北野天満宮は、通称、天神さん・北野さんの愛称で呼ばれ京都市民から慕われている神宮です。 菅原道真を主祭神と
し、毎月25日に縁日が開かれ、多くの参拝者や観光客で賑わいます。特に学問の神としても知られており、多くの受験生
らの信仰を集めております。
毎月、25日が道真公の誕生日と命日が重なっているため御縁日として祭典を行うようになりました。 一月は初天神と
言い特に大勢の人出で賑います。 縁日に立つ露店は、天神さんの境内だけでなく周辺の道路にも所狭しと立ち並んで
おります。 今出川通りに面した一の鳥居
初天神と言う事で、露天の種類も冬限定の物も多く見られました。 新巻鮭のお店です。 通常の縁日ではお目にかか
れないですね。
酒粕と味醂粕です。
ワカサギの天麩羅には行列が出来ておりました。
レトロな露天が三軒並んでおりましたが、月曜日のお昼には子供も学校ですので、商売になるのでしょうか?
楼門をくぐった所のおなじみの雄牛様です。 頭上の梅は間もなく開花しそうです。
牛は天満宮において神使(祭神の使者)とされており、その理由については「道真の出生年は丑年である」「亡くなったの
が丑の月の丑の日である」「道真は牛に乗り大宰府へ下った」「牛が刺客から道真を守った」「道真の墓所(太宰府天満
宮)の位置は牛が決めた」など多くの伝承があり、どれが真実なのかは、現在となっては知るすべが無いそうです。
楼門の左手の絵馬所
絵馬所には、一月二日の筆始祭の書初めの作品が展示されております。
マリヤ燈籠と呼ばれる燈籠と拝殿に向かう参道
絵馬所の左側の絵馬掛所への鳥居 紅梅のつぼみが膨らみ、一部は開花しておりました。
拝殿への入り口の三光門 後西天皇の筆による『天満宮』が掲げられております。 複雑な彫刻の中に日月星が配され
ていることから、三光門の名前が付いております。
唐獅子の蛙股(かえるまた)
三光門の屋根下の帳(とばり)の上の蛙股には見事な彫刻と彩色がほどこされており、色が美しいのは2002年の道真1100
年祭の時塗り替えられたばかりだそうです。三光門は1607年今から400年前に豊臣秀頼により建築されたものです。
拝殿 あいにくこのあたりで雨がぱらついてきました。
拝殿右手の授興所 お札やお守りを授かるところです。
授興所前の燈籠
三光門を入り左手にある、お燈明受付
お燈明
拝殿左手の紅梅殿
蝋梅 唐の国から来たこともあり唐梅とも呼ばれ、中国名も蝋梅であったことにちなみます。なお中国では、臘月(ろうげつ、
旧暦12月)に咲くからこの名がついたそうです。
拝殿から右手に出たところです。
拝殿から石の間を挟み奥にある本殿です。
東門に続く参道
東門横の長五郎餅店、中でも食べることが出来ます。
東門 この門を出て真直ぐ進みますと京都五花街のひとつ上七軒に続きます。
平日は、天神さんの駐車場がありますが、毎月の25日は露天業者の専用になり近辺にも余り駐車場がありませんので、
タクシーか公共の交通機関をご利用ください。
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1868年 (明治元年)5月10日、明治天皇から維新を目前にして倒れた志士たち(天誅組など)の御霊を奉祀するために、
京都・東山の霊山の佳域社を創建せよとの詔・御沙汰が発せられ、それに感激した京都の公家や山口・高知・福井・鳥取・
熊本などの諸藩が相計らい京都の霊山の山頂にそれぞれの祠宇を建立したのが神社創建のはじまりであり、日本初の
招魂社であります。
東大路通りから高台寺に向かう参道を上り、突き当りの東山の山麓に位置しております。
祭神の中には京都で暗殺された坂本龍馬も含まれており、境内に銅像が作られているほか、誕生日であり命日でもある
11月15日には、龍馬の遺徳を偲び霊を慰める龍馬祭が行われます。(誕生日・命日は本来は旧暦11月15日ですが、祭
は新暦11月15日に行われます。)
龍馬のほかに、中岡慎太郎、頼三樹三郎、梅田雲浜、吉村寅太郎、平野国臣、久坂玄瑞ら幕末勤王の志士1,356柱と
明治以降の日清戦争、日露戦争、太平洋戦争などの戦死者を合わせ約73、000柱が祭神として祀られております。
本殿の右手(東側)に墓所への入り口があり、電車の自動改札機のような機械に300円を投入するとゲートが開きます。
木戸孝允(桂小五郎)勅撰碑
坂本龍馬、中岡慎太郎の墓石は案外山腹の下の方にあり、この階段を上った所にあります。
階段を上りきる途中にある昭和の社
その上が、展望台も備え付けられた墓前になります。
鳥居の向こう、左側が坂本龍馬、右側が中岡慎太郎の墓石です。
熱烈な龍馬ファンの方のお参りが後を絶たないため、ここの前だけは生花やお供え物が切れることは無いそうです。
墓前の展望台からの眺めです。 140年の間、命を懸けた改革後の日本をどんな思いで見つめているのでしょうか?
現在の政治家にも坂本龍馬のような国の行く先をきちっと見据え、国民の為に汗できる大志を持った方にリーダーになっ
て欲しいものです。
墓前には、お参りされた方々の思いを書き綴った石板が、奉納されております。
墓所右手の銅像 京都市内を見守っているようですが、憂いていることだと思います。
坂本龍馬・中岡慎太郎の墓所の後方、池田屋騒動殉難烈士の墓
お供えのチョコレートを器用に袋を破って食べておりました。
禁門の変殉難烈士の墓 禁門の変で長州藩は、倒幕運動の拠点として1864年大挙して蛤御門で幕府軍と戦いました。
この戦いはまれにみる激しい戦いで京都の町811町、三万戸の民家が焼失したほどです。この戦いで、福岡久留米藩の
真木和泉守に率いられた長州軍は、多数の優秀な人材を失い大きな打撃を受けました。
禁門の変殉難烈士の墓
護国神社の一番高台にある長州藩士、木戸孝允の墓石 墓石には、「内閣顧問勲一等贈正二位木戸孝允之墓」の文字
が刻まれております。
手前の墓石が木戸孝允の妻、幾松の墓で二人並んで建てられております。
護国神社の南側にある霊山(りょうぜん)歴史館
NHKの大河ドラマの影響もあり、平日でも結構な人出で賑っておりました。
以下の写真は、入場料700円で頂けるパンフレットの転載です。
車でお越しの方は、歴史館には駐車場が7台分位しか無く護国神社には駐車場が無いため高台寺の駐車場をお勧めし
ますが、土日や三月下旬以降はこのあたりは、車で来られると相当な時間ロスをいたしますので、ご注意ください。
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両足院は、建仁寺の開山・明庵栄西(みんなんようさい)禅師の法脈・黄龍派(おうりょうは)を受け継ぐ龍山徳見(りゅうざん
とっけん)禅師を開山とする臨済宗建仁寺派の塔頭寺院です。 創建された当時の両足院は、知足院の別院、または徒弟
院(つちえん)として建仁寺開山堂・護国院の中にありましたが、天文年間の火災の後、「知足院・両足院」両院を併せて
「両足院」と称する事となり現在に至ります。
開山 龍山徳見禅師(1284~1358)は、関東の名族・千葉氏の出身で、今の千葉県香取市周辺が生誕地です。
徳見は、最初「利見」という名で十二歳のころ、鎌倉五山の寿福寺に入り禅僧の道を歩み始めます。 当時、円覚寺には
中国からの稀代の高僧・一山一寧(いっさんいちねい)和尚が居り、彼に参ずるものが後を絶たない状況でした。
そこで一山和尚は、漢詩文の試験を行い、そこでトップで試験をパスしたのが利見です。円覚寺で禅と漢詩文を勉強する
間、一山和尚は利見の才能を見抜き、中国への渡航を薦めます。そして、利見は22歳の時に中国へ単身渡ることを決意
いたしました。
当時の元(中国)にて45年を過ごした禅師は、足利尊氏の招きにより帰国することとなり、禅師が帰国する際、惜別に耐
えかね追随する形で来日した林浄因が、日本で始めて饅頭を作った人物であることから「饅頭始祖の寺」としても知られ
ております。 帰国後の禅師は、建仁寺35世、南禅寺24世、天龍寺6世の住持として栄西禅師直系の黄龍派を広めてい
きました。 のちに功績を称えられ朝廷から「真源大照禅師」の号を賜り、1358年75歳で入滅なされました。
山門をくぐりますと、白砂と青松の唐門前庭が迎えてくれます。
今回の特別公開中は、唐門は使用せず左手の庫裏の方から上がってまいります。
庫裏と方丈を結ぶ廊下に面した、閼伽井の坪庭。 閼伽(あか)とは、神仏に御供えする水のことで、その水を汲む井戸
が閼伽井です。
方丈庭園へ
方丈庭園 桃山時代の枯山水庭園 今更ですが、方丈前庭園は、一部の寺院を除き圧倒的に方丈の南側に位置づけ
されてる事が多いですね。
一番重要な本尊を祀っておりますので、明るく日当たりの良い南向きに設計されるにですね。ちなみに天龍寺は東向き
に建ってた様な。
方丈の本尊の左側の部屋の襖絵 「水辺童子図」長谷川等伯筆
方丈奥の間に展示されている「竹林七賢人図」
方丈庭園西側の唐門
方丈東庭園から書院前の池泉回遊式庭園へとつづきます。
池の向こう側の建物は、左が国宝如庵の写し「水月亭」と大村梅軒好み「臨池亭」の二つの茶室が並びます。
書院からの庭園
書院の北側の壁には、伊藤若沖筆の「雪梅雄鶏図」の掛け軸が掛かっております。
佛手柑と南天
書院前庭園の池辺は、半夏生(半化粧)が群生しており、六月中旬頃から特別公開があります。
閼伽井坪庭
両足院を出て北に進みますと同じ敷地内に毘沙門天堂があります。
鞍馬の胎内仏 両足院の毘沙門天は、鞍馬寺毘沙門天の胎内仏でした。戦国時代 比叡山が織田信長によって焼き
討ちにあった際、鞍馬の僧が尊像の安全を危惧し、比喜多養清(室町将軍の茶家、筑前黒田家京都御用達)のところへ、
尊像を疎開させたものです。
黒田家必勝の御守護 関が原の会戦に黒田長政が、関東方として出陣する際、この尊像を内兜に収めて奮戦し、勝利
を収めたといわれています。そのあと尊像は代々黒田家で信仰されましたが、維新の変革で明治10年ごろ当院に寄進
されました。 以後、勝利の神として商売繁盛、合格祈願、良縁成就、誓願成就 など参拝の方々が訪れております。
寅年の本尊 本尊の毘沙門さんは、脇仏に閻魔大王、不動明王をおまつりしています。毘沙門天堂の狛犬は、寅。香炉や
灯篭にも寅が、浮き彫りされていることから寅年生まれの方やご縁のある方がよくお参りされております。
開門中はいつでもお参りできます。 開門時間7時頃~17時頃 阿吽の虎 そう言えば、鞍馬寺も狛虎でした。
縁結び この毘沙門天は戦前は祇園の芸妓、舞妓がお参りして自分の願いを成就させていました。そのころの願いは
「いい旦那さんがみつかるように」ということで「祇園の縁結び」としても知られています。
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今年初となる、大黒堂の甲子会に行って来ました。 今日の天気は良かったものの比叡山ドライブウェイを進むにつれ気
温が一度ずつ下がって行き延暦寺に付いた時にはマイナス3℃を示しておりました。
山頂に雲がかかると小雪が舞い始める中、まずは根本中堂にお参りに行きました。 これだけ人の居ない根本中堂は
初めてでした。
根本中堂前の手水鉢は、気温より水温の方が温かい為湯気が上がっておりました。水を流しっぱなしだと零下でも凍ら
ないのでしょうか?
入り口で靴を脱ぎ廊下を進み本堂に入るころには足の裏が凍りそうになってしまい、本堂
の中のホットカーペットの上で暫く温めておりましたが、帰りの廊下で元の木阿弥になって
しまいました。
根本中堂向かいの文殊楼への階段も使用禁止になっております。
左手の寺務所と手前は萬拝堂です。 地下には、坂本の鶴喜そばが入っております。
萬拝堂内部 時計回りに一周して願い事をいたします。
大国堂と明日で松の内も終わりになるので、お正月の門松やしめ縄が集められておりました。 この大国堂の本尊は、
三面出世大黒天と言い大黒天と毘沙門と弁財天が一体になった姿をなされております。
11時40分より甲子会の法要が始まり一時間ほどで終了いたします。 60日に一度行われますので、年6回伺うことにな
ります。 法要のあと比叡会館でお弁当をいただき、御札と御供え物のお下がりを貰って山を下ります。 京都市内まで
は、車で約40分ほどで戻れます。 車の無い方は、琵琶湖側の坂本駅からケーブルで来られます。次回は3月15日に
伺います。 この日は、寒さのせいもあり、いつもの半分位の参拝者でした。
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京都ゑびす神社は西宮・大阪今宮神社と並んで日本三大ゑびすと称され、「えべっさん」の名で親しまれています。
その起源は約800年前土御門天皇の建仁2年(1202年)に禅の祖といわれる栄西禅師が建仁寺建立にあたり、その鎮守
として最初に建てられたものです。今日多くの方はゑびす様と言えば「商売繁盛の笹」をイメージされますが、ゑびす信仰
の象徴とも言える笹は元来京都ゑびす神社独自の「御札」の形態が広まったものです。笹は縁起物の松竹梅の竹の葉は
「節目正しく真直に伸び」「弾力があり折れない」「葉が落ちず常に青々と繁る」といった特徴から家運隆昌、商売繁盛の象
徴となりました。
この日は、本ゑびすの10日と日曜日が重なり四条通りから、この人混みが続いており、この時点から動かなくなりました
ので、参拝の列を離れ笹だけを求めに人混みを掻き分けて進みました。
参拝客の列が中央を占めておりましたので、端っこのわずかな隙を進み昨年の笹を返し、顰蹙を買いながら列を横断し
て笹を買いに向かいました。
御祭神は、八代言代主大神(やえことしろぬしのおおかみ)大国主大神(おおくにぬしのおおかみ) 少彦名神(すくなひ
こなのかみ)が祀られており、 平成14年に、建仁2年(西暦1202年)栄西禅師によって京のこの地に建立されてから800
年目という記念すべき年を迎え八百年奉祝祭が催されました。この人混みを横断するのは、無謀でしたが時間が無かっ
たのでやってしまいました。
宮川町の舞妓さんから笹を受け取り(3000円)アルバイトの巫女さんの前に積まれた縁起物を選び付けてもらいます。
縁起物を付けてもらうと、そのまま進み本殿南側で、いつも寝てられるとか
耳が遠いとか云われているゑびすさんを本堂でお参りした後、横手の板を
叩いて今一度お願い事などを頼みます。 本来ならそこから縄手通りまで
引き返すのですが、今日の人出では無理なので宮川町の方から縄手に戻
りました。
縄手に戻った処、ゑべっさんの南側にある摩利支尊天さんにもお参りしてまいりました。摩利支天堂とは建仁寺の塔頭
の禅居庵の中にあります。
摩利支尊天堂は禅居庵の一部で、本尊は摩利支尊天といってインドの軍神を祀っております。陽炎を神格化した女神で
摩利支尊天は護身・得財・勝利などをつかさどる神として日本では武士の守護神とされており、楠木正成は兜の中に摩
利支天の小像を篭めていたと云われております。摩利支尊天は、三つの顔と六本の腕を持ち、頭には宝冠、身には甲冑
を着け、七頭の猪に乗っている姿だと云われます。
摩利支尊天が猪に乗って現れることから、境内には至る所に、狛犬ならぬ、狛猪(こまいのしし)が沢山見られます。
縄手側の入り口には、うり坊の姿も見られます。
ゑべっさんの鳥居前から四条に向かう様子です。
昨年まで見なかった、今どきの屋台がいくつか目に付きました。 チキンケバブ イスラムでは羊が一般的ですが、チキン
なら焼き鳥か唐揚のほうが売れるのではと商売柄余計なことを思ってしまいました。
ビックバーガー、歩きながらは無理がありそうでしたが、これも余計なお世話ですね。
ニックンロール、おにぎりを牛肉で包んで焼いている様でしたが、チャレンジ出来ずにスルーしてしまいました。
お好み焼き屋さんでは食べたことがありますが、屋台では初めて見掛けました。
なかなかダイナミックな展示に思わずシャッターを切ってしまいました。屋台中継はこの辺で、店に戻ります。
下からの写真は、この日ちゃんとお参りが出来なかったので、12日の仕舞いゑびすに行ってお参りを済ませてきました。
縄手通の屋台は、11日の夜中に撤去され日常の風景に戻っておりました。
この日までは、笹も笹に付ける縁起物も買え、同じご利益が有るのであれば、お祭り気分と人混みを味わいたくない方
には、車で横付けも出来お勧めいたします。
先日の人混みの中では気付く事も出来ませんでした。
この、ゑべっさんは上の鳥居の右手前に建っております。
縄手通りから鳥居をくぐり直ぐ右手にある財布塚と名刺塚
財布塚の文字の左には、経営の神様と言われた松下幸之助さん奉納の文字が刻まれております。
建仁寺の境内では、ゑべっさんの期間は臨時の駐車場になりますので、この日は若い方々がゴミを拾い掃き清めておら
れました。
今年の笹は、こんな感じです。 笹(3000円)宝船・恵比寿・鯛(3700円) 傘飾り(1500円)でした。
とされます。稲荷山の麓に本殿があり、稲荷山全体を神域といたします。商売繁盛を祈願する方々が全国からお参りに
訪れ、毎年初詣の時期は近畿地方の社寺で最多の参拝者を集めます。
708〜715年(一説には711年2月7日)に、伊侶巨秦公(いろこのはたのきみ)が勅命を受けて伊奈利山(稲荷山)の三つ
の峯にそれぞれの神を祀ったことに始まるそうです。
楼門 この建物は天正17年(1589年)豊臣秀吉の造営とされてきました。秀吉の母大政所殿の病悩平癒祈願が成就す
れば一万石奉加する、と記したいわゆる“命乞いの願文”が伝来しています。
明治4年(1871年)には近代社格制度のもとで官幣大社に列格するとともに正式社名を「稲荷神社」とし「官幣大社稲荷
神社」となりましたが、戦後昭和21年(1946年)に神社本庁とは独立した単立宗教法人となり「伏見稲荷大社」と改称しま
した。これは神社本庁が伊勢神宮を本宗とするのに対し大社側として別の見解を取ったためで、神社本庁との関係は良
好であるとあります。伏見稲荷大社の神札は、一社式の神棚(稲荷宮)で祀り、神宮大麻(伊勢神宮の神札)とは独立した
神棚に祀るように推奨されております。
楼門を入り本殿との間にある拝殿
本殿 現在の本殿は、応仁の乱で焼失した後に明応8年(1499)に再建されたもので、国の重要文化財に指定されてお
ります。 本殿では受付で祈祷の申し込みをされた方々が順次祈祷を受けておられます。
本殿に向かって右側にある神楽殿
本殿から振り返った拝殿
本殿を左手に進みますと権殿、奥宮へと続きます。
奥宮と左手に白狐社
奥宮右手の千本鳥居の入り口
稲荷山には信者から奉納された約一万基の鳥居があり、特に千本鳥居と呼ばれる所は狭
い間隔で多数建てられ名所となっており鳥居を奉納する習わしは江戸時代に始まったもの
だそうです。
奥社奉拝所
大きい鳥居は中々奉納出来ませんが、手軽な小さい鳥居の奉納も受け付けておられます。
奉拝所の裏手にある「おもかる石」灯篭の上の石を持ち上げ、予想の重たさより軽く感じたら願い事が叶うといわれてお
り、重く感じれば叶わないということになります。
奉拝所より更に鳥居が続きます。
稲荷山には、無数の石碑(その数、一万基、あるいはそれ以上とも言われる)が存在し、「お塚」と呼ばれております。
各石碑には「白狐大神」や「白龍大神」などといった神名が記されており、参拝者の中には、石碑の前にひざまづいて
「般若心経」や「稲荷心経」などを唱えている人もおられ、日本で神仏分離が行われる前の信仰(→神仏習合)が今でも
保たれているのを見ることができます。
熊鷹社の裏手に広がる新池 朱の玉垣の向こうに緑の山影を映す池は新池、谺ケ池(こだまがいけ)との別称がありま
す。行方知れずになった人の居場所を探す時、池に向かって手を打ち、こだまが返ってきた方向に手がかりがつかめると
云う言い伝えがあります。
池に突き出た石積みに拝所が設けられ、熊鷹大神(火焚祭11月17日)の御塚が鎮まっています。
熊鷹社
途中にある茶店 大正初期の時計だそうです。
あと一息で見晴らしの良い四つ辻に出ます。
前方に、伏見区から南区、向うの山は西山で麓に洛西ニュータウンが広がっております。
地図にありますようにまだまだ先は続いておりますが、時間の関係で茶店で休憩して帰路につきます。次回は是非すべ
て回りたいと思います。 この鳥居は時計回りのルートの入り口です。
茶店のあるほうは、左回りの入り口です。
とりあえず、稲荷山できつねうどんです。 稲荷寿司ももちろんありました。
帰り道の鳥居には、奉納された方の会社名、住所、年月日が刻まれております。住所を見ておりますと関西を中心に全
国の方が奉納されておられました。
三の辻まで戻ったところで、奥宮方面に戻らずに別ルートで戻って行きました。
朱色の世界から、景色が一変しとても新鮮に感じられました。
八島池に流れ込む川に架かる十石橋
十石橋を渡り、玉山稲荷の手前で境内で初めて狛犬を発見いました。
玉山稲荷と納札所の前に向うから、長者社・荷田社・末社五産・両宮社と四社が並んでおります。
四社の手前の縁起物を扱う露店
神棚や神具・商売繁盛の熊手や箕を扱っているお店です。
不景気なご時勢、思わず神頼みしたくなる方も多数居られると思います。 この日から十日恵比寿が12日まで開かれま
すので、後日神頼みのはしごをしてまいります。 もちろん祇園の地元の八坂さんにも参ります。
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