桂春院は妙心寺の北門の東側に位置し、慶長3(1598)年に織田信忠の次男、津田秀則が創建した見性院が始まりで、秀則の死後、寛永8(1631)年
に美濃の豪族、石河貞政が1632年亡父の五十年忌にあたり、桂南守仙(けいなんしゅせん)和尚を請じて、現在の方丈・庫裡・書院・茶室等の建物を完
備し両親の法名から一字づつをとって桂春院と改め桂南和尚の師、心華霊明禅師を以って勧請開祖となされました。
こちらの桂春院も通常拝観がなされている塔頭の一つです。
門をくぐり右手の景色です。 拝観受付の庫裡は左手になります。
庫裡の前に遅咲きの梅が満開になっておりました。
庫裡の拝観入口
庫裡で受付を済ませ右手に進みますと方丈の裏側(北側)に坪庭が現れます。
枯山水の坪庭で「清浄の庭」と名付けられております。
その坪庭の華頭窓から見える梅軒門
廊下を右手に進みますと方丈、左手が書院になり両方の庭を分ける形で梅軒門が配置され
ております。
書院
こちらの庭は、侘の庭と名付けられ 書院前庭より飛び石づたいに既白庵茶室(きはくあん)に通じる露地庭になっております。
こちらの書院の背後(東北隅)には隠れるように茶室の既白庵があり、書院との間は二重襖によって仕切られ、また露地庭の蹲踞も土蔵の壁に接して
樹木等でさえぎられて目立たぬようになっております。
これは昔、禅修行を第一義として宗風大いにふるった妙心寺では、詞歌・香道・能楽・茶道等の芸術を楽しむことは邪道であるとし、これに耽るものは
入牢の掟があったためとされております。この茶室は1631年江州長浜城より書院とともに移築したものと伝えられております。
梅軒門と方丈
方丈東側と思惟の庭
方丈東庭の思惟(しい)の庭は、左右の築山に、十六羅漢石、中央の礎石を座禅石に見立て、さながら仙境に遊ぶが如き趣を演出しております。
方丈南庭は、真如の庭と呼ばれ崖をツツジの大刈り込みで蔽い、その向こうは一段低くなり生い茂るモミジの樹木おおわれ、一面に杉苔をはり小さな
庭石を七・五・三風に配したところは、十五夜満月を表現しているといわれます。
方丈に掲げられた桂春院の額は、天間独立の筆と説明されております。
狩野山雪筆の「金碧松三日月」襖絵
また内部の襖絵もすべて狩野山楽の弟子の山雪によるものです。 西の間の老松に滝根笹
方丈の西端から庭園に下りることが出来、真如の庭の南側を通り竜神が祀られているといわれる滝壺に行くことが出来ます。
真如の庭のツツジの刈り込み
竜神が祀られているという滝池
方丈の東側の思惟の庭のさらに東側の茶の井戸
思惟の庭越しに見える方丈
滝壺の横に建つ稲荷社
方丈前の老木
方丈は、1631年に建立され内部中央に仏間と室中の間を設け、正面に御本尊の薬師如来像を安置しております。左右に西の間、東の間があります。
方丈東庭 思惟の庭
東の間の芦原に落雁、雪竹に茅屋の図
書院
方丈北庭の清浄の庭
清浄の庭は、方丈北側の坪庭に井筒を利用して、西南端に紀州の岩と奇石を直立した枯れ滝の石組で、そこに滝の響き、白砂の渓流が音をたてて
流れている思いがするように、常に心身の塵垢を洗い清め清浄無垢になってもらうように考えられております。
雲祥院 1598年熊本城主細川氏の家臣、長岡是庸が創建。開祖は海山元珠。 非公開
桂春院は、山内の東北の端に位置しましたので、一度北総門に向かいそこから南下して麟祥院に向かいます。 北総門は、一条通りに面しており
西に5分ほど歩きますと仁和寺の前に出ます。
とにかく、妙心寺山内は広く、公開されている塔頭や大方丈・法堂などを全部回りますと半日以上掛ってしまうと思います。
北総門のすぐ南側の隣華院 1599年南化玄興を開山に脇坂安治が創建。方丈には長谷川等伯筆の襖絵、狩野永岳筆の襖絵があります。非公開
隣華院の参道を挟んで西側に位置する天球院 1631年天球院殿により創建。
春日の局の菩提寺の麟祥院は、寛永11年(1634)徳川第三代将軍家光の乳母「春日局」追福のため碧翁(へきおう)和尚を開山として建立された寺
院です。
門をくぐりますと、左手に庫裡、正面に方丈に上がる唐門があります。
庫裡の前の早咲きの桜が満開状態でした。
麟祥院の建物には、いたるところに春日の局が江戸城に上がる前の稲葉家の家紋が配されております。
唐門を入り方丈では、係りの方から襖絵の由来や春日の局について詳しい説明を受けることができました。
方丈南庭園
方丈庭園の東側に建ちます春日局の御霊屋は、元は仙洞御所にあった釣殿を後水尾上皇が春日局に下賜され、二条城で能舞台として使われ、局の
逝去後、二条城より移築し、小堀遠州作の春日局木像を安置して御霊屋とし、明治期現在の場所に移築されました。下賜された御霊屋は豪華な装飾
金具が使用され、菊のご紋と斉藤家(春日の局の生家)の紋がある優美な建物です。春日局は稲葉正成の妻でしたが、離婚して家光の乳母となり、江
戸城大奥の基礎を築いた権力者としても知られ、春日局という名は朝廷から賜った称号です。
方丈や御霊屋は撮影が禁止されておりますので、こちらの木像が小堀遠州作のもので御
霊屋に安置されております。
背面の雲龍図は、春日局と親交のあった絵師・海北友松の子、友雪筆によるもので方丈
中央の仏間の左右に雄と雌の図が描かれております。写真の図は、角が立っている雄の
龍で右側に描かれ、下の写真が左側に描かれた角が下向きの雌の龍です。
春日局と絵師・海北友松の関係とは、実家の斉藤家は美農守護代を代々務めた武家の名門でした。春日局は、その当時父の所領のあった丹波黒井
城で生まれました。丹波は明智光秀の所領であり、斎藤利三は家臣として丹波国内に光秀から領地を与えられており、その後父は主君光秀に従い、
ともに本能寺の変で織田信長を討ちますが、羽柴秀吉に山崎の戦いで敗戦し帰城後に坂本城下の近江堅田で捕らえられて三条河原で処刑されてし
まいました。その亡骸を盟友の海北友松が真如堂に葬ったことから息子の友雪に襖絵を依頼したと説明をうけました。
方丈東庭園とお社
方丈東庭の東に広がる墓所の山桜とサンシュウユ
御霊屋の東に広がる墓所には、稲葉家のお墓が並んでおります。 その向こうに見える建物は、さきほど伺った海福院の庫裡です。
麟祥院は、淀城城主であった稲葉家の菩提寺でもあるため方丈庭園には淀城ゆかりの品が多数ちりばめられているとのことでした。
御霊屋前からの方丈
庭園西端のこちらの鯱も淀城にあったものと推測されます。
門の内側の南手に春日稲荷が建っております。
麟祥院をあとにして、駐車場のある花園会館まであとしばらく山内を散策しながら戻ります。 霊雲院の壁と鐘楼
鐘楼横から法堂です。 法堂の向こうに仏殿があり、手前(北側)には大方丈と大庫裡が控えております。
法堂から見た鐘楼
法堂の北側に位置する大方丈、こちらも拝観可能ですが、30分に1度係りの方が付いて大方丈・庫裡・法堂と説明をうけながら回るシステムとなって
おります。 私は、時間が合わなかったので、ツアーには参加いたしませんでした。
大方丈と南庭園
方丈側から法堂につながる廊下です。
法堂の天井に描かれた雲龍図
法堂の東側を抜けて駐車場をめざします。
法堂・仏殿・朱塗りの三門と連なっております。
法堂を左手に大方丈の正面の勅使門です。