京の四季 名勝散策 写真集

京都の観光、散策の参考にしていただければ幸いに思います。

京都雪景色 大徳寺 龍源院から大仙院  1/17/2011

2011年01月28日 | 洛北 中部 大徳寺方面

  

  本日、三ヶ寺目になります大徳寺は、臨済宗大徳寺派の大本山で龍寶山(りゅうほうざん)と号します。鎌倉時代末期の正和4年(1315)に大燈国師
  宗峰妙超禅師が開創され、室町時代には応仁の乱で荒廃いたしましたが、一休和尚が復興いたしました。








  
  桃山時代には豊臣秀吉が織田信長の葬儀を営み、信長の菩提を弔うために総見院を建立、併せて寺領を寄進、それを契機に戦国武将の塔頭建立
  が相次ぎ隆盛を極めました。現在境内には、別院2ヶ寺、塔頭22ヶ寺が甍を連ねております。







  
  大徳寺の東側、旧大宮通に面した総門を入りますと、前方右手に勅使門と金毛閣と呼ばれる三門が見えます。







  
  勅使門は、後から回ることにして、勅使門の前の道を左に進み塔頭の龍源院に向かいます。 この参道を突き当たりますと、北大路通りに面した南門
  に出ます。






  
  勅使門の南側に位置します龍源院 龍源院は、大徳寺南派の本庵で、文亀2年(1502)大燈国師八世の法孫東渓宗牧を開山として、能登守護畠山
  義元が創建したものです。









  
  方丈・唐門・表門はいずれも創建当初の建物で、大徳寺山内最古の建物であり、禅宗方丈の典型的な形式を示しております。本尊釈迦如来像は建
  長2年(1250)行心の作と云われております。







  
  拝観入口の庫裡








                     
                     玄関には蠟梅が活けられておりました。








  
  玄関を入りすぐ左手に控えるあうんの石庭








                     









            









                     









  
  方丈庭園 庭園は各様式からなり、特に方丈北庭は室町時代相阿弥作と伝えられており須弥山式枯山水の名園です。







  
  方丈前庭「一枝坦(いっしだん)」は、庭の中央右よりの石組が蓬莱山を現し、右隅の石組が鶴島、雪で隠れておりますが、左の円い形の苔山が亀山
  になっております。白い砂は大海原を現しております。蓬莱山とは、仙人の住む不老長寿の吉祥の島のことを云います。









  
  方丈は、3部屋に襖で仕切られており東側の間になります。








  
  方丈襖絵 中央






  
  西側の間








  
  方丈西側にある開祖堂








  
  竜吟庭 方丈の北庭で室町時代特有の三尊石組から成る須弥山形式の枯山水庭園で、相阿弥の作と伝えられ、青々とした杉苔は、洋々と果てしな
  い大海原を現わし、石組が陸地を表しております。雪で隠れているところが杉苔になります。






                      
                      東滴壺  方丈の東にある有名な壺庭で、わが国では最も小さい庭と云われており
                      ます。 こちらの写真は、坪庭を北側から見たところです。







  
  申し訳ありませんが、説明文が、尻切れになってしまいました。








                      
                      こちらは、南側からです。








  
  龍源院をあとにして、勅使門から三門の方へと向かいます。 あうんの庭の西側です。








  
  勅使門の北側に位置する三門は、応仁の乱後、一休禅師の参徒連歌師宗長等が一階部分を寄進、のち千利休居士により二階部分が設けられ金毛
  閣と名付けられました。山門とは、龍宝山の門、三門とは、三解脱門(空門・無相門・無作門)のことと云われ意味を分かちます。
  また、二階部分が、千利休居士によって増築され、金毛閣と称し、利休居士の像を安置したことから秀吉の怒りをかい利休居士自決の原因となった話
  は有名です。





                         
                         三門の西側を通る参道 三門の北側に仏殿、法堂と続き突き当たりが、宗務本所と
                         大方丈になります。








  









  
  三門の、参道を挟んだ西側にある正授院 拝観はなされておりません。 山内で常時拝観できますのは、龍源院・大仙院・瑞峯院・高桐院の4ヶ寺に
  なります。






  
  三門の北側の仏殿は、当山第一世大現国師により創建されるも応仁の乱にて消失し、一休和尚等によって再建されるも、寛文5年(1665)那波常有に
  よって改めて建造されたものです。







  
  法堂をつなぐ廊下








  
  仏殿、西側








  









  
  法堂は、正中2年(1325)夏、宗印禅者を檀越として修造を始めるが、これまた応仁の兵乱によって消失し一休和尚が、仏殿を再建されて後、仏殿と兼
  用でありましたが、寛永13年(1636)、開山国師三百年遠諱に当たり、江月和尚の参徒、小田原城主稲葉丹後守正勝、正則父子により現在地に再建
  されました。 天井の龍の図は、狩野探幽35歳の筆によるものですが、公開はされておりません。







  
  







  
  法堂北側の宗務本所の屋根とその東側(右側)が大方丈です。 二年前に特別公開があり伺いましたが、入口でカメラを預けるほど厳重な規制がひ
  かれていたのが記憶に残っております。
  大方丈の方丈庭園南側には、唐門があり今は方丈前庭にありますが、明治の中頃までは勅使門の西にありました。 この唐門は、聚楽第の遺構と
  伝えられております。 聚楽第とは、秀吉が京都に造営した御殿で、後陽成天皇の行幸を仰ぎ天下にその威力を示しておりましたが、のちに関白を養
  子の秀次にゆずり、秀次の居宅になったいたところですが、秀次に謀反の罪をきせ断罪、聚楽第を破却いたしました時に、破却をまぬがれた門と伝え
  られております。







  
  宗務本所の西側の壁を北に進みますと、宗務本所の北側に大仙院、さらに北側に芳春院があります。








  
  一つ目の辻を東に曲がりますと左手に大仙院の門が見え突き当たりが真珠庵になります。







  
  突き当たりの真珠庵








  









  
  大仙院前の五葉松








  









  
  大仙院玄関 拝観は出来ますが、写真の撮影は禁止になっております。 永正6年(1509年)に大徳寺76世住職古岳宗亘(こがくそうこう、大聖国師)
  によって創建された塔頭で、現在22に及ぶ大徳寺塔頭中、北派本庵として最も尊重重視される名刹です。
  大仙院の三世古径和尚は、豊臣秀吉の怒りにふれ加茂の河原で梟首された千利休の首を山内に持ち帰り手厚く葬ったと云われており、また漬け物
  の「たくあん」を考案したとされる七世沢庵和尚が宮本武蔵に剣道の極意を教えた所としても有名です。








            
            方丈庭園は枯山水の庭となっておりますが、大仙院の庭は、こちらの東北にある枯滝組の庭が有名です。
            作者は開祖の古岳宗亘禅師と云われております。







  
  山門を出て帰り道です。 この後は、芳春院から織田信長の墓所がある特別公開中の総見院と回ります。

















コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 京都雪景色 龍安寺 1/17/2011 | トップ | 京都雪景色 大徳寺 織田信... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

洛北 中部 大徳寺方面」カテゴリの最新記事