこのあたりであったといわれています。
源氏物語に出てくる朝顔の花は今の桔梗のことであり、紫式部に因み、紫の桔梗が6月から9月末まで静かに花開きます。
この庭園を鑑賞するのは、やはり桔梗が咲き誇るこの時期が素晴らしいと思います。
紫式部の邸宅址を記念する顕彰碑
若紫(住吉廣尚画) 紫式部が執筆した「源氏物語」は、日本が世界に誇る
文化遺産として、筆頭に挙げていい傑作長編の大恋愛小説であると、瀬戸
内寂聴談がパンフレットに載っております。
節分に執り行われる「追儺式鬼法楽」(通称 鬼おどり)は、開祖元三大師良源が村上天皇の御代に宮中に於いて300日間の護摩供養を修せられた
時に三匹の鬼(人間の善根を毒する三種の煩悩、即ち貪欲、嗔恚、愚痴の三毒を表現しており) が現れ、この三鬼を節分の日に追い払い、開運をはか
り、新しい節を迎えるという法会行事です。 太鼓と法螺貝の音を合図に松明と宝剣を持った赤鬼、大斧を持った青鬼、大槌を持った黒鬼が大師堂前
の特設舞台に出現し、足拍子をとりながら、堂内に入ります。堂内では厄除け開運、福寿増長の護摩供の修法が執り行われており、そのまわりを三鬼
が踊りながら修法の妨げをするのですが、、 護摩供の秘法、追儺師の邪気払いの法弓、そして蓬莱師、福娘によって撒かれる蓬莱豆及び福餅の威力
に追われて鬼は門外へ逃げ去ります。
元三大師堂
山門の南手の寺町に面した壁の前に建つお社 庭園の桔梗は、文中でも書きましたが、9月末まで順次開花しているようです。お車でお越しの方は、
山門内の境内に6・7台は駐車することが可能です。 なお、寺町通りは、今出川からは下がれませんので、一本西側の御所の横の道を突き当たりまで
下がって左折しますと、寺町に出ますので南に折れるとすぐ左手(東側)に山門があります。丸太町からの方は、寺町の信号を北上してください。
このブログを見ていただいているお客様も多数お越しいただき、大変ありがたく思っております。時間の許す限り随時更新を続けていきたいと思っております。
私もまだまだ行ったことのない寺院が沢山ありますので、リクエストがございましたら、是非伺いますので遠慮なく仰ってくださいませ。
祇園 割烹 ふじ原 ホームページ http://kappou-fujiwara.com/
岡崎の動物園の疎水を挟んで南側に位置する無鄰菴庭園は、明治27年(1894)から明治29年(1896)にかけて明治・大正の元老である山県有朋(
やまがた ありとも)が京都に造営した別荘です。その名は、有朋が長州(山口県)に建てた草庵が隣家のない閑静な場所であったことから名付けら
れたといいます。
その後、有朋は京都の木屋町二条に別荘を構え、無鄰菴と号しましたが、さらに新しい地に好みの別荘を作りたいと考え、明治27年(1894)現在の
地で無鄰菴の造営にとりかかりました。工事は日清戦争の勃発により一時中断しましたが、翌年2月から本格的な工事を再開し、明治29年(1896)に
完成しました。 有朋はこの別荘の庭園をこよなく愛し、多忙な公的生活の合間にも夫人を伴ってしばしば訪れましたが、その後大正11年(1922)に8
3歳でこの世を去っています。
玄関を入り受け付けは、左手奥にあります。
拝観受付を済ませ、小さな庭園入口の潜戸を入ります。
左手に母屋があり、庭園内を廻ることが出来ます。 右手は「無鄰菴会議」が開かれた洋館です。
敷地の大半を占める庭園(面積約3,135平方メートル)は、有朋自らの設計・監督により、平安神宮の神苑などを手掛けた造園家・小川治兵衛(おがわ
じへえ)が作庭したもので、ゆるやかな傾斜地に、東山を借景とし、疏水の水をとり入れ三段の滝・池・芝生を配した池泉廻遊式庭園です。
母屋の小川をはさんだ南側には、藪内流燕庵写しの茶室が建ちます。
山縣が別邸無鄰菴をこの地に築いた背景には、東山山麓の南禅寺下河原一帯を別荘地として位置づけて発展させようとしていた当時の政財界の動
きがあったと云われており、この一帯にあって広大な境内に塔頭が立ち並んでいた南禅寺は明治初期の廃仏毀釈で、他の寺院と同じく寺領の上知を
命ぜられ、境内の縮小や塔頭の統廃合を余儀なくされました。このとき上知された寺の土地はやがて民間に払い下げられ、琵琶湖からこの地に至る
琵琶湖疏水が計画され、第一期工事が明治23年に竣工すると、京都市や京都府は、この東山地区を風致地区として、将来の別荘地とする方針を取っ
ておりました。無鄰菴は、その別荘・別邸群の先駆けともいえる存在となり、無鄰菴に続くようにできた付近の別荘の作庭も、七代目植治がその多くを
引き受けることとなったと説明されております。
庭園の東端には、池の源泉になる琵琶湖疏水を引き込んだ、滝があります。
庭園は、池を一周するのではなく、滝の所で引き返すように散策路が出来ております。
茶室東側の蹲踞
茶室西側
母屋二階と茶室は、事前の申し込みがあれば、借りることが出来るそうです。 詳しくは電話でお尋ねください。 075-771-3909
二階建ての洋館の1階は展示室となっており、山縣氏の功績や小川冶兵衛氏の作庭した庭の写真などが展示されております。
山縣 有朋(やまがた ありとも、1838年6月14日ー 大正11年(1922年)2月1日)は、日本の武士(長州藩士)から、明治維新を経て陸軍軍人、政治家
として活躍した人物で、階級は元帥陸軍大将、位階は従一位、勲等は大勲位となっております。功級は功一級、爵位は公爵、内務大臣(初・第2・第
3代)内閣総理大臣(第3・9代)、元老、司法大臣(第7代)、枢密院議長(第5・9・11代)、陸軍第一軍司令官、貴族院議員、陸軍参謀総長(第5代)な
どを歴任いたしました。 長州藩領内の蔵元仲間三郎有稔(ありとし)の子として生まれ、幼少の頃より改名を重ね、明治維新後は有朋の名を称しまし
た。 高杉晋作が創設した奇兵隊に入って頭角を現し、後に奇兵隊の軍監となり、明治新政府では軍政家として手腕をふるい日本陸軍の基礎を築い
て「国軍の父」とも称されるようになりました。国政に深く関与するようになってからも「わしは一介の武弁」と称するのが常であり、官僚制度の確立に
も精力を傾け、門閥や情実だけで官僚文官官吏が登用されることの無いように文官試験制度を創設し、後進を育成し山縣が軍部・政官界に築いた幅
広い人脈は「山県系」「山県閥」などと称されまでになりました。晩年も陸軍のみならず政官界の大御所、「元老中の元老」として隠然たる影響力を保
ち、「日本軍閥の祖」の異名をとり、伊藤博文とならび明治維新期に低い出自から栄達を遂げた代表的人物です。
七代小川 治兵衛(おがわ じへえ、1860年5月25日ー 昭和8年(1933年)12月2日)は、近代日本庭園の先駆者
とされる作庭家、庭師で、通称植治(屋号)の名で有名です。 中興の七代目小川治兵衞は源之助といい、山城
国乙訓郡神足村(現在の京都府長岡京市)生まれで、明治10年(1877年)に宝暦年間より続く植木屋治兵衛で
ある小川植治の養子になり、明治12年(1879年)に七代目小川治兵衛を襲名いたしました。
植治は、明治初期、京都東山・南禅寺界隈に新たに形成された別荘地において、東山の借景と琵琶湖疏水の引き込みを活かした近代的日本庭園群
(南禅寺界隈疏水園池群)を手掛けたことで名高く、琵琶湖疏水は計画段階では工業動力としての水車に用いることが期待されていたものの、その後、
工業動力としては水力発電が採用され、明治23年(1890)に疏水が完成した時には水車用水としての用途はなくなっておりました。明治27年、植治
は並河靖之邸の七宝焼き工房に研磨用として引きこんだ疏水を庭園に引き、次いで山縣有朋の求めに応じて、庭園用を主目的として疏水を引きこん
だ無鄰菴の作庭を行い、これを草分けとして、植治は自然の景観と躍動的な水の流れをくみこんだ自然主義的な近代日本庭園を数多く手がけて、それ
らを設計段階から資材調達、施工、維持管理まで総合的に引き受けていきました。
植治の手掛けた庭園は数多く、平安神宮・円山公園・無鄰庵(山縣有朋公邸)・清風荘(西園寺公望公邸)・対龍山荘(市田弥一郎邸)・等国指定名勝
指定庭園の作庭をはじめ、さらに古河庭園、平安神宮、京都博物館前庭、野村碧雲荘などや住友家(有芳園・茶臼山邸・鰻谷邸・住吉・東京市兵町邸)
・三井家・岩崎家・細川家等数多くの名庭を残し、そのほかにも京都御苑と御苑内御所・修学院離宮・桂離宮・二条城・清水寺・南禅寺・妙心寺・法然院
・青蓮院・仁和寺等の作庭および修景も手がけました。
植治の屋号は現在に至るまで代々「小川治兵衞」の名前を受け継いでおり、とくに写真にある7代目の作庭は有名であるが、しかし実際には、7代目
作とされる庭も8代目、9代目により製作されたものもあり、混同されているまま現在に伝わっている点もあります。当時は、京都御所、桂離宮、二条城
や市内街路樹などの手入れも植治で行い、東京の岩崎邸の修景なども手掛けております。
この洋館2階の間は、しばしば要人との会見に用いられたそうで、日露戦争開戦前の1903年(明治36年)4月21日にはここでいわゆる「無鄰菴会議」
が行われました。その時の顔ぶれは、元老山縣有朋、政友会総裁伊藤博文、総理大臣桂太郎、外務大臣小村寿太郎でした。
当時、ロシアは強硬な南下政策をとっており、満州のみならず北朝鮮でも勢力の拡大をすすめており、 桂は、ロシアの満州における権利は認めても、
朝鮮における日本の権利はロシアに認めさせる、これを貫くためには対露戦争も辞さないという態度で対露交渉にあたるため、この方針への同意を伊
藤と山縣から取り付けようとしたのがこの会議です。
この時桂は、「満韓交換論」とも言うべき対露方針についてを伊藤と山縣から同意をとりつけ、以下はその時の「対露方針四個條」です。
この後、この「満韓交換論」に基づく対露直接交渉の方針は、山縣、伊藤、大山、松方、井上に、桂首相、下村外相、山本海相、寺内陸相が出席した
6月23日の御前会議に提出され、上の方針に基づいて対露交渉に臨むことが確認されました。国内には当時すでに「露国討つべし」の世論が高まり
つつありましたが、元老と政府首脳陣はまだ外交交渉によって戦争という破局を避けようと模索していたとあります。
車でお越しの方は、無鄰菴南側にある京都市国際交流会館の駐車場が一番近くて便利だと思います。
平安神宮の東北、金戒光明寺の北側に位置する真如堂は、正式には鈴聲山(れいしょざん)真正極楽寺(しんしょうごくらくじ)といい、比叡山延暦寺を
本山とする天台宗のお寺です。 真正極楽寺とは、「極楽寺という寺は多いけれど、こここそが正真正銘の極楽の寺である」という意味で、一般には「真
如堂」と呼ばれていますが、それはもともとは本堂の呼び名でした。
今から、約1千年前の永観2年(984)、比叡山の戒算上人(かいさんしょうにん)が、比叡山常行堂のご本尊阿弥陀如来(慈覚大師作)を東三條女院(藤
原詮子。円融天皇の女御・一條天皇の御母)の離宮があった現在の地に移して安置したのが、真如堂の始まりといわれております。 表参道の表門
慈覚大師が30才過ぎの頃、滋賀県の苗鹿明神(のうかみょうじん)で根元が毎夜光っている霊木を見つけられ、それを割ってみると、座像と立像の阿弥
陀さまの形が現れたといいます。大師はこの霊木の片方で阿弥陀如来座像を造立し、自坊に安置し、後に日吉大社念仏堂の本尊とされました。立像は
そのままご自身で持っておられました。
その後、大師が唐(中国)に留学された帰り、荒れ狂う波間の虚空より小身の阿弥陀如来が香煙に包まれて現れ、大師に引声念仏(いんせいねんぶ
つ)の一節を授けました。大師はこの如来を袖に包み取り、日本に帰ってから、大切にしまっておいた霊木で阿弥陀如来を完成させ、その胎内にこの
3センチほど如来を納められました。
もうすぐ完成するという時、慈覚大師が「比叡山の修行僧のための本尊になって下さい」と眉間に白毫(びゃくこう)を入れようとすると、如来は首を振っ
て拒否されました。「それでは都に下って、すべての人々をお救い下さい。特に女の人をお救い下さい」と言われると、如来がうなづかれたところから、
「うなづきの弥陀」とも呼ばれています。
永観2年(984)の春、開祖戒算上人の夢枕に、阿弥陀仏の化身である老僧が現れ老僧は、「我は叡山の常行堂より参った。京に出てすべての者に
利益を施すであろう。わけても女人を済度するものである。急いで京に下山させるべし」と、戒算上人に告げました。
比叡山の僧衆が協議した結果、慈覚大師作の常行堂の阿弥陀如来を下山していただくことを決定。ひとまず、雲母坂の地蔵堂に仮安置し、どこに遷座
していただくかと協議していたら、また夢の老僧が現れて、「神楽岡のあたりに、小さな桧千本が一晩のうちに生えた場所がある。そここそ仏法有縁の
地であり、衆生済度の場である。まさしく末法の世に、真正極楽の霊地なるぞ」とお告げになりました。
その場所は、折しも同じ夢をご覧になった東三條女院(藤原詮子)の離宮でした。女院は寝殿を飾り、堂荘厳を施して、ここに如来を遷座し真如堂の始
まりとなりました。
表門を入り参道の右手に見えてまいる多宝塔(三重塔)は、寺内でも一番新しく1817年の竣工となっております。
その後、一條天皇の勅願寺となり、また不断念仏の道場として、浄土宗の開祖法然上人や浄土真宗の開祖親鸞聖人をはじめとする多くの念仏行者、
多くの民衆の厚い信仰を集め、ことに女人の非常に深い帰依を得てきました。
しかしながら、応仁の乱(1467~77)の時、この辺り一帯が東陣となり、その戦火で堂塔は消失。ご本尊は比叡山の黒谷、滋賀県穴太(あのう)に避難。
その後も京都室町勘解由小路(足利義輝邸)、一条西洞院(1477)を転々とした後、旧地にもどり再建されました(1519)。その後、秀吉により京極今出川
下るに移転(1578)しますが類焼し、ようやく元禄6年(1693)東山天皇の勅により、再び旧地にもどり再建されました。今でも、寺町今出川下るには「真如
堂突抜町」「真如堂前町」、一条西洞院(上京税務署近辺)には「元真如堂町」、烏丸二条に「真如堂町」として名残をとどめています。
本堂は、元禄6年(1693)から享保2年(1717)にかけて建立。総欅・単層入母屋・本瓦葺で、木材にはことごとく「〇〇家先祖代々菩提の為」と記されて
います。 正面「真如堂」の大額は享保11年(1726)宝鏡寺宮からの寄付によるものです。本堂正面の宮殿(徳川五代将軍綱吉公と桂昌院の寄進)の
中には、ご本尊阿弥陀如来・不動明王(安倍晴明の念持仏)・千手観音がおまつりされています。
本堂に上がりお参りをすませ、本堂内から書院庭園の拝観受付をして書院にむかいます。
不動明王(安倍晴明の念持仏) 御本尊阿弥陀如来 千手観音
本堂北側から書院に向かいます。
廊下左手が、真如堂の大玄関になります。
書院手前に清めの手水鉢が備わっております。
書院に入ると案内の方が、順路に従い、右手の南庭から案内をしていただけます。
この燈籠は、真如堂を菩提寺とする旧財閥の三井家から寄贈されたものだそうです。
燈籠の隣の小小坊(しゃしゃんぽ)とは、ツツジ科スノキ属の常緑樹で、7月頃に白色の馬酔木のような壺状の花
が咲き、果実は小さい球形の液果で黒紫色に熟し、食べることができるそうです。この果実は同属のブルーベリー
類と同じく、アントシアニンを多く含み、名前の「小小坊」は小さな丸い果実を意味すると説明されております。
書院東側には、涅槃の庭と呼ばれる庭園が、左手の大文字山と東山を借景に、北枕で右側を下にして横たわるお釈迦様の姿を現せております。借景
の大文字山を お釈迦様の頭と見立てれば二重の涅槃図を表現しているそうです。
案内をしていただいている方の説明がとても詳しく丁寧なので、いろいろと勉強させていただきました。
右手の島の中央の石は、涅槃図の中の右上に描かれているお釈迦様の母親の姿を現しているそうです。
こちらの涅槃図は、毎年3月に一般公開されるそうです。
書院の北側には、隋縁の庭と名付けられた庭園が昨年の7月に完成しました。 作庭は、重森三玲氏を祖父に持つ重森千青の設計によるものです。
正面の仏殿の蟇股に掛る四つ目の家紋をモチーフに作庭されたそうです。
隨縁の庭の西側に建つ茶室
茶室横の東屋
内側から見た大玄関前です。
本堂裏側(東側)
本堂裏側の釈迦三尊図 左から像に乗った普賢菩薩と釈迦如来と獅子の乗った文殊菩薩です。
本堂を回り南側から見た三重塔です。
書院を回り本堂も一周してまいりました。
本堂前の北側にある弁天池に浮かぶ島に佇む弁天堂
本堂前北側に建つ伝教大師立像
本堂を下りて北側から本堂裏に回り一周してまいります。
本堂裏の東庭園には、渡り廊下の階段の下を潜り裏側に出ます。
先ほど伺った書院庭園の南門です。
本堂南側の石に囲まれた桜は、「たてかわ桜」と言い徳川家光の乳母・春日の局が、父・斉藤内蔵介利三の菩提
を弔うために植えた桜といわれております。 斉藤内蔵介利三は、明智光秀の重臣でしたが、秀吉軍に敗れた後、
粟田口の刑場で斬首された首を友人が、奪い返し真如堂に葬られたことから、この桜につながります。現在の樹は、
伊勢湾台風で倒れた樹から接ぎ木をして根付かせたものだそうです。
阿弥陀如来露仏 本堂の南側に、大きな金仏さんが鎮座されています。その台座の蓮弁の石には、「木食正禅(もくじきしょうぜん)造立」と刻まれて
います。 「木食」とは米穀などの五穀を断ち、木の実を生のままで食べる修行をすることで、そのような修行をする僧を「木食上人」と呼ぶそうです。
仏像前の藤棚
三重塔
真如堂で飼われている猫でしょうか、いつもこのあたりに二、三匹がくつろいでおります。
三重塔南側の参道です。
参道南側の吉祥院の山門前
こちらは、2010年の秋、紅葉の様子です。
http://blog.goo.ne.jp/kappou-fujiwara/e/90982152362970ced0c627706af7d246
雨宝院は、今出川通智恵光院を北へ、二筋目の上立売通を西に入ったところにあり高野山真言宗派の寺院です。 西陣界隈の人からは西陣聖天さん
と呼ばれております。 説明によりますと、平安時代の弘仁12年(821)嵯峨天皇の病気平癒を弘法大師空海が祈願し、六臂の歓喜天(聖天)を安置し
大聖歓喜寺が始まりとされます。
当初、境内は広大で千本通五辻までありましたが、応仁の乱(1467~77)により堂宇は焼失し、荒廃いたしましたが、天正年間(1573~92)
に雨宝院のみが現在地に再建されたと伝えられております。
上立売通りの南門から入りますと、 左手に本堂の観音堂があり平安時代中期の作とされる木造千手観音菩薩像が安置されております。
南門の右手には、「染殿井」があり涸れることなく湧いおり、染色に使うとよく染まると云われ、以前は西陣の染物関係者が水を汲みに来ていた井戸で、
現在は清めの手水に使われております。この「染殿井(そめどのい)」は西陣五名水の一つで、他は「千代井(ちよのい)」、「桜井(さくらい)」、「安居井(あ
ぐい)」、「鹿子井(かのこい)」があるそうです。
境内は、広くなく本堂、観音堂の他不動堂・稲荷堂・庚申堂などが所狭しと建っており、その空間を桜と松が覆っている感じの境内です。
観音堂の前にある八重桜は、御室桜と同じ種類で根元から枝が分かれており、「歓喜桜」と呼ばれる桜です
歓喜桜の横で枝を張る松は、久邇宮朝彦親王が当院へ参拝された折、突然の雨にこの松の下で雨宿りされたことから、いつしか「時雨の松」と呼ばれ
るようになったといいます。枝を支える添え木が張りめぐらされております。
歓喜天を祀るお堂
こちらの紅枝垂れも満開の花を咲かせておりました。
歓喜天さんの北側に庚申堂と不動堂があります。
乙女椿でしょうか?
「時雨の松」
染殿井
南門
西側の門と正面に歓喜天
堀川寺の内は、茶道千家御三家の本拠地にあたり、本法寺の仁王門の東側が裏千家今日庵、その南側が表千家不審庵があります。
本法寺は、日蓮宗京都十六本山の一つに数えられ、開基は信仰規範の不受不施(ふじゅふせ)を唱えた日親(にっしん)上人で、1436年東洞院綾小路
(四条烏丸の東南辺り)に建立されたのに始まります。不受不施(ふじゅふせ)とは、日蓮宗の信仰規範で「僧は法華信徒でないものからの布施を受け
ず(不受)、信徒は法華寺院以外の僧に施さない(不施)」の意味。
法華の行者としての強い自負と信念をもつ日親は、1439年、三代将軍足利義教(よしのり)の屋敷を訪ね、諌暁(かんぎょう)を図ります。諌暁とは、
「諫め諭す(いさめさとす)」という意味で、将軍義満に「世の中が乱れているのは法華経を信仰していないから」と法華経受持を説いたとあります。
驚いた幕府は諌暁を禁止させ、それでも諦めることのない日親は、翌年、諌暁書「立正治国論」を著したため幕府の怒りに触れ、寺を焼かれてしまい
投獄されることとなりました。投獄されていた牢では、日親は危険人物とみなされ、火あぶり・鞭打ち・焼き鍋を頭に被せるのどの拷問を受け続け改宗
を迫られましたが、信念を変えることは無かったことから、後に“鍋かぶり日親”と称されるようになりました。
1441年、赤松満祐(あかまつみつすけ)の謀反で義教が殺されたことで日親は赦免され、出獄後、獄中で知り合った本阿弥清信の絶大な帰依を受け、
本法寺を再興することができ、後に本法寺は本阿弥家の菩提寺となりました。
山門を入り右手に建つ摩利支天を祀るお堂です。
摩利支天の遣いは猪が務めているため、狛犬の代わりに猪が鎮座しております。
1536年、本法寺は、「天文法華の乱」で他の法華宗寺院と同じく、一時期和泉(大阪)の堺へ避難いたしますが、法華(日蓮)宗本山の帰洛が許され
一条堀川に再建され更に1587年、豊臣秀吉の聚楽第造営にあたり、強制的に替地として与えられた現在地へ移転しております。このとき、移転工
事を監督したのが本阿弥光悦で、その後の天明8年の大火により堂宇の殆どを焼失いたしましたが、暫時再建され現在の堂宇となっております。
本法寺の墓地には、本阿弥家一族や長谷川等伯らの墓があり、展示館では長谷川等伯筆による総丈約10mの「佛涅槃図」(重文)の複製品のほか
寺宝を見ることが出来ます。
本堂前に建つ多宝塔
本堂
本堂南側の鐘楼と経蔵
鐘楼前より
山門方面
本法寺には、本阿弥光悦作とされる枯山水庭園「三つ巴の庭」あり、光悦ゆかりの品も多数所蔵されておりますが、時間の関係で拝観することが出来
ませんでした。
本堂
本堂前の開山堂
開山堂横の石碑
本堂前の長谷川等伯像と光悦が植えたといわれる松の木
仁王門
仁王門前の裏千家茶道会館を隔てる寺壁
小川通りを挟んで左手が裏千家今日庵と表千家不審庵
本法寺の一筋北の通りに位置する妙覚寺は、北朝の1378年、妙顕寺の跡継ぎをめぐる意見の対立から妙顕寺を離れた日実(にちじつ)上人が、信徒
で富商の小野妙覚(おのみょうかく)の援助を受けて四条大宮の妙覚の邸宅に日像上人を開山に仰ぎ創建された寺院です。日蓮宗京都十六本山の一
つで、妙顕寺(上京区寺之内通堀川東入る)、立本寺(上京区七本松通仁和寺街道上る)と並ぶ具足山の一つです。
この妙覚寺の建つ寺之内界隈には、多くの寺院が並んでおり、寺之内通は、秀吉による都市改造政策により寺町と同様多くの寺院が移転させられた
寺院街になります。特にこの堀川通寺之内界隈は妙覚寺をはじめ妙顕寺、本法寺、妙蓮寺などの日蓮宗の寺院が密集しております。
表門の正面に現在修復中の祖師堂があり、堂内には日蓮・日朗・日像の坐像が安置されております。
妙覚寺は四条大宮に創建された後、室町中期の1483年、十二世日寮上人のとき、九代将軍足利義尚(よしひ
さ)の命で、二条通衣棚に移転しました。その後、日蓮宗の信仰が公武の高官や武士・富商・町衆へ浸透して隆
盛を誇るようになりました。
1536年、日蓮宗の巨大化を恐れた天台宗(比叡山)の僧兵ら約6万により、京都洛中洛外の日蓮宗寺院21本山は襲われ、勢力を誇っていた日蓮宗寺
院はことごとく焼き払われ、妙覚寺も他の寺院ともども堺へ逃れました。途中の鳥羽街道で貫主は流れ矢により亡くなりましたが、6年後の1542年、日
蓮宗本山の帰洛が許され、妙覚寺は1548、十九世日饒(にちじょう)上人が旧地二条通衣棚に復興いたしました。この頃から、妙覚寺は本能寺と共に
織田信長の上洛時の宿所とされるようになりました。これは日饒上人が斉藤道三の子であったことと、信長の妻・濃姫が道三の娘であったためと考えら
れております。
その後、信長は妙覚寺で千利休を茶頭とした大茶会を何度か催したといわれており、1582年6月の上洛時、信長の嫡子信忠は妙覚寺を宿に、信長は
本能寺を宿にし、この時も妙覚寺では茶会が催されたといわれます。その夜の明け方未明、明智光秀軍は、本能寺の信長を襲い自害させたあと、直ぐ
に信忠がいる妙覚寺へ向かい、信忠は妙覚寺から二条殿へ向かい誠仁親王を無事退去させたあと、追撃してきた光秀軍と戦いましたが、数に勝る光
秀軍に信忠も自害に追い込まれました。この歴史に残る「本能寺の変」により妙覚寺は焼失いたしました。
1590年、権力を握った豊臣秀吉の都市改革令により洛中寺院の大半は強制的に市街地の北側の寺之内と東側の寺町へ移転させられ、このとき妙
覚寺は北の寺之内へ移建され現在に至りますが、1788年天明の大火で華芳塔堂と表門を残し堂宇を焼失いたし、現在の建物は、その後のものです。
妙覚寺の北側にある墓地には、狩野元信・永徳ら一門の墓と、日蓮・日朗・日像・日奥らの墓があります。
左側の庫裡と玄関、さらに右手に唐門が建ちます。 唐門の奥に本堂が建ちますが、時間の都合で拝観いたしませんでしたが、本堂前の庭園・法
姿園はモミジに杉苔の絨毯が敷き詰められ、モミジの隠れ名所の一つと云われているそうです。本堂の奥には、日蓮聖人が比叡山で法華経一巻を
写経し、石造の塔に収めたという石塔と、その石塔を収める木造多宝塔を収めた華芳宝塔があります。
妙覚寺の北側にある塔頭の善明院の紅枝垂れです。中には入れませんので外からの様子だけ撮ってきました。
平安神宮は、1895年(明治28年)3月15日に平安遷都1100年を記念して京都で開催された内国勧業博覧会の目玉として平安京遷都当時の大内裏
の一部復元が計画されました。当初は、実際に大内裏があった千本丸太町に朱雀門が位置するように計画されたましたが、用地買収に失敗し、当時
は郊外であった岡崎に実物の8分の5の規模で復元されました。
博覧会の後は、建物をそのままにして、平安遷都を行った天皇であった第50代桓武天皇を祀る神社として創祀され、皇紀2600年にあたる1940年(昭
和15年)に、平安京で過ごした最後の天皇である第121代孝明天皇が祭神に加えられております。平安神宮では、京都を守る四神の御守が授与され
ております。
京都を護る四神とは、北の丹波高地を玄武、東の大文字山を青龍砂、西の嵐山を白虎砂、南にあった巨椋池を朱雀とする対応付けが可能ですが、背
山臨水を左右から砂で守るという風水の観点から正しく京都は四神相応の地でありました。 ただし巨椋池が完全に埋め立てられてしまったために、
現在京都の四神相応は破壊されており、なおかって朱雀大路を見通すことのできた船岡山は、玄武とするには小規模であり、現代中国の風水の観点
に立つと、船岡山は玄武を伝ってやってくる山龍が目指す星峰と解釈されております。
社殿は平安京の大内裏の正庁である朝堂院(八省院)を縮小(長さ比で約8分の5)して復元したもので、大きく赤く光る朱色が特徴的な正面の門は、
朝堂院の應天門を模しております。その内側の左右の殿舎は朝集堂の再現であり、拝殿は朝堂院の正殿である大極殿(左右には蒼龍楼と白虎楼
が付属する)を模しております。
神苑には、大極殿の右側の現在地の門から入り、時計回りに廻って行きます。
八重紅枝垂れ桜 この桜は、平安神宮が創建された明治二十八年、仙台市長遠藤庸冶氏により寄贈されたもので、そのもとは、近衛家に伝来した
「糸桜」を津軽藩主が持ち帰り育て、それが再び京都に帰ったことから「里帰り桜」とも云われております。谷崎潤一郎の小説「細雪」にも登場し京都
の春を象徴する桜として、神苑の数ある桜の中でも特に人気があるそうです。
モミジの新芽も芽吹き始めております。
神苑は、四つの庭園から構成されており、大極殿の西側の入口から入り時計回りに南神苑・西神苑・中神苑・東神苑と回ってゆきます。
こちらの庭園は南神苑です。
順路に従い左手に進み南神苑を一周いたします。
南神苑の南端には、京都で最初に走った市電(ちんちん電車)が展示されております。
南庭園から西庭園に抜けるところにある茶室では、お抹茶がいただけます。
南神苑を回り北に上がりますと西神苑の白虎池に出ます。この池は桜は少ないですが、5月下旬から6月にかけて花菖蒲や睡蓮が咲き誇ります。
西神苑から大極殿の北側を通り中神苑の蒼龍池にでます。こちらも五月には杜若や花菖蒲や睡蓮が池のあちこちで見ることができます。 池畔には
東屋もあり、お抹茶などをいただくこともできます。
東神苑の栖鳳池から蒼龍池に流れる小川です。
早咲きの緋寒桜
東神苑の栖鳳池と尚美館(貴賓館)
栖鳳池に架かる泰平閣(橋殿)
こちらの尚美館では、先週末の三日間、桜をライトアップをして紅枝垂れコンサートが 開かれており、毎年の恒例行事になっております。
泰平閣(橋殿)からの眺めです。
尚美館の横の桜を最後に出口に向かいます。
神苑を出て来たところのおみくじの樹です。