京の四季 名勝散策 写真集

京都の観光、散策の参考にしていただければ幸いに思います。

祇園新橋 3月26日の桜状況

2010年03月27日 | 祇園街
           連休明けの火曜日から続いた雨もようやく上がり、この日は久しぶりの青空が見えました。出勤前に新橋の様子を見て
           まいりました。








           
           川端通りから入った所の染井吉野は、まだ三分咲きといったところです。





                     
                     白川に掛かるこぶしは、一部を残して散っておりました。







           
           縄手の橋から







           
           新橋通りは、桜の期間中縄手、花見小路間が歩行者専用になります。







           








           








                     
                     たん熊の先輩の祇園・琢磨の前の枝垂れ桜は満開になっておりました。







           








           








                     








           








           
           昨日の時点では、上の写真の枝垂れとこの歌碑の横の二本だけが満開に近い状態でした。







           
           昭和30年、吉井 勇、谷崎潤一郎らによって建立された歌碑で、歌碑に刻まれている歌は、吉井勇の作で「かにかくに 
           祇園はこひし寝(ぬ)るときも 枕のしたを水のながるる」です。この歌は、祇園の思いを詠んだもので石川啄木らと編集を
           担当した「スバル」という雑誌にて他の祇園を詠んだ歌とともに発表されております。





                     








           
           巽神社前は、ちらほら咲き始めです。







                     








           








                      








                           








                             




           





コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

東山七条 総本山 智積院 03/19/2010 

2010年03月22日 | 洛東 東山 清水寺方面

           東山七条に位置する智積院(ちしゃくいん)は真言宗智山派の総本山であり、成田山新勝寺、川崎大師平間寺、高尾山
           薬王院の大本山をなどを別格本山として全国に3000余りの寺院教会を擁し、檀信徒の信仰のよりどころとして総菩提
           所、総祈願所と位置付けられています。






           
           真言宗の宗祖(しゅうそ)である弘法大師空海が高野山でご入定(にゅうじょう)されたのは、承和2年(835)3月21日でした。
           それからおよそ260年たって、「中興の祖」とあがめられている興教大師(こうぎょうだいし)覚鑁(かくばん)が、荒廃した高
           野山の復興と真言宗の教学の振興におおいに活躍され、保延6年(1140)に、修行の場を高野山から、同じ和歌山県内の
           根来山(ねごろさん)へと移し、ここを真言宗の根本道場としました。 しかし、2年後の康治2年(1143)12月12日、興教
           大師覚鑁は、多くの弟子が見守る中、49才の生涯を閉じられました。







                     
                     正面の金堂への参道の左手(北側)に講堂と庭園拝観のための参道がもう一本あります。







           

                         









           
           興教大師のもと、高野山から大伝法院を根来山へ移し、これにより、根来山は、学問の面でもおおいに栄え最盛時には、
           2900もの坊舎と、約6000人の学僧を擁するようになりました。智積院は、その数多く建てられた塔頭(たっちゅう)寺院
           のなかの学頭寺院でした。





           
           しかし、同時に、巨大な勢力をもつに至ったため、豊臣秀吉と対立することとなり、天正13年(1585)、秀吉の軍勢により、
           根来山内の堂塔のほとんどが灰燼に帰してしまいました。その時、智積院の住職であった玄宥(げんゆう)僧正は、難を
           京都に逃れ、苦心のすえ、豊臣秀吉が亡くなった慶長3年(1598)に、智積院の再興の第一歩を洛北にしるしました。





           
           その後、慶長6年(1601)、徳川家康公の恩命により、玄宥僧正に東山の豊国神社境内の坊舎と土地が与えられ、名実
           ともに智積院が再興されました。その後、秀吉公が、若くして亡くなった長男鶴松の菩提を弔うために建立した祥雲禅寺
           を拝領し、さらに境内伽藍が拡充されました。再興された智積院の正式の名称は、「五百佛山(いおぶさん)根来寺智積院」
           といいます。




           
           こうして智積院は、弘法大師から脈々と伝わってきた真言教学の正統な学風を伝える寺院となるとともに、江戸時代前期
           には運敞(うんしょう)僧正が宗学をきわめ、智山教学を確立しました。








           
           講堂・大書院入り口








           
           講堂(方丈殿)は、平成7年に興教大師850年御遠忌記念事業といて再建されたものです。







           









           
           講堂はかつて方丈と呼ばれていて、玄宥僧正が現在の京都東山の地に智積院を再興した折りに、徳川家康公より寄贈
           された祥雲寺の法堂が基になっています。この祥雲寺ゆかりの建物自体は、天和2年(1682)7月に焼失しました。






                     

                         









           









           









           
           大書院








           
           「利休好みの庭」と伝えられるこの庭園は、豊臣秀吉公が建立した祥雲禅寺(しょううんぜんじ・智積院の前身のお寺)時
           代に原形が造られました。その後、智積院になってからは、第七世運敞(うんしょう)僧正が修復し、東山随一の庭と言わ
           れるようになります。




           
           築山・泉水庭の先駆をなした貴重な遺産といわれ、中国の盧山を象って土地の高低を利用して築山を造り、その前面に
           池を掘るとともに、山の中腹や山裾に石組みを配して変化を付けています。






           
           大書院はこの庭園に面して建ち、平安期の寝殿造りの釣殿のように、庭園の池が書院の縁の下に入り込んでいます。







           









           
           書院の西側の大玄関 山門の向こう側に七条通りが西に延びております。







           

           








                       
                       大玄関の鴨居のあちこちで見られる六葉型の「釘隠し金具」








           
           講堂西側庭園








           









           
           講堂正面の廊下








                     
                     講堂・大書院拝観の出入り口門








           









           









           
           金堂 総本山智積院の中心的な建物であり、金堂と呼ばれています。宗祖弘法大師のご生誕千二百年の記念事業とし
           て昭和50年に建設され、堂内には昭和の祈りを込めた本尊大日如来の尊像が安置されています。毎朝の勤行、総本山
           としての多くの法要はここで厳修されます。





           









           









                     

                          









                     
                     金堂前の白木蓮がまもなく満開を迎えます。木蓮は世界最古の花木だそうです。









           
           玄有僧正像の金堂寄りにある仏足石








           
           金堂前に建つ戦没者慰霊碑








           









                     
                     以前の金堂は、元禄14年(1701)3月智積院第10世専戒僧正が発願し、 桂昌院(徳川5
                     代将軍綱吉の生母)より与えられた金千両を基に学侶からの寄付金を資金として、宝永2
                     年(1705)春に建立されたそうですが、明治15年(1882)に火災により焼失しました。





           









           









           
           参道左手の鐘楼越しに京都タワーが見えております。








                     
                     明王殿の御本尊は不動明王様で、不動堂とも呼ばれます。昭和22年(1947)の火災により
                     本堂が焼失した際に、本堂再建のため、京都四条寺町にある浄土宗の名刹、大雲院の本
                     堂の譲渡を受け、現在の講堂のある場所に移築した建物です。




           
           その後、平成2年(1990)12月に、講堂再建にともなって現在の場所に移築されております。







           
           左手が金堂です。








           










コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

東山 今熊野観音寺 03/12/2010

2010年03月19日 | 洛南 東山 東福寺方面
           今熊野観音寺は、弘仁年間(825年頃)に弘法大師が熊野権現の化身から観音霊地の霊示を受け、嵯峨天皇の勅願に
           より観音像を刻んで本尊とし草堂に安置したのが当寺の創始といわれております。 また、854~857年に左大臣藤原
           緒嗣が伽藍を造営したとも伝えられています。
           後に、後白河法皇は本尊を深く信仰し、霊験により持病の頭痛が平癒したのをきっかけに、本寺に「新那智山・今熊野」
           の名称を与えられ、以来、頭痛、中風、厄除けの観音として繁栄してきたといわれております。

           現在、この観音寺は泉涌寺の塔頭になっておりますが、応仁の乱以前は泉涌寺をしのぐ大寺だったと云われております。
           1234年に後白河上皇を当寺に葬るなど、歴代朝廷の崇敬をあつめております





           
           今熊野観音寺は、泉涌寺の参道上ってきますと三叉路に当たります。その左側の道を下ると朱塗りの「鳥居橋」が見え
           てきます。







           
           観音寺には、どの寺院でも見られる山門は見当たりませんでした。








           








           








                     
                     階段を上りきったところに建つ「子まもり大師」像。大師像の周りには、四国八十八箇所の
                     砂がひいてあり「南無大師遍照金剛」と唱えながら廻るそうです。





           
           弘法大師作の御本尊の十一面観音像が祀られている本堂。本堂の屋根は二重屋根になっており印象的です。






                     








           








           
           本堂の右手にある、弘法大師を祀る大師堂。








                     
                     本堂前に一本だけ彩を添えている梅がありました。







           








           








           








           








                     
                     観音寺は「頭の観音」といわれているように、「ぼけ封じ祈願」の寺としてよく知られており、
                     大師堂の前には「ぼけ封じ観音」が建っております。本堂の左手には「ぼけ封じ」に関する
                     グッズが販売されております。




           








           








           
           大師堂の南側にある稲荷社と熊野権現社。 この一角だけモノトーンの世界からカラーの世界に入ったような新鮮さを感
           じました。





           
           稲荷社の前の鐘楼








           










コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

京都陶工高等技術専門学校 作品展 03/12/2010

2010年03月17日 | 京都歳時記
           3月12日の内覧会に行ってきました。 この学校は、京都の伝統産業である京焼・清水焼の後継者を育成するため京都
           府が設置している職業能力開発施設です。 以前は、京都府下在住の人を対象にされておりましたが、現在では全国か
           ら生徒が集まってきております。





           
           卒業のイベントという意味もありあでやかな飾りが施されておりました。







           
           生徒の作品展示場は二階にあり、入り口の両サイドには、現在活躍中の卒業生の作品が展示されております。     





           
           中央のロの字の作品は、一年目の成形科の生徒のものです。成形科は主に陶器と呼ばれる土物を一年間勉強します。





           
           壁側にコの字形の展示スペースは、右手から図案科の生徒の作品です。 美術学校などで絵を勉強してきた方が多く
           さすがと思わせる作品が並んでおります。






                     
                     この金子さんは、私の店でアルバイトをしてくれた生徒で、図案科なので1年間お世話にな
                     りました。彼女の絵を見るのは初めてでしたが、自信作が出来る様になったら持って来るよ
                     うに言い聞かせておきました。






                     
                     図案科の方の作品は、どれもすばらしい物ばかりでした。






           







                     







                     
                     ここまでの写真が、図案科の生徒さんの作品です。






           
           この瀬楽さんも2年間来てもらってた生徒さんで、二年目は研究科と言い磁器と呼ばれる石物を勉強しているクラスです。







           
           この生徒さんも今年から、アルバイトに来ていただいております。以下は、成形科の方の作品です。           





          








           








           
           この日は、内覧会と言うことで、生徒さんのご家族や関係者の方だけが来られておりました。






           
           こちらの部屋は、同じ二階にあるろくろの実習室で生徒さんによるデモンストレーションが行われておりました。
           練った土を回転している円盤の中心に持っていく作業をされておりましたが、慣れた人がやってると簡単そうに見えました
           が、慣れるまで大変そうに思えました。胡坐をかいて作業をするのは、京都のスタイルだそうです。





           
           デモンストレーションとは言え、講師の先生の指導が入っておりました。先生は皆さんプロの陶芸家の方たちばかりです
           ので、注意すべき点を見つけると、すかさず指導が入ります。先生からすれば、生徒はまだ生まれたてのヒヨコですから
           仕方ありませんね。







                         
           








                         
           








           
           二階部分の中庭、右手が実習室。 即売会場は3階になっております。







           
           この部屋は、図案科の生徒の作品が並んでおります。






                     







                     







                     







           
           成形科と研究科の作品は、隣の部屋で販売されておりますが、即売会は14日だけになりますので見るだけで帰ってき
           ました。






           








           
           今年度も定員一杯の生徒さんが入学されるそうで、次の時代を背負う方々にどんどん羽ばたいて行ってもらいたいと思い
           ます。








コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

京都東山 花灯路  夜間拝観情報

2010年03月14日 | 洛東 東山 清水寺方面

                     今年も春の花灯路が13日から始まります。それに合わせて周辺寺院もライトアップを
                     なさいます。例年多数の方で賑わうイベントも知名度も上がり定着してまいりました。
                     お帰りの際には祇園にもお立ち寄り頂ければありがたいのですが、皆さんまだ財布の
                     紐が固いようです。

                     期間3月13日(土)~22日(月) 18:00~21:30




                     








                       







                     







                     







                      
                     4月1日からは祇園甲部の都をどりも始まり桜の開花に伴い春満開になって参ります。







           















コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

東山 泉涌寺別院 雲龍院 03/03/2010

2010年03月14日 | 洛南 東山 東福寺方面
           泉涌寺(せんにゅうじ)は、東山の南の端に位置し弘法大師(空海)が天長年間(824年-834年)に、この地に草創した
           法輪寺が起源であり、855年藤原緒嗣によって再興され、仙遊寺と改めたとされております。
           その後、鎌倉時代の1218年、荒廃していた仙遊寺を俊芿(しゅんじょう)に寄進、俊芿は多くの人々の寄付を得てこの地
           に大伽藍を造営し、霊泉が湧いたので、寺号を泉涌寺としたといわれております。
           俊芿(1166-1227)とは肥後国(熊本県)出身の学僧で、正治元年(1199年)宋に渡り、足かけ13年の滞在で天台と律
           を学び、建暦元年(1211年)日本へ帰国した僧のことです。
           1224年には後堀河天皇により皇室の祈願寺と定められ後堀河天皇と次代の四条天皇の陵墓は泉涌寺内に築かれてお
           り、この頃から皇室との結びつきが強まり、江戸時代には後水尾天皇以下、幕末の孝明天皇に至る歴代天皇が山内に
           葬られております。このため、皇室の香華院(こうげいん)となり、「御寺(みてら)」と尊称されております。(「香華院」とは、
           香をたき、花を供える場所、すなわち、先祖が眠る寺の意だそうです。)





                     
                     本日は、泉涌寺の塔頭・雲龍院に伺いました。広大な境内ですが、雲龍院の前まで車で
                     行くことが出来助かりました。雲龍院は案内図の上部仏殿の右上にあります。








           
           雲龍院の白壁








           
           手前、山門と奥の勅使門








           
           泉涌寺別院 別格本山 雲龍院 本坊南の高所に位置する別院雲龍院は、1372年後光厳院(ごこうごん)の思召しに
           よって、竹巌聖皐(しょうこう)が開いた寺で、皇子・後円融院はここに如法写経の儀を興そうと寺領を寄せられました。
           また後小松、称光の両天皇もこの寺を崇敬され、四天皇崩御の後は後山に御分骨所が営まれ、北朝歴代の御尊牌が
           霊明殿に奉安されており、古くから写経道場として修行の場とされております。








           









           
           山門を入りますと、正面に庫裏が見えます。








           
           石畳左手の観音像








                     
                     梅の花を目当てに伺いましたが、最初に早咲きの寒桜が開花しておりました。








           








           
           鐘楼前の白梅ですが、少し時期が遅かったみたいで一部しか残っておりませんでした。








           
           庫裏の前の紅梅ですが、こちらは時期が早くまだ開花前の蕾の状態でした。








                     
                     庫裏を右手に折れますと玄関があります。








                     
                     玄関の柱に掲げられている木版
                     「生死事大・・」の言葉は修行道場の木版に書かれている語句です。 生死事大(しょうじ
                     じだい)無常迅速(むじょうじんそく)各宜醒覚(かくぎせいかく)慎勿放逸(しんもつほういつ)
                     と書かれています。その意味は「生死は仏の一大事、時は無常に迅速に過ぎ去っていくか
                     ら、各人はこのことに目覚めて、弁道精進につとめ、無為に過ごしてはいけない」。叩いて
                     合図をするだけではなく、その音声で心をも目覚めさせようとの意味が込められています。








           
           玄関で拝観受付を(300円)済ませ本堂の龍華殿に向います。








                     









           
           玄関正面の雲龍図








           
           雲龍図の右手の書院から庭園の眺め








           
           玄関右手、霊明殿との間にある中庭








           
           本殿の龍華殿(りゅうげでん)と勅旨門 








           









           
           山門から入ってきたところの鐘楼







           
           御本尊に薬師如来を祀り両脇に日光・月光の両菩薩が立っております。 鎌倉時代の作です。 








           
           龍華殿の右奥に位置する霊明殿は皇室の御尊牌を奉安されているところです。








           
           霊明殿の裏側(東側)の客殿








           
           客殿からは、書院に続く庭園がひろがっております。








           
           庭園の向うに悟りの窓がある書院が見えます。








                     
                     客殿の屏風図 








           









           









           
           庭園の楓は、新緑や紅葉の季節にもう一度見にきたいですね。








           









                     
                     庭園の北側に位置する書院にある悟りの窓








           









           









           
           右手の建物が、客殿です。







                                 
                                 書院から庫裏に戻り台所に「走り大黒天」があります。
                                 左足を一歩踏み出した姿ですが、1日でも一刻でも早
                                 く衆生に福を授けに来ようと走っている姿を表している
                                 そうです。顔は少し険しいですが、気合が入っているの
                                 でしょう。








           
           この日は、これで帰りましたが、下の写真からは12日にもう一度伺い紅梅の写真を撮ってまいりました。







                     
                     寒桜の方は、蕾が開花して新緑の葉っぱも芽吹いておりました。








           









           
           庫裏の前のはねずの梅は、蕾のときは赤紅色でしたが、咲いてみると綺麗な桃色をしておりました。 のはねずの梅は
           小野小町ゆかりの山科の随心院が有名で今見頃を迎えております。









           
           12日現在でまだ満開になっていなかったので、もう暫く見頃が続くと思われます。 車で行くと簡単なのですが、徒歩の
           方は泉涌寺から少し登りになりますが、是非訪れてみてください。








           









           









           
           泉涌寺への帰り道です。















コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

城南宮神苑 枝垂れ梅  03/03/2010

2010年03月10日 | 洛南 

           平安遷都の際、都の南に国の守護神として創建された城南宮は、国土守護の国常立尊(くにのとこたちのみこと)、
           武勇に秀でた八代矛神(やちほこのかみ)、安産と育児の神様でもある息長帯比売命(おきながたらしひめのにこと)
           (神功皇后)をお祀りされております。
           平安時代の末、交通の要衝でもあり、風光明媚なこの地に白河上皇が壮大な離宮を造営して院政を開始されると、
           歌会や宴、船遊び競馬(うまくらべ)がしばしば行われ、王朝文化が華麗に花開きました。
    
           また熊野詣でに先立ち、道中の安全を祈って城南離宮で身を清めて出発する慣わしとなり、方角の災いを除く
           方除(ほうよけ)・旅行安全の信仰がたかまり、旅行・運送会社や車を使う事業所などはお祓いに訪れております。






           
           神苑は、境内を囲む形で、西側(境内左側)の春の山北側を抜け、東側の平安の庭、道路を挟み南側の庭園へと廻って
           行きます。







                     
                     鳥居をくぐり境内の中央に拝殿があります。神苑への入り口は、鳥居の左手にありますが、
                     まずは御参りを済ませてから回ります。







           
           本殿手前にある、前殿、左右に伸びる翼廊が一体となった社殿は、城南宮独特の複合建築で総檜造りです。
           檜皮葺の屋根をはじめ、飾り金具の細部に至るまで平安時代後期の様式に統一され優美な姿を見せています。
           祈祷を申し込みますとこの前殿で行われます。右手には神楽殿があり、平安の庭に臨んで建つ寝殿造りの神楽殿では、
           結婚式や特別祈祷が行われます。








                     








           
           拝殿







             
           三月三日に伺いましたが、その前の週が天気が悪く雨風が強かったため花びらが、相当散っており昨年に比べ華やかさ
           に欠けておりました。毎年二月の下旬頃がベストのようでした。








           
           禊の小川が流れる春の山。  約150本の枝垂れ梅が咲き誇り、周辺には数十種類の椿が彩りを添えております。







                      








           








           









           









           









           









            









           









            









           









           
           春の山を見終え竹薮を抜けると本殿の北側を回り神楽殿東側の平安の庭に抜けます。








           









                     
                     平安の庭、池が中心のお庭で綺麗な水が小川を通り流れ出ております。









            
           昨年、造成された池に流れ込む小川。








                      
                     曲水の宴が催される庭園








           
           神苑北側の庭園はここで一度終了して通路を挟み南側の神苑に入場します。








                     
                     ここからが南側の庭園(室町の庭)となり池を望む楽水軒茶室では、お抹茶もいただけます。
                     室町の庭は、池泉廻遊式の庭園で、季節ごとに紅枝垂れ桜、舟着き場の藤の花、色とりど
                     りのつつじを楽しむことが出来ます。                      








           
           楽水軒茶室前の五葉松








           









           
           透明度が非常に高い池の中を何十匹もの錦鯉が優雅に泳いでおります。








           
           南側庭園の南半分は、桃山の庭と呼ばれ大きな刈り込みの前に芝生が広がる明るい庭園で、安土・桃山時代の豪壮な
           気風を映しています。








            
           楽水軒茶室前の紅白の梅の向うには、北側庭園に面した唐渡天満宮の鳥居が見えております。








           









                     
                     四月の開花を待つ紅枝垂れ桜








                      
                     池の西の端には、船着場があり藤の花の見頃は五月頃となります。








                     
                     庭園の南端を流れる小川には、杜若が新芽を出しております。杜若も五月頃見頃を迎える
                     と思います。








           
           城南離宮の庭 杜若の小路に続く枯山水の庭園で城南の地が最も華やかであった離宮時代の風景を表しております。








           









            
           離宮の庭を最後に、庭園の散策を終え、出口を出ますと、芹川神社(唐渡天満宮)があります。







           
           菅原道真公を祀る唐渡天満宮は、平安末期(1110年)現在地の南方1キロの芹川荘に創建されましたが、明治45年、
           付近一帯の鎮守社である城南宮の境内社に合弁遷座されました。






            








                   








  

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

東山七条 法住寺 吊り雛展 03/02/2010

2010年03月07日 | 洛東 東山 清水寺方面

           法住寺は、東山七条の三十三間堂の東隣にあり天台宗の寺院です。平安時代中期に藤原為光によって創設され、その
           後院政期にはこの寺を中心に後白河上皇の宮廷「法住寺殿」がいとなまれました。法住寺殿が木曾義仲によって焼き討
           ちされ、数年を経て後白河上皇もなくなると、法住寺は後白河上皇の御陵をまもる寺として江戸時代末期まで存続、明治
           期に御陵と寺が分離され現在にいたっております。










           
           山門南側の竜宮門 手前の紅梅が見頃を向えております。







           
           3月2日に伺いましたら、ちょうど吊り雛展が催されておりました。





                          








           
           山門を入り正面の書院玄関、ここで吊り雛展が催されております。







           
           山門横の枝垂れ梅







           
           阿弥陀堂と白梅が満開でした。







           








           








           
           御本尊の身代り不動明王が祀られている本堂。『身代不動明王(みがわりふどうみょうおう)』像は、平安期の作風とされ、
           この不動像は寺伝では慈覚大師が造立したといわれ、後白河上皇の信仰も篤かったものです。義仲の放火のさいに、
           上皇の身代わりとなったと伝えられており、現在も毎年11月15日には不動会(ふどうえ)がいとなまれております。







                     
                     護摩供養が行われる時は、この石庭のところで護摩焚きが行われるそうです。







           








           








           








                     








           








           










           








           
           書院玄関を入りますと中国の翡翠の彫刻がなされた衝立が迎えてくれます。







           








                     
                     最初の部屋には、七段飾りの雛壇と、天井からは伊豆・稲取地方の吊り雛がさがっており
                     ます。







           
           二部屋目は、仏壇の前に洋人形が並んでおります。







           








           








           








           
           奥の間には、二人雛や貝合せ吊り雛などあでやかな飾り付けがなされておりました。







                     
                     伊豆稲取が発祥の吊り雛は、江戸時代から伝わる風習で、土地の方が一つ一つに願いを
                     込め手作りされるそうです。
                     下がっている一つ一つが縁起物で、ももは邪気を払い延命長寿、猿は厄や災いが去る、這
                     い子人形は健やかな成長、巾着はお金が集り、うさぎは赤い目には呪力があり病気を治し
                     神様のお使いとも云われ、ほおずきは女性のお守りで安産や薬効の意味があり、羽子板は
                     厄を飛ばし、俵ねずみ・ねずみは金運・霊力があり大黒様のお使いで多産でマメな働き者に
                     なるようにと、すべての物に願いがこもっており、親から子へ子から孫へと受け継がれてゆき
                     ます。
            



           








                     
           この日、伺いました時にみえてたお客さんの中に、お雛様の並べ方にとても詳しい方が居られ位置が間違っている箇所を
           お寺の方に説明されておられました。横で聞かせていただきなるほどなと感心してしまいました。
           最初の頃は(明治以前)「男雛が左、その右手側に女雛」でした。
           論語に「天子南面」という言葉がありますが、これは皇帝などの偉人は南に向いて座り、北面は臣従することを意味してい
           ます。また、南に向いたときに日の出の方角(東。つまり左手側)が上座で、日没の方向(西。つまり右手側)が下座とされ
           ていました。

           この考え方は雛人形にも当てはまり、本来は「男雛が左、その右手側に女雛」を飾ることが当然でした。ちなみに、この「日
           の出=東=左優位」の考えは、「左大臣と右大臣では左大臣のほうが上位」、「今日の地図では東=右、西=左なのに、
           京都では(御所を中心として南側を向いて座ると)東=左京、西=右京である」など、古代日本には沢山の例があります。

           しかし現在では、雛人形売り場を見てみると、そのほとんどが「男雛が右、その左手側に女雛」。当初とは逆の配置になっ
           ております。それは、プロトコール(国際儀礼)が右上位だったため、昭和天皇の即位の礼が催されたときに、プロトコールに
           従い「天皇が右、その左手側に皇后」が並ばれたことからきています。また、かつて掲げられていた御真影(天皇皇后両陛
           下のお写真)もプロトコールに従った並び方だったため、関東の雛人形業界では、それまでとは反対の並び方にしたのです。

           尚、全国一律に変わってしまったわけではありません。現在でも、伝統を重んじる京都では、本来の「男雛が左、その右手
           側に女雛」とするところが多く見られます。

           ちなみに、五人囃子は向って左側から音の大きい楽器を持った方から並ぶそうで、太鼓・おお皮・鼓・笛の順らしいです。






           
           書院と阿弥陀堂の間にある中庭で、手前の枝が槙で向うが松です。







           
           阿弥陀堂への渡り廊下と東庭。




   

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

城南宮神苑 3日の様子

2010年03月04日 | 洛南 

           神苑の梅は、先週の風や雨にさらされ例年より早く花びらが散っております。
           行かれるご予定の有る方は一日でも早く行かれる事をお勧めします。
 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

梅津 梅宮大社 梅だより 02/27/2010

2010年03月02日 | 洛中 
        梅宮大社は、右京区梅津段町を嵐山方面にしばらく行き四条通りを北に入った所にあります。
        その昔、穀物を以て酒を醸造した始まりの地であり、酒造の祖神として崇められております。その他にも授子の神(血脈
        相続の守護神)・またげ石を跨げば子宝に恵まれる石があったり、安産の守護神・縁結びの神・学業の神・音楽芸能の
        神などと、いろんな願いを聞いていただけるそうです。随時祈祷も受け付けておられます。





        
        楼門の手前を流れる小川です。梅も見ごろで、京都新聞の梅便りでは満開の表示になっております。







        








        
        







        
        境内の中央に位置する拝殿。「拝殿」「楼門」共に文政11年(1828)年に造営されたものといわれております。







        
        楼門をくぐり左手にある手水場と隣には楼門に入りきらない酒樽が奉納されておりおります、松尾大社と同じくお酒に関
        係のある方々の信仰の深さを感じます。







        
        拝殿の北側の本殿







        
        本殿前の紅梅







        








        








        
        「拝殿」の東側にある「神饌所」の前のお百度石と白梅






                  








         
        神苑入り口の白梅の大木








         
        神苑入り口








         









         









        









        








        
        神苑は、本殿をコの字型に囲むような形で配置されており、東・北・西と三つのエリアに分かれております。まず入ったと
        ころの東神苑は、池泉廻遊式庭園になっております。 さくや池の二つの浮島のひとつに池中亭茶室があります。 
        梅津の地には昔、王公貴紳山荘が多く造られたところで、池中亭は梅津の里に芦のまろやとして今に残る唯一の風雅な
        景色です。        



        
        池中亭茶室







        








                  
                  浮島に渡る石橋







                  
                  楼門







        








        








        








        








        








        
        池中亭茶室







        








        








        
        本殿の北側に位置する勾玉池(まがたま)五月から六月にかけて杜若や菖蒲が咲き誇ります。池の周りにはアジサイも
        いろんな種類が植えられております。







        








        








        








        








        
        勾玉池から西苑に周り神苑の最後にある梅林で出口になります。







        
        本殿前に出る帰り道です。







                  
                  あと何日かは、満開の梅を見ることが出来ると思います。








コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする