京の四季 名勝散策 写真集

京都の観光、散策の参考にしていただければ幸いに思います。

祇園祭 山鉾巡航 前篇 7/17/2011

2011年07月31日 | 京都歳時記

      

       今年も17日炎天下の中、祇園祭の鉾巡航が行われました。11時半、毎年先頭を行く長刀鉾が三度目の辻回しをする御池新町に到着し、人込みをか

      き分けながら、河原町方面に向け巡航を逆行する形で見てゆきます。 祇園祭は17日の鉾巡航がメインの様に映りますが、本来は、祇園町の八坂神

      社の祭礼の一部で、7月1日の「吉符入り」から31日の「疫神社夏越祭」までの1ヶ月間に行われる関連行事などの事をすべて含めて祇園祭りと云い

      ます。7月14日から16日まである宵々々山・宵々山・宵山と 7月17日の山鉾巡行は、祭りの一部にと位置づけされておりますが、観光の面から考え

      ますと、絢爛豪華な装飾をまとった山や鉾は、観光客立場から見ますとやはりメインに位置づけされており花があるのも事実です。

 

 

                  

       唯一の生稚児 長刀鉾は毎年巡行の先頭を行く“くじとらず”の鉾で、選ばれた生稚児が禿(かむろ)と共に搭乗いたします。かつては船鉾を除いた

      全ての鉾に稚児が載っておりましたが、今では生稚児が搭乗するのは長刀鉾だけとなっております。   天明の大火(1788)で壊滅的な被害を受けた

      函谷鉾が天保10年(1839)に復興する際、稚児人形を用いたのをきっかけに、他の鉾もそれにならい人形に替わっていきました。 稚児は8~10才ぐ

      らいの男子が選ばれ、祭りに際しては長刀鉾町と養子縁組をし、6月中の大安の日に結納が贈られ、また、2人の禿が選ばれ、行われる行事のすべ

      てに稚児のお供をいたします。稚児に選ばれた家では、結納の儀に合わせ、八坂神社の祭神・牛頭天王をお祀りする祭壇が設けられます。

      「7月1日 」 お千度と呼ばれる行事で祇園祭がはじまります。

      涼み衣裳にぽっくりを履いた稚児が二人の禿と同道し、八坂神社本殿を3周した後に昇殿参拝いたします。稚児に選ばれたことを神前に報告し、祭

      礼中の無事を祈願する行事を「お千度」といい、「お千度」の意味は、お供の町役員・祇園甲部の芸舞妓なども含め3周すると”千度”廻ったことになる
      というものです。

       「7月5日」  吉符入(きっぷいり)

      長刀鉾では稚児の名簿を吉符といい、これを祭壇に納める行事を吉符入といいます。稚児は「蝶とんぼの冠」を頭に頂き、振袖に袴を着用し、初めて

      町内の人と顔合わせをし、長刀鉾会所2階で稚児による太平の舞を披露いたします。

       「7月12日 」 曳初め(ひきぞめ)

      稚児が初めて鉾に乗り、午後3時半頃から町内で曳初めを行います。女人禁制の長刀鉾もこの時だけは誰でも参加でき、綱を曳けば厄除けになると

      いわれており、鉾町の学区の小学生などが参加いたします。

      「7月13日」 社参の儀

      稚児が白馬に乗り、供を従え、正五位少将の位と十万石大名の格式をもらう儀式の為に、八坂神社へ社参することを「社参の儀」といいます。 南門

      の大石鳥居で下乗し、正面から昇殿し、宮司や神官が海山の幸を献じ、稚児側から三座分の粽が供えられ、宮司の祝詞の後、稚児は外陣に進み神

      酒洗米を頂きます。この瞬間に稚児は「神の使い」となり、この後、14日~16日まで毎夕7時に、介添えの人々と共に社参し、町内に戻って鉾の上よ

      り披露いたします。「神の使い」となった稚児は、食事の際にお膳は火打石で打ち清めてから食べるのがしきたりで、稚児家では、父や祖父の男性だけ

      で食事をし、祭壇がある注連縄の張られた部屋で過ごすこととなります。                                                                                                                                                                           

      「7月17日」 山鉾巡行当日 - 巡行の装束 -

      早朝より稚児は厚化粧天眉をし、金銀丹青鳳凰の冠を戴き、衣装は雲龍の金襴赤地錦で唐織霜地の二倍織(ふたえおり)表袴(うえのはかま)、鳳凰の

      丸を浮織した帯状の木綿(ゆう)手繦(だすき)を左肩より右腰に掛けます。これは神に仕える装束の一つで、神の使いとしての稚児は公式には地上を歩

      かず、屈強な強力(ごうりき)が稚児を肩にし鉾の上まで昇ります。

      巡行のハイライト

      午前9時、長刀鉾を先頭に全ての山鉾が順に四条烏丸を出発。長刀鉾はくじ改めを行わずに通過し、ハイライトは稚児による「しめ縄切り」で、先頭を行

      く長刀鉾が四条麩屋町にさしかかった時に、通りを横切って張られたしめ縄を稚児が刀で切り払い、神域に入る道を開きます。鉾は四条寺町のお旅所

      前で停止し、疫霊を祭神にお渡しする御霊会(ごりょうえ)本来の儀式を行い、役員が玉串を捧げ、稚児が舞い、神社を遥拝して儀式は終了し巡航へと続

      いていきます。

 

 

 

 

      

      御池新町で先頭の長刀鉾が三度目の辻回しにかかりますが、その前に、稚児と禿は御池通新町で鉾から降り、八坂神社へと向い、八坂神社では位

      を返す「お位返しの儀」が行われ、稚児と禿は再び普通の少年に戻ることになります。

 

 

 

 

 

      

      長刀鉾は、  「くじとらず」の名があるように、山鉾巡行の先頭を受け持つ鉾で、命名は、鉾のてっぺんを飾った三条小鍛冶宗近作の大長刀を竿頭にかざ

      しているところからきております。宗近が娘の病気平癒を祈願して八坂神社に奉納しましたが、鎌倉期にある武人が愛用いたしましたが、何かと不思議

      が起こり、返納したと云われております。大永2(1522)年、疫病がはやり、神託で長刀鉾町で飾ったところ、疫病は退散したと伝わっており、鉾の創建時

      の嘉吉元年(1441)に竿頭にかかげる様になったと云われております。 真木は全長20メートル。現在、稚児が乗る唯一の鉾です。

 

 

 

 

 

      

      「くじ取らず」とは、応仁の乱の後、二十年ぶりで再開された1500年、山鉾の巡行の順序で諍いが起きた時以来、くじで順序を決める事になりましたが、

      先頭の長刀鉾と、最後尾の船鉾は「くじ取らず」といい、順序が変わる事はありません。 現在は、前の祭りの山鉾と後の祭りの北観音山から南観音山

      の9基は、24日の還幸祭に鉾巡航があり前後で日にちが分かれておりましたが、46年前に京都市が観光客の誘致を目的に17日に統一して行われ

      るようになりました。 しかし、祭り本来の形に戻そうという議論が高まり関係団体が、検討を始めております。

 

 

 

 

 

              

               鉾とは、屋根に長大な鉾(槍のような武器)を戴き、直径2メートルの車輪が付き、2階にお囃子の乗っているもの

              をいい、頭上の鉾に疫病神が吸い込まれると信じられていました。   山とは、鉾の変わりに松の木を戴き、山の上

              で出し物を演じる数人の者が乗ることはあっても、お囃子ほどの大人数は乗っておりません。この松の木にも鉾と

              同じように疫病神が吸い込まれると信じられていました。なお山には鉾と同じように車輪のついた曵山と、人が担ぐ

              かき山がありますが、現在では見えにくい所にタイヤをつけています。 

 

 

 

 

 

              

 

 

 

 

 

 

      

      この、御池新町界隈は、とんでもない人込みで身動きが取れない状態でした。

 

 

 

 

 

      

      二番手の霰天神山(あられてんじん)は、 永正年間(1504ー1520)、京都が大火にあった際、急に霰が降り、たちまち猛火は鎮火したが、霰とともに小

      さな天神像が降りてまいり、そんな由来から、火よけの神様として祀られたのがおこりです。霊験はあらたかで、多くの山鉾が焼けた天明、元治の大火

      にもこの山だけは残り、町の誇りになっております。「雷(らい)よけ火よけのお守は、これより出ます…」と宵山に子供たちが歌いながらお守授与の受け

      付けをいたします。檜皮葺きの立派な社殿が山に乗ります。

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

      三番手の孟宗山は、 中国・24孝の1人、孟宗は、母親が病気になったため、好物のたけのこを求めて竹林を歩きまわりましたが、寒の季節で1本もな

      く疲れて座り込んでしまったとき、たけのこが出てまいり、母親は元気を回復したという話からきており、町名が笋(たかんな=たけのこの意味)町という

      のもこれに由来いたします。白綴地に雄渾な筆致で孟宗竹林が描かれた見送りは、竹内栖鳳の筆で、極彩 色が多い山鉾のなかで、墨一色が異彩を

      放っております。

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

              

 

 

 

 

 

 

      

      四番手の芦刈山は、 御神体(人形)、衣装ともに山鉾のなかでも屈指の古さを誇り、人形のかしらには、天文6年の銘があり、また、小袖は 16世紀の

      作とみられ、重要文化財に指定されております。もっとも、現在の衣装は最近の作で、謡曲「芦刈」は、摂津の国・難波にすむ夫婦は貧乏が原因で別れ、

      妻は都へ出て宮仕えをいたしますが、夫が気掛かりで探したところ、落ちぶれて芦を売る夫を見つける、と言う話からきており、山の正面 、側面に芦の

      造花が飾られております。

 

 

 

 

 

              

 

 

 

 

 

 

              

 

 

 

 

 

 

               

 

 

 

 

 

 

      

      五番手の函谷鉾は、中国古代史話の孟嘗君の故事に基づき、戦国時代、斉の孟嘗君は秦の昭王に招かれ、宰相に重用されましたが、讒言によって

      咸陽を脱出して、函谷関まで逃げましたが、関の門は鶏が鳴かねば開かないと知り、配下の者が鶏の鳴き声をまねたところ、あたりの鶏が和して刻を

      つくったので見事通り抜けたという話です。真木は22メートルあり鉾頭に、三角形の白麻を張り、先頭に三日月が上向きにとりつけられております。

 

 

 

 

 

              

 

 

 

 

 

 

              

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

 

              

 

 

 

 

 

 

      六番手の油天神山は、写真の撮り忘れがあり映像はなく申し訳ありませんが、 町名(風早町)の由来であるお公家さん・風早家の屋敷があり、この

      屋敷に祀られていた天神=菅原道真を祀ったという言い伝えがあります。山は、立派な朱塗りの鳥居が特徴で、天神さんと関係が深い梅の花と松

      とを一緒に立てられた紅梅が、華やかな雰囲気をかもしだします。見送りの毛綴(けつづれ)が名高いですが、山の所在地近くで生まれた故梅原龍

      三郎画伯の富士山の絵をもとにした綴になっております。

 

 

 

 

 

 

      

       七番手の四条傘鉾は、1987年、実に117年ぶりに巡行に復帰したやまで、元治の兵火のあとも巡行に加わっておりましたが、明治5年以降、消滅同然

      となり、道具類も散逸しておりました。綾傘同様、壬生六斎の棒振り、囃子での協力が復活に力になり、祇園唐草模様の大傘に錦の垂(さがり)で飾っ

      た花傘は応仁いらいの傘鉾の原形を伝えます。赤熊(しゃぐま)鬼面 の棒振り、踊り手、囃し方が帯同いたします。

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

      八番手の保昌山は、旧名に「花ぬす人山」といい、現在の保昌山は、平井保昌の名前からきており、藤原大納言方の孫で、致方の子で武勇にすぐれ、

      和歌も堪(たん)能でありました。恋した女官から紫宸殿前の梅を手折ってほしいと頼まれた保昌が首尾よく一枝を得ましたが、しかし北面の武士に発

      見され、射かけられた矢が頭をかすめ、保昌はほうほうの態で逃げ帰ったといわれ、盗難除け、縁結びのやまとされお守りが授与されます。

 

 

 

 

 

              

              九番手の月鉾は、 『古事記』によりますと、伊弉諾尊が黄泉の国から戻り、禊祓いをされたとき、左眼を洗って

              天照大神、右眼を洗って月読尊、このあと、鼻を洗って素戔鳴尊を生んだといわれ、月読尊は夜を支配した神で

              すが、水徳の神でもあり、月鉾は、この故事に由来いたします。鉾頭に、横40センチ、上下24センチの金色の三

              日月をかかげ、真木の中ほどに天王様を飾った天王台の下には籠製の船が真木を貫いてとり付けられておりま

              す。元治元年(1864)の大火にもわずかに真木を失っただけだったそうです。

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

              

 

 

 

 

 

 

              

 

 

 

 

 

 

               

 

 

 

 

 

 

              

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

       十番手の太子山は、山鉾の真木は松が通例ですが、この山のみ杉を立てております。聖徳太子が四天王寺を建立するさい、自らが良材を求め山に入

      り、老人に大杉の霊木を教えられ、六角堂をたてたことに由来いたします。太子は、日本の仏教の基を築いたことで知られ、宗派をこえての「太子信仰」

      が民衆の間に広くあり、山に飾る太子像は、江戸時代の作で、トレードマークの鬟(みずら)に髪を結び、ふっくらした顔だちで白二重小袖姿で、高貴な印

      象をたたえます。

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

      十一番手の占出山(うらでやま)は、 釣り竿を持った人形は、神功皇后の姿をかたどっており、九州・肥前の川で、鮎を釣って戦勝を占った伝説が由

      来となります。この山には「あいわい山」の別名が明治まで語られておりましたが、町衆に人気のあった山であったことをうかがわせます。色鮮やかな

      日本三景を描いた胴掛けが特徴です。

 

 

 

 

 

      

      十二番手の木賊山(とくさやま)は、世阿弥の謡曲「木賊」から着想され、木賊刈りの老翁が別れた愛児を思いながら舞う場面を表現しており、等身大

      の老翁像は足台に元禄5年(1692)の墨書があり、右手にかま、左手に木賊を持ちます。

 

 

 

 

 

              

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

              

              十三番手の鶏鉾は、中国古代の伝説「諫鼓」に由来し、天の岩戸の永世の長鳴鳥の故事にちなむとの事で、「諫
 
              鼓」とは、暦を制定した伝説の聖天子・尭帝が、宮廷の外に太鼓をすえ、政治に不満があればたたかせ、木を立て
              て、訴えを書かせました。世は治まり、太鼓は苔を生じて鶏が巣をつくったといいます。鉾頭は、紅白を互い違いに
              巻いた三角枠で、なかに同の円板が挟まれ、3つの角には紺いろの苧束の房がつけられております。中ほどに舟
              を担いだ人形が飾られます。

 

 

 

              

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

              

 

 

 

 

 

 

              

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

              

              鶏鉾の見送り(背面を飾るもの)のホメロスの叙事詩「イーリアス」のトロイア戦争物語の一場面を描いた綴織(ペ

              ルシャ製) 

 

 

 

 

 

 

              

 

 

 

 

 

 

      

       十四番手の伯牙山(はくがやま)は、 戦後に町会所が無くなったため、綾小路に面した旧家・杉本家の表の間の格子を外し、お飾り場にしており琴

       をまえに、斧をもった人形は、中国・晋時代の琴の名手・伯牙を表しており、怒りの目、紅潮した両頬は、友人の訃報を聞き、悲しみに打ち震えなが

       ら、まさに琴を打ち破らんとしている様を表します。明治になり多くの山が名前を改めさせられておりますが、この山も「琴破(ことわり)山」から改称し

       た記録があります。

 

 

 

 

 

 

     

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

      高倉通りを北に上がった所です。木陰で休憩する方やお弁当を食べてる方もおられました。 

 

 

 

 

 

      

       炭火串焼きの串くら本店です。 お洒落な品書きが目に留まりました。

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

       十五番手の綾傘鉾は、徒歩の傘鉾として応仁の乱以前のふるい鉾ですが、元治元年に焼けて以来、明治10年代に一時復活したもののふたたび中

      断し、ようやく昭和54年、巡行を再開いたしました。形の上でも変転を繰り返し、江戸期どうした理由からか、徒歩から引き鉾に変化し御所車風の屋根

      に風流傘が乗る古図が残ります。明治の復活では再び徒歩にもどり鬼形の踊り手を中心に、棒振り、鉦、太鼓のはやしかたが行列いたします。鬼形の

      踊り手は、顔を手拭いで隠し頭上に鬼面をのせております。

 

 

 

 

 

      

      炎天下の中、顔を覆ったままで、巡航の中で一番熱中症に罹りそうな役回りです。

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

      十六番手の郭巨山(かっきょやま)は、山には屋根がないのが普通ですが、この山は日覆障子を乗せており、金地彩色法相華文の板絵として他の山
      にない古い形式を残していおります。名前の由来は、中国の史話にある貧しくて母と子を養えない郭巨が、思い余って子を山に捨てようしたとき土の
      中から金の釜が現れ、母に孝養を尽くした話によります。人形は、鍬を持つ郭巨と紅白の牡丹の花を持つ童子の2体からなります。


 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

       柳馬場で、次の鉾までの距離が開いたため御池通りを横断することが出来ましたので、南側に移ります。

 

 

 

 

 

              

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

       十七番手の菊水鉾は、謡曲「菊慈童」から着想された鉾で、魏の文帝の勅使が薬水を訪ねて山に入ったところ少年に出会い聞けば、少年は 700年

      前に、王の枕を誤ってまたいだのが原因で都を追われたそうで、以後、普門品の偈を甘菊の葉に記しておいたところ露が滴り、この水を飲んで不老長

      生したという話です。慈童は、この薬水を勅使に献じました。一時途絶えていた鉾は、昭和28年に復興され鉾頭には天に向いた16菊が掲げられ、こ

      の鉾に限り「菊水」と篆書が掘り出した額がつきます。

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

              

 

 

 

 

 

 

      

      十八番手の白楽天山は、2体の人形の唐冠を付けたほうが白楽天で、帽子(もうす)をかむった僧形が道林禅師の像です。長恨歌などの名詩で有名

      な中国・唐の詩人、白楽天が道林禅師に仏法の大意を問いかけているシーンを表しております。この山も過酷な運命をたどっており、天明、元治の大

      火で胴組や人形の胴を失い、そのたびに巡行中断と復元を繰り返しております。

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

              

 

 

 

 

 

 

      

      十九番目の山伏山は、山に飾る御神体が山伏の姿をしているので、この名前がついております。前(さき)の祭りでは一番北の山で、役行者山と同様、

      当時民間信仰として人気のあった修験道・山伏から着想されたそうです。正面の水引は、雲中の竜、青海波と麒麟を精緻な刺しゅうで描いた中国から

      もたらされた豪華なもので、見送りも中国・明時代のものとされております。

 

 

 

 

      

      二十番目の蟷螂山(とうろうやま)は、かまきり山、ともいわれ、文字どおりカマキリが屋根の上に乗り、からくり仕掛けで鎌や羽が動くようになっており

      動くたびに沿道から拍手と歓声が上がる、見ていて楽しい山です。「蟷螂の斧」とは、自分の力のほどをわきまえず、大敵に立ち向かうことですが、そ

      の勇猛さを賞した中国の君子の故事からきており、町内の事情で、明治初め以降巡行を一時中断しておりましたが、復帰いたしました。

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

              

              御池河原町で、二回目の辻回しを行う放下鉾(ほうかぼこ) 

 

 

 

 

 

      

      二十一番目の放下鉾は、鉾の名は真木のなかほどの「天王座」に放下僧の像を祀るのに由来いたし、鉾頭は日・月・星三光が下界を照らす形を示し、

      その型が洲浜に似ているので別名「すはま鉾」とも呼ばれております。かつては長刀鉾と同様「生稚児」でありましたが、昭和4年以降稚児人形にかえ

      られております。稚児人形は久邇宮多嘉王殿下より三光丸と命名せられ、巡行の折には稚児と同様、鉾の上で稚児舞いができるように作られておりま

      す。

 

 

 

 

 

              

              

 

 

 

 

 

      

      辻回しは、鉾の方向転換をするために行われ、地面に青竹を敷き詰め、その上まで鉾の前輪を進めます。水を撒き、すべりを良くしてから、音頭取りの

      扇子さばきに合わせて曵き手が鉾を横に曵いて、一気に方向を90度転換します。 一度で完了すれば、沿道からの歓声も一段と高くなりますが、2.

      3度かかることもあり、曳き手と音頭取りの腕の見せ所です。

 

 

 

 

 

              

 

 

 

 

 

 

              

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

              

 

 

 

 

 

 

              

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

             

 

 

 

 

 

      

      これから、河原町通りを下がり後編へと移ります。 

 

 

 

 

 

              

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亀岡 神蔵寺 ・谷性寺 青もみじ  2011/7/11

2011年07月24日 | 洛外 

       

      神蔵寺 (じんぞうじ)は、京都市内から京都縦貫道亀岡インターを下りて約10分の距離にあり、西国三十三所観音霊場の穴太寺からは、車で5分の近

      さに位置しておりますです。寺伝によりますと、恒武天皇時代の延暦九年(790年)に伝教大師最澄が延暦寺根本中堂を建立された時、比叡山より西方

      にを眺めますと、紫雲たなびき朝日に映える山を見つけられました。その山は、この神蔵寺の背後にそびえる朝日山であり、大師自らこの地に来られて

      寺を建立されました。 根本中堂の薬師如来と同木で薬師如来像を刻み天台宗の一大道場として開創されました。 十一世紀に入り、源氏の崇拝が篤

      く大いに栄えておりましたが、源頼政、平家討伐の兵を挙げるに際して、神蔵寺の僧兵は三井寺(園城寺)の僧兵と合して挙兵しましたが、頼政方は敗

      れ、寺領は没収され仏像のみが残りました。 

 

 

 

         

              

 

 

         

 

 

 

      

      1235年、天台宗の達玄僧都が再興をなさったあと、それ以前は女人結界の道場でありましたが、以降それを免じて男女道俗袖を連ねる所となりました。

      その後、応永年間(1390~1420年代)の頃には室町幕府の管領、細川頼元の補修を受けて、より隆盛をほこります。 

       

 

 

 

 

      

      しかし、天正三年(1575年)織田信長の命により、明智光秀がこの寺を一宇残さず焼失させました。ご本尊は、信者達により菰(こも)で巻かれ山中に

      隠されたので、なんとか難を逃れたとのことで以来、この山中より流れる川は「菰川(こもがわ)」と呼ばれるようになりました。 

 

 

 

 

      

      1653年に、浄土宗の僧願西により本堂、阿弥陀堂、鐘楼等が再建され、現在の本堂はその時のものと伝わっております。1679年亀山城主松平伊賀

      守源忠昭が臨済宗妙心寺派の高隠玄厚和尚に寺門を再興させ、以来臨済宗の寺院として現在に至っております。

       

 

 

 

 

 

      

      現在、神蔵寺は、西国薬師霊場第四十三番札所として通称・佐伯薬師(佐伯のお薬師さん)、稗田野(ひえだの)薬師として親しまれております。

 

 

 

 

 

      

      正面の階段の奥の本堂の背後には、朝日山がそびえ、回峰修行の名残を残しており、山の頂から丹波盆地にかかる霧を見下ろし、真東には比叡山

      を望み、瑠璃光の世界を思わせるものとして往古から伝えられてきた絶景が広がるそうです。 

 

 

 

 

 

      

      境内に入り右手に「納経宝印処」にがあります。

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

      階段の左に見える手水場の水は、霊水として名高いそうです。 

 

 

 

 

 

      

      モミジの大木に覆われた階段を登り本堂に進みます。 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

       神蔵寺本堂は、瑠璃殿と名付けられ、本堂には、釈迦如来坐像が祀られております。

 

 

 

 

 

      

      本堂手前の鎮守八幡大菩薩を祀る社

 

 

 

 

 

              

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

      本堂前にある賽銭箱は、『結縁の大賽銭箱』と呼ばれており、1582年に明智光秀が本能寺へ攻め込むために馬を返した場所(亀岡市曽我部町)に桜

      の幼木があったそうです。平成二年に大木となったその桜が伐採されることになりましたが、その年は伝教大師が神蔵寺を開かれて千二百年目にあた

      るという因縁があったため、有志縁者によってその桜の木材を使い賽銭箱として奉納されたと説明されております。

 

 

 

 

              

 

 

 

 

 

       

       本堂前庭園

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

 

               

               修復前に使っていた鬼瓦だそうです。

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

       本堂を左手に進み裏側に回りますと薬師堂があります。

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

       薬師堂(東方閣)内 日光・月光菩薩と薬師如来坐像が安置され、 中央の厨子内にある薬師如来坐像は、藤原末期の様式を伝える優秀な作品とし

      て、大正六年に国宝、昭和二十五年に国の重要文化財に指定されました。また、両脇の日光菩薩(右)・月光菩薩像(左)は、薬師如来坐像と同時代

      の作品とみられ、亀岡市の文化財に指定されております。

 

 

 

 

 

      

       薬師堂前の木槿(むくげ)

 

 

 

 

 

      

       薬師堂の横に山から引かれていると思われる滝口がありましたが、この日は水が来ておりませんでした。

 

 

 

 

      

       来た道を下り駐車場に戻ります。

 

 

 

 

 

      

      境内とその周りには、二月頃幾種もの梅が咲きほこっているそうで、梅の苗木は約50本、桜の苗木は約100本もあるそうです。

 

 

 

 

 

      

       この日は、紫陽花と桔梗、木槿に未央柳 (びょうやなぎ)が彩を添えておりました。

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

       

 

 

 

 

 

      

      未央柳 (びょうやなぎ) 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

      入口に架かる、みかえり橋 

 

 

 

 

 

      

       お寺の方が、近くに明智光秀縁のお寺があると教えてくださったので、そちらに向かいます。

 

 

 

      この亀岡という地名は、もとは丹波亀山と呼んでおりましたが、明治二年(1869) 伊勢の亀山との混同をさけるため亀岡と改称されました。亀岡と明智光

      秀との関係は、1575年 織田信長の命により丹波亀山に亀山城を築城するにあたり光秀公は敵も味方も殺さずいかにも光秀公らしく和平の話し合いによっ

      て、知行安堵を行ったか、随分と配慮があったことがうかがえると、この事を記した数種類残っており、丹波経略は五年を要して成就したともあり、信長も光

      秀の功をほめているとあります。光秀公の善政は挙げて限りなく、この亀岡では、明智光秀公の人徳を偲ぶ声は巷に溢れており、「逆臣」とされがちな光秀

      だが、この地では別の見方があり、治水事業など数々の功績から「誠実」「和議を重んじた知将」など、遺徳をしのぶ声が根強いそうです。 比叡山の焼き

      討ちの後、女房・子供まで磔にかけ、次に高野山攻めを旬日の後に控えていた折から「本能寺の変」により、光秀公は高野山を全山灰燼の危機から救った

      ことなどから、このような過酷な暴君を何故倒さねばならなかったかを考えることなく、主君を倒した光秀を逆臣とする江戸倫理以降の「悪は、栄えず三日に

      して滅ぶ」という云われ方に、光秀公の遺徳を偲び畏敬する丹波人に対して「光秀の三日天下」と云った言い方は慎んだ方がいいようです。 

 

 

 

 

 

       

       神蔵寺から車で湯の花温泉を抜けて10分程の所にある、谷性寺は(こくしょうじ)は、山号を清瀧山(せいりょうざん)といい、真言宗大覚寺派の寺院で、

      安土桃山時代の武将・明智光秀ゆかりの寺であることから光秀寺とも呼ばれ、境内に桔梗咲き乱れることから桔梗寺ともいいます。

 

 

 

 

      

       創建は平安時代といわれ、本尊の不動明王は、明智光秀が崇敬したと伝わっております。本能寺の変(1582)を前に光秀は、不動明王に、「一殺多

      生の降魔の剣を授け給え」と誓願し、本懐を遂げたといい、1582年、光秀公、秀吉軍との山崎の戦で敗れ、坂本城に向かう途中山科の小栗栖に於い

      て土民に襲われ、家臣の溝尾庄兵衛が光秀公の介錯をなし首を鞍覆に包んで近臣に託し、生前光秀公の尊崇のあつかった当寺の不動明王のそばに

      手厚く葬るように命じて自分は坂本に走ったと伝わります。

 

 

 

 

              

              明智家の家紋に因んで境内や周りの畑には桔梗が咲き誇っております。 

 

 

 

 

 

      

      幕末の志士で「栄」なる人物が、光秀公の怨念を鎮めんがために1855年7月「光秀公首塚」の碑を建てて供養いたしました。  当山中興の秀円法印

      より第二十世哲立法印により昭和48年本堂、客殿、庫裡、鐘楼の新築、改装がなされ寺容が整いました。     

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

      

      

       山門を潜り正面に庫裡が建ち本堂は、左手奥になります。

 

 

 

 

      

      庫裡玄関 正面には大覚寺門跡良戒大僧正の書になる寺名額が掲げられており、玄関両脇には住職の作による愛嬌のある仁王像が安置されてお

      ります。

      

                         

      本堂には、中央に御本尊の不動明王が祀られており、平安時代作と鑑定された阿弥陀如来立像を始め、薬師如来など秘仏が本尊の両脇に安置され

      ております。本尊の不動明王は、明智光秀が八上城を攻略するときこの不動明王を崇めたところ、将兵はその加護を受けたと伝えられております。

 

       

      御本尊の前に祀られる光秀公尊像                  七福神像や五大明王、虚空蔵、観音、勢至の諸菩薩像は、哲立法印の一

                                       刀三礼の思いをこめて彫り上げたものと説明されております。

 

      

       その他に2メートルに余る釈迦涅槃像も祀られております。

 

 

 

 

      

      本堂前、山門との間に建つ首塚 安政2年(1855年)に光秀の怨念を鎮めるために建てられたといわれております。宝篋印塔は、室町時代のものだそ

      うです。

 

 

 

 

      

      本堂の左手に建つ楽寿観音像は、近畿楽寿観音三十三所霊場の、第25番札所になっております。 楽寿観音とは、豊かな老後を見据えて安楽と健康

      長寿の御利益をもたらしてくださる観音様です。

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

       本堂前の庭園です。

 

 

 

 

 

 

      

      本堂の右手にある山門のには「明智山門」及び「真言宗大覚寺派 清瀧山谷性寺」と書かれた二枚の木札が架かっております。床几が置かれ待合の

      様な休憩スペースになっております。この山門はもとは亀岡柳町の西願寺にあったものですが、廃寺となったため昭和51年にこちらに移築されたもの

      です。

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

       

      

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

              

 

 

 

 

 

 

      

       山門前の枝垂れ桜、お寺の右手には、茶畑があり栂尾山の高山寺の苗木を移植したものだそうです。高山寺の茶畑は日本で最初の茶畑で、臨済宗

      を開いた栄西禅師が宋から持ち帰ったものが植えられております。

 

 

 

 

 

      

       桔梗の寺の別名通り、寺院の周りの畑には約5万本の桔梗が咲き誇っており桔梗の里と呼ばれております。

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

       谷性寺の左手の畑にも、紫陽花をはじめ桔梗、ひまわり、半夏生などが育てられております。

 

 

 

 

      

       谷性寺の寺壁の奥には、篠葉神社が佇みます。

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

              

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

      御親祭 火雷神(ほ いかずち のかみ)  社名 秋葉神社  水火剣難の守護神 

 

 

 

 

 

              

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

      

 

 

 

 

      

      光秀公の砦と書かれた案内板があります。  

 

 

 

 

 

       

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

     

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

              

 

 

 

 

 

 

 

       

 

 

 

 

 

 

      

      こちらの寺院は、手前に何十台も停めれる駐車場が完備されております。  湯の花温泉の帰りや、穴太寺や神蔵寺とセットで回られると効率がいいと

      思います。 こちらで、亀岡インターから15分程度の距離になります。

 

 

 

 

 

 

 

 

  このブログを見ていただいているお客様も多数お越しいただき、大変ありがたく思っております。時間の許す限り随時更新を続けていきたいと思っております。

  私もまだまだ行ったことのない寺院が沢山ありますので、リクエストがございましたら、是非伺いますので遠慮なく仰ってくださいませ。  

  祇園 割烹 ふじ原 ホームページ  http://kappou-fujiwara.com/ 

 

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大本山 廬山寺 桔梗の庭 7/14/2011

2011年07月21日 | 洛中 

      

      廬山寺は、御所の東側の寺町通りに面した位置にあり、天台宗圓浄宗の大本山で、正しくは廬山天台講寺と号します。938年比叡山第18世座主・元

      三大師良源によって天慶年中(938年~947年)に船岡山の南麓に開かれた興願金剛院にはじまります。  寛元元年(1243年)に法然上人に帰依し

      た住心房覚瑜上人が出雲路に廬山寺を開き、南北朝時代にこの二ヵ寺を兼務した明導照源上人によっって廬山寺が興願金剛院に統合され、この時

      以来寺名を廬山寺から廬山天台講寺と改め、円、密、戒、浄の四宗兼学道場といたしました。

 

 

 

 

 

      

      その後、室町時代に応仁の乱で焼失した後、1571年には、織田信長の比叡山焼き討ちは正親町天皇の女房奉書により免れましたが、豊臣秀吉の寺

      町建設によって1573年~1593年に現在地の紫式部邸宅址に移転いたしました。

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

      現在の本堂は、度々の火災のため焼失後、1794年に光格天皇が仙洞御所の一部を移築し、女院、閑院宮家の御下賜でもって改装されたものです。

 

 

 

 

 

      

      明治維新までは御黒戸四箇院と云って、宮中の仏事を司る寺院が四ケ寺ありその中の一つでありましたが、廃仏毀釈により宮中より天台宗にお預け

      になり昭和二十三年圓浄宗として元の四宗兼学の道場となり今日に至っております。

 

 

 

 

      

      山門の正面に位置する元三大師堂は、天明大火後の天保六年(1835)の再建で、奥に元三大師を祀る扉付仏壇をおき、毎月三日に護摩を行っており、

      どなたでもご自由に参加できる様になっております。

 

      

      元三大師象・鎌倉時代

 

 

 

 

 

      

      元三大師堂の北側に鎮座する賓頭盧(びんずる)尊天像。賓頭盧さんは、十六羅漢の第一とされておりましたが、神通力をもてあそんで釈迦に呵責さ

      れ、涅槃(ねはん)を許されず、釈迦の入滅後も衆生(しゅじょう)の救済にあたったと云われております。白髪と長眉(ちょうび)の姿で示され、日本では堂

      の前に置き、これを撫でると除病の功徳があるという俗信が広まりました。

 

 

 

 

      

      

       京都七福神 三番毘沙門天 境内西の大師堂は元三大師像を本尊として、左右に不動明王、金山毘沙門天、薬師如来像を安置しております。 この

      毘沙門さんは聖徳太子作と伝えられており、聖徳太子は父・用明天皇なきあと皇位継承問題で排仏派の物部守屋らと戦いましたが、そのとき戦勝祈

      願したのが毘沙門天でした。戦いに勝った太子は仏教をひろめるため四つの天王寺を築きます。

 

 

 

 

 

      

      四天王寺の中でも、大阪四天王寺はあまりにも有名ですが、京都北山に建立したのが金山天王寺で、本尊を如意輪観音とし、脇侍に毘沙門天像を安

      置したと伝えられており、その後、金山天王寺がどういう軌跡をたどり廃寺となったかはわかりませんが、廬山寺は天慶元年(938)北山に創建され、洛

      北の地を転々として天正13年(1585)現地へ移ったと伝えます。金山毘沙門天像を廬山寺で祀るようになったのは明治元年からといわれております。

      当初の本尊如意輪観音並びに伽藍等は数度の火難に遭遇し、久しく廃絶に帰しましたが、承願元年(1207)に烏丸一条北に再建され、承久年中(12

      19)に上立売室町東に移転するその間、本尊もその当時の大阪・四天王寺の本尊[飛鳥時代]を模倣造立し、旧観に復しました。天正13年(1585)廬山

      寺二十二世超空上人が今出川通り七本松に移され、明治7年(1874)二月官許によって廬山寺に合併され現在に至り、現存の本尊如意輪観音は鎌倉

      時代の作でありますが、飛鳥仏の姿貌を残す霊験の顕著なること炳として日星の如く、諸願よく成就し、これをもって古来より来たり、詣でるもの雲の如

      く集まり、常に香華耐えることはなしと云われております。現在はお前立ちのみ、元三大師堂内に安置されており、本体は京都国立博物館の常設展示

      会場にて展示されております。      

                           

      如意輪観音半伽像                       黒戸 宮中で云う仏間のことで、仁孝天皇が宮中で祭られていた光格天皇

                                         と新清和院皇后の御尊碑が安置されております。                  

 

 

 

 

 

      

      元三大師堂を護る獅子像 

 

 

 

 

 

              

 

 

 

 

 

 

      

      本堂・庭園の拝観受付には、元三大師堂の南側を回り向かいます。

 

 

 

 

       

      

      境内の南側に建つ鐘楼 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

       鐘楼の東側に佇む筆塚 日本画家、池田遙邨(いけだようそん)の筆塚  池田遙邨(1895~1988)は岡山県倉敷市出身で、現在の京都市立芸術

      大学の助教授を務めていたことがあるそうですが、廬山寺との接点や筆塚が建った由来等は見つけることが出来ませんでした。 お寺の方に聞くのが

      一番ですが、興味がおありの方は尋ねてみてください。

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

      紫式部の歌碑 「めぐりあひて見しや それともわかぬ間に  雲がくれにし夜半の月かな」 紫式部が幼友達に贈った歌がきざまれております。

       『思いがけず出合って、その形を見たのかどうか分からぬうちに、雲の中に隠れてしまった夜中の月のように、久し振りにお目にかかり、お姿をみたか

      どうか分からぬうちにもうあなたはお帰りになられましたのね。』といった意味の内容が表現されております。 少女時代の紫式部については、有名な

      逸話がつたえられています。 紫式部の実弟・惟規が父の為時について「史記」を学び、なかなか覚えられずに難渋していたが、わきで聴いている紫

      式部はすらすらと覚えてしまうので、為時は、「この娘が男でないのが残念だ」と歎いたという話である。 もう一つの歌は、紫式部の娘の歌がきざまれ

      ております。 「有馬山ゐなの笹原風吹けば いでそよ人を忘れやはする 」 大弐三位 

 

 

 

 

           

      

      源氏物語の舞台   日本人で唯一人「世界の五大偉人」に選出され、フランスのユネスコ本部に登録された世界最古の偉人並文豪紫式部は、「平安

      京東郊の中河の地」 すなわち現在の廬山寺の境内(全域)に住んでおり、それは紫式部の曽祖父、権中納言藤原兼輔(堤中納言)が建てた邸宅(堤

      第)であり、この邸宅で育ち、結婚生活を送り、一人娘の賢子を産み、長元四年(西暦1031年)五十九歳ほどで死去したといわれております。 紫式部

      は藤原香子と呼び、「源氏物語」「紫式部日記」 「紫式部集」などは、ほとんどこの地で執筆されたものであります。そのため、世界文学史上屈指の史

      跡、世界文学発祥の地とも言われております。この遺跡は考古学者角田文衛博士によって考証されたものであり、昭和四十年十一月、境内に紫式部

      邸宅跡を記念する顕彰碑が建てられました。 

 

 

 

 

 

      

      拝観受付のある本堂玄関

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

      磨き上げられた本堂の板張りの廊下は、7月の暑さの中とてもひんやりと一服の清涼感を味わえます。

 

                      

                      御本尊の阿弥陀如来三尊(平安時代)は、来迎を現しており、説明により

                      ますと、両脇侍像に見られる動きのある容姿と風の表現を意図した造形は

                      この時代にあって出色のものだそうです。

 

 

 

 

      

      本堂南側の庭園は、「源氏庭」と名付けられ、平安朝の庭園の「感」を表現した白砂と苔の庭で、紫の桔梗が6月~9月まで順次咲いていきます。

 

 

 

 

 

      

      紫式部が育ち、未婚時代を過ごしたのは堤第といわれた藤原兼輔(紫式部の曽祖父であり、堤中納言といわれる)が建てた邸宅であり、父・為時の邸

      宅においてでした。この邸宅で結婚生活を送り、一人娘の賢子(かたこ)を育て、源氏物語を執筆したと云われており、それは平安京の東に接した中河

      と呼ばれる地にあり、現在の廬山寺の境内を中心とする処に営まれていました。昭和40年11月、廬山寺の境内に紫式部の邸宅址を記念する顕彰碑が

      たてられました。 また、源氏物語の花散里の屋敷はこのあたりであったといわれています。

 

 

 

 

      

       源氏物語に出てくる朝顔の花は今の桔梗のことであり、紫式部に因み、紫の桔梗が6月から9月末まで静かに花開きます。 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

       この庭園を鑑賞するのは、やはり桔梗が咲き誇るこの時期が素晴らしいと思います。

 

 

 

 

 

              

 

 

 

 

 

 

              

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

      紫式部の邸宅址を記念する顕彰碑

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

              

 

 

 

 

 

 

              

 

 

 

 

 

              

 

 

 

 

 

              

      

 

 

                         

                         若紫(住吉廣尚画) 紫式部が執筆した「源氏物語」は、日本が世界に誇る

                         文化遺産として、筆頭に挙げていい傑作長編の大恋愛小説であると、瀬戸

                         内寂聴談がパンフレットに載っております。

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

              

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

                       

      節分に執り行われる「追儺式鬼法楽」(通称   鬼おどり)は、開祖元三大師良源が村上天皇の御代に宮中に於いて300日間の護摩供養を修せられた

      時に三匹の鬼(人間の善根を毒する三種の煩悩、即ち貪欲、嗔恚、愚痴の三毒を表現しており) が現れ、この三鬼を節分の日に追い払い、開運をはか

      り、新しい節を迎えるという法会行事です。  太鼓と法螺貝の音を合図に松明と宝剣を持った赤鬼、大斧を持った青鬼、大槌を持った黒鬼が大師堂前

      の特設舞台に出現し、足拍子をとりながら、堂内に入ります。堂内では厄除け開運、福寿増長の護摩供の修法が執り行われており、そのまわりを三鬼

      が踊りながら修法の妨げをするのですが、、 護摩供の秘法、追儺師の邪気払いの法弓、そして蓬莱師、福娘によって撒かれる蓬莱豆及び福餅の威力

      に追われて鬼は門外へ逃げ去ります。

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

      元三大師堂 

 

 

 

 

 

              

 

 

 

 

 

 

      

            

             

 

 

 

 

      

      山門の南手の寺町に面した壁の前に建つお社  庭園の桔梗は、文中でも書きましたが、9月末まで順次開花しているようです。お車でお越しの方は、

      山門内の境内に6・7台は駐車することが可能です。 なお、寺町通りは、今出川からは下がれませんので、一本西側の御所の横の道を突き当たりまで

      下がって左折しますと、寺町に出ますので南に折れるとすぐ左手(東側)に山門があります。丸太町からの方は、寺町の信号を北上してください。

 

 

                             

 

 

 

 

 

 

  このブログを見ていただいているお客様も多数お越しいただき、大変ありがたく思っております。時間の許す限り随時更新を続けていきたいと思っております。

  私もまだまだ行ったことのない寺院が沢山ありますので、リクエストがございましたら、是非伺いますので遠慮なく仰ってくださいませ。  

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亀岡 菩提山 穴太寺 7/11/2011

2011年07月17日 | 洛外 

      

      京都府亀岡市にある『穴太寺(あなおうじ)』は山号を菩提山と称し、天台宗に属し、古くには、「穴穂寺」「穴生寺」などともよばれており、西国三十三所

      巡礼の第二十一番札所となっています。

 

 

 

 

 

      

      穴太寺の創建は705年、文武天皇の勅願によって、大伴旅人の甥・大伴古麿が薬師如来をご本尊に安置し建立されたとつたわります。仁王門は17世

      紀中期の建立と思われますが、柱には改造痕跡が多くみられ、狩野永納が1676年に描いた「穴太寺観音縁起絵巻」にある楼門の古材を利用しての改

      築ではないかとの指摘があります。 

      大伴古麻呂(こまろ:胡麻呂、胡麿とも)とは、その名は、古代史の専門家か古代史に興味を持つ者以外にはあまり知られていないといわれており、麻呂

      は、第十回遣唐使の副使として唐に渡り、長安での朝賀の席では新羅との席次を争い、大使が唐の官憲を恐れ下船させた唐僧・鑑真和上とその弟子を

      隠密裏に自らの船に乗せ渡来させた事で知られております。

 

 

 

 

 

                  

         その後、平安時代になりますと、当地曽我部郷の郡司、宇治宮成によって聖観音菩薩を当寺に奉迎することになり、これには仏師の身

         代わりになり、弓矢を受け、その命を救った「身代わり観音」の霊験譚「穴太寺観音縁起」が伝えられております。 

 

 

 

 

 

      

      穴太寺の聖観音像は「身代わり観音」の伝説で知られ、この伝説が『今昔物語集』に取り上げられていることから、平安時代末期には観音霊場として

      当寺が知られていたことがわかります。『今昔物語集』所収の説話によりますと、昔、丹波国桑田郡の郡司をしていた男は、都の仏師に依頼して聖観

      音像を造り、仏師には褒美として自分の大切にしていた名馬を与えました。しかし、与えた名馬が惜しくなった男は、家来に命じて仏師を弓矢で射て殺

      してしまいます。ところが、後で確認すると仏師は健在で、観音像の胸に矢が刺さっており、命が助かりました。この話を耳にした男は改心し仏道を信じ

      るようになったという話が伝わっております。同様の説話は『扶桑略記』にもあり、ここでは男の名が「宇治宮成」、仏師の名が「感世」とされております。  

 

 

 

 

      

      仁王門を潜りすぐ右手に鐘楼がありその前には、手水場が建ちます。 

 

 

 

 

 

      

      南北朝時代以降は、比叡山西塔院末で、室町幕府から所領や執行職を任されており、戦国時代になりますと、戦火や明智光秀による亀山城築城の

      用材として、当寺の堂宇を壊し流用したとも伝えられ荒廃いたしておりましたが、江戸時代に入り再興の勧進が実り、諸堂を復興し今日に至っており

      ます。 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

              

              羽衣モミジと本堂 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

      穴太寺の「本堂」は、火災で焼失してしまったものを1735年に再建したものです。 

 

 

 

 

 

      

      山門の左手に建つ多宝塔 手前の小さな鳥居と小社殿は、穴太寺の鎮守社で菅原道真公を祭神とする天満宮であり、寺紋は道真公に因み梅鉢紋

      になっております。社殿は小さいながらも本格的な一間社流造りで18世紀初期のものと思われております。 

 

 

 

 

 

              

              1804年再建された多宝塔は、柱がすべて円柱になり切石積の基壇上に東を正面に建ちます。 内部は四天柱が

              立ち来迎壁を設けて禅宗様の須弥壇に釈迦如来と多宝如来の二仏が安置されております。

 

 

 

 

 

      

      亀岡市内では、唯一の木造塔として貴重な存在になっております。 

 

 

 

 

 

      

      本堂(観音堂)は、1728年に焼失した後、七年後の1735年に再建され、多くの巡礼者が訪れる霊場の本堂の常として広い向拝下の土間と吹き放ちの

      外陣が特徴です。 

 

 

 

 

 

      

      内部は、格天井に花鳥図を描き内々陣には禅宗様の須弥壇を設け華麗な彫刻と色彩を施した宮殿を据えて、本尊の薬師如来と聖観世音菩薩の三尊

      を安置しております。左右の脇壇には左脇に不動明王立像、右脇には平安期の阿弥陀如来像と釈迦如来大涅槃像が安置されております。 

 

 

 

 

 

      

      本堂前には、寺院では珍しい草花の生け込が飾られておりました。 お寺のご住職の奥様か、女性職員の方の心配りだと思われます。 寺紋の梅鉢

      紋をあしらった本堂のガラス戸

 

 

 

 

 

      

      本堂前、右手には賓頭盧さんが鎮座されております。賓頭盧さんは、十六羅漢の第一とされておりましたが、神通力をもてあそんで釈迦に呵責(かしゃ

      く)され、涅槃(ねはん)を許されず、釈迦の入滅後も衆生(しゅじょう)の救済にあたったと云われております。白髪と長眉(ちようび)の姿で示され、日本で

      は堂の前に置き、これを撫でると除病の功徳があるという俗信が広まりました。

 

 

 

 

 

 

      

      本堂から見た山門方向です。 

 

 

 

 

 

      

      本堂と西側の方丈及び庫裡を結ぶ回廊です。 庫裡で方丈庭園と本堂の拝観受付を済ませて、この回廊で本堂に渡ります。 

 

 

 

 

 

      

      庫裡及び方丈への入口の表門 表門は、1705年建立の薬医門です。 

 

 

 

 

 

      

      書院玄関と雲龍図の屏風 

 

 

 

 

 

      

      庫裡の南側の方丈は、方丈建築として丹波地方では屈指の質の高さと古さを持つと云われております。 

 

 

 

 

 

      

      方丈南側に位置する方丈庭園 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

              

              多宝塔は、方丈庭園の南側に位置し、庭園の借景とした役割もはたしております。

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

      方丈及び庫裡の事を、円応院と呼び、南面に名勝の庭園と西面に護摩堂に続く露地の庭を併せ持つ書院造りの建物となっており、棟札によりますと

      中興初代行廣が、1677年に造営し本堂とは渡り廊下でつなげております。 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

      西側庭園 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

              

 

 

 

 

 

 

      

      西側庭園の右手(北側)に護摩堂がつづきます。 

 

 

 

 

 

      

      本堂への渡り廊下 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

                       

      御本尊を祀る須弥壇の右手には釈迦如来大涅槃像が横たわります。 お釈迦様が、インド・クシナガラの地で生涯を閉じられ、涅槃に入られるお姿です。

      日本では2月15日にその遺徳を追慕し涅槃像を供養しますが、大体が画像で、このような等身大の彫刻は全国的にみても大変珍しく、蓮華座を枕にして

      横たわるお姿はまことに円満で、悟りの境地に入られた表情をよく表しております。この尊像は明治29年(1896)に本堂屋根裏よりお出ましになり、当時

      の住職と孫娘の病気平癒のため、日々参詣をしていた信者の霊夢によってこの尊像を探し当て、堂内に祀ると孫娘の病が快癒したと伝わっております。

      それ以来、諸病悉除の釈迦大涅槃像として自分の病の個所と同じ尊像の部分を撫で、自分の体をさすり返すとお釈迦様のご利益に授かれると、癒しを求

      める参拝者に全身を撫でられ光沢をはなっております。

      こちらの涅槃仏は、上に布団が掛けられており、お寺の関係者の方が、「布団をめくって、体の悪いところを撫でてくださいと」とおっしゃってくださいましたの

      で、気が付くと全身をくまなく撫でている自分がおりました。 涅槃仏に掛けられている布団は、信者の方が病気平癒のお礼に納められたものだそうです。

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

      多宝塔の北側には、三十三所観音堂と納札所が建っております。 

 

 

 

 

 

 

               

 

 

 

 

 

 

              

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

      本堂の柱には、いたるところに千社札が貼られておりましたが、お寺の方に頼んで貼ってもらうのでしょうね。 

 

 

 

 

 

      

      三十三所観音堂と手前の札所 三十三所観音堂には西国札所のお砂が納められており、このお堂をお参りすることで、すべての西国観音霊場をお

      参りしたことと同じだけの功徳があるといわれております。 

 

 

 

 

 

      

      納札所には多くの参拝者の納札が打ち付けられております。 

 

 

 

 

 

              

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

      仁王門の脇に建つ鐘楼は、1759年の建立です。 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

        

 

 

 

 

 

 

      

      西国三十三所観音霊場だけあって、観光バスの乗り入れも多く十分な駐車場が完備されております。仁王門の南側、徒歩二分の距離にあります。 

 

 

 

 

 

 

 

 

  このブログを見ていただいているお客様も多数お越しいただき、大変ありがたく思っております。時間の許す限り随時更新を続けていきたいと思っております。

  私もまだまだ行ったことのない寺院が沢山ありますので、リクエストがございましたら、是非伺いますので遠慮なく仰ってくださいませ。  

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西山 衣笠山 地蔵院 青もみじ 7/8/2011

2011年07月14日 | 洛西 嵐山・嵯峨野 高雄

      

      地蔵院は、苔寺や鈴虫寺の南側に位置する竹林の美しさで知られる臨済宗の寺院です。幼少のころ近くに生家があった一休禅師(1394~1481)が修

      養の場としていた寺としても知られます。 地蔵院の地はもともとは、衣笠内大臣といわれた歌人の藤原家良(いえよし)(1192~1264)が山荘を営んで

      いた場所ですが、貞治6年(1367年)もしくは応安元年(1368年)に室町幕府の管領であった南北朝時代の武将・細川頼之(よりゆき)(1329~1392)が

      尼僧妙性(みょうしょう)から土地を買取り、寄進したことに始まります。 

 

 

  

              

              開山は碧潭周皎(へきたんしゅうこう)すなわち宗鏡(そうきょう)禅師ですが、その師匠であり、西芳寺(苔寺)や

              天龍寺の作庭などで有名な夢窓疎石(むそうそせき)を勧請して第1世とし、碧潭周皎自身は第2世となっていま

              す。 

 

 

 

 

      

      夢窓疎石(夢窓国師)氏とは、鎌倉時代から室町時代にかけての著名な禅僧で、各地を巡遊、寺を開基し、自らも作庭を行いました。京都市内では西

      芳寺(苔寺)、天龍寺の庭園などを手がております。 

 

 

 

 

      

      碧潭周皎が亡くなり、「宗鏡」の諡(おくりな)を得てこの地蔵院に葬られた後、細川頼之もまた遺志により死後地蔵院に葬られ、2人の墓石と伝えられ

      る石が境内に並んで安置されています。細川氏に由来する寺院であるためか、当時の朝廷の信仰も厚く、室町時代には京都五山に匹敵する特権を

      与えられるとともに、多くの寺領が寄進され、隆盛を極めました。 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

      しかし、応仁・文明の乱(1467~1477年)によりすべての堂舎は焼失し、さらに復興後に天正の大地震(天正13年・1585年)で大きな打撃を受けます

      が、細川家の援助もあり江戸時代中頃には復興しました。庭園は宗鏡禅師作と伝えられますが、貞享3年(1686年)に建てられた方丈の南側にあるた

      め、方丈と同時期に整えられたものと考えられています。 

 

 

 

 

 

      

      臨済宗は、中国でおこった禅宗の一派で、日本では臨済宗・黄檗宗・曹洞宗の三宗があり共に達磨大師を初祖と仰いでおります。その精神は、教外

      別伝・直指人心を旗印とし、ひたすらに座禅を修して、人間本来に備わっている仏性を徹見し、またそれと一体不二となって、淡々とした境地に安住す

      ることが釈尊の説いた仏法正しく受け継ぐことであると説くところにあります。 臨済宗の教義は、「不立文字・教外別伝・直指人心・見性成仏」で表され

      る。 不立文字―仏の道はことばや文字ではない。 教外別伝―心から心に伝えられるものである。 直指人心―衆生の心と仏心とはもとは一つである

      から、仏を外に求めるのではなく、自分自身の中に求めなければならない。 見性成仏―悟りとは、ただ自己のありさまを徹底して見、識ることのほかに

      ない。

 

 

 

 

      

      山門を潜った所で、拝観受付をし竹藪に囲まれた参道を進みます。 正面が本堂になります。       

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

      本堂手前の右側に細川頼之公の御事績が詳しく書かれた石碑が建っております。細川 頼之(ほそかわ よりゆき)は、南北朝時代から室町時代初期

      にかけての武将で、政治家で、室町幕府管領を務めた人物です。 足利氏の一門である細川氏の武将として、阿波、讃岐、伊予など四国地方におけ

      る南朝方と戦い、観応の擾乱では幕府方に属し、管領への就任で幕政を指導し、幼少の足利義満を補佐して半済令の施行や南朝との和睦などを行

      いました。天授5年/康暦元年(1379年)の康暦の政変で失脚いたしますが、その後は赦免されて幕政に復帰いたします。 

 

 

 

 

      

       文化的活動としては和歌や詩文、連歌など公家文化にも親しみ、頼之が詠んだ和歌が勅撰集に入撰しており、また、軍事作法について記した書状も

      存在している文武にたけた人物として名をのこしております。  幼少時に禅僧である夢窓疎石から影響を受けたとされ、禅宗を信仰して京都に景徳寺、

      地蔵院、阿波の光勝寺などの建立を行いました。細川家の子孫には、龍安寺開基の勝元氏や幽斎、忠興親子や元首相の護煕氏まで脈々と続いてお

      ります。

 

 

 

 

 

      

       

 

 

 

 

      

       本尊は、伝教大師の作という地蔵菩薩(通称谷の地蔵)で、菩薩の左右には、夢想国師・宗鏡禅師・細川頼之の木像が安置されております。

 

 

 

 

      

       本堂の左手奥(南側)には、自然石で造られた二つの墓が佇みます。 

 

 

 

      

      二つの墓石の内、左手が宗鏡(そうきょう)禅師のもので、右側が細川頼之(よりゆき)の墓になります。細川頼之は三河国(愛知県)の生まれで、将軍

      足利義満を補佐していた管領職をしておりました。 天然の石だけを墓石の代わりにしているものは、この時代では大変珍しい事だそうです。

 

 

 

 

  

      

      一休禅師と地蔵院 当院は一休禅師が幼少の頃修養された寺であり、禅師は、後小松天皇の皇子として、1394年当院の近くの民家でお生まれにな

      ったといわれており、後、当院で成長され、6歳の時安国寺に移って本格的な修行にはいられました。 禅師は京都、堺などで大衆を教化し、大徳寺に

      も住されましたが、晩年は山城薪(現在の京田辺市)の妙勝寺を復興して酬恩庵とし、そこで文明13年(1481)八十八歳でお亡くなりになるまで過ご

      されました。 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

      本堂の北側には、開福稲荷大明神を祀る祠が建っております。 

 

 

 

 

 

 

      

       開福稲荷大明神前のお地蔵さんの列

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

      

       本堂前から北に伸びる参道の向こうには、方丈と庫裡の入口の中門が建ちます。 

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

 

      

       方丈は、江戸時代の貞享3年(1686)に再建されたもので、方丈前庭園は「十六羅漢の庭」と呼ばれる平庭式枯山水庭園となっております。 

 

 

 

 

      

      方丈庭園の中には30個ほどの石が各所に据えられており、とくに築山や池などを築かない、平庭形式の枯山水庭園となります。据えられている石の

      形は様々ですが、比較的均等に配置され、羅漢(悟りを開いた修行者)の修行をする姿を表現するという石の配置がなされているため、「十六羅漢(ら

      かん)の庭」と呼ばれています。地面にはコケが一面に生え、落ち着いた感じをかもしだしています。  

 

 

 

 

      

       胡蝶侘助椿

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

 

      

       中門の内側に建つ祠は、開運弁財天と左側に巳歳守護と書かれておりましたが、巳年の方だけを護っているのでしょうか?

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

     

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

              

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

 

      

      参道の石の一つ一つや配置にも意味があるのでしょうね。 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

      竹林の参道は、真っ直ぐに伸びる竹のせいか、竹の色のせいか、清々しい気分にさせてもらえます。 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

              

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

      表には、駐車場有と書いてありましたが、台数は確認できませんでした。 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

  このブログを見ていただいているお客様も多数お越しいただき、大変ありがたく思っております。時間の許す限り随時更新を続けていきたいと思っております。

  私もまだまだ行ったことのない寺院が沢山ありますので、リクエストがございましたら、是非伺いますので遠慮なく仰ってくださいませ。  

  祇園 割烹 ふじ原 ホームページ  http://kappou-fujiwara.com/ 

 

 

 

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西山 葉室山浄住寺 青もみじ 7/8/2011

2011年07月12日 | 洛西 嵐山・嵯峨野 高雄

      

       葉室山浄住寺は、京都西山物集女街道千代原口から山側に上がった住宅に囲まれた地にひっそりと建ちます。810年に開創された嵯峨天皇の勅願寺

      で、当時は常住寺と称しました。「太平記」によりますと捷疾鬼(しょうしつき)という鬼神に奪われた釈尊の一本の歯が中国から日本に渡り、嵯峨天皇に

      より「常住寺」の石窟に安置されたと伝えられており、開山は慈覚大師円仁(比叡山延暦寺)とされております。 1261年(弘長元年)公卿葉室定嗣が中興

      し、浄住寺と改められました。中興開山は奈良西大寺の興正菩薩叡尊(律宗)で、叡尊自叙伝の古写本である「感身覚正記」に当寺が律宗寺院であった

      ことが記されております。

 

 

 

 

      

      1567年に炎上いたしますが、1687年葉室頼孝により再建され、黄檗宗(禅宗)となって現在に至っております。再興開山は大慈普応禅師鉄牛道機(黄

      檗宗)で、釈迦牟尼仏坐像を本尊とし、諸堂宇が整って黄檗宗の有力寺院となりました。

      葉室頼孝(1644-1709)とは、公家・葉室家(はむろけ)の23代当主で、山城国葉室邑を継ぎこの地で荘園を営んでいた家系です。葉室の名は、境内北

      に山田葉室町と地名にいまも残され、中世以来呼ばれてきました。近隣には、鎮守の神として、葉室家の霊を祀る葉室御霊神社が建立されております。

 

 

 

 

      

      参道の両サイドは、住宅が押し迫り、この一角だけが別世界になっております。

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

      屋根のない山門を入っていきます。 

 

 

 

 

              

 

 

 

 

 

      

       もみじのトンネルの向こうに見える本堂

 

 

 

 

 

      

       本堂の手前右手に石碑が佇んでおります。

 

 

 

 

 

      

       こちらの石碑は、開山鐵牛禅師遺掲の三百九回忌として昨年建立されたものだそうです。





 

      

 

 

 

 

 

 

              

               石碑の後ろの苔の中に円柱の形をした石柱が建っておりましたが、何を意味するものなのかは解りませんでした。

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

       

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

              

              本堂 1697年の造営になり、黄檗宗の特色を兼ね備えたものとなっており、本堂の後方中軸上に、位牌堂、開

              山堂、寿塔が一列に並んでおり、京都市内における黄檗宗寺院を代表するものであり、なかでも開山堂と寿塔は

              黄檗寺院の特色をよく残しております。




 

      

       内部両側に板敷の床を張って修行の場としており、法堂と僧堂の機能を兼ね備える建物です。 御本尊は如意輪観音を祀ります。如意輪観音とは、

      仏教における信仰対象である菩薩の一尊で、観音菩薩の変化身(へんげしん)の一つであり、六観音の一尊に数えられます。

      余談になりますが、六観音 聖観音、十一面観音、千手観音、馬頭観音、如意輪観音、准胝観音を六観音と称し、天台系では准胝観音の代わりに

      不空羂索観音を加えて六観音とし、六観音は六道輪廻(ろくどうりんね、あらゆる生命は6種の世界に生まれ変わりを繰り返すとする)の思想に基づき、

      六種の観音が六道に迷う衆生を救うという考えから生まれたもので、地獄道-聖観音、餓鬼道-千手観音、畜生道-馬頭観音、修羅道-十一面観

      音、人道-准胝観音、天道-如意輪観音という組み合わせになっております。

 

 

 

 

      

      本堂前右手に建つこの御堂には、聖観世音が祀られており、洛西三十三ヶ所観音霊場の第30番札所となっています。

 

 

 

 

 

 

      

       本堂南側の祠、ただ今橋の修復中でした。

 

 

 

 

 

      

       本堂前から、北側には庫裡、方丈とつながっております。

 

 

 

 

 

      

       本堂と庫裡を結ぶ回廊です。 黄檗宗万福寺にも同じような行燈が下がっておりましたのを思い出しました。

 

 

 

 

 

      

       方丈庭園

 

 

 

 

 

      

       方丈は伊達綱村の幼少期の遺館であり、現存するのは、他に寿塔、開山堂、祠堂、本堂軒禅堂があります。 伊達綱村とは、伊達家4代目で1659

      年3月8日、伊達綱宗の嫡男として生まれ、幼名は亀千代丸といい、伊達政宗の曾孫に当たる人物ですが、お寺との関係は説明されておらずわかり

      ませんでした。

 

 

 

 

 

 

      

      庭園の池は、睡蓮の葉に覆われておりました。 

 

 

 

 

 

      

      庫裡の入り口には、浄住寺の山号の葉室山(はむろざん)の額がかかっています。

 

 

 

 

      

      この版木は起床(午前4時)と消灯(午後9時)を知らせるものであると書かれています。巡照板にはこのような文言が書かれています。

       謹白大衆(きんぺだーちょん)   ・謹んで大衆(修行者)に申し上ぐ

       生死事大(せうすすーだ)      ・生死は事大にして

       無常迅速(うーちゃんしんそ)    ・無常は迅速なり

       各宜醒覚(こーぎしんきょ)     ・各々、覚醒して

       慎勿放逸(しんうふぁんい)    ・無為に、時を過ごさぬように    万福寺にも同じものが掛ってます。

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

              

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

      こちらの寺院は、拝観料等は必要ありません。紅葉の時期も素晴らしい穴場と云えると思います。徒歩数分の距離に竹の寺と言われる地蔵院もあり、

      鈴虫寺や西芳寺に徒歩圏内です。まとめて回られることをお勧めします。 なを、周辺道路は大変細く車一台がやっとです、浄住寺さんは、駐車場が

      2台分、地蔵院は確認できておりませんが、駐車場はあるとの事ですが、台数は次回調べておきますが、混雑が予想される紅葉シーズンなどは、車

      では難しいと思いますので、鈴虫寺に車を停めて徒歩で地蔵院と浄住寺を回られる事をお勧めします。ご注意ください。 

 

 

 

 

 

 

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建仁寺塔頭 両足院 半夏生 7/6/2011

2011年07月09日 | 洛東 東山 四条八坂近辺

      

      両足院は、建仁寺の開山・明庵栄西(みんなんようさい)禅師の法脈・黄龍派(おうりょうは)を受け継ぐ龍山徳見(りゅうざん とっけん)禅師を開山とする

      臨済宗建仁寺派の塔頭寺院です。 創建された当時の両足院は、知足院の別院、または徒弟院(つちえん)として建仁寺開山堂・護国院の中にありま

      したが、天文年間の火災の後、「知足院・両足院」両院を併せて「両足院」と称する事となり現在に至ります。 

 

 

 

 

 

 

      

       開山 龍山徳見禅師(1284~1358)は、関東の名族・千葉氏の出身で、今の千葉県香取市周辺が生誕地です。徳見は、最初「利見」という名で十二

      歳のころ、鎌倉五山の寿福寺に入り禅僧の道を歩み始めます。 当時、円覚寺には中国からの稀代の高僧・一山一寧(いっさんいちねい)和尚が居り、

      彼に参ずるものが後を絶たない状況でした。そこで一山和尚は、漢詩文の試験を行い、そこでトップで試験をパスしたのが利見です。円覚寺で禅と漢詩

      文を勉強する間、一山和尚は利見の才能を見抜き、中国への渡航を薦めます。そして、利見は22歳の時に中国へ単身渡ることを決意いたしました。

 

 

 

 

 

      

      当時の元(中国)にて45年を過ごした禅師は、足利尊氏の招きにより帰国することとなり、禅師が帰国する際、惜別に耐えかね追随する形で来日した

      林浄因が、日本で始めて饅頭を作った人物であることから「饅頭始祖の寺」としても知られております。 帰国後の禅師は、建仁寺35世、南禅寺24世、

      天龍寺6世の住持として栄西禅師直系の黄龍派を広めていきました。 のちに功績を称えられ朝廷から「真源大照禅師」の号を賜り、1358年75歳で

      入滅なされました。

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

      山門の突き当たりの唐門前の砂山


 

 

 

 

 

 

      

      拝観受付が置かれている 唐門と本堂南庭 こちらで茶席のお抹茶券を求めます。

 

 

 

 

 

               

               唐門の南側の手水鉢 本堂南庭 

 

 

 

 

 

 

      

      本堂南庭 

 

 

 

 

 

      

      両足院は、普段は公開なされておりませんが、年始と半夏生のこの季節に1ケ月ほど特別公開なされます。期間中は、本堂と書院に説明をしていただ

      く係りの方が居られ詳しい説明を受けることができます。 半夏生の公開時期は毎年6月の10日前後から7月の10日前後の1ケ月間になります。 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

 

      

      本堂で説明を受け廊下を進み東側庭園を通り北側の書院に向かいます。 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

               

               お茶席券を購入の方は、こちらの門から茶席に向かいます。 

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

      書院庭園 池の向こう側の建物は、左が国宝如庵の写し「水月亭」と大村梅軒好み「臨池亭」の二つの茶室が並びます。 

 

 

                       
                   

                        水月亭

 

 

 

 

      

      お抹茶が頂けるのは、二つの茶室の内の東側(右側)の茶室・臨池亭です。

 

 

 

 

 

 

      

      書院 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

      書院で係りの方の説明を受けている方々です。

 

 

 

 

 

 

      

      書院前の庭園は、半夏生の庭と呼ばれており、池畔にはクチナシの白い花も咲き涼感を感じさせます。梅雨時でもあり、雨の日の拝観もしっとりとして

      良いと思います。  

 

 

 

 

      

      半夏生の葉の白い割合は、6月より7月の方が増えているようです。 この後は、また青くなるそうです。 

            

             こちらの写真は、昨年の6月16日の写真です。  

 

 

 

               

 

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

               

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

               

    

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

                    

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

     

 

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

      本堂と庫裏の間の閼伽井の坪庭。閼伽(あか)とは、神仏に御供えする水のことで、その水を汲む井戸が閼伽井です。
 

 

 

 

 

 

               

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

 

               

 

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

                               

                   龍山徳見禅師画像                  本尊 阿弥陀如来立像

 

 

                         

                          雪梅雄鶏図 伊藤若冲筆が所蔵されております。

 

 

       

     長谷川等伯筆 水辺童子図襖 

 

 

 

 

      

      唐門 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

 

               

 

 

 

 

 

 

               

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

 

               

 

 

 

 

 

 

               

 

 

 

 

           
           両足院を出て石塀を北に進みますと、同じ敷地内に毘沙門堂があります。

 

 

 






           
           鞍馬の胎内仏 両足院の毘沙門天は、鞍馬寺毘沙門天の胎内仏でした。戦国時代 比叡山が織田信長によって焼き
           討ちにあった際、鞍馬の僧が尊像の安全を危惧し、比喜多養清(室町将軍の茶家、筑前黒田家京都御用達)のところへ、
           尊像を疎開させたものです。


 

 




                      
           黒田家必勝の御守護 関が原の会戦に黒田長政が、関東方として出陣する際、この尊像を内兜に収めて奮戦し、勝利
           を収めたといわれています。そのあと尊像は代々黒田家で信仰されましたが、維新の変革で明治10年ごろ当院に寄進
           されました。 以後、勝利の神として商売繁盛、合格祈願、良縁成就、誓願成就 など参拝の方々が訪れております。







                 
           寅年の本尊 本尊の毘沙門さんは、脇仏に閻魔大王、不動明王をおまつりしています。毘沙門天堂の狛犬は、寅。
           香炉や灯篭にも寅が、浮き彫りされていることから寅年生まれの方やご縁のある方がよくお参りされております。同じ
           毘沙門天を祀っていることから、鞍馬寺と同じ狛寅が両側をかためております。

 

 




           
           
  
                     
                   
 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

 

 

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木津川 岩船寺 紫陽花 6/29/2011

2011年07月07日 | 洛外 山城方面

      

      京都市内から車で約1時間、50kmにある岩船寺(がんせんじ)は京都府木津川市加茂町に位置し、真言律宗の寺院です。山号は高雄山(こうゆうざん)

      と号し、 開基は行基と伝えられておりまする。アジサイの名所として知られ「アジサイ寺」とも呼ばれる境内には、30種5千株の紫陽花が咲き誇ります。

      岩船寺の名は門前にある岩船(いわふね)にちなむと説明されております。

 

 

 

 

      

      岩船寺は京都府の南端、奈良県境に近い当尾(とうの)の里に位置すますが、この地区は行政的には京都府に属しますが、地理的には奈良に近く、

      文化的にも南都の影響が強いとされているところです 。浄瑠璃寺にも近く付近には当尾石仏群と称される鎌倉時代を中心とした石仏(多くは自然の

      岩壁に直接刻んだ磨崖仏)や石塔が多数残り、その中には鎌倉時代の銘記を有するものも多いそうです。当尾には中世、都会の喧騒を離れて修行

      に専念する僧が多数居住し、多くの寺院が建てられたと言われ、今に残る石仏・石塔群はその名残りであるといわれております。

 

 

 

 

 

      

      岩船寺は寺伝によりますと天平元年(729年)に聖武天皇が出雲の国不老山大社に行幸の時、霊夢によって、この地に阿弥陀堂の建立を発願し大和

      国善根寺に籠居しておられた、行基菩薩に命じて建てられたことに始まります。その後、平安時代初期の806年に弘法大師空海と甥の智泉(ちせん)

      大徳が阿弥陀堂において、伝法灌頂(密教の儀式)を修せられたため灌頂堂となりました。 

 

 

 

 

               

               806年智泉大徳は、新たに報恩院を建立され、さらに813年には嵯峨天皇が智泉大徳に勅命して皇子誕生を祈

               念され、後の仁明天皇を授かったので、嵯峨天皇の皇后が皇孫誕生の事もあって堂塔伽藍が整備、その時に寺

               号も岩船寺と改められました。 以上はあくまでも寺伝であり、中世以降の火災で古記録が失われているため、

               草創の正確な時期や事情ははっきりしていないもようです。  

 

 

 

 

 

      

      最盛期には四域十六町の広大な境内に三十九の坊舎があり、その威容を誇っておりましたが、承久の変(1221年)によって大半が焼失し、その後再

      興された堂塔も再度の兵火よって次第に衰え、江戸時代初期の1624年には本堂、塔、坊舎、鎮守社等の十棟程度になっておりましたが、当時の住

      僧文了律師がこの荒廃ぶりを嘆き自ら世上に出て訴え続け、ご勧進と徳川家の寄進とにより本堂や本尊の修復を成し遂げられたと云われております。

      その当時には興福寺の末寺であったそうです。

 

 

 

 

 

      

      その後、江戸時代の本堂も老朽化のため本堂再建事業により昭和63年四月に落慶し現在に至っております。 なお現在は関西花の寺第十五番札所

      に指定れております。 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

       御本尊の阿弥陀如来坐像を祀る本堂

 

 

 

 

 

      

      本堂前の山側(東側)に建つ地蔵堂 

 

 

 

 

 

               

               地蔵堂の右手に佇む石宝の不動明王像 

 

 

 

 

 

               

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

      厄除け 地蔵菩薩 石造 鎌倉時代

 

 

 

 

 

 

      

      かしわば紫陽花と五輪石塔 鎌倉時代

 

 

 

 

 

      

      山門 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

               

 

 

 

 

 

 

      

       本堂に祀られる、本尊阿弥陀如来坐像の像内には天慶9年(946年)の銘があり、この像が当初から岩船寺の本尊であったという確証ありませんが、

      「岩船寺」の存在を示す最も古い記録は、寺の西方にある岩船不動明王磨崖仏(通称一願不動)の銘記で、そこには弘安10年(1287年)の年記ととも

      に「於岩船寺僧」の文字がみえます。 

 

 

 

 

             

             本尊阿弥陀如来座像  (平安時代)重要文化財  天慶九年(946) 作者 行基 本尊の周りを固める四天王立像は、

             鎌倉時代の作で東に持国天(右奥)、南に増長天(右手前)、 西に広目天(左手前)、北に多聞天(左奥)が配されており       

             ます。 阿弥陀如来坐像は、高さ2.4メートルという大きなもので、一本の榧(かや)から掘り出されています。胎内には経

             文などの銘文があり、その中に、「天慶九年丙午(946)九月二日梵字奉書」という銘文があったことから、貞観彫刻の重

             厚さと和様という日本的な美術表現をもつ過渡的な仏像として、美術史上の基準される仏像で、紅色の彩色が残る衣が

             古様を示しています。 

 

 

 

 

                 

             本堂には、その他にも普賢菩薩騎象像(左)が厨子に入って安置されています。普賢菩薩像は平安時代に造立されたもの

             で、像高三九・五㎝の可愛らしい坐像で、菩薩像が乗っている白象は、後世に補われたものです。 右側は、釈迦如来坐像

             です。

 

                                   

              十一面観音像 (鎌倉時代)                   薬師如来像   (室町時代)

 

 

               

              十二神将像の一部、頭上には十二支が一体づつ乗っております。      不動明王像  (室町時代)

 

 

 

 

 

      

      三重塔 825年智泉大徳入滅後、十年を過ぎて847年に仁明天皇が智泉大徳を偲んで宝塔を建立されたものと伝わります。 鎌倉時代に再建され、

      現存する塔には  「嘉吉二年(1442)五月二十日」の銘があります。 岩船寺の山門をくぐると、正面の奥まった高台に朱塗りの色鮮やかな三重塔が

      建っています。表面は板壁、初層は心柱や四天柱がなく、 中央に須弥壇を設けて二本の来迎柱を配置する構造で、室町時代の特徴を示しています。

      初層内部には壁画が描かれていて、近年の修理の際扉絵も含め復元されました。

 

 

 

      

      本堂と三重塔の間にある阿字池  阿字池とは阿弥陀如来の種字すなわち梵字の阿字を顕していると言われます。池の形を梵字の「阿」に見

      立てた命名で、密教的解釈による池の名称だそうです。

 

 

 

 

 

               

 

 

 

 

 

       

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

               

               十三重石塔 1314年に妙空僧正の造立と伝えられ、軸石のくぼみの中から水晶の五輪舎利塔がみつかってお

               り、高さ6.2メートルで、切石で造られた方形の基壇から相輪まで完全に残る珍しいもので、重要文化財に指定さ

               れています。 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

               

               阿字池

 

 

 

 

 

               

 

 

 

 

 

 

               

 

 

 

 

 

 

      

       三重の塔前に咲いてた未央柳 (びょうやなぎ)別名(美女柳(びじょやなぎ)や、美容柳(びようやなぎ)とも呼ばれるそうです。

 

 

 

 

 

      

      三重塔の南側には、紫陽花園が広がり、その中に鐘楼が建ちます。 

 

 

 

 

 

       

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

      報恩の鐘 生かされていることに感謝し、真心をこめてお撞き下さい。 合掌とあります。 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

      中央は桜の木です。 

 

 

 

 

 

      

      藤棚で見つけた藤の実、中の豆を出して炒って食べると美味しいとの事ですが、経験が無いので今度試してみたいと思います。    

 

 

 

 

 

      

      ベンチもあり、ゆっくり休憩も出来るのですが、6月末の炎天下では座っている方は居られませんでした。 桜や紅葉の季節ならいいかもしれませんね。 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

               

 

 

 

 

 

 

      

      三重塔の西側の歓喜天(聖天)を祀る社、岩船寺は、聖武天皇をはじめ各天皇の祈願所として世にしられており、その後の高僧平智僧都が心願成就

      祈願のため歓喜天を祀って以来七百有余年霊験有って今も商売繁盛、招福、結縁を願う人々のよりどころになっております。 

 

 

 

 

 

               

               歓喜天の前に山道があり貝吹岩という案内板が出ており、暑かったのですが、この日は時間に余裕があったので、

               恐る恐る進んでみました。 

 

 

 

 

 

               

               貝吹岩までの距離や所要時間が書いてなかったので、途中で引き返そうかと悩みましたが、約5.6分で目的地

               に到着しました。 

 

 

 

 

      

      眼下に広がる景色を見たとたんに、暑さと息切れが飛んで行ってくれました。 

 

 

 

 

 

      

      貝吹岩 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

         

      岩の向こう側は、断崖絶壁になっており、岩の上に乗って法螺貝を吹く気にはなりませんでした。 

 

 

 

 

 

      

      歓喜天の社まで戻ってまいりました。今までいろんな寺院を回ってまいりましたが、三重の塔を上から眺められる所はなかったように記憶しております。 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

      三重の塔の各階の四隅に天邪鬼が、鎮座しております。 

 

 

 

 

 

               

               相輪  お寺の多重塔の天辺には相輪と呼ばれる飾りがあります。塔(仏塔)というのは元々、お釈迦様のお墓で

               インドではそれをストゥーパと呼びます。 相輪の一番下の部分から花の形をした受花(うけばな)の上には大抵

               の相輪は9つの輪が乗り、それを九輪(くりん) と呼びます。さらに九輪の上には水煙(すいえん)という相輪の中で

               も最も華やかな飾りがあります。水煙は本来、火炎を意味しているそうなんですが、塔が燃えてしまうと困るので

               あえて水煙という名前がついているそうです。九輪と水煙には小さな風鐸(ふうたく)、つまり青銅製の風鈴がつい

               ています。相輪によっては風鐸がつかないものもあります。そして水煙の上には二つの玉があります。下側の玉

               は竜車(りゅうしゃ)、上側は宝珠(ほうじゅ)と呼ばれております。

 

 

 

 

 

               

 

 

 

 

 

 

      

      天邪鬼(あまのじゃく)は、「天探女(あまのさぐめ)」という悪神の名前が転訛したといわれ、人の心の内を探り意に逆らうという、ひねくれた神であった

      そうです。また、仏教では「あまのじゃく」を人間の煩悩の象徴としております。 東寺の五重塔にも居りますが、仏教的にはいつも反対ばかり言う、天邪

      鬼にお釈迦様が 罰として「家の守り神」にしてしまったという説があります。 お釈迦様が天邪鬼に素直な心をもちなさいという教えなのでしょう。

 

 

 

 

 

               

               三重塔から阿字池を左手に進み本堂前に戻ります。 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

      本堂南側の身代わり地蔵さんです。 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

               

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

               

               本堂前の沙羅双樹(夏椿) 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

      山門前にある石風呂は、鎌倉時代に三十九あった寺塔の僧侶が身を清めたという風呂だそうです。 

 

 

 

 

 

      

      浄瑠璃寺まで2kmの距離なので、途中の石仏を回りながらお参りなされる方が多数おられました。 駐車場有。 電車の方は、JRの加茂駅からシャ

      トルバスが運行されているようです。 

 

 

 

 

 

 

  このブログを見ていただいているお客様も多数お越しいただき、大変ありがたく思っております。時間の許す限り随時更新を続けていきたいと思っております。

  私もまだまだ行ったことのない寺院が沢山ありますので、リクエストがございましたら、是非伺いますので遠慮なく仰ってくださいませ。  

  祇園 割烹 ふじ原 ホームページ  http://kappou-fujiwara.com/ 

 

 

 

 

 

 

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修学院 赤山禅院 新緑 6/26/2011

2011年07月03日 | 洛北 東部 修学院方面

      

       赤山禅院(せきざんぜんいん)は、左京区修学院離宮の北側に位置し、由来は平安時代の仁和4年(888年)に、第三世天台座主 円仁の遺命によっ

      て創建されました、天台宗総本山 延暦寺の塔頭のひとつです。慈覚大師 円仁(794年~864年)は、838年、遣唐使船で唐に渡り、苦労の末に天台

      教学を納め帰国し、その行程を守護した赤山大明神に感謝し、赤山禅院を建立することを誓ったとされております。 日本に戻った円仁は天台密教の

      基礎を築きましたが、赤山禅院の建立は果たせませんでした。その遺命により、第四世天台座主 安慧(あんね)が赤山禅院を創建したと伝えられてい

      ます。

 

 

 

      

       本尊の赤山大明神は、唐の赤山にあった泰山府君を勧請したもので、泰山府君は、中国五岳(五名山)の中でも筆頭とされる東岳・泰山(とうがく ・

      たいざん)の神であり、日本では、陰陽道の祖神(おやがみ)になりました。赤山禅院は、平安京の東北にあり、表鬼門に当たることから、赤山大明神

      は、皇城の表鬼門の鎮守としてまつられました。以来、皇室から信仰され、修学院離宮の造営で知られる後水尾天皇(1596~1680)が離宮へ行幸な

      された際、社殿の修築と「赤山大明神」の勅額を賜っております。現在も方除けのお寺として、広く信仰を集めている由縁です。

 

 

 

 

 

      

       山門を潜り、苔で蔽われた美しい参道を上って行きます。

 

 

 

 

 

      

       また、赤山禅院は、天台宗随一の荒行、千日回峰行の「赤山苦行」の寺としても知られ、千日回峰行を満行した大阿闍梨により「ぜんそく封じ・へちま

      加持」「珠数供養」「泰山府君祭」をはじめとする加持・祈祷が行われます。その他にも、全国の七福神めぐりの発祥とされる都七福神のひとつ、福禄寿

      天の寺でもあり、「五十(ごと)払い」の風習の始まりとなった、商売繁盛の寺としても有名です。開創以来、1100年以上もの長い歴史を経て、赤山禅院

      には数々の由緒が重なり、さまざまな信仰を集めております。

 

 

 

 

 

      

       赤山禅院は、天台宗の数ある修行のなかでも随一の荒行として知られる、千日回峰行と関わりの深い寺です。千日回峰行は、平安時代、延暦寺の

      相應和尚(831年~918年、一説に~908年)により開創された、文字どおり、比叡山の峰々をぬうように巡って礼拝する修行です。法華経のなかの常

      不軽菩薩(じょうふぎょうぼさつ)の精神を具現化したものといわれており、出会う人々すべての仏性を礼拝された常不軽菩薩の精神を受け継ぎ、回峰行

      は、山川草木ことごとくに仏性を見いだし、礼拝して歩きます。

 

 

 

 

 

      

      行者は、頭には未開の蓮華をかたどった桧笠をいただき、生死を離れた白装束をまとい、八葉蓮華の草鞋をはき、腰には死出紐と降魔の剣をもつ姿

      をしています。生身の不動明王の表現とも、また、行が半ばで挫折するときは自ら生命を断つという厳しさを示す死装束ともいわれます。

 

 

 

 

 

 

      

      千日回峰行は7年間かけて行なわれ、1年目から3年目までは、1日に約30キロの行程を毎年100日間、行じます。行者は定められた260カ所以上のす

      べてで立ち止まり、礼拝して、峰々を巡ります。4年目と5年目は、同じく1日30キロを、それぞれ200日間。ここまでの700日を満じると、“堂入り”をむか

      えます。比叡山無動寺谷の明王堂に籠もり、9日間、断食・断水・不眠・不臥(食べず、飲まず、眠らず、横にならず)で不動真言を唱えつづけます。その

      回数は10万と言われ、満行すると阿闍梨と称され、生身の不動明王になるとされます。

 

 

 

 

 

      

      6年目は、それまでの行程に加え、比叡山から雲母坂を下って赤山禅院へ至り、赤山大明神に花を供し、ふたたび比叡山へと上る往復が加わり、1日

      約60キロとなります。その100日は「赤山苦行」とも呼ばれ、行者の足でも14~15時間を要する厳しい行程です。7年目は、200日を巡ります。前半の10

      0日間は“京都大廻り”と呼ばれ、比叡山中から赤山禅院、さらに京都市内を巡礼し、全行程は84キロにもおよびます。最後の100日間は、もとどお比叡

      山中30キロをめぐり、千日の満行をむかえます。

      赤山禅院では、千日回峰行を満行した大阿闍梨が住職をつとめ、大阿闍梨により「八千枚大護摩供」「ぜんそく封じ・へちま加持」「珠数供養」をはじめと

      する数々の加持・祈祷が行われています。

 

 

 

 

 

      

      本殿 階段を上がると、正面に見える社殿で御拝殿とも呼ばれております。 

 

 

 


 

      

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

               

               御拝殿  屋根の上には、鬼門除けの猿。御幣とかぐら鈴を持ち、皇城(京都御所)を守護しています。かつて夜

               な夜な悪さをしたため、逃げ出さないよう金網の中に入れられていると言われます。

 

                     

 

 

 

 

 

      

       拝殿前の受付では、各種祈祷の受付をなされております。

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

      拝殿の西側(左側)から順路に従い各お堂を回ります。最初のお堂は地蔵堂で、赤山大明神は、地蔵菩薩の化身であるとされており、そこで赤山禅院

      には地蔵菩薩をまつるお堂があります。

 




 

      

      地蔵尊を祀る地蔵堂 

 

 

 

 

 

               

 

 

 

 

 

 

      

      地蔵堂の北側に位置する弁天堂は、順路にしたがい赤山大明神のあとで回ります。 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

               

                地蔵堂から拝殿北側の陽陰道祖神の赤山大明神に向かいます。

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

      赤山大明神前の歌碑  石坂 まさを(いしざか まさを、本名:澤ノ井龍二、1941年ー )は、日本の作詞家・作曲家で、若い時に職業を転々とするうちに

      作詞家を志し、28歳のとき、藤圭子をプロデュースしミリオンセラーとなり話題となり、その後も、プロデューサー兼作詞家というスタンスで作詞活動を行

      い、演歌の世界でヒットを連発させます。その一方で少年期から病弱であり、肺結核を患ったり、糖尿病が原因の網膜剥離による左目失明といった苦

      難にあっており、それでも秋吉恵美のアルバム「心歌」のプロデュースなど、人生をテーマとした作詞活動に情熱を注いできた方です。

    

 

 

 

 

 

      

       順路通りに参拝された方は、2度、大きな珠数をくぐることになります。これは「正念誦(しょうねんじゅ)」「還念珠(かんねんじゅ)」という密教の重要な

      考え方を示したものです。最初の珠数をくぐりながら、心にうかんだ願いについて、参拝の間、思い続けてください。そして、最後の還念珠をくぐりなが

      ら、やはりその願いが大切だと考えるなら、その願いに向けてあなたが努力をすることを誓い、仏さまに力をかしてくださるよう祈ってください。きっと、ご

      加護があることでしょう。

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

               

 

 

 

 

 

 

      

       「皇城表鬼門」 京都の表鬼門を護る 794年に開かれた平安京は、もともと「青龍・白虎・朱雀・玄武」の「四神相応」で知られるように、方位を大切

      にして創られた都でした。平安時代、陰陽道(おんみょうどう)が、朝廷をはじめ民衆にまで広く信仰されるようになると、陰陽道では北と西は陰、東と南

      は陽とされます。その境目である東北と西南は、陰陽が反転するところで、鬼が出入りする忌むべき方角とされ、東北は表鬼門、西南は裏鬼門と呼ば

      れます。赤山禅院は、皇城の東北に位置し、また本尊の赤山大明神(泰山府君)が陰陽道の祖神(おやがみ)とされることから、表鬼門を守護する方除け

      のお寺として信仰されるようになりました。『歴代皇記』には、弘長元年(1261年)から、赤山権現祭が官祭として行われるようになったとあり、『太平記』

      には後醍醐天皇を守護する存在として赤山大明神の記述があります。信仰は民間にも拡がり、赤山大明神のお札を持ち帰って家に貼ると鬼門除けに

      なると言われるようになりました。

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

      弁財天堂は、日本では古く奈良時代から仏として信仰され、また七福神の一神としても知られています。赤山の弁財天は「出世弁財天」として信仰され

      ています。

 

 

 

 

 

 

              

 

 

 

 

 

 

      

       弁財天堂の西側には、三十三観音石像と十六羅漢像が並んでおります。

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

      阿羅漢 (あらはん)は、仏教において、尊敬や施しを受けるに相応しい聖者のことを指し、サンスクリット語"arhat"の主格 "arhan" の音写語で、略称

      して羅漢(らかん)ともい言います。漢訳は応供(おうぐ)と云い、もとは釈迦の尊称の一つであったそうです。 元々、インドの宗教一般で「尊敬されるべ

      き修行者」をこのように呼びました。 大阿羅漢難提多所説(法注記)によりますと、仏勅を受けて永くこの世に住し衆生を済度する役割をもった16人の

      阿羅漢の事を16羅漢と称します。

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

 

      

       本堂の裏手を東に進みますと、七福神の一人の福禄寿天を祀るお堂に出ます。

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

      福禄寿殿 都七福神の一神、福禄寿神をまつります。七福神の御朱印はこちらで受け付けています。(午前9時~午後4時半終了)



 

 

 

      

      都七福神まいり  七福神がまつられた寺社をお参りすると縁起がよいとされ、日本各地に「七福神まいり」「七福神めぐり」の風習があります。七福神

      信仰は、室町時代に京都で始まり、次第に各地へ拡がっていったと言われています。

      都七福神は、ゑびす神―ゑびす神社、大黒天―松ヶ崎大黒天(妙円寺)、毘沙門天―東寺、弁財天―六波羅蜜寺、福禄寿神―赤山禅院、寿老神―

      革堂、布袋尊―萬福寺となっており、各社寺に御軸・大護符(色紙)・御宝印帖が用意されていますので、お問い合わせください。

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

      延暦寺と七福神  かつて、比叡山の名僧、慈眼大師 天海(1536年~1643年)は、徳川家康の信任を得て、しばしば国政に参与し、家康公の人柄を

      よく知り抜いていました。そこで天海は、乱世を納める器量を備えた家康公を、七福神の七つの福徳になぞらえて示しました。長寿ー寿老人、富財ー大

      黒天 人望ー福禄寿、正直ー恵比寿、愛嬌―弁財天、威光―毘沙門天、大量―布袋尊、それを聞いた家康公は大いに喜び、絵師・狩野法眼に命じて、

      七福神遊行図を書かせたと伝えられています。

 

 

 

 

 

 

      

       福禄寿殿前からさらに山側に順路がつづきます。

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

               

 

 

 

 

 

 

      

      階段を上り詰めますと鬼門方除けの神を祀る金神社があります。 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

      左手は歓喜天 を祀る社です。

 

 

 

 

 

            

 

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

      相生社 縁結びの神として知られます。2つの鳥居が並んでいるのは、夫婦鳥居と呼ばれ、手をつないで通った二人は結ばれる、との言い伝えがあり

      ます。また、相生社の絵馬は「おしどり絵馬」として知られます。

 

 

 

 

      

      二重に重なる鳥居の向こうの、人型をしたおしどり絵馬 

 

 

 

 

 

               

               相生社の前の階段を下りてまいりますと、左手に不動堂と右手に御瀧籠堂があります。

 

 

 

 

 

      

       

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

       駒滝不動尊を祀ります。

 

 

 

 

 

      

       境内の東側(山側)を回っておりますと、滝の音がずっと聞こえており、心まで洗われる様な気がいたします。

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

 

      

       不動堂の北側に置かれた、消防組のポンプ車

 

 

 

 

 

      

      不動堂 比叡山延暦寺と赤山禅院を結ぶ雲母坂(きららざか)にあった雲母寺(うんもじ)の本堂と本尊・不動明王が移されたものです。(雲母寺は、平

      安時代に、千日回峰行の創始者・相応和尚が開いた寺院でしたが、明治に入って廃寺となりました)不動明王像は、伝教大師 最澄の作とも伝えられま

      す。現在も不動堂では、伝統に則り、大阿闍梨が護摩供を行います。

 

 

 

 

       

      

 

 

 

 

 

 

      

       千日回峰行で使われたと思われる草履

 

 

 

 

 

      

      不動堂の前の古いお札の返納所とお札を焼くための釜が備え付けられております。

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

     

      順路に従い境内を一周してまいり、終点の還念珠です。

 

 

 

 

 

      

      合掌

 

 

 

 

 

      

 

                

                天台の秘法、ぜんそく封じ へちま加持 「へちま加持」は、古くから毎年、仲秋名月の日に厳修されてき

                た天台の秘法です。 千日回峰行を修めた大阿闍梨が、へちまにぜんそくや気管支炎を封じ込め、加持・

                祈祷を行います。 古くから仲秋の名月の日に行うのは、その日から月が次第に欠けていくのと同じよう

                に、病を減じさせるためとされています。 赤山禅院には毎年、無病息災を祈って、多くの方が集まられま

                す。 大阿闍梨が加持をした「へちまの御牘(ごとく)」を、お持ち帰りになり、作法に従ってご祈願してくだ

                さい。

 

 

 

 

 

      

      拝殿屋根の鬼門除けの猿は、猿(申)は、鬼門とは反対の方角である西南西を指すことから、邪気を払う力があるとされます。ちなみに、京都御所の東

      北の角にある猿ヶ辻や、滋賀県大津市の日吉大社にも鬼門除けの猿が置かれていることが知られています。 

                             

 

 

 

 

 

      

      「赤山さん」から始まった「五十払い」 「五十日」と書いて、一般には「ごとおび」、関西では「ごとび」と呼び、毎月5日、10日、15日、20日、25日、月末

      のことを指します。昔から、商売では、これらの日に決済を行うことが多く、「五十払い(ごとばらい)」といわれる商習慣となっています。 その「五十払い」

      が、赤山禅院から始まったと言われています。かつて、一年の中でもめったにない「申の日」の五日に赤山禅院に詣でると吉運に恵まれる、という評判が

      立ち、江戸時代になると、「赤山さんは、掛け寄せ(集金)の神さんや」と言われるようになりました。その五日講ご縁日詣でから、「五十払い」の風習がで

      きたと伝えられています。現在も、赤山禅院では毎月五日に「泰山府君 五日講 ご縁日」として大阿闍梨による祈祷が行われており、商売繁盛を願って、

      集金の前にお参りをされる方々が見られます。

 

 

 

 

 

      

      庫裡の玄関 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

       もみじまつりと珠数供養 赤山禅院は、古来、「紅葉寺」とも呼ばれてきました。毎年、境内が紅葉に染まる11月になると、もみじ祭が開かれます。

      もみじ祭の期間中(通常は11月1日から30日まで)には、静かな中にも、お茶所などがにぎわいをそえます。

 

 

 

 

      

      もみじ祭の最中である11月23日に行われるのが、珠数供養です。珠数(じゅず、数珠とも書く)は、私たちが仏様にお参りするときに使う法具のひとつ

      です。仏に念ずるときに用いる珠という意味から「念珠(ねんじゅ)」とも呼ばれます。傷んだり、使わなくなった珠数は、簡単に捨てるのではなく、炎に

      よるお浄め「お焚きあげ」を行うのがよいでしょう。赤山禅院の珠数供養とは、毎年11月23日、千日回峰行を満行した大阿闍梨の祈祷をもって行うもの

      です。紅葉寺と呼ばれるにふさわしい紅葉の中、京都はもちろん、全国各地から寄せられた珠数が、焚きあげられ、供養されます。なお、珠数供養は、

      京都珠数製造卸協同組合の主催する行事だそうです。

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

      毛皮のような、みごとな苔に覆われた参道です。 

 

 

 

 

 

      

      お車でお越しの方は、山門を入った所に数台分の駐車場はありますが、紅葉のシーズンは、空いている確率が相当低くなると思われますので、ご注意

      ください。 

 

 

 

 

 

 

 

 

  京都散策の折り、お立寄りいただければ、幸いに思います。 祇園 割烹 ふじ原 ホームページ  http://kappou-fujiwara.com/ 

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