鴨川の御園橋を西詰を北に進み西賀茂の閑静な住宅地と畑に囲まれた地に位置する神光院(じんこういん)は、山号を放光山といい、真言宗の単立
寺院です。御本尊は弘法大師(空海)像で、「厄除け大師」として信仰されており、東寺(教王護国寺)、仁和寺と並ぶ京都三大弘法として有名であり、
地元では「西賀茂の弘法さん」の愛称で親ております。
1217年(建保5年)、賀茂別雷神社(上賀茂神社)の神職松下能久が、「霊光の照らした地に一宇を建立せよ」との神託を受け、大和国から慶円を招い
て寺を建立したと伝えられ、寺名はこの由緒にちなみ、「神光院」と名づけられました。 山門を入りますと正面に四角い衝立のような刈り込みの木が
立っております。
山門を潜り左手に手水場があり、その奥に茶室の蓮月庵が建ちます。この寺領は、創建される前には、京都御所に奉納する瓦職人の宿に用いられて
おり、「瓦屋寺」と呼ばれていたそうです。
手水場の石畳を進みますと右手に池がありその奥に本堂が建ちます。空海が42歳の時に、当院で九十日間の修行を行ったとされ、修行を終えて寺
を去る際に、境内の池に映る自らの姿を見て木像を彫り、厄除を祈願したといわれております。この木像は本堂に安置され御本尊としてお祀りされて
おります。同時に彼が眼病治癒の祈祷をしていたことから、眼病に利益のある寺としても広く知られるようになりました。 正面の池のほとりに建つ燈
籠の山茶花の木は、珍しい品種だそうで八重の白い花を12月に咲かすそうです。
その後は密教の道場としても栄えましたが、 天保年間(1830年 - 1843年)に堂宇を焼失しております。幕末の女流歌人で陶芸家の大田垣蓮月は、
晩年の75歳から当院に隠棲していたことから、境内には「蓮月尼旧栖之茶所」と刻まれた石碑とともに、茶室(蓮月庵)が残されております。蓮月隠棲
中の明治初期に、廃仏毀釈運動を受けて一旦は廃寺となりましたが、蓮月没後の1878年(明治11年)に僧侶、和田月心により再興されました。
本堂の手前の西側に建つ弘法大師像
本堂前には、「不思議大日色紙」の看板が立ち、部屋に飾るだけで必ず願い事が達成できるといわれる不思議な大日の色紙を頂くことが出来ます。
と書かれています。 なお、厄除、眼病祈祷の寺として知られており、毎年7月21日と土用丑の日には、諸病封じのきうり加持が行われます。
きうり加持とは、自分の身代わりになるきゅうりを受け取り、自分の悪い部分をなぞって土に返すことで諸病封じをしてもらうという行事です。自分の分
身になる、きうりに、自分の氏名を書き、紙が巻き付けらます。きうりを左の台から右の台に、氏名を読み上げ祈願をします。 祈願が終われば、祈願し
たきうりを祈願者さんに手渡します。 きうりは、家などに持って帰って土の中に埋めるのですが、マンションなど、持って帰って埋められない人は、境内
にある、きうり塚に納めます。 後日、神光院さんが納められたきうりを土の中に埋められます。、当日は本堂で祈願法要が7:00~16:30まで行われ
て、人数が20名ほど揃うと、祈願法要が行われます。
本堂の西側には、蔵があり本堂北側には中興堂が建ちます。こちらの神光院は、閑静で観光客が少ないためか、時代劇の撮影の場所として数々の
作品に使用されているそうです。
本堂からの廊下でつながる中興堂
中興堂西側の石碑には、陸軍中将・松井〇三郎の名が刻まれております。
本堂と庫裡を結ぶ渡廊下です。
幕末の女流歌人で陶芸家の大田垣蓮月が、晩年の75歳から隠棲していたといわれる蓮月庵です。
中には、大聖不動明王が祀られております。
庫裡玄関
玄関前の蓮も時期が過ぎてしまいましたが、何とも愛嬌がありました。
山門を入り右手には、弁天島が浮かぶ弁天池があります。
池は、水源が無くなってしまったのか、枯れてしまっておりました。
こちらも水の無い枯れ池でした。
写真では、確認しづらいですが、土壁の向こうに比叡山が借景となっております。
神光院は、四季を通じて色々な花が咲きますが、特に12月前後に境内に咲く、白い八重のサザンカは、当院にのみ存在する珍しい品種であるといわ
れ、訪れる方の目を楽しませているそうです。駐車場も10台以上停めることが出来紅葉のシーズンには穴場的な場所だとおもいます。