京の四季 名勝散策 写真集

京都の観光、散策の参考にしていただければ幸いに思います。

西賀茂 神光院 8/18/2011

2011年08月20日 | 洛北

      

      鴨川の御園橋を西詰を北に進み西賀茂の閑静な住宅地と畑に囲まれた地に位置する神光院(じんこういん)は、山号を放光山といい、真言宗の単立

      寺院です。御本尊は弘法大師(空海)像で、「厄除け大師」として信仰されており、東寺(教王護国寺)、仁和寺と並ぶ京都三大弘法として有名であり、

      地元では「西賀茂の弘法さん」の愛称で親ております。

 

 

 

 

 

      

      1217年(建保5年)、賀茂別雷神社(上賀茂神社)の神職松下能久が、「霊光の照らした地に一宇を建立せよ」との神託を受け、大和国から慶円を招い

      て寺を建立したと伝えられ、寺名はこの由緒にちなみ、「神光院」と名づけられました。 山門を入りますと正面に四角い衝立のような刈り込みの木が

      立っております。

 

 

 

 

 

 

      

      山門を潜り左手に手水場があり、その奥に茶室の蓮月庵が建ちます。この寺領は、創建される前には、京都御所に奉納する瓦職人の宿に用いられて

      おり、「瓦屋寺」と呼ばれていたそうです。

 

 

 

 

 

      

      手水場の石畳を進みますと右手に池がありその奥に本堂が建ちます。空海が42歳の時に、当院で九十日間の修行を行ったとされ、修行を終えて寺

      を去る際に、境内の池に映る自らの姿を見て木像を彫り、厄除を祈願したといわれております。この木像は本堂に安置され御本尊としてお祀りされて

      おります。同時に彼が眼病治癒の祈祷をしていたことから、眼病に利益のある寺としても広く知られるようになりました。 正面の池のほとりに建つ燈

      籠の山茶花の木は、珍しい品種だそうで八重の白い花を12月に咲かすそうです。

 

 

 

 

 

        

      その後は密教の道場としても栄えましたが、 天保年間(1830年 - 1843年)に堂宇を焼失しております。幕末の女流歌人で陶芸家の大田垣蓮月は、

      晩年の75歳から当院に隠棲していたことから、境内には「蓮月尼旧栖之茶所」と刻まれた石碑とともに、茶室(蓮月庵)が残されております。蓮月隠棲

      中の明治初期に、廃仏毀釈運動を受けて一旦は廃寺となりましたが、蓮月没後の1878年(明治11年)に僧侶、和田月心により再興されました。

 

 

 

 

 

      

      本堂の手前の西側に建つ弘法大師像

 

 

 

 

 

      

      本堂前には、「不思議大日色紙」の看板が立ち、部屋に飾るだけで必ず願い事が達成できるといわれる不思議な大日の色紙を頂くことが出来ます。

      と書かれています。 なお、厄除、眼病祈祷の寺として知られており、毎年7月21日と土用丑の日には、諸病封じのきうり加持が行われます。

 

 

 

 

 

         

       きうり加持とは、自分の身代わりになるきゅうりを受け取り、自分の悪い部分をなぞって土に返すことで諸病封じをしてもらうという行事です。自分の分

      身になる、きうりに、自分の氏名を書き、紙が巻き付けらます。きうりを左の台から右の台に、氏名を読み上げ祈願をします。 祈願が終われば、祈願し

      たきうりを祈願者さんに手渡します。 きうりは、家などに持って帰って土の中に埋めるのですが、マンションなど、持って帰って埋められない人は、境内

      にある、きうり塚に納めます。 後日、神光院さんが納められたきうりを土の中に埋められます。、当日は本堂で祈願法要が7:00~16:30まで行われ

      て、人数が20名ほど揃うと、祈願法要が行われます。

 

 

 

 

      

       本堂の西側には、蔵があり本堂北側には中興堂が建ちます。こちらの神光院は、閑静で観光客が少ないためか、時代劇の撮影の場所として数々の

      作品に使用されているそうです。

 

 

 

 

 

      

      本堂からの廊下でつながる中興堂 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

       中興堂西側の石碑には、陸軍中将・松井〇三郎の名が刻まれております。

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

              

               本堂と庫裡を結ぶ渡廊下です。

 

 

 

 

 

      

      幕末の女流歌人で陶芸家の大田垣蓮月が、晩年の75歳から隠棲していたといわれる蓮月庵です。

 

 

 

 

 

      

       中には、大聖不動明王が祀られております。

 

 

 

 

 

      

      庫裡玄関

 

 

 

 

 

      

      玄関前の蓮も時期が過ぎてしまいましたが、何とも愛嬌がありました。

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

       山門を入り右手には、弁天島が浮かぶ弁天池があります。

 

 

 

 

 

              

               池は、水源が無くなってしまったのか、枯れてしまっておりました。

 

 

 

 

 

      

       こちらも水の無い枯れ池でした。

 

 

 

 

 

      

       写真では、確認しづらいですが、土壁の向こうに比叡山が借景となっております。

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

      神光院は、四季を通じて色々な花が咲きますが、特に12月前後に境内に咲く、白い八重のサザンカは、当院にのみ存在する珍しい品種であるといわ

      れ、訪れる方の目を楽しませているそうです。駐車場も10台以上停めることが出来紅葉のシーズンには穴場的な場所だとおもいます。       

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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嵐山 仏牙寺 鹿王院 8/06/2011

2011年08月11日 | 洛西 嵐山・嵯峨野 高雄

      

      鹿王院(ろくおういん)は京都市右京区嵯峨北堀町にある臨済宗系の単立寺院です。開基(創立者)は足利三代将軍義満で、寿命を延ばす事を祈っ

      て建てた禅寺と伝えられ、覚雄山 宝幢禅寺 鹿王院と名づけられた名刹です。 開山は義満公の師、普明国師で、開山(初代住持)は春屋妙葩(し

      ゅんおくみょうは)です。

 

 

 

 

 

      

      鹿王院は、足利義満が建立した宝幢寺という寺の塔頭(たっちゅう)であり(塔頭とは、禅寺等で歴代住持の墓塔を守るために建立される寺院のこと)

      で、宝幢寺は応仁の乱で廃絶しますが、その後は開山の塔頭であった鹿王院のみが残って寺籍を継いでおります。 

 

 

 

 

 

      

       室町時代の記録である『花営三代記』や、開山伝の『宝幢開山知覚普明国師行業実録』によりますと、宝幢寺の建立経緯は、足利義満は康暦元年

      (1379年)のある夜、「そなたは今年中に大患をわずらうが、宝幢菩薩を祀る伽藍を建立すれば寿命が延びるであろう」との夢告を受け、そのため、義

      満は自らの帰依する禅僧春屋妙葩(普明国師)を開山として一寺を建立することとし、康暦2年(1380年)完成しました。

      山門上の山号「覚雄山」の扁額は、 足利義満公筆です。

 

 

 

 

 

              

 

 

 

 

 

 

      

      当初の寺号を興聖寺といい、後に宝幢寺に改称されました。 宝幢寺の塔頭であった鹿王院は、嘉慶元年 (1387年)、開山の春屋妙葩の寿塔(生前

      に造る墓)を守る役目の塔頭として創建されたものです。 なお、鹿王院の名は建立の際に野鹿の群れが現れたことによると伝えられます。

 

 

 

 

      

      宝幢寺は禅寺十刹の第5位に列せられる大寺でありましたが、応仁の乱で廃絶し、塔頭の鹿王院のみが残り1661年 - 1673年、酒井忠知(徳川四天

      王の一人である酒井忠次の子)によって再興され、忠知の子である虎岑玄竹(こしんげんちく)が中興開山の祖となりました。 

      「禅寺十刹(じっさつ)」とは、中世における禅宗寺院の官による寺格統制制度のことで、「五山」の次の寺格を有し、「諸 山」の上の寺格をもっておりまし

      た。「五山」が主として中央(京都・鎌倉)の禅寺に対してのみ設定されたのに対して、 「十刹」は京都・鎌倉に限らず、日本全国にわたってひろく設定さ

      れたということがその最大の特徴となっています。 五山十刹制度は、中国において禅宗の中心となっていった臨済宗が宮廷や士大夫との結びつきを

      深める中で、一 般社会の官僚制度が禅林内に導入されたもので、中国南宋の寧宗(在位1194~1224)の時に成立したものです。

 

 

 

 

      

      日本におきましては、この頃までは鎌倉の方が多かった十刹寺院も、その後足利義 満(1358~1408)が恣意的に十刹の位次を決定し、とくに十刹を

      京都中心の座位とし、また夢窓派の寺院が増加したことによって、康暦2年(1380)には十刹寺院の数が定数である「十」を超えた16ヶ寺にまで激増い

      たしました。「京都十刹」と称される京十刹は、至徳元年(1384)に設定され、また鎌倉の寺院は「関東十刹」として再編成され、現在「京都十刹」として

      知られる寺院は、この時に設定されたものです。以下が京都十刹のリストになります。

 

 

 

 

 

      

      第1位 等持寺 夢窓疎石  廃寺   

      第2位 臨川寺 夢窓疎石  開山塔三会院のみ臨川寺として現存

      第3位 真如寺 無学祖元

      第4位  安国寺 大同妙テツ 廃寺    

      第5位 宝幢寺  春屋妙葩  開山塔鹿王院のみ残存

      第6位 普門寺  円爾    廃寺

      第7位  広覚寺 桑田道海   廃寺

      第8位 妙光寺  無本覚心

      第9位 大徳寺  宗峰妙超

      第10位 龍翔寺 南浦紹明  寺地移転し、大徳寺山内寺院としてて現存

 

 

 

 

 

              

 

 

 

 

 

 

      

       参道脇には椿の木が何本も見られ、この時期は実を付けており、この実を搾り椿油を作るそうです。

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

     

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

       山門を潜り、長い石畳の参道の正面に中門が見えてまいります。

 

 

 

 

 

      

      中門の手前、左手に鹿王院の鎮守の三社大明神が建ちます。 

 

 

 

 

 

      

      三社大明神の北側にある鹿王院の唐門で薬医門になります。 

 

 

 

 

 

      

      三社大明神の前には、稲荷社が建ちます。 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

      中門と手前に掘られたお堀 

 

 

 

 

 

      

      正面、拝観受付がある庫裡 

 

 

 

 

 

      

      中門の内側の庭園 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

      庫裡の玄関から見た中門 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

     

 

 

 

 

 

 

      

      この時期の拝観受付は、こちらの庫裡で受付けておりますが 、紅葉シーズンには山門を入った所が受付に変わります。

 

 

 

 

 

      

      こちらでは、スリッパが用意されておりますので、必ず使用してください。 舎利殿へ渡る時に石畳の上を歩きますので。 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

              

 

 

 

 

 

 

      

      順路に従い、客殿、本堂、舎利殿へと向かいます。 

 

 

 

 

 

               

 

 

 

 

 

 

      

      庫裡から客殿に面した庭園に出ます。 鹿王院では、本庭と呼ばれております。       

 

 

 

 

 

 

      

      本庭と庫裡前の庭園(左側)を隔てる土壁 

 

 

 

 

 

     

 

 

 

 

 

 

      

      庭園は嵐山を借景とした石組と植え込みを配した日本初の平庭式枯山水庭園と言われており、室町時代の石組や四百年の木斛(もっこく 椿科の常

      緑樹)の銘木が配置されております。  庭園の中心に建つ舎利殿(駄都殿)は、鎌倉将軍源実朝が、宋の国から招来した仏牙舎利が、多宝塔に安

      置され祀られております。 舎利殿は、宝暦13年(1763)に客殿の南側に建立されたと記録にあります。

 

 

 

 

 

      

      客殿前に沓脱石(くつぬぎいし)と思われる平石が置かれていr様子が、絵図に残っており、客殿などの建物から眺めるだけでなく、客殿から庭に降り

      て鑑賞することも想定した庭造りになっていたようです。  萩に隠れている黒っぽい石が沓脱いしです。

       

 

 

 

      

      正面、舎利殿の左側、樹木に隠れておりますが、三社大明神の北側にあった唐門がこの位置にあります。 

 

 

 

 

      

      舎利殿、東面 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

      借景の嵐山の山裾に大隅川が流れ渡月橋が掛ります。 徒歩にして10分程の距離です。 

 

 

 

 

      

      客殿から本堂に向かう回廊 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

      回廊右手に建つ茶席「芥室」への廊下 

 

 

 

 

 

      

      右手本堂 

 

 

 

 

 

      

      本堂中央には、釈迦如来像を中心に十大弟子像が祀られております。  

 

 

 

 

 

      

      釈迦如来像は、南北朝期の作で、、十大弟子像は、鎌倉期の慶派仏師の作とされておりますが、寺伝では運慶作と伝わっております。当時、京都五

      山をはじめ禅寺は応仁の乱(1467~)でことごとく焼失いたしておりますが、創建当時の本尊が残っているのは極めてまれであり応仁・文明の乱時に

      は、衣笠の等持院に避難しておりましたが、この時に弟子の一体が行方不明になっており、数年後に栂ノ尾の閻魔堂から発見されたとの記録が残り

      ます。

      釈迦如来像は、創建時に制作され、鎌倉前期の作と云われます十大弟子像の方は、他から移して来たものでないかと推測されております。十大弟子

      とは、釈迦生存中の最も優れた実在の弟子で、十大弟子中の迦葉(かしょう) に拈華微笑(ねんげびしょう) の因縁から伝えられ、さらに迦葉から阿難

      (あなん)をへて、のちに達磨に伝えられ今日に至っております。

      

       

 

 

 

 

      

       釈迦如来像の後方には、左手に開基の「足利義満像」が安置され、右手の三体は、中央の弥勒菩薩像と左側が虎岑玄竹和尚像で右側が賢渓玄倫和

      尚像です。 

 

 

 

 

 

       

 

 

 

 

 

 

      

      本堂をあとにし、右手に進み舎利殿に向かいます。 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

               

               舎利殿を入った所に掛る「釈迦涅槃図」 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

      舎利殿の別名の「駄都殿」の扁額 

 

 

 

 

 

              

              仏牙舎利が祀られている多宝塔 この仏牙は天下泰平の霊仏で、後光厳天皇が、普明国師に賜ったもので、後

              奈良天皇・正親町天皇・後水尾天皇も、礼拝供養しておられました。この仏牙舎利が日本の博多に無事着船した

              のが10月15日であったことから、昔から毎年その日を「舎利会」と定め、御開帳して勝縁を結ばしておられます。 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

      多宝塔の上には、天蓋が吊るされ内側には雲龍図が描からており、法の雨をふらせるという意味があるそうです。 

 

 

 

 

 

      

      多宝塔の屋根の内側には無数の龍が彫られおります。 

 

 

 

 

 

                  

                  

            多宝塔を護る四天王像   持国天 - 東勝身洲を守護する。乾闥婆、毘舎遮を眷属とする。

                                  増長天 - 南瞻部洲を守護する。鳩槃荼、薜茘多を眷属とする。

                                  広目天 - 西牛貨洲を守護する。龍神、毘舎闍を眷属とする。

                                  多聞天 - 北倶廬洲を守護する。毘沙門天とも呼ぶ。夜叉、羅刹を眷属とする。

 

 

 

 

      

      多宝塔の台下も細部にわたり細かい彫刻が施されております。 

 

 

 

 

 

              

              舎利殿内に掲げられている、「十六羅漢図」は、狩野鶴嶺筆とあります。 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

              

 

 

 

 

 

 

      

      舎利殿南側と唐門 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

      舎利殿南側、唐門側から。 

 

 

 

 

 

      

      舎利殿東側から本庭を挟んで客殿です。 

 

 

 

 

  

      

      土壁の前のモミジの木1本が種類が違うのか、紅葉しておりました。 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

      舎利殿の北側の2本の木が、木斛なのか沙羅双樹なのか私には判断できませんでした。 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

      鹿王院は、嵐山の近くにありますが、大型の駐車場などが無いため、観光客で溢れることもなく静かに回れました。紅葉の時期の週末は混雑が予想

      されますが。 見どころのある寺院だと思います。

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

       

 

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

               

               沓脱石

                

 

 

 

 

 

 

      

      客殿正面に掲げられている、義満筆の「鹿王院」の額。 

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

              

 

 

 

 

 

 

 

 

     

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

              

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

              

 

 

 

 

 

 

      

      お車の方は、門前に4台程の駐車スペースはあります。 

 

 

 

 

 

 

 

  このブログを見ていただいているお客様も多数お越しいただき、大変ありがたく思っております。時間の許す限り随時更新を続けていきたいと思っております。

  私もまだまだ行ったことのない寺院が沢山ありますので、リクエストがございましたら、是非伺いますので遠慮なく仰ってくださいませ。  

  祇園 割烹 ふじ原 ホームページ  http://kappou-fujiwara.com/ 

 

 

 

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愛宕神社 千日参り 7/31/2011

2011年08月06日 | 京都歳時記

      

       今年も、7月31日の千日参りの日の早朝にお参りしてまいりました。 車で清滝の登り口に一番近い駐車場に午前6時前に到着しました。100台近く

      停めれる駐車場も日曜日とあり、私の到着後10分で満車になり、その後は、1キロも離れた駐車場に停めるか、2.3時間の待ち時間が発生していた

      ようです。危ないところでした。

 

 

 

 

 

 

      

       駐車場横の清滝川が下を流れる橋を渡れば表参道の登り口の鳥居が見えます。

 

 

 

 

 

      

       下流方向です。この先すぐに大隅川と合流し渡月橋をへて桂川になります。 大隅川の上流は保津川で、嵐山の少しの区間だけ大隅川と云います。

 

 

 

 

 

 

      

       清滝川は、京北町の方面から、高山寺の前を流れ神護寺をへて清滝に続きます。

 

 

 

 

 

      

       早朝とあり、まだ人影はまばらです。 6時丁度に登り始めました。 今回で11年連続になりますので、自分のペースもつかんでおりますので、不安も

      なく快調なスタートがきれました。

 

 

 

 

           
           清滝の鳥居から約4キロの行程を個人差はありますが、若い方で1時間半、中年の方で2時間から3時間、年配の方で
           それ以上の時間をかけて登ります。以前は、1丁目ごとの石碑しかなく自分の位置が確認できずペース配分が難しかっ
           たのですが、数年前よりこのオレンジの立て札が、100mおきに立っているので、とても助かるようになりました。

 

 

 

 

 

              

               最初の2~300メートルはコンクリートの坂道で始まります。 登りは良いのですが、下りの最後のこの区間は、

              膝が疲れている上に、つま先に体重が掛りとてもつらい区間です。

 

 

 

 

 

               

 

 

 

 

 

       

 

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

              

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

 

              

 

 

 

 

 

 

              
              まだ、三合目あたりの休憩小屋ですが、この辺ではゆっくり休憩する気分ではありませんので、パスする方が多いです。

 

 

 

 

 

 

              

 

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

       今年も崩れ落ちずに、ふんばっっておりました。

 

 

 

 

 

              

 

 

 

 

 

 

      

       今年も天候に恵まれ、道も乾いておりましたが、夕方に通り雨が降ったので、千日参りで夜中にかけて上った方は、この枯葉に足を取られて滑ってし

      まうこともしばしばあり、下りる時は特に注意が必要になります。

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

              

 

 

 

 

 

 

      

       5合目近くで景色が開ける所が一カ所だけあります。 向こうの山裾は保津川が流れ水尾の方面になります。

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

              

 

 

 

 

 

 

      

      7合目付近の休憩小屋です。 

 

 

 

 

 

      

      唯一下界を見下ろせるポイントで、皆さん一息ついて行かれます。

 

 

 

 

       

      

       左手の池が広沢の池です。

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

 

      

       柚子の里の水尾からの合流点です。

 

 

 

 

 

      

       赤ちゃんを背負った方が多いのですが、3歳までにお参りすると一生その子は、火の災いを避けられると云われており、子思いの親御さんが頑張って

      登っておられます。

 

 

 

 

 

      

       この倒木が見えればあと少しで黒門に到着です。

 

 

 

 

 

      

       初めて上る方は、この門が見えると、到着したように喜ばれるのですが、まだひと頑張りが必要なので、門の下で肩を落としておられる方も見かけます。

 

 

 

 

              

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

              

               私の腕も疲れてきたのでしょうか?手振れ防止を使ってこのピンボケです。

 

 

 

 

 

      

       間もなく、40分の40地点に到着です。

 

 

 

 

 

      

       結界が切ってあり、ここから境内に入ります。

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

       山頂でこの時間帯、唯一飲料を売っている仮設売店です。

 

 

 

 

 

      

       社務所に置かれている、真新しい衝立

 

 

 

 

 

              

               最後の難関の石段です。400段近くあったと思います。

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

              

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

              

 

 

 

 

 

 

      

       山頂のお稲荷さん

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

       やっとゴールが見えました。

 

 

 

 

 

      

       熊彦嵐山店は、たん熊北店の系列店で、33年前私が入社した年の秋に、先代の大将が古い料理旅館を買い取り始めた店で、オープン時私もメンバ

      ーの一人として当時改装前の幽霊屋敷の様なところで住み込んで、毎日包丁を雑巾に持ち替え掃除ばかりさせられておりました、思い出のある店です。

 

 

 

 

 

      

      6時に上り始め、山頂到着が8時半でした。 ゆっくり休憩も取りながら登りましたので、この時点での疲労感は感じませんでした。  

 

 

 

 

 

      

      標高924メートル京都一高い山の山頂にある愛宕神社は、全国約900社の愛宕神社の総本社であり、旧称、阿多古神社と云い通称 愛宕さんの名で

      したしまれております。1300年前に開かれ、古くから火伏せ・防火に霊験のある神社として知られており、武運の神としても崇められており 天正10

      年(1582年)5月、明智光秀は戦勝祈願のために愛宕神社に参蘢し、本能寺の織田信長を攻めるかどうかを占うため籤を引き、3度の凶の後、4度目

      に吉を引いたといわれております。翌日、同神社で連歌の会を催したが、その冒頭に詠んだ歌「時は今 あめが下しる 五月哉」は光秀の決意を秘めた

      ものとされます。 

 

   

 

      

       今年は、祇園街の友達の料理屋やBARやお茶屋さんにお客さんの分を合わせ30枚を購入しました。 料理屋の大将連中は、何年か前に一度連れて

      上ったのですが、次の年からは誘っても誰も来なくなりました。 「火廼要慎(ひのようじん)」と書かれた愛宕神社の火伏札、右から3番目をいつも求めま

      す。1枚500円

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

       この場所も夜になると、夜明けを待つ方の休憩場所となり混みあいます。寝袋を持った方も結構おられます。

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

       

 

 

 

 

 

      

       本殿の右手に古いお札を返す、返納箱が置かれており、1年間の無事を感謝しつつお返しいたしす。

 

 

 

 

 

      

      お盆も近いので、帰りにしきみを買い、お墓掃除の時に持って行く事にします。 

 

 

 

 

 

      

       あとは、下りるだけなので、なるべく膝に負担を掛けないよう、杖で踏ん張りながら下ります。

 

 

 

 

 

      

       

 

 

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

       階段を降り切った、この地点には、夜に掛けて10台程度の屋台が並びます。

 

 

 

 

 

      

       一緒に上った友人夫婦と軽い朝食を取り30分後に下山を始めました。

 

 

 

 

 

              

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

              

 

 

 

 

 

 

              

               時間は、9時過ぎ段々とすれ違う方が増えてまいりました。

 

 

 

 

 

              

              ご苦労様です。

 

 

 

 

 

              

               10時を回った頃から一段と登って来られる方が増え間した。 あまり多くの方とすれ違うと、「お登りやす」の掛け

              声が疲れて出なくなってまいります。

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

      10時半、二合目のお助け水も混雑しておりましたので、スルーいたしました。 

 

 

 

 

 

 

      

       コンクリートの坂道も無事に乗り切りゴールが見えました。

 

 

 

 

 

      

      10時40分到着です。登り2時間30分、山頂休憩30分、下り1時間40分でした。

 

 

 

 

 

      

      清滝川に下りて、冷たい水に足を漬けクールダウンしてから帰りました。  帰り道、駐車場に入れない車の列が何十台も待っており、早起きは三文の

      徳をしたような気分です。また来年に向け、筋肉痛が取れたら足腰のトレーニングを始めます。

 

 

 

 

 

 

           

 

          

 

           

 

  このブログを見ていただいているお客様も多数お越しいただき、大変ありがたく思っております。時間の許す限り随時更新を続けていきたいと思っております。

  私もまだまだ行ったことのない寺院などが沢山ありますので、お勧めやリクエストがございましたら、是非出向いてみたいと思いますので、遠慮なく仰ってくださいませ。  

  祇園 割烹 ふじ原 ホームページ  http://kappou-fujiwara.com/ 

 

 

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祇園祭 山鉾巡航 後編 7/17/2011

2011年08月05日 | 京都歳時記

              

              二十二番目の岩戸山は、『古事記』『日本書紀』に記される「国生み」と「天の岩戸」の神話を故事にもつ曳き山で

              す。「天の岩戸」は、素戔鳴尊の乱暴に天照大神が岩戸に隠れられたため、天地は常闇となり、八百万神は安の

              河原に集まって対策を練り、常世の国の尾鳴鳥を鳴かせ、鏡を鋳造し、500個の勾玉をつくり、天香山の榊を立て、

              天鈿女命が舞ったという伝承です。屋形内に、伊弉諾尊、天照大神、手力男命の3体の人形が飾られております。

 

 

 

 

 

      

      山鉾には、鉾と山があると説明いたしましたが、岩戸山は山を改造した曳山(ひきやま)と呼ばれる形態で、見た目は鉾と同じです。山と鉾の外観上の

      大きな違いは、まず大きな車輪の有無でが、鉾には大きな車輪があり、本来の山には大きな車輪は付いておりません。しかし曳山には鉾と同じく大き

      な車輪が付いております。そこでもう一つの違いは屋根を貫く真木の有る無しです。鉾の場合は、20メートルにも及ぶ高さの真木に両側に広がる榊や、

      さらに天王座と呼ばれる部分や、その先に伸びる鉾頭の飾りがつきますが、山の場合は屋根の上に真松と呼ばれる松の木が立つのみです。岩戸山に

      も山の証としての真松が立っており違いを見ることができます。 

 

 

 

 

 

 

 

              

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

              

 

 

 

 

 

      

      46年前までは、前(さき)の祭りと後の祭りに分かれ巡航日が異なっておりました時の、前の祭りの最後尾を務めたのが、船鉾です。

 

 

 

 

      

      二十三番目の船鉾は、『日本書紀』の神功皇后の新羅出船に由来する鉾で、屋形内に飾られた神功皇后の人形は、面を着け頭に天冠を頂き紺金襴

      の大袖に緋の大口、緋縅の大鎧を付けております。応仁天皇を生んだゆかりから、御神体に、晒を巻いて置き、巡行後に安産祈願の御腹帯として授与

      する習慣があります。現在の船鉾は、宝暦年間に計画され、天保年間に完成。船頭に「鷁(げき)」と呼ばれる想像上の瑞鳥を飾っております。

 

 

 

 

 

      

 

      

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

              

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

      二十四番目の北観音山は、後の祭りの先頭を行き、応仁の乱の時代から隣町の南観音山と、1年おきの交代で山を出していたといわれておりました。

      隔年にでるというのは例がなく、この両山だけで、もとはかき山でしたが、後に曳き山になりました。楊柳観音像と韋駄天立像を安置し、鉾ではないの

      で真木の代わりに真松を立てております。松は、毎年鳴滝から届けられ、南観音山と北観音山で二本の真松を籤でその年の所有を決めております。

 

 

 

 

 

              

              後の祭りの幟も見えます。 

 

 

 

 

 

              

 

 

 

 

 

 

              

 

 

 

 

 

 

              

 

 

 

 

 

 

              

               左の車輪の前に立つ男性が手に持ってる先の尖った槍の頭のような木は、車輪の下に咬ませて鉾や曳山の方

              向を微調整する道具です。中々真っ直ぐばかりには進まないようなので、巡航中に何度も使われ、その都度に鉾

              が軋むような大きな音を立てます。

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

               

 

 

 

 

 

 

            

 

 

 

 

 

 

               

 

 

 

 

 

 

              

 

 

 

 

 

 

               

               二十五番目の橋弁慶山は、山の御神体がなにを表すかは一目瞭然で、五条の橋の上、牛若丸が軽々とぎぼしの

               上に飛び上がり、弁慶がなぎなたを構えるシーンです。足駄の前歯だけで人形の体を支えるこの躍動感は、とても

               500年も前の造形とは思えない素晴らしさがありかき山としてただ1つ、くじ取らずであったことや、山籠、真松もな

               い形式からも、山の中では屈指の古いものであると説明されております。

 

 

 

 

 

 

               

               その歴史のある山ですが、かに手には多数の外国の方の姿が見受けられます。

 

 

 

 

 

      

      いつも感じておりますが、観光で世界にアピールしている国際都市の京都の景観として、美的センスに欠ける電線や看板は、行政の怠慢を浮き彫りに

      しております。せめてメイン通りくらい何とかしてほしいものです。無駄な道路補修より、優先的に市民の税金を使ってほしいと考えるのは私だけでしょ

      うか? 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

              

 

 

 

 

 

 

 

              

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

      二十六番目の八幡山は、八坂さんの祭りに石清水八幡をまつるのは不思議ですが、当時それだけ八幡さんが信仰されていたあかしだと云われており

      ます。社殿は江戸時代後期天明年間の作と伝えられる総金箔押しの華麗なものです。前面の鳥居の笠木のうえに、向かい合って八幡さんのシンボル

      の鳩が2羽、止まっております。

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

              

 

 

 

 

 

 

              

 

 

 

 

 

 

              

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

              

              二十七番目の鯉山は、前掛けや見送りは16世紀のベルギー製のタペストリーで、重要文化財に指定されており、

              ギリシャの叙事詩に題材をとって人物や風景が描かれており、山鉾きっての貴重なものだそうです。人物でなく、

              魚をテーマにするのは山のなかで唯一で、竜門の滝をのぼる鯉は竜になるとの言い伝えで、木製の鯉が勢い良

              く水しぶきを上げる様は勇壮で、立身出世を願い毎年粽を求めに行かれる方も居られるそうです。

 

 

 

 

 

 

      

      「鯉山の前掛けや見送り」を飾るタペストリーは、16~17世紀のベルギー製の織物で、国際色豊に彩られ、鎖国の江戸時代中、京の町民が、長崎の

      出島をたよりに世界各地の品々を取り寄せたそうです。 その当時の世界の最先端技術を取り寄せる事により、西陣織や染色技術、ひいては清水焼

      などが、刺激を受け技術が向上していったと考えられ、その伝統が、現在世界のIT機器の電子部品技術などに引き継がれております。京都人のある

      部分、保守的でありながら、最新を生み出す能力には、世界に誇れるすばらしいものがあり敬服いたします。

 

 

 

 

              

 

 

 

 

 

             

              

 

 

 

 

 

 

 

      

      二十八番目の役行者山は、鈴鹿山と共に山鉾町最北の山で、役行者(えんのぎょうじゃ)は自ら修行するだけでなく、庶民の中に入って医療などにつ

      とめた僧のことで、古くから民衆に人気があった実在の人物です。人形3体はその役行者をまん中に、鬼の顔の一言主神、葛城女神が祀られ、三者

      の関係はさだかではありませんが、者が大峰山と葛城山のあいだに橋を架けようとして、鬼を使ったとの伝説によるらしいです。人形が多いだけに多

      数ある山の中でも最大級の大きさになります。

 

 

 

 

 

              

 

 

 

 

 

 

              

               こちらの山も、かき手に外国の方が参加され、沿道の友人達と会話を交しながら祭りを楽しんでおられました。

 

 

 

 

 

              

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

               

      

      二十九番目の鈴鹿山は、旧東海道の難所・鈴鹿峠のことを指し、畿内と東国を結ぶ要衝として、歴史上のエピソードも数多くあり、商人を狙う盗賊が多

      かったことが、鬼が出る、に転化したようで、この山の神・鈴鹿明神(瀬織津姫命)の伝説も鬼退治のおはなしになっております。大なぎなたを手に、立

      て烏帽子の女神の姿がりりしいです。 

 

 

 

 

 

              

 

 

 

 

 

 

              

 

 

 

 

 

 

              

 

 

 

 

 

 

      

   

 

 

 

 

 

 

              

              

             

 

 

 

      

       三十番目の黒主山は、油天神山が梅なら、こちらは桜を松と共に飾り、華やいだ雰囲気をかもし出す山になります。謡曲「志賀」のなかで、六歌仙の

      1人、大友黒主が志賀の桜を眺めるさまをテーマにしており、杖をつき白髪の髷(まげ)の翁の人形は、気品があり、山を飾る桜の造花は、家に悪事を

      入れないお守になるそうです。

 

 

 

 

 

              

 

 

 

 

 

 

               

 

 

 

 

 

 

              

 

 

 

 

 

 

              

              三十一番目の浄妙山は、橋弁慶山に似て、躍動的な人形の姿が人目を引き、こちらは宇治橋の上で、宇治川の

              合戦をあらわしております。一来法師が三井寺の僧兵・浄妙の頭上を飛び越して先陣をとった故事にちなむもの

              で、揺れる山の上で人形の上にさらに1体の人形を乗せ、上下の人形を、上さま、下さまと呼ぶそうです。浄妙の

              よろいは室町時代のもので、重要文化財に指定されております。 どの山鉾にも貴重な美術品が装着され、巡航

              のことをよく、動く美術館と言うたとえをいたします。

 

 

 

 

 

              

 

 

 

 

 

 

              

 

 

 

 

 

 

              

 

 

 

 

 

 

        

               

 

 

 

 

 

 

      

      32番目の南観音山は、毎年最後尾を飾り、先頭の長刀鉾から3時間近くあとの巡航となります。俗に北観音山の観音様は男性と云われ、南観音山は

      女性といわれており、南観音山では宵山の夜更けに翌日の巡行の無事を祈って“あばれ観音"の行をされるといういい伝えがあり、「あばれ観音」の別

      名があります。楊柳観音像と善財童子像を安置する曳山の楊柳観音は、三十三観音の筆頭とされ、姿を変えて、手に柳を持ち薬師観音と同様に衆生

      の苦難を救う観音様と伝わっており、この山の楊柳観音は頭から袈裟をつけ趺座(ふざ)されております。

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

              

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

 

              

 

 

 

 

 

 

 

              

 

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

              

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

      山鉾巡行は午前中に終わらせるのが本来の習わしでいた。昔は、午後になると鉾(屋根から空へ伸びている部分)に疫神が吸い寄せられると信じられ

      ており、本来なら疫病神と一緒に鉾も処分しなければいけないところなのですが、そういう訳にもいかないので、その変わりに早く片付けようとした江戸

      時代からの習わしだそうです。

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

      四条河原町を上り三筋目を東に入った所に、たん熊の北店があります。33年前に修行に入った時と周りの景色は少し変わっておりましたが、 店の構

      えはそのままで若かりし10代の修業時代を思い出しておりました。久しぶりなので、店をのぞいてみましたが、座敷のお客さんの靴が沢山見えたので

      声を掛けずに出てまいりました。私の京都生活の原点であり思い出深い場所の一つです。

 

 

 

 

 

 

      

      高瀬川の流れも変わらず、木屋町を料理を担いで先斗町などのお茶屋さんに出前に行ったことも思い出しました。 

 

 

 

 

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