京の四季 名勝散策 写真集

京都の観光、散策の参考にしていただければ幸いに思います。

嵯峨野 愛宕念仏寺 青もみじ 2012/7/13

2012年07月14日 | 洛西 嵐山・嵯峨野 高雄

      

      愛宕念仏寺(おたぎ ねんぶつじ)は、嵯峨野にある天台宗の寺院で、 本尊に厄除千手観音を祀り、境内に羅漢像が多数奉納されているため別名千二

      百羅漢の寺とも呼ばれております。 火伏せの神と信仰を集める愛宕山参道の山麓の入り口に位置し嵯峨野めぐりの始発点としても知られております。

      今の京都の四条西院から東山方面にかけてを、 昔は愛宕郡と言いました。奈良時代の末、今から約1240年前に、 聖武天皇の娘の稱徳(しゅうとく)

      天皇がそこに寺を建てられたので愛宕寺と言いました。

 

 

 

 

      

      8世紀中頃、稱徳(しゅうとく)天皇により京都・東山、今の六波羅蜜寺近くに愛宕寺として創建された当寺は、平安時代初めには真言宗東寺派の末寺

      となっていたらしいですが、すでに荒れ寺となっていた上に、近くを流れる鴨川の洪水で堂宇を流失し廃寺同然のところを、醍醐天皇の命により天台宗

      の千観内供(伝燈大法師)が復興したとつてえられております。 

 

 

 

 

                

                 千観が念仏を唱えていたところから名を愛宕(おたぎ)念仏寺と改め、天台宗に属するようになりました。 この際

                いったんは七堂伽藍を備え勅願寺としての体裁を整えましたが、その後は興廃を繰り返し、最後は本堂、地蔵堂、

                仁王門を残すばかりとなりました。 

 

 

 

 

      

      1922年それらを移築して現在地での復興を目指しますが失敗し、あまりの荒れように、1955年に天台宗本山から住職を命じられた西村公朝氏も、引

      き受けるのをためらったといわれております。それを清水寺貫主・大西良慶氏の「それだけ傷んでおれば、草一本むしりとっても、石一つ動かしても、お

      まえは復興者、復興者やといってもらえる。わしも手伝ってやるから」の激励で復興に取りかかったそうです。以来、仏師として全国を飛び回る傍ら、本

      堂、地蔵堂、仁王門などを整備し、 素人の参拝者が自ら彫って奉納する『昭和の羅漢彫り』が始まったのは、1981年、当初は五百体が目標でしたが、

      10年後には7百体追加され千二百体に達し現在にいたっております。 

 

 

 

 

 

                     

           山門の仁王門の金剛力士像 

 

 

 

 

 

      

      本堂への参道は、正面の階段を登る道と右手に続く羅漢洞を通る道と二手に分かれております。 途中で合流いたしますが、階段を登って行きます。

 

 

 

 

 

                

                春先には、羅漢像の間をシャカが咲き誇るそうです。 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

      昭和56年、当時の住職西村公朝氏が、寺門興隆を祈念して、境内を羅漢の 石像で充満させたいと発願し、10年後の平成3年に 「千二百羅漢落慶法

      要」を厳修なさいました。 境内のいたるところに信者さんが思い思いに彫られた羅漢像が立ち並び、表情ももそれぞれ味があり見ていて微笑ましくなっ

      てまいります。 

 

 

 

 

 

      

      傾斜の上に建つ地蔵堂 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

      階段を登ってまいりますと右手が下りになっており、 仁王門の前から羅漢洞を抜け羅漢像が立ち並ぶ場所に道がつながっております。

 

 

 

 

 

      

      この一角だけで、120体以上が並んでおります。 

 

 

 

 

 

      

       

 

 

 

 

      

      釈迦誕生佛  釈迦の弟子となり、仏教を広め伝えた僧達のことを 阿羅漢と言います。 これを「羅漢さん」と親しみをもって呼ばれてきました。寺の復興

      を祈願して、昭和56年から一般の参拝者に 奉納を呼びかけ、この羅漢さんを参拝者自らの手によって 彫ってもらいました。 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

      石像の裏面には、彫られた方の名前が刻まれております。 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

     

      山水が流れ込む竜神の滝壺  梅雨時期で水量が多く見にくくなっておりますが、滝壺には竜の像が立っております。 

 

 

 

 

 

               

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

      手前から、三宝の鐘楼、ふれ愛観音堂、地蔵堂と並んでおります。 

 

 

 

 

 

      

      右手の建物が、羅漢洞です。中を抜ければ入口の仁王門前に出ます。 

 

 

 

 

 

      

      坂道の中腹を右の手すりに沿って進みますと三宝の鐘に出会えます。 

 

 

 

 

 

      

      三宝の鐘は、他の寺院ではあまり見かけない鐘楼になっております。 古来釣り鐘はその音で仏法僧の心を 伝えるものですが、当山ではこれを三鐘 と

      し、その妙なる音律によって仏の心を 世界に伝えています。

 

 

 

 

 

      

      それぞれの鐘には、「佛」「法」「僧」と刻印されております。 

 

 

 

 

 

      

      三宝の鐘の真ん中には、円形のこれも撞木(しゅもくと呼ぶのでしょうか?)が吊られ順番に打ってみますと、とても澄んだ音律を奏でてくれました。 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

      三宝の鐘楼を進みますと本堂、ふれ愛観音堂、地蔵堂の建つ境内に出ます。 ここにも整然と羅漢像が並びます。 

 

 

 

 

 

      

      地蔵堂  平安時代から、あたご本地仏火除地蔵尊として、 京の都を火災から守ってきたお地蔵様です。 古来より伝わる、火難除けとして霊験あらた

      かな 「火之要慎」の御札で知られており、また古くから延命地蔵さんとしても親しまれており、 毎月24日のご縁日には法要が営まれています。

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

      本堂  本尊は千手観音像で、 平安時代から厄除けの観音様として厚く信仰されています。 内部は二重折上げ小組格天井が施され、鎌倉様式の美し

      い曲線が今に伝えられていることから、 国指定の重要文化財となっおります。 

 

 

 

 

 

      

      本堂奥に建つ多宝塔 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

      多宝塔の右手の高台に虚空蔵菩薩像が立ちます。 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

                

                猫好きの信者さんの作品です。猫の表情もいいですね。

 

 

 

 

 

      

      右側の像は、ワンちゃんを抱えておられます。 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

      多宝塔  大勢の羅漢さん達に囲まれて、お説法をする姿で 祀られた石のお釈迦様と 左側には伝教大師最澄像が立ちます。 なんとも中国チックな建

      物です。

 

 

 

 

 

      

      石像を見ていて、ふとしょうもない疑問が頭に浮かびました。千二百体もの石像を皆さんどこで何日ぐらいかけて彫られたのか?是非参加してみたかっ

      たです。 

 

 

 

 

 

                

 

 

 

 

 

 

                

                虚空蔵菩薩とは、智慧と福徳の仏様で、大宇宙の如く大きな功徳で、悩める全ての人々を救済する力を備えた

                菩薩であり、不思議な力により窮地に陥った者を救う菩薩であることから、能満諸願(厄払いその他、諸々の願

                いを良く満たしてくださる)、身体健全、家内安全、交通安全、商売繁盛、水子供養祈祷、等が特に信仰され、そ

                の昔、虚空蔵菩薩は、うなぎに乗って天から舞い降りてきたという言い伝えから、料理人からは、うなぎと縁の深

                い菩薩として信仰され、現世利益では記憶力を良くするという事が主である。

 

 

 

      

      前住職 西村公朝氏の墓石 高台から羅漢さんを見守っておられます。 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

       

 

 

 

 

 

      

      本堂前に建つ「ふれ愛観音堂」 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

                

                この観音様は手で触れられることを喜んで下さる仏様です。 仏像は約2000年前から造られてきましたが、 そ

                れを造った人たちは皆、目の見える人が造り、目で拝んできました。この像は歴史的に初めて、目の不自由な

                人たちに、仏との縁を結んでもらうために生まれた観音様です。目の見える人も 目の不自由な人も 自由に触

                れて下さい。 心の目と手で触れることで、私達の心身の痛みを癒して下さいます。 

                ちなみに、この観音様は、先代の住職の西村公朝氏の手による仏像で、一体は清水寺の奥の院に、一体は比

                叡山延暦寺など全国に六十体ほどが点在しているそうです。

                この「ふれ愛観音」を造るきっかけには、一人の盲目の女性との出会いがあったそうです。

                「最後の仏師」 西村公朝の生涯  詳しくはこちらに掲載されております。ぜひご覧になってみてください。 

                http://kajipon.sakura.ne.jp/kt/haka-topic17.html

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

      秋の紅葉も綺麗でしょうね、時間を見つけて再訪したいと思います。 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

      地蔵堂は、けっこうな急斜面に建っております。 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

      手前の石像は天狗が彫られておりました。 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

      仁王門を右に進んだ所にある羅漢洞です。 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

      中を潜りますと、最初に回った羅漢像の群列に出会います。 

 

 

 

 

 

                

                手前の顔は、誰かの遊び心でしょう、ユーモアたっぷりです。 こちらの寺院は、他の寺院には無いこの羅漢さ

                ん達のお蔭でお参りなされた方の心をほんのりと幸せにしてくれるような感じを受けました。発案なされた前住

                職の想い通りの気持ちを持って皆さん帰って行かれる事と思います。お参りなされる方は、お参り前に是非先

                程の 「最後の仏師」 西村公朝の生涯を読まれてから来ていただきたいと思いました。 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

               

               最後に何故か信楽焼きが。  受付の右手奥が駐車場になっておりますが、上手く停めて四台ですが、近くに

               駐車スペースはありそうでした。  二週間後の7月31日には、愛宕念仏寺の奥にあるトンネルを抜け清滝か

               ら、 「火之要慎」の御札もらいに愛宕さんの千日参りに伺います。 店を初めて12年連続の登山になり、目下

               足腰のトレーニング中です。 年に一度の与えられた行と思い頑張ってお参りしてまいります。

 

 

 

地図

 http://link.maps.goo.ne.jp/map.php?MAP=E135.39.51.381N35.1.41.513&ZM=9

 

 

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舞鶴引揚記念館 2012/6/25

2012年07月08日 | 洛外 

        

      舞鶴引揚記念館は、引揚げ桟橋が望める東舞ず鶴の小高い丘の上に建っており、海外で終戦を迎え着の身着のままで引き上げて来られた方々の13

      年にも及ぶ記録が展示されております。 昭和20年第二次世界大戦が終わった時点で、海外諸地域に残された日本人の数は、軍人・軍属が約320万

      人、一般邦人が約300万人以上といわれおりました。

      この人達の速やかな祖国への復帰は全国民の切なる願いであり、政府も当面の国家的緊急課題としてこの大事業に取り組み、まず昭和20年9月28

      日、舞鶴をはじめ浦賀、呉、下関、博多、佐世保、鹿児島、横浜、仙崎、門司を引揚湾に指定して業務を開始いたしました。     

 

 

 

 

 

      

      この膨大な海外日本人が一斉に日本内地へ引き揚げる様相は、まさに史上、その類例を見ない民族の大移動であったと伝えられ。こうして、昭和33

      年9月の最終船入港で幕が下りた13年間の海外引き揚げは、日本国内はもちろん全世界の注目を集め、一時は新聞・通 信社、放送局、ニュース映画

      などの報道関係75社、約1,000人とニューヨーク・タイムス、AP通 信など数多くの新聞、放送関係の記者、カメラマンの取材によって内外に報道され

      ました。特に舞鶴はこの間、66万人を越える引揚者を受け入れ、更に昭和25年に函館、佐世保両引揚援護局の廃止後は国内唯一の引揚湾として最

      後まで重要な役割を果 たしました。 

 

 

 

 

 

      

      記念館入口に掛る「平和の誓い」碑 

 

 

 

 

 

       

 

 

 

 

 

 

      

      舞鶴では、主として旧ソ連と中国(満州)などからの引揚者を受け入れ、13年間に66万4531人と1万6269柱の遺骨を受け入れました。終戦時、大陸

      に残された日本人およそ57万人がソ連に送られ、その内約47万2千人がシベリア各地のほか、コーカサス、北極圏等の収容所で、長い年月辛い抑留 

      生活を強いられておりました。 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

      記念館入り口の突き当たりに掲げられた、引揚げ船として活躍した興安丸の時鐘の複製 

 

 

 

 

 

      

      受付 

 

 

 

 

 

      

      引揚げの歩み、激動の歴史が時代を追って展示・紹介されております。      

 

 

 

 

 

     

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

               

               まず最初に、出征時の姿の兵隊さんのお迎えがあります。 

 

 

 

 

 

      

      戦地で使用していた備品や、捕虜時代の生活を再現したコーナーなどが続きます。 実際に引揚げて来られた方は思い出したくない品々ばかりだと思

      います。 

 

 

 

 

 

     

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

       

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

      引揚げに動員ざれて艦船は、日本国籍32隻、米国貸与船25隻で延べ346隻が入港したと記録されております。 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

                

 

 

 

 

 

 

                

 

 

 

 

 

 

      

      舞鶴では、引揚げ船が入港するたびに市民こぞって引揚げて来られた方々を心から歓迎し、慰問し勇気づけました。舞鶴港での引揚げの様子、肉親と

      の再会そして、いまだ帰らぬわが子・夫を待つ婦人の姿がいつしか「岸壁の母・妻」と云われ歌や映画になり人々の涙を誘いました。

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

      左のルートが、西舞鶴港、右が記念館のある東舞鶴ルートです。 

 

 

 

 

 

      

       引揚船が西港へ入港していたごく初期の昭和20年10月からしばらくの間は、上陸地の第二埠頭へ町内会の婦人会員らが出迎えて、温かい湯茶と、

      その場で炊き出しをしてもてなしたほか、市厚生課の職貝が引揚者の相談に応じていたそうです。また、引揚者はその日のうちに帰郷することになって

      いたので、臨時列車が増発される西舞鶴駅前および西地区の目抜き通 りに接待所を設けて、やはり婦人会員らが湯茶の接待に当たり見送りもしてい

      たと云われております。

 

 

 

 

 

      

      翌21年6月から7月にかけては、連日、葫蘆島から北朝鮮、中国の北満州にいた人達が、2,000人ないし3,000人ずつ、延べ約11万人も引き揚げて

      来たので、 この人達の一時収容所となる市内上安の元海軍工員宿舎上安寮は、関係機関が協力して万全の態勢を整えて迎え入れ、西舞鶴駅を経

      ていったん上安寮へ入り、24時間以内に手続きを済ませて西舞鶴駅から帰郷していたので、同駅前には3月から10ヵ所に計3,000人収容のテント張

      り休憩所を設けておりました。またこの人達は、敗戦後、住みなれた土地を追われ、地位 も財産もすべ失って、つらい流浪の果ての帰国であったので、

      ふろしき包み一つを持った程度の人が多く、市ではこの人達に贈る衣料品を一般 家庭から募って支給したと記録に残ります。

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

                

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

      

 

                

 

 

 

 

 

      

 

                

 

 

 

 

 

 

      

 

                

 

 

 

 

 

 

      

 

                

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

      こちらのコーナーでは、引揚者の漫画家の方々の作品が展示されております。 

 

 

 

 

 

                

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

      記念館の入り口を左に進みますと、桟橋が見下ろせる高台に続く道が整備されております。 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

                

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

                

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

      この日は、実家のある舞鶴に帰った時に舞鶴自然文化園で紫陽花を見た帰りに寄りました。紫陽花園から5分の距離にあり、機会がありましたら是非

      立ち寄ってみてください。 戦争の無い時代に生まれ、つくづく平和のありがたさを感じることが出来ました。

 

 

 

 

 

      

 

 

 

地図 

http://link.maps.goo.ne.jp/map.php?MAP=E135.24.49.537N35.30.25.757&ZM=5 

 

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長岡京 柳谷観音 楊谷寺 2012/7/2

2012年07月05日 | 洛南 西部 

      

      長岡京市に位置する楊谷寺は、柳谷観音 立願寺・楊谷寺と申し京都西山三山の善峰寺と西山光明寺と並ぶ寺院として知られております。寺伝によ

      りますと、大同元年806年京都清水寺開創の延鎮僧都によって開山されましたとせつめいされております。延鎮僧都はある夜、夢の中に観音菩薩が現

      れ、「京都西山に行けば生身の観音菩薩を仰ぐことができる」 とのお告げを受け、直ちに西山に踏み入ると、柳の生い茂る渓谷の巌上に生身の十一面

      千手千眼観世音菩薩が顕現されました。僧都は、そのお姿を刻まれ、その場所に堂宇を立て安置し、日夜給仕をされていましたが、清水寺のご本尊を

      お守りする大切な任務があるため帰洛されました。

 

 

 

 

 

      

      第二世 弘法大師 延鎮僧都が下山された後、811年弘法大師(空海)が度々当山に参詣されており、今に残る独鈷水を発覚された大師を当山では、

      第二世と仰いでおります。 

 

 

 

 

 

      

      長岡京市は、京都市内から車で約30分の場所に位置しておりますが、高速を使い大山崎インターチェンジで下りますと随分早く着きました。 

 

 

 

 

 

      

      石垣が積み上げられた上に宇堂が立ち並んでおり、本堂の裏手の山に奥の院が建ちます。 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

      山門前の階段下には、寺院ではあまり見かけませんが、明治・大正を思わせるお洒落なガス燈が掲げられております。 山門は、勅使門(四脚門)で、

       四脚門(刺脚門)といい四本の脚で造られており皇族公家専用の門となります。両脇には風神・雷神が奉られております。また、ここには、珍しい方位

      磁石が奉納されており、門までの石段の数は、下から中央まで17段、中央から門前まで21段(実際は21段半)になっており開山の延鎮僧都のご命

      日の17日、第二世弘法大師のご命日21日を意味しています。そして、階段と階段の間を中段といい、小さな滝口があって、昔は水行をする場所でし

      た。

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

                  

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

      山門の両脇には、金剛力士ではなく風神・雷神像が建っております。 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

      御本尊の十一面千首観音像が祀られている本堂 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

      本堂前の手水場と鐘楼  手水場の龍の口で観音様を拝む前に手を洗い口をゆすぐ場所です。鐘楼堂では朝7時の開門時、正午、閉門時の5時につ

      いています。 

 

 

 

 

 

                  

                  お参りの方々にも自由についていただけます。また大晦日には除夜の鐘つき会も行われています。 

 

 

 

 

 

      

      本堂の左手に玄関があり書院に続きます。 

 

 

 

 

 

      

      書院の左手に独鈷水(おこうすい)が湧き出る井戸があります。 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

      眼病平癒の霊水  延鎮僧都が下山された後、811年弘法大師(空海)が度々当山に参拝されていたある時、堂の傍らにある巌窟の溜まり水で眼のつ

      ぶれた小猿を抱き、一心不乱に眼を洗っている親猿の姿を見かけられ、空海は小猿のために17日間のご祈祷を行いました。すると満願の日に小猿の

      目がパッチリと開き、喜んで山へと帰っていったそうです。空海は、この不思議な湧き水を眼病に悩む人々のために霊験あらたかなる霊水にしようと決

      意され、さらに17日間の祈祷を施し、独鈷で持って深く掘り広げ、眼病平癒の霊水に成就されたと伝えられています。

      独鈷(どっこ)とは、 密教で用いる法具の事で、金剛杵(こんごうしょ)の一種とされ、鉄製または銅製で、両端がとがった短い棒状のものを指します。

      

 

 

 

 

 

      

      この霊水が今も湧き出す独鈷水(おこうずい)です。また、江戸時代に第112代霊元天皇が眼病を治癒されたことをきっかけに明治に世に至るまで天

      皇家に独鈷水を献上していたと伝えられています。 普段は、ご自由に各自で汲んでいただけます。少しづつ溜めている水であり、また眼病平癒の霊

      水として信仰を集めておりますから、決して粗末に扱わないで下さい。このお水を一度観音様にお供えしてから持ち帰るのがここの慣わしです。観音様

      にお祈りしながら目を洗ってください。 

 

 

 

 

 

                  

 

 

 

 

 

 

      

      独鈷水の隣に弘法大師像を祀る祠が建ちます。 

 

 

 

 

 

                 

                  

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

                  

 

 

 

 

 

 

      

      本堂前に戻ります。 

 

 

 

 

 

                  

 

 

 

 

 

 

      

      本堂は眼病平癒の観音さまをお祀りし、建物は江戸前期の建立で、ここでは土足のままで中に入ることができ、観音様の目の前まで行って拝むことが

      でき、他のお寺にはないめずらしい形態になっています。 ご本尊は古来より眼病に霊あらたかな十一面千手千眼観世音菩薩で、この観音様は平成1

      0年に大修理を終え胎内から文書が発見されました。そこには寄進者の名前等が書かれており、当時の長岡京市一帯の文化や風土を示す貴重な資

      料となり京都府の重要文化財に指定されました。

 

 

 

 

 

      

      普段は幕が下りているためお姿を拝むことはできませんが御縁日の毎月17日、18日には開帳されます。そして、観音様の両脇立には、右隣に勝敵

      毘沙門天王、左隣に将軍地蔵大菩薩が祀られており、清水寺の十一面観音の脇侍と同様になっております。ここも普段は扉が閉められております。

      両脇段には向かって右側に弘法大師様が祀られており、その前では江戸時代から伝わる勤行式とご詠歌をあげる場所があります。 

 

 

 

 

      

      左側には阿弥陀如来が祀られており歴代上人の位牌が安置されております。このように、1200年の歴史の中で多くの信者さんがご利益をいただき、

      病気を治癒されているため観音様は「生き仏」といわれています。ここでは、南無観世音菩薩と心をこめてお祈りしてくださいとせつめいされております。 

 

 

 

 

 

      

      本堂右手に建つ経蔵と手前の護摩焚きが行われる謹啓堂  経蔵にはいろいろな経や本、また、古くなったお札やお守りを収めておくところです。なお、

      護摩堂では、毎月17日に護摩が焚かれ、2月と8月の際には、奈良の大峰山から山伏が来山するそうです。

 

 

 

 

 

      

      阿弥陀堂 先祖供養 淀君寄進のお厨子がある阿弥陀堂は、江戸時代の建立で、昔は念仏堂とも呼ばれていたそうです。ここのお厨子は、淀君の寄

      進と伝えられおり、厨子の扉には豊臣家の紋が入っています。 本来このお厨子はご本尊のものでしたが、徳川の世になり、幕府をはばかった当時の

      住職が阿弥陀堂に移したと伝えられています。ご本尊は阿弥陀如来で、向かって右に中国の高僧善導大師像が、左には日本の念仏思想を広めた法

      然上人像が安置されています。毎年8月18日の盆大施餓鬼の法要もここで行われます。

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

      本堂と経蔵を結ぶ廊下の下を潜り奥の院に向かいます。 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

      美顔・芸技上達の弁財天は、古代インド(天竺)では、サラスバティート言いまた日本の七福神の中で唯一の女神様です。当山の弁財天は珍しい形態

      で、弁財天の前立ちとして、淀殿がおられます。 これは、淀殿が当山の観音様を信仰され、寄進などされていたというお話を知った信者さんが淀殿の

      人形を寄付してくださったそうです。こちらのお人形は、有職御人形師十二世伊東久重氏によるものだそうで、本来、弁天さんを拝むのですが、ここで

      は、淀殿の冥福も祈る形になっております。 

 

 

 

 

                  

                  もう一つの名水が弁天堂の横にあります。淀殿がこのお水で顔を洗われ、手を合わせておられた姿を思いなが

                  らご参拝くださいとの事です。 「淀殿弁財天のご利益  若さを保ち美顔、美麗成就、心の強さを得持」

 

 

 

 

 

      

      左の階段を進みますと眼力稲荷があります。当山鎮守の神さまで、先見の明があります。寺院に神様がお祀りされているのは意外に感じますが、明治

      維新前までの神仏習合の時代には神様が祀られておりました。 

 

 

 

 

 

      

       通称「がんりきさん」という名で親しまれており、お百度参りでご利益をいただけます。特に先見の明の智慧を授けていただけるそうです。

 

 

 

 

 

                  

 

 

 

 

 

 

      

      眼力稲荷の裏側を回り奥の院に向かいます。 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

      眼力稲荷から奥の院までの参道脇には、紫陽花が植えられており、「あじさいの道」として整備され、現在27種、約4,500株が植えられているそうです。

      6月下旬から7月中旬が見頃と言われております。 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

                  

                  奥の院の手前に建つ納骨堂は、当山ゆかりの深い方や、当山を信仰されていた信者さんの遺骨が納められて

                  おります。 納骨希望の方は、お問い合わせ下さいとのことです。 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

      奥の院 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

                

 

 

 

 

 

      

      奥の院  江戸時代、百十二代東山天皇の皇妃新崇賢門院(四条の局)様がたびたび皇子を出産されましたが、それぞれ不幸にも幼くなくされていまし

      たので、当山ご本尊に無事出産できますように祈願されましたところ、お生まれになられたのが、後の百十三代の中御門天皇です。天皇九歳のときに

      ご両親が崩御され、その追善菩提のために御造りされたのが奥の院の観音様で、中御門天皇の思いのこもった仏さまだそうです。 

 

 

 

 

      

      

      お堂は大正元年に建立され、大正4年に一度焼失し昭和5年に再建されたものです。内陣の向かって左側には観音様の眷属二十八武衆が祀られて

      おり観音様を擁護するとともに観音様を信仰する皆様方を守護していただく二十八体の護法善神です。その善神がまた、それぞれ500の眷属を従え

      ておられます。  向かって右には歴代天皇の位牌を安置しています。    

 

 

 

 

                  

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

      奥の院の周りも紫陽花で埋め尽くされております。 奥の院から本堂につながる階段廊下 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

      奥の院の裏手には、左手に眼力稲荷と右手に愛染堂が並んで建っております。   下の眼力稲荷が本堂の守り神とすれば、この眼力稲荷は、奥の院

      本堂の守り神です。下の「がんりきさん」同様観音様を信仰する皆様の守り神でもあります。

 

 

 

 

 

      

      愛染明王が祀られており、男女和合・夫婦円満等にご利益があり、愛染堂の前には石版を背負わされている天邪鬼がいて、「あいりきさん」と呼ばれて

      います。 天邪鬼は、仏の教えに背き続け罪を犯してばかりいましたが、仏法に帰依し、過去の罪のつぐないのため重い荷物をかついだ姿をしておりま

      す。写真は後ろからの物ですので、お参りの際は正面からご覧ください。

 

 

 

 

 

                  

 

 

 

 

 

 

      

      お堂の裏側からは、靴をぬぎ紫陽花廊下を通り本堂に行けます。 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

      この先に書院の庭園があったのですが、前知識が無く引き返してしまい庭園を拝観することが出来ませんでした。 また次回紅葉の季節にでも再訪い

      たします。 

 

 

 

 

 

                 

                浄土苑  江戸時代中期の作品で京都府指定の文化財です。また、ところどころに大きな石がおいてあり、そ

                の石は菩薩様に見立てられており、十三仏(+目菩薩・受菩薩)が安置されています。十三仏とは、死者の追

                善菩提のために初七日から三十三回忌までの十三仏事にわりあてられた仏様のことで、前に安置されている

                場所がわかるように石版が置いてあるそうです。

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

       

      奥の院内陣 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

                 

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

      紫陽花は、雨さえ降ってくれればあと10日程は大丈夫そうでした。 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

      帰り道は、阿弥陀堂の横に降りてまいります。 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

      無料駐車場も第一、第二と十分に整備されております。 毎月17日の法要の日には、阪急大山崎駅からシャトルバスが運行されております。 

      詳しくは下記までお問い合わせください。

      

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

      長岡京市は、京都の中でも有数の竹の子の産地ですので、あちこちで竹林が見受けられます。 

 

 

 

 

  地図

 http://link.maps.goo.ne.jp/map.php?MAP=E135.39.18.871N34.54.38.740&ZM=9

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宇治 三室戸寺 紫陽花 2012/6/26

2012年07月03日 | 洛南 伏見 宇治方面

      

      宇治市にある三室戸寺は、花の寺としても有名で5月のツツジや石楠花と6月の紫陽花は京都市内では最大の株数を誇ります。当寺院は天台宗系の

      寺院で、山号は明星山、西国三十三所第十番札所のお寺です。宝亀年間(770年)光仁天皇の勅願により南都大安寺の僧行表が創建したものといわ

      れており、初め御室戸寺と称しましたが、三井寺の修験僧隆明が中興した際に、現寺名に改称されました。 

 

 

 

 

                  

 

 

 

 

 

 

      

      この日は、平日にも関らず、多数の観光客の方で賑っておりました。 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

      参道中腹に建つ山門 

 

 

 

 

 

      

      山門の左手に佇む薬師地蔵 

 

 

 

 

 

      

      先日、別の所でも見かけましたが、萩の花が咲いておりました。 

 

 

 

 

 

      

      紫陽花園は、ほぼ満開になっておりました。 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

      まずは、本堂にお参りしてから、庭園を回ります。 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

           

      階段を登り切った所に一昨年は無かった「宇賀神」と書かれた石像が鎮座しておりました。  

 

 

 

 

                  

                  左手には、手水場があり不動明王が建っております。 

 

 

 

 

 

      

      紫陽花と合わせて、本堂前には蓮の鉢が並べられこれから開花のシーズンを迎えます。 

 

 

 

 

 

                  

 

 

 

 

 

 

                  

 

 

 

 

 

 

      

      本堂に祀られている御本尊は千手観音像で、厳重な秘仏で、写真も公表されておりません。本尊厨子の前に立つ「お前立ち」像は飛鳥様式の二臂の

      観音像で、二臂でありながら「千手観音」と称されております。この本尊像は、高さ二丈の観音像で寛正年間(1460 - 1466年)の火災で失われました

      が、胎内に納められていた一尺二寸の二臂の観音像は無事であったといわれております。 2008年が西国巡礼の中興者とされる花山法皇の一千年

      忌にあたることから、2008年から2010年にかけて、西国三十三所の全札所寺院にて札所本尊の「結縁開帳」が行われることとなったとき、三室戸寺

      本尊の千手観音像は2009年10月1日 - 11月30日に開扉されましたが、これは前回開扉(1925年)以来84年ぶりの公開であったそうです。

 

 

 

 

 

      

      本堂の左手に鎮座するミイラの様な賓頭盧天(びんずるてん)さんは、十六羅漢の第一とされておりましたが、神通力をもてあそんで釈迦に呵責(かし

      やく)され、涅槃(ねはん)を許されず、釈迦の入滅後も衆生(しゆじよう)の救済にあたったと云われております。白髪と長眉(ちようび)の姿で示され、日

      本では堂の前に置き、これを撫でると除病の功徳があるという俗信が広まりました。 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

               

               本堂前に鎮座する勝運の牛は、口の中の珠を触ることで勝機が訪れると云われております。

 

 

 

 

 

      

      鐘楼の手前のお堂には、下記のような説明の札が掛っております。

                                 

      

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

                  

                  本堂南側の三重塔は、 元禄17年(1704年)の建立で全高16メートルあり、もとは兵庫県佐用郡三日月村(現・

                  佐用町)の高蔵寺にあったものを、明治43年(1910年)に当寺が買い取って参道西方の丘上に移設いたしまし

                  たが、その後境内の現所在地に移されました

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

                  

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

                  

                  宇賀神(うがじん)とは、日本で中世以降信仰された神だそうで、 神名の「宇賀」は、日本神話に登場する宇迦之

                  御魂神(うかのみたま)に由来するものと一般的には考えられています(仏教語で「財施」を意味する「宇迦耶(う

                  がや)」に由来するという説もあるそうです)。 その姿は、人頭蛇身で蜷局(とぐろ)を巻く形で表され、頭部も老翁

                  や女性であったりと一様ではないそうです。元々は宇迦之御魂神などと同様に、穀霊神・福徳神として民間で信

                  仰されていた神ではないかと推測されておりますが、両者には名前以外の共通性は乏しく、その出自は不明であ

                  るそうです。 また、蛇神・龍神の化身とされることもあったため、これが比叡山・延暦寺(天台宗)の教学に取り入

                  れられ、仏教の神(天)である弁才天と習合あるいは合体したと思われ。この合一神は、宇賀弁才天とも呼ばれ、

                  宇賀神はしばしば弁才天の頭頂部に小さく乗り、その際、鳥居が添えられることも多いそうです。出自が不明で、

                  経典では穀霊神としての性格が見られないことなどから、宇賀神は、弁才天との神仏習合の中で造作され案出

                  された神、との説もあるそうです。

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

      最初に池泉回遊式の庭園を回り、紫陽花園へと進みます。 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

                  

 

 

 

 

 

 

      

      紫陽花園入口 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

                  

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

                  

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

      場所によって何種類もの色とりどりの紫陽花が配置されており、満喫することが出来ます。 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

                  

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

                  

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

       

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

      1本の枝から珍しく二色の花が咲いておりました。 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

                  

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

      紫陽花園を出た所には、この時期だけ宇治の名産品などが販売されております。 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

      この先にある駐車場は100台以上の駐車が可能です。

 

 

 

地図

http://link.maps.goo.ne.jp/map.php?MAP=E135.49.19.131N34.53.53.650&ZM=7

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