京の四季 名勝散策 写真集

京都の観光、散策の参考にしていただければ幸いに思います。

京都雪景色 大徳寺 織田信長公墓所 総見院 1/17/2011

2011年01月30日 | 洛北 中部 大徳寺方面

  

  大徳寺の続きです。大仙院のさらに北側の芳春院に向かいますが、こちらも拝観はなされておりませんので、玄関までとなります。










  









  









  









  









  
  芳春院から宗務本所まで戻ります。時間も11時近くになってまいりましたので雪もだいぶ緩んで溶けてきました。








  
  宗務本所の屋根です。








  
  宗務本所の前から西に進みます。 右手に特別公開中の織田信長菩提寺の総見院あります、いつもは拝観できず1月8日から3月21日まで「京の
  冬の旅」の特別企画が行われておりますので、伺うことにしました。






  
  総見院の前に建つ鐘楼








  
  総見院は、本能寺の変で亡くなった織田信長の菩提を弔うため豊臣秀吉が建立した寺院で、天正10年(1582)、秀吉が主君信長の冥福を祈るために
  古渓宗陳(こけいそうちん)和尚を開祖として創建いたしました。信長の葬儀はここで盛大に行なわれ、墓地には、信長以下一族の墓が建ち並んでお
  ります。








  
  表門と周囲の土塀は、創建当時のものといわれており土塀は、塀の中に塀があるという珍しい二重構造の塀で「親子塀」と説明されております。







                     









  
  本堂前  総見院は明治維新の時、旧建物を壊して禅僧の修禅道場として一時期は禅堂もあったといわれており、禅道場は龍翔寺に移されましたが、
  それまで大徳寺管長の住まいとして使用されていたため隠寮と呼ばれていたといいます。また、豊臣秀吉が催した「大徳寺大茶会」は、ここ総見院で
  開催されたと伝えられております。









  
  本堂の内陣正面中央に木像織田信長座像が安置されており、公開期間中は、立命館の歴史サークルの学生さんが、来られるお客さんそれぞれに付
  き境内を案内してくださり、大まかな総見院の歴史が理解することができました。








                   
                   本堂に安置されている、信長公の木像 秀吉が、大徳寺に総見院(信長公の法名)を創建するに
                   あたり、遺灰が別の寺院に埋葬されていたため信長の等身大の木像を二体作りそのうち一体を火
                   葬にして、一体を寺に安置したといわれております。






  
  総見院前の鐘楼 創建当時のものとされ信長の家臣寄贈の梵鐘が架かっております。








  
  信長の葬儀は同寺で盛大に行なわれ、境内墓地には信長・信忠の墓や家臣の供養墓もありますが、葬儀に当たって豊臣秀吉と阿弥陀寺の住職・
  清玉(せいぎょく)上人との間に一悶着あったことは有名な話として伝わっております。
  阿弥陀寺の清玉上人は、お世話になってきた信長が本能寺で襲われたとの知らせをうけ、いち早く本能寺へ駆けつけ信長の遺骨(灰)を阿弥陀寺へ
  持ち帰り境内に埋葬いたしました。このことが秀吉の知ることなり、秀吉は阿弥陀寺の清玉上人に対して信長の一周忌にあたり喪主として盛大な葬儀
  ・法要を執り行いたいと懇願いたしましたが、清玉上人からは相当の法事は既に執り行っていると断わられてしまいました。








  
  しかし秀吉は、法事料としての三百石の朱印と永代墓所供養のための寺領を与えるからとも申し出ましたが、これにも上人は辞退したといわれており
  ます。上人は、秀吉の本心は一周忌を自分自身の宣伝のために利用しようとしている、次期政権を継ぐ狙いと感じて断ったと思われております。 
  そこで秀吉は、木像を二体作りそのうち一体を火葬にして、一体を寺に安置したという話につながります。 そういった流れからいたしますと総見院の
  墓は、信長公の供養塔といった意味合いが強いものになります。

  総見院には、三つの茶室があり、本堂のすぐ裏手(北側)にあるのが、表千家の即中斎好みの香雲軒(こうせつけん)です。







  
  その後、清玉上人に恥をかかされた形の秀吉がこのまま大人しく黙っているはずが無く、天正15年(1587)に実施した都市改革令で、蓮台野(大宮今
  出川)にあった阿弥陀寺を寺町通へ移し、その時に広大な寺領は大幅に削減されたといわれております。


  香雲軒の北側にさらにあと二つの茶室が廊下で続きます。 廊下の中央の上部には、信長公の木像を運んだと云えられる輿が置かれております。







  
  香雲軒の北隣の ほう庵








  
  廊下の突き当たりの左手には三つ目の茶室壽庵があります。






  









                       
                       壽庵の前の井戸には、珍しい織部の陶器で作られた滑車が使われております。








                     
                     井戸の左手(南側)に佇む燈籠は、真四角であまり見かけない形をしております。








  








  
  茶室 壽庵の桐紋の襖は、織田家の家紋の一つです。 現代では一般的に、家紋は一家に一つですが、戦国時代には家紋をあげたり貰ったりする事
  も多く、いくつも家紋を持っておりその一つが、足利義昭から拝領した家紋です。元々桐紋は皇室の家紋と言われておりますが、これを足利氏が拝領し
  たもので、武家として名誉ある家紋といえます。







  









  









  
  茶室に通じる廊下の東側は、千利休を祀る聚光院になります。 聚光院は室町幕府の戦国大名三好長慶の菩提を弔うため養子の義嗣が1566年に
  笑嶺宗訢(大徳寺107世)を開山に迎えて開創された寺院です。 笑嶺禅師に参禅した千利休は檀越となり、利休の菩提寺になり墓所となりました。
  それ以降、茶道三千家(表千家、裏千家、武者小路千家)の菩提寺となっております。





  
  








  
  香雲軒








                     
                     本堂裏を通り西側に回りますと、加藤清正が朝鮮から持ち帰った石で造られた、掘り抜き
                     井戸があります。物資を降ろした後、軽くなった船の安定を図るために持ち帰ったと伝わり
                     ます。井戸水は現在も使われており、この水を使って仏前にお茶が供えられるそうです。

   





                       
                       井戸の深さは、13mと聞いたような気がします?が、そんなに深くはなさそうですね。                     






  
  本堂西側に広がる墓所の入口にある侘助椿は、秀吉公の寄進といわれ樹齢4百年と云われております。 以前は、幹が今の数倍もあったと説明をう
  けました。







  









  
  総見院の西側三分の一を占める墓所の北の端に信長公一族の墓所があります。








  









  









  









  
  右側、正室 帰蝶(濃姫)の方と側室お鍋の方の墓石








  
  手前から三番目が信長公です。








  
  尚、総見院が拝観できるのは、3月21日までとなっておりますので、ご注意ください。併せて玉林院も特別公開なされておりますが、この日と2月7、
  16、28、3月7、16、20、21は拝観不可となっております。











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京都雪景色 大徳寺 龍源院から大仙院  1/17/2011

2011年01月28日 | 洛北 中部 大徳寺方面

  

  本日、三ヶ寺目になります大徳寺は、臨済宗大徳寺派の大本山で龍寶山(りゅうほうざん)と号します。鎌倉時代末期の正和4年(1315)に大燈国師
  宗峰妙超禅師が開創され、室町時代には応仁の乱で荒廃いたしましたが、一休和尚が復興いたしました。








  
  桃山時代には豊臣秀吉が織田信長の葬儀を営み、信長の菩提を弔うために総見院を建立、併せて寺領を寄進、それを契機に戦国武将の塔頭建立
  が相次ぎ隆盛を極めました。現在境内には、別院2ヶ寺、塔頭22ヶ寺が甍を連ねております。







  
  大徳寺の東側、旧大宮通に面した総門を入りますと、前方右手に勅使門と金毛閣と呼ばれる三門が見えます。







  
  勅使門は、後から回ることにして、勅使門の前の道を左に進み塔頭の龍源院に向かいます。 この参道を突き当たりますと、北大路通りに面した南門
  に出ます。






  
  勅使門の南側に位置します龍源院 龍源院は、大徳寺南派の本庵で、文亀2年(1502)大燈国師八世の法孫東渓宗牧を開山として、能登守護畠山
  義元が創建したものです。









  
  方丈・唐門・表門はいずれも創建当初の建物で、大徳寺山内最古の建物であり、禅宗方丈の典型的な形式を示しております。本尊釈迦如来像は建
  長2年(1250)行心の作と云われております。







  
  拝観入口の庫裡








                     
                     玄関には蠟梅が活けられておりました。








  
  玄関を入りすぐ左手に控えるあうんの石庭








                     









            









                     









  
  方丈庭園 庭園は各様式からなり、特に方丈北庭は室町時代相阿弥作と伝えられており須弥山式枯山水の名園です。







  
  方丈前庭「一枝坦(いっしだん)」は、庭の中央右よりの石組が蓬莱山を現し、右隅の石組が鶴島、雪で隠れておりますが、左の円い形の苔山が亀山
  になっております。白い砂は大海原を現しております。蓬莱山とは、仙人の住む不老長寿の吉祥の島のことを云います。









  
  方丈は、3部屋に襖で仕切られており東側の間になります。








  
  方丈襖絵 中央






  
  西側の間








  
  方丈西側にある開祖堂








  
  竜吟庭 方丈の北庭で室町時代特有の三尊石組から成る須弥山形式の枯山水庭園で、相阿弥の作と伝えられ、青々とした杉苔は、洋々と果てしな
  い大海原を現わし、石組が陸地を表しております。雪で隠れているところが杉苔になります。






                      
                      東滴壺  方丈の東にある有名な壺庭で、わが国では最も小さい庭と云われており
                      ます。 こちらの写真は、坪庭を北側から見たところです。







  
  申し訳ありませんが、説明文が、尻切れになってしまいました。








                      
                      こちらは、南側からです。








  
  龍源院をあとにして、勅使門から三門の方へと向かいます。 あうんの庭の西側です。








  
  勅使門の北側に位置する三門は、応仁の乱後、一休禅師の参徒連歌師宗長等が一階部分を寄進、のち千利休居士により二階部分が設けられ金毛
  閣と名付けられました。山門とは、龍宝山の門、三門とは、三解脱門(空門・無相門・無作門)のことと云われ意味を分かちます。
  また、二階部分が、千利休居士によって増築され、金毛閣と称し、利休居士の像を安置したことから秀吉の怒りをかい利休居士自決の原因となった話
  は有名です。





                         
                         三門の西側を通る参道 三門の北側に仏殿、法堂と続き突き当たりが、宗務本所と
                         大方丈になります。








  









  
  三門の、参道を挟んだ西側にある正授院 拝観はなされておりません。 山内で常時拝観できますのは、龍源院・大仙院・瑞峯院・高桐院の4ヶ寺に
  なります。






  
  三門の北側の仏殿は、当山第一世大現国師により創建されるも応仁の乱にて消失し、一休和尚等によって再建されるも、寛文5年(1665)那波常有に
  よって改めて建造されたものです。







  
  法堂をつなぐ廊下








  
  仏殿、西側








  









  
  法堂は、正中2年(1325)夏、宗印禅者を檀越として修造を始めるが、これまた応仁の兵乱によって消失し一休和尚が、仏殿を再建されて後、仏殿と兼
  用でありましたが、寛永13年(1636)、開山国師三百年遠諱に当たり、江月和尚の参徒、小田原城主稲葉丹後守正勝、正則父子により現在地に再建
  されました。 天井の龍の図は、狩野探幽35歳の筆によるものですが、公開はされておりません。







  
  







  
  法堂北側の宗務本所の屋根とその東側(右側)が大方丈です。 二年前に特別公開があり伺いましたが、入口でカメラを預けるほど厳重な規制がひ
  かれていたのが記憶に残っております。
  大方丈の方丈庭園南側には、唐門があり今は方丈前庭にありますが、明治の中頃までは勅使門の西にありました。 この唐門は、聚楽第の遺構と
  伝えられております。 聚楽第とは、秀吉が京都に造営した御殿で、後陽成天皇の行幸を仰ぎ天下にその威力を示しておりましたが、のちに関白を養
  子の秀次にゆずり、秀次の居宅になったいたところですが、秀次に謀反の罪をきせ断罪、聚楽第を破却いたしました時に、破却をまぬがれた門と伝え
  られております。







  
  宗務本所の西側の壁を北に進みますと、宗務本所の北側に大仙院、さらに北側に芳春院があります。








  
  一つ目の辻を東に曲がりますと左手に大仙院の門が見え突き当たりが真珠庵になります。







  
  突き当たりの真珠庵








  









  
  大仙院前の五葉松








  









  
  大仙院玄関 拝観は出来ますが、写真の撮影は禁止になっております。 永正6年(1509年)に大徳寺76世住職古岳宗亘(こがくそうこう、大聖国師)
  によって創建された塔頭で、現在22に及ぶ大徳寺塔頭中、北派本庵として最も尊重重視される名刹です。
  大仙院の三世古径和尚は、豊臣秀吉の怒りにふれ加茂の河原で梟首された千利休の首を山内に持ち帰り手厚く葬ったと云われており、また漬け物
  の「たくあん」を考案したとされる七世沢庵和尚が宮本武蔵に剣道の極意を教えた所としても有名です。








            
            方丈庭園は枯山水の庭となっておりますが、大仙院の庭は、こちらの東北にある枯滝組の庭が有名です。
            作者は開祖の古岳宗亘禅師と云われております。







  
  山門を出て帰り道です。 この後は、芳春院から織田信長の墓所がある特別公開中の総見院と回ります。
















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京都雪景色 龍安寺 1/17/2011

2011年01月27日 | 洛中 西部

  

  17日二件目は、龍安寺に行ってきました。坂道の多いこのエリアなるべく信号で止まらなくていいように徐行運転で行ってまいりました。 駐車場に
  入るスロープが心配でしたが、除雪がされており問題は起きませんでしたが、次回の雪降りのためにチェーンを買いに行くことにいたしました。










  
  龍安寺は、徳大寺家の別荘だったものを、宝徳2年(1450)管領 細川勝元が譲り受けて寺地として、妙心寺の義天玄承を開山として創建された寺院
  で臨済宗妙心寺派に属しております。









  
  応仁の乱で一度焼失しており、1499年勝元の子、政元が再興しましたが、1797年の火災で方丈、仏殿・開山堂などを失いました。現在の方丈は、そ
  のとき西源院の方丈を移築したものです。
  





  
  山門を入りすぐ左手に広がります鏡容池は、徳大寺家によって築かれたもので、かつては鴛鴦(おしどり)が群れ遊んだことから鴛鴦池と呼ばれており
  ました。 池に浮かぶ弁天島






  









  
  弁天島に渡る石橋








  
  現在の鏡容池では、鴨や白鳥が羽を休めております。








  
  島から望む大珠院
  







  









  









  









  









                     
                     春になれば、ピンクの花を咲かせる紅枝垂れ桜







                     
                     枝垂れ桜の向かい側に佇む大仏像








                       
                       階段を上れば、方丈の拝観入口になる庫裡があります。







  









  
  庫裡を入った所の屏風です。








  
  龍安寺には、何度も伺っておりますが人の居ない方丈庭園は初めてでした。まだ、9時半という事もありますが、雪が積もった朝は、このエリアですと
  まず最初に金閣寺に行かれる方が多いのだと思います。






  
  龍安寺の石庭は、白砂を敷き詰め、帚目を付け、15個の石を一見無造作に5か所、点在させただけのシンプルな庭です。巨大な中国の山水の世界を
  日本人独特の感性を研ぎ澄まして写した「枯山水」の庭といわれており、15個の石は、庭をどちらから眺めても、必ず1個は他の石に隠れて見えないよ
  うに設計されているといいます。




  
  あいにく本日は、雪の量が多すぎて帚目が隠れてしまっておりました。








  









            
            最大の特徴は、「水を感じさせるために水を抜く」ということで、水を見立てられるようなものをつくり、白砂も大海をイメージ
            し、岩は島というより山に見立てられております。作庭は室町幕府に仕えた相阿弥の作と伝えられますが、作者、作庭年
            代、表現意図ともに諸説あって定かでないようです。室町時代末期の作で特芳禅傑らの優れた禅僧によって作られたも
            のとも伝えられております。







                     









  
  方丈西側 廊下を左に進みますと仏殿につながりますが、拝観はなされておりません。








  
  方丈裏側の蹲は、『吾唯足知』(ワレタダタルヲシル)と読み銭形の型をしたつくばいで中心の口を共用すれば時計回りに『吾唯足知』と成り、禅の格言
  を謎解きに図案化された無言の悟道です。 水戸光圀公の寄進と言われております。






     
  ちなみに、非公開ではありますが、方丈広間には龍安寺の名前の由来につながると思われる双龍図があります。








  









  









  
  方丈への出入り口の勅使門 左手の壁の内側が先ほどの石庭になります。








  
  参道の突き当たりが、納骨堂とパコダの慰霊塔になります。








            
            参道の右手、12月の第一週頃です。







  
  楓の参道の左手に位置する西源院








  
  参道右手、方丈の西側の仏殿に通じる中門です。








  
  境内の西の端に位置する納骨堂前のパコダの慰霊塔 第二次世界大戦の時ビルマで戦死された方々の慰霊塔です。








  
  納骨堂








  









  









  









  









  
  納骨堂の南側は、春になりますと桜が咲き誇ります。








            
            上の写真の近辺です。







  
  桜やモミジの林を抜けますと池の西側に出てまいり、池の横には湯豆腐の店があります。








  









  
  鏡容池の西側の藤棚








  
  左手が弁天島








  
  池の南側から大珠院








                       
                       池を一周いたしますと、入口の山門横に出ます。








  









  









  









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京都雪景色 仁和寺 1/17/2011

2011年01月26日 | 洛中 西部

  

  1月16日の夜に降った雪が、気温が低かったため綺麗に残っておりましたので、無謀にもノーマルタイヤで出かけていました。道路は何とか走ることが
  出来綺麗な景色を見ることが出来ました。








  
  正面の三門を入ったところ、左手の本坊表門です。 八時半頃から職員の方が出て雪掻きをなされておられました。







  
  仁和寺の歴史は仁和2年(886年)第58代光孝天皇によって「西山御願寺」と称する一寺の建立を発願されたことに始まります。







  
  第59代宇多天皇が先帝の遺志を継がれ、仁和4年(888年)に完成され、寺号も元号から仁和寺となりました。







  









  









  
  白書院前の南庭と向こうの建物が宸殿になります。








  
  白書院  宸殿南庭の西側に建立されており、襖絵などは、昭和12年(1937年)に福永晴帆(1883〜1861)画伯による松の絵が部屋全体に描かれて
  います。







  
  南庭の勅使門 勅使門は、大正2年(1913年)に竣工され、設計は京都府技師であった亀岡末吉氏によるもので、檜皮葺屋根の四脚唐門で前後を
  唐破風、左右の屋根を入母屋造としています。また、鳳凰の尾羽根や牡丹唐草、宝相華唐草文様や幾何学紋様など、細部にまで見られる彫刻装飾
  は、伝統的和様に亀岡独自の意匠を取り入れたもので、斬新かつ見応えがあります。









  
  白書院と宸殿を結ぶ渡廊下








  









  
  宸殿側から見た勅使門と山門 南庭は、宸殿の南側にあることから南庭と呼ばれており、庭内には左近の桜、右近の橘が植えられ、その前方に白砂
  と松や杉を配した、簡素の中にも趣のある庭といえます。








  









  
  北庭  宸殿の北側にあることから北庭と呼ばれ、南庭とは対照的な池泉式の雅な庭園です。斜面を利用した滝組に池泉を配し、築山に飛濤亭、そ
  の奥には中門や五重塔を望む事が出来ます。庭の制作年は不明ですが、元禄3年(1690年)には加来道意ら、明治〜大正期には七代目小川治兵衛
  によって整備され現在に至ります。





                     









  
  飛濤亭 五重塔の手前に見える建物で、第119代光格天皇(1771〜1840)遺愛の席と伝 えられている茶室です。仁和寺第28世 深仁法親王(1759
  〜1807)は光格天皇の異母兄にあたり、飛濤亭は宸殿北庭の築山にあり、内部は四畳半に台目がついた茶室と水屋の間、勝手の間で構成され、入
  口は躙口のかわりに貴人口が設けられています。





  
  霊明殿  宸殿の北東にみえる霊明殿は、仁和寺の院家であった喜多(北)院の本尊 薬師如来坐像を安置する為に明治44年(1911年)に建立され
  ました。設計は亀岡末吉で、内部は正面に須弥壇を置き、小組の格天井をはじめ、蛙股の組物などの細部に至るまで見事な出来になっております。





  
  宸殿  儀式や式典に使用される御殿の中心建物で、寛永年間に御所から下賜された常御殿がその役割を果たしていましたが、明治20年(1887年)
  に焼失。現在は大正3年(1914年)竣工されたものです。御所の紫宸殿と同様に内部は三室からなり、襖絵や壁などの絵は全て原在泉(1849〜1916)
  の手によるもので、四季の風物をはじめ、牡丹・雁などが見事に描かれています。






  









  









  
  霊名殿への廊下もこのありさまで、スリッパが無いため足の裏は凍えそうになっておりました。







  









  









  









  
  この日は、9時の開門で、私が一番乗りでしたが貸し切りの状態で贅沢をさせていただきました。








  
  早くから足跡が多いのは、仁和寺の境内は、通り抜けが出来るため早朝から散歩をされている方や学生が通学路として利用している姿を見かけました。








  
  勅使門の正面です。








  
  中門








  









  









  
  毎年春、仁和寺は満開の桜で飾られます。金堂前の染井吉野、鐘楼前のしだれ桜などが競って咲き誇ります。その中でも中門内の西側一帯に「御室
  桜」と呼ばれる遅咲きで有名な桜の林があります。古くは江戸時代の頃から庶民の桜として親しまれ、数多くの和歌に詠われております。







                     









                     









  









  
  五重塔の向かい側に建つ観音堂








  
  五重塔 寛永21年(1644年)建立の塔は、塔身32.7m、総高36.18mあり、東寺の五重塔と同様に、上層から下層にかけて各層の幅にあまり差が見
  られない姿が特徴的です。初重西側には、大日如来を示す梵字の額が懸けられます。塔内部には大日如来、その周りに無量寿如来など四方仏が安
  置され、中央に心柱、心柱を囲むように四本の天柱が塔を支え、その柱や壁面には真言八祖や仏をはじめ、菊花文様などが細部にまで描かれていま
  す。





  








  
  金堂(国宝) 仁和寺の本尊である阿弥陀三尊を安置する御堂で、慶長年間造営の御所 内裏紫宸殿を寛永年間(1624〜43)に移築したものです。
  現存する最古の紫宸殿であり、当時の宮殿建築を伝えるの建築物として、国宝に指定されています。堂内は四天王像や梵天像も安置され、壁面には
  浄土図や観音図などが極彩色で描かれます。





  
  経蔵 金堂の右手にある建物で寛永〜正保年間の建立ました。内部は釈迦如来・文殊菩薩・普賢菩薩など六躯を安置し、壁面には八大菩薩や十六
  羅漢が描かれます。内部中央には八面体の回転式書架(輪蔵)を設け、各面に96箱、総計768の経箱が備えられており、その中には天海版の『一切
  経』が収められています。




  
  経蔵前から金堂、鐘楼方面








  
  









  
  鐘楼 「鐘楼」の「楼」とは元来二階建ての建物を指します。階上は朱塗で高欄を周囲に廻らせ、下部は袴腰式と呼ばれる袴のような板張りの覆いが
  特徴的です。また、通常吊られた鐘は外から見ることが出来ますが、この鐘は周囲を板で覆われており見ることが出来ません。





  
  御影堂前の花梨の木  花梨の木は、弘法大師空海が唐から持ち帰って広まったものと伝えられております。 紅葉の時に来た時はたくさん生ってお
  りましたが、この時期まで残っているのが、珍しいのでしょうね。







  









  
  御影堂 鐘楼の西に位置し弘法大師像、宇多法皇像、仁和寺第2世性信親王像を安置します。御影堂は、慶長年間造営の内裏 清涼殿の一部を賜
  り、寛永年間に再建されたもので、蔀戸の金具なども清涼殿のものを利用しています。





  









  









  
  御影堂前の手水場








  









  
  観音堂 本尊は千手観音菩薩で、脇侍として不動明王・降三世明王、その周りには二十八部衆が安置され、須弥壇の背後や壁面、柱などには、白
  衣観音をはじめ仏・高僧などが極彩色で描かれています。内部は通常非公開とされ、現在も仁和寺に伝わる法流の相承などに使用されています。






  
  春を待つ御室桜








  










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上村松園展 in 京都近代美術館  2010/12

2011年01月21日 | 京都歳時記

      

      上村 松園(うえむら しょうえん、本名:上村 津禰(つね)明治8年(1875年)4月23日 - 昭和24年(1949年)8月27日)は、明治の京都市下京

      区に生まれ育ち、女性の目を通して「美人画」を描いた日本画家です。




      









                  
                  こちらの図録の表紙に使われている『序の舞』(昭和11年、1936年)は、昭和40年(1965年)発行の切手趣味
                  週間の図案に採用されております。








                            
                  略歴
                  明治8年(1875年) - 京都の下京区四条通御幸町の葉茶屋「ちきり屋」の次女として生まれる。
                  明治20年(1887年) - 京都府画学校(現:京都市立芸術大学)に入学、四条派の鈴木松年(すずきしょうねん)に師事。
                  明治23年(1890年) - 第3回内国勧業博覧会に「四季美人図」を出品、一等褒状受賞(この絵を、来日中であったヴィク
                                トリア女王の三男アーサー王子が購入し話題となった)。
                  明治26年(1893年) - 幸野楳嶺(こうのばいれい)に師事。火事のため高倉蛸薬師に転居。市村水香に漢学を学び始
                                める。
                  明治28年(1895年) - 楳嶺の死去にともない、竹内栖鳳に師事。           
                  明治35年(1902年) - 息子信太郎(松篁)が誕生。
                  明治36年(1903年) - 車屋町御池に転居。
                  大正3年(1914年) - 間元町竹屋町に画室竣工。金剛巌に謡曲を習い始める。
                  昭和9年(1934年) - 母、仲子没。
                  昭和16年(1941年) - 帝国芸術院会員。
                  昭和20年(1945年) - 奈良平城の唳禽荘に疎開。
                  昭和23年(1948年) - 文化勲章受章(日本人女性として初)。
                  昭和24年(1949年) - 逝去。従四位に叙される。享年74。法名は、寿慶院釋尼松園。




                            一章 画風の模索、対象へのあたたかな眼差し

                            
                            人生の花  明治三十二年 1899 名都美術館








                             
                           春の粧 明治三十六年 1903 総成カントリー倶楽部







                               
                               四季美人 明治二十五年 1892 光記念館








                 
                 一家団欒 明治三十年 1897 









                            
                            義貞勾当内侍を視る 明治二十八年 1895








       
  清女褰簾之図 明治二十八年 1895                            軽女悲離別図 明治三十三年 1900







             
  粧 明治三十三年 1900                                        浴後美人 三十三年 1900








           
  よそほい 明治35年 福富太郎コレクション資料室                             蜃気楼 明治三十三年 1900 









               
  しゃぼん玉 明治三十六年 1903                                虫の音 明治四十年 1907







                      
                      四季美人図 明治三十三年 1900








      
      虫の音 明治四十一年 1908 大松美術館








                  
                  長夜 明治四十年








    
  雪吹美人図 明治四十四年 1911                               花 明治四十三年 1910





  二章 情念の表出、方向性の転換  

                  
  娘深雪 大正三年 1914                                                     朝 大正三年 








                      
                      花がたみ 大正四年 松伯美術館








                               
                             焔 大正七年 1918  東京国立博物館








                
                楊貴妃 大正十一年 1922 松伯美術館








       
  楚蓮香 大正三年 1914                        梅下佳人 大正十三年







                  
                  待月 大正十五年 1926 京都市美術館








  三章 古典に学び、古典を超える

      
  春苑 昭和十年 1935 島田市博物館             伊勢大輔 昭和四年 1929









                 
                 美人納涼 昭和七年 1932









                 
                 春宵 昭和十一年 1936 松岡美術館










                            
                            草紙洗小町 昭和十二年 1937  小野小町







                        
                        雪月花 昭和十二年 1937








               
               美人書見図 昭和十四年 1939
                       




                      三章ー二 日々のくらし、母と子の情愛

                      
                      虹を見る 昭和七年 1932 京都近代美術館







                     
                     鴛鴦髷(おしどりまげ) 昭和十年 1935








                         
                         初雪 昭和十二年 1937








           
           牡丹雪 昭和十九年 1944







                                         
                                         新蛍 昭和四年 1929

 






             
             鼓の舞 昭和十五年 1940  松伯美術館








             
             わか葉 昭和十五年 1940 名都美術館








             
             月蝕の宵一 制作年不詳 松伯美術館








             








             
             京都近代美術館5Fから比叡山方面の眺めです。









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京都大晦日雪景色 NO5 高台寺塔頭 圓徳院 12/31/2010

2011年01月15日 | 洛東 東山 清水寺方面

  

  圓徳院は、豊臣秀吉の妻、北政所ねね終焉の地で、高台寺の西側、ねねの道をはさんだところに位置します。











  









  
  豊臣秀吉の没後、その妻北政所ねねは「高台院」の号を勅賜されたのを機縁に高台寺建立を発願し、慶長10(1605)年、秀吉との思い出深い伏見城
  の化粧御殿とその前庭を山内に移築して移り住みました。






  
  それ以来、大名、禅僧、茶人、歌人、画家、陶芸家等多くの文化が、北政所を慕って訪れたと伝えられています。 ねね58歳の時のことです。 これが
  今日の圓徳院の起こりで、ねねは77歳で没するまで19年間この地で余生を送り、 ここは北政所の終焉の地となりました。





  
  唐門  現在4時半を回っておりますが、雪のため暗くなってまいりましたので、夜間拝観のためのライトを点灯されておりました。







  
  唐門を入ったところの豊臣秀吉好みの手水鉢








  
  本殿玄関  そのねねを支えていたのが、兄の木下家定とその次男の利房です。圓徳院は利房の手により、高台寺の三江和尚を開基に、木下家の
  菩提寺として開れ、高台寺の塔頭とされました。寛永9年、ねねの没後9年目のことです。








  
  方丈庭園(南庭)








  









  









  
  圓徳院の中を東西に通る通路で、「ねねの小径」と名付けられており、写真奥の方に進めば石塀小路に出ます。








  









  
  北書院につながる渡廊下








  
  北書院入口








  
  北庭は、もともと伏見城北政所化粧御殿の前庭を移したもので、当時の原型をほぼそのままに留める桃山時代の代表的な庭園の一つにあげられます。








  
  賢庭作で後に小堀遠州が、手を加えたと云われており、池泉回遊式ですが、枯山水になっております。








             
  








  









  
  庭の原点になっておりますのは、庭園北東部(柱左手奥)で、枯滝の石組を構成し築山を中心にして左右に多数の石組を二等辺三角形にまとめて数
  群展開させてあります。  








            











  
  このように多数の巨岩大岩がふんだんに置かれている庭は珍しく、これが桃山時代の豪華さ、豪胆さと云われております。








  









  









             









  









  
  北庭を出てきたところにある、三面大黒天堂 圓徳院の北側に、秀吉が出世時代に念持仏とした三面大黒天が祀られております。 北政所がこの地に
  祀ったものであり、大黒天、弁財天、毘沙門天の三面を併せ持ち、一 つの仏様を拝むことによって三 尊のご利益を得るという、秀吉らしい信仰であり
  ます。今日では、大黒天は福の神、弁財天は学問、毘沙門天は勝利と子宝の神として、信仰を集めております。 こちらは、ねねの道から誰でも参拝
  出来るようになっております。






                     









  
  三面大黒天を祀る堂の東側に歌仙堂がり、歌仙堂は長嘯子(ちょうしょうし)を祀り、もと霊山(高台寺の東の山)にあったものを木下家の関係でここに
  移築した。長嘯子(若狭藩主だった勝俊)は木下家定の甥、すなわち北政所の甥で 歌聖として知られておりました。なお歌仙堂は、詩仙堂、雅仙堂と
  合わせて、京都の三堂といわれる堂で、詩歌を志す人の信仰を集めております。




  









                      

                    
                    圓徳院の北側の千家十職の一つ「永楽茶碗」を扱われている永楽売舗さんの迎春準備です。







  









  
  円山公園の南側の東大谷御廟








  
  公園入口にある、長楽館 ホテルと一階に喫茶があります。








  
  八坂神社の東側に位置する円山公園は、京都で最も有名な公園で元々は、八坂神社の一部で明治維新以降に国へ納めるという形で分離されました。
  円山公園の敷地面積は、約8600㎡もあり公園内には、坂本龍馬・中岡慎太郎像や有名な枝垂桜があり、 桜の季節には昼夜を問わず多くの人が花
  見に訪れます。






  
  公園中央にあるひょうたん池








  









  
  円山公園のシンボルになっているこの桜は、「一重白彼岸枝垂桜」といい、現在の桜は二代目で初代は樹齢220年で 昭和22年に枯死いたしました。
  昭和3年に初代より種子を採って育成された桜を、15代佐野藤右衛門氏により昭和24年に寄贈・植栽され、平成22年現在82歳を向えております。
   しかし、ここ10年を見ておりましても、枝のボリュームが極端に落ちてまいり、見ていて可愛そうな位になってしまいました。








  
  円山公園を北に抜けますと知恩院の三門があります。こちらも深夜に掛けて初詣客の準備が整っておりました。







  









  
  知恩院前で引き換えし公園を抜けて八坂神社を抜けてかえります。








  
  八坂神社は、おけら参りがありますので、初詣を待たずにおけら火を貰いに来る方が、大晦日の夜に掛けて増えてまいります。  本殿前








  
  南門(正式には、こちらが正面門になります)








  









  
  左本殿と右、舞殿








  









  
  おけら参りとは、京都八坂神社の独特の行事で、大晦日から元日の朝にかけて神前に供えた削掛と薬草のオケラをたいて邪気を払い,参拝者はこの
  白朮火(おけらび)を吉兆縄に移して持ち帰り,元日の雑煮を煮たり,神棚や仏壇の灯明をともしたりする事を云います。 こちらの出店では、その吉兆
  縄を売っておられます。
  この日だけは、京阪電車や阪急電車でも火種の付いた縄を持ち込んでもよいことになっていたと思いますが、現在は、確認が取れておりません。






  









  









  









  










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京都大晦日雪景色 NO4 高台寺 12/31/2010

2011年01月14日 | 洛東 東山 清水寺方面

  

  清水寺から三寧坂を下り二寧坂に出てまいりました。やむ気配のない雪の中、足の先が相当冷えて参りましたが、歩くしかないので何とか頑張って
  みました。









  
  霊山観音の手前で、置いてきぼりにあったような紅葉を発見いたしました。








  









  
  あと150mほどで霊山観音です。








  
  さすがにこの雪では、バスも車も駐車場までは上がって来られない状態でした。 と言いますか大晦日に観光バスで旅行に来ている方が居られないだ
  けの話ですね。






  









  
  ほんの1ケ月前に紅葉を見に伺ったばかりでしたが、雪景色も趣があり素晴らしかったです。







  









  









  
  時間も4時を回っておりましたので、こちらの方は清水さんの様な人出ではありませんでした。







  









  









  
  修復中の 「遺芳庵」茶室








  









  
  書院から開山堂に続く回廊
  







  
  靴を脱いで方丈にまいりましたが、さすがに足の裏が痺れた様な感覚になってまいりましたので、早々に退散いたしました。 方丈では明日の初詣に
  向け準備が進められておりました。 勅使門からお参り出来るようです。






  









  









  
  方丈から見た左手開山堂とその右手に霊屋の眺めです。








  









  
  開山堂 高台寺第一世の住持、三江紹益禅師(1527-1650)を祀る塔所であり、左右壇上には木下家定(ねねの兄)、雲照院(家定の妻)等の像も安
  置されております。礼堂部中央の彩色天井には北政所の御所車の天井、前方の格子天井には秀吉が使った御船の天井が用いられております。










  
  開山堂の門です。








  









  
  開山堂の東側に広がる臥龍池








  









  
  開山堂の西側、偃月池(えんげつち)に架かる観月台  偃月とは、半円形の月。半月。弓張り月のことをさします。







  
  開山堂と東側の霊屋を結ぶ臥龍廊








 









  









  
  一か月前の11月26日の様子です。








  
  開山堂から見た本堂(方丈)








  









  

  開山堂をあとにし東側の霊屋へ向かいます。







  









  
  霊屋(おたまや)北政所の墓所、秀吉と北政所をお祀りしている所であり、厨子内左右に秀吉と北政所の木像を安置しております。須弥壇や厨子には、
  華麗な蒔絵が施され世に高台寺蒔絵と称され桃山時代の漆工芸美術の粋を集めているものです。







  









  









  
  霊屋のさらに東側の高台に二軒の茶室が建っております。








  
  右手に時雨亭、左手に傘亭です。









  
  利休の意匠による茶席であり伏見城から移建したものです。






  
  傘亭は竹と丸木が放射状に組まれ、カラカサを開けたように見えることからその名があり、正式には安閑窟と呼ばれております。







  
  時雨亭とは土間廊下でつながっております。 高台寺は各御堂とこの茶室に案内係りの女性を配置されており、詳しい説明を聞くことが出来ます。








  









  
  笠亭と時雨亭は、高台寺の中で一番の高台にあり、これから竹林を通り開山堂の前まで戻ります。









  
  







  









  
  こちらの紅葉も陽の当たらない場所にあるので、この時期まで残りモノトーンの世界に彩りを添えておりました。








  









                          









  









  









  









  









  
  開山堂の中門前にあるお茶席の雲居庵です。








  









  









  
  初詣客を待つ勅使門








  
  山門を下り西側の塔頭圓徳院に向かいます。








  









  









  











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京都大晦日雪景色 NO3 清水寺塔頭 成就院 12/31/2010

2011年01月13日 | 洛東 東山 清水寺方面

  境内、参拝入口の轟門の北側に位置する北総門です。 元来は塔頭(たっちゅう)(旧本坊)成就院の正門であった門で、寛永8~16年(1631~39)
  間に再建された薬医門でです。東隣に弁天堂が建ち、北裏側に月照・信海兄弟上人の歌碑と西郷隆盛の詩碑が並んでおります。 







  
  北総門西側の中興堂の屋根です。 中興堂(ちゅうこうどう)中興開山大僧正・大西良慶和上(1875~1983)の御霊屋(おたまや)、北苑の春日社南隣り
  に立つおどうです。1997年、建立。









  









  
  弁天堂の横を抜け坂道を下りますと千体余りの石仏が群集して祀られております。大日如来・千手観音・地蔵菩薩や二尊仏など多種多様で、鎌倉時
  代の古いものもあり元来は、地蔵信仰の厚い京都市民が各町内の大日堂や地蔵堂などに祀って毎夏に地蔵盆会を営んできた石仏で、明治の廃仏毀
  釈(はいぶつきしゃく)によって清水寺に運び込まれたものだそうです。





  
  成就院玄関 江戸時代初期の寛永16年(1639)、東福門院和子の寄進によって再建されました。創建は、応仁の乱の兵火によって焼失した清水寺
  を勧進活動によって再興した願阿上人の住房に起源し清水寺有力塔中(たっちゅう)として、江戸時代には清水寺の本願職を担当し、寺の財政・メンテ
  ナンスに勤めたとされております。幕末に勤皇歌僧月照(忍向)・信海兄弟を輩出し、明治~昭和にかけて中興開山良慶和上(1875~1983)が住持いた
  しました。





  
  書院 年二回春と秋の特別公開のみの公開となりますが、ご住職にお願いし見せていただきました。








  









  









  
  成就院庭園 相阿弥作・小堀遠州の補修とも、松永貞徳の作とも伝えられる庭園で模範的な借景式・池泉観賞式の庭園で、“誰が袖”手水鉢・烏帽子
  石・蜻蛉(かげろう)燈籠、手毬燈籠などが名高く、五葉松・“佗助”椿が一段と風趣をそえております。 特に“月の庭”として賞美されており月明りで見
  ると素晴らしいといわれます。





  









  









            










                     








  
  縁先の誰ガ袖(たがそで)手水鉢は、豊臣秀吉の寄進と伝えられております。








  









             









  









  
  庭園の面積は約1500平方㍍でさほど広くはありませんが、正面の高台寺山を大きく借景し山中に一基の石灯篭を立てて巧みに遠近法を活用して庭
  と周囲の山景とを結びつけ、庭に無限の広大さを感じさせてくれます。








            









  
  池右端の手鞠灯篭








                     









  
  庭園東側の植え込みの中に建つ護摩堂








  









                     










  









            









  









  
  書院南側庭園








                     









  
  形としては珍しい三角燈籠、以前と違う場所に移動しておりました。








  
  西庭、手水鉢の後ろは樫の木です。 手水鉢の右手の竹筒からは、水琴窟の音色が聞こえます。










  
  十五分くらい庭園を見せていただいておりましたが、足の裏が凍りそうになり早々に御暇してまいりました。 貸し切りの贅沢で貴重なひと時を過ごす
  ことが出来ました。今度は、雪かきのお手伝いにまいりたいと思います。






  









  









  









 
  大玄関前の池です。








  









  









                     
                     来た道を戻り弁天堂の前です。








  









  
  左手に田村堂(開山堂)寛永10年(1633)の再建で、謡曲「田村」に謡われている「田村堂」で、清水寺創建の本願主・坂上田村麻呂夫妻の像を堂内
  中央、須弥壇上の厨子内に祀り、併せて清水寺元祖の行叡居士(ぎょうえいこじ)と開山の延鎮上人を奉祀しております。








  









                        
                         門前町を抜け、三寧坂から高台寺に向かいます。








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京都大晦日雪景色 NO2 清水寺 12/31/2010

2011年01月12日 | 洛東 東山 清水寺方面

  

  雪景色の清水さんにお参りするのも2年振りうらいになり、前回より雪も多く白銀の世界を満喫できました。 仁王門(におうもん)室町時代に建立されま
  したが、応仁の乱で焼失し15世紀末に再建されました。清水寺の正門で、西側に面して建っており、昔ながらの丹塗りで“赤門”と呼ばれております。 
  正面軒下に平安時代の名書家藤原行成の筆と伝えられる「清水寺」の額を掲げ、両脇間に勇壮な大仁王像を祀っております。



  






  
  大晦日の今日は、0時から撞かれる除夜の鐘をこちらの清水寺では、毎年参拝の方が二人一組で順番に撞くことが出来るため22時に開門され準備
  にかかられます。 しかし、108回と回数が限られているので人数分の整理券を前もって受け付けをなされております。






  









  
  仁王門をくぐり階段を上って行きますと左手に新調されたばかりの梵鐘が吊るされた鐘楼があります。深夜にかけ鐘楼横の階段を参拝の方が通られ
  ますので、職員の方やご住職の方々までが雪かきをなされておりました。






  
  2年前に、約530年ぶりに新調された梵鐘と化粧直しが施された鐘楼。 今回、梵鐘の新調を請け負った「岩澤の梵鐘」(右京区) によりますと、530年
  の年月で 金属疲労を起こし、音に濁りが出てきたといわれており、同規模の鐘なら 通常は1分半ほどある余韻も 45秒しか無くなったとのことで、新し
  い鐘は 厚みを一定にしないことなどで、響きが2分近く 続くよう造られたそうです。








                     
                     三重塔 847年創建と伝えられておりますが、現在の塔は寛永9年(1632)の再建された
                     ものです。 日本最大級の三重塔で高さ31メートル弱あり、一重内部に大日如来像を祀り、
                     四周の壁に真言八祖像を描き、天井・柱など密教仏画や飛天・竜らの極彩色で荘厳されて
                     おります。









                     
                     参拝入口のあたる轟門前の手水場








  
  轟門を入った所から、左手本堂








  









  
  本堂正面(南側)に建つ子安塔は、現在解体修復中です。子安塔は、江戸時代初期の建立と云われ本堂の南谷(錦雲渓)を隔てた丘上に建ち、高さ
  約15メートルの三重塔です。内には子安観音(千手観音)を祀り、名前の通り安産に大きな信仰を集めてまいりました。
  聖武天皇・光明皇后の祈願所と伝説されておりますが創建時は不詳、寛永期の再建で、明治末年まで仁王門の左手前に建っておりました。










  









  









  









  
  本堂の西側、最初に迎えてくれる大黒さんです。こちらも二年前に何十年か振りに塗り直されたもので、美しく輝いて居られます。







  









  
  いつもは、観光客や参拝の方で賑っている清水の舞台もこの日ばかりは、事故防止のため立ち入り禁止になっておりました。








  
  本堂と舞台 江戸時代初期に再建された本堂には、最奥の内々陣の大須弥壇上の三基の厨子(国宝)内に本尊千手観音と脇侍(わきじ)の地蔵菩薩
  ・毘沙門天が祀られております。 須弥壇の手前には、漢検が主催する今年の漢字「暑」の揮毫が飾られておりました。






            
  雷神                             清水型十一面千手観音像               風神







           
           御本尊の脇を固める毘沙門天と二十八部衆   現実に見た本物は、迫力に溢れ圧巻されまた。






  
  舞台の向こう側に見えますのが奥の院です。








  
  本堂の東側に位置する奥の院 奥の院は江戸時代初期の建立で、本堂と同期の寛永10年(1633)に再建され、本堂同様に舞台造りになり、「奥の
  千手堂」ともいい、本尊千手観音と脇侍地蔵菩薩・毘沙門天、二十八部衆、風神・雷神が祀られております。






  
  本堂を抜けますと東側に釈迦堂が見えます。 釈迦堂は、昭和47年(1972)、大豪雨禍にあい、寛永8年(1631)再建の姿に復旧したものです。
  堂内奥中央部に朱漆塗り円柱の来迎柱をたて、須弥壇上に釈迦三尊を祀り、長押(なげし)、貫(ぬき)に極彩色を施し、鏡天井に遊飛する天女を彩画し
  ております。









  
  地主神社 本堂裏側に位置しておりますが、清水寺とは関係の無い神社だそうです。 境内に置かれた石と石の間何メートルかを目を瞑って歩いて片
  方の石にたどり着けば、思った人と縁が結ばれると言われており、若い女性で賑わっております。






  
  本堂と釈迦堂の間にある音羽の滝に通じる階段ですが、雪のため閉鎖されておりました。








  
  釈迦堂前より本堂








  









  
  百体地蔵 釈迦堂と阿弥陀堂との間の奥に建つ御堂で、子どもを亡くした親たちが、子どもそっくりの地蔵を探しあてて崇拝を厚くし、特に夏の地蔵盆
  会に賑うそうです。







  
  本堂








  
  阿弥陀堂と奥の院の間です。右手の奥の院の裏側に濡れ手観音が佇んでおります。








  
  濡れ手観音(ぬれてかんのん)奥の院の裏側、石の玉垣にかこまれた小池中に、可愛らしい石仏として立っており、北隣の蓮華水盤で柄杓に水をくみ、
  肩からかけて、自分自身の心身の清めと諸願成就を祈願しお参りいたします。台座には「観世水」と書かれております。





  









  
  奥の院舞台より








  









  









  
  舞台の向かい側の子安の塔に通じる坂道からの眺めです。









  









  









  









  
  音羽の滝 清水寺の開創を起縁し、寺名に由来する滝で、舞台の下に位置しております。こんこんと流れる出る清水は古来「黄金水」「延命水」とよば
  れ、 ”清め”の水として尊ばれ,開祖行叡居士・開山延鎮上人の滝行を伝統して水垢離の行場となり、またお茶の水汲み場となってまいりました。 
  今日、参詣者が行列をつくって柄杓に清水を汲み、六根清浄、諸願成就を祈り滝祠に不動明王や行叡居士を祀っております。





  









  









  









  









  









  









  









  









                          









  
  境内を一周してまいりましたので、北総門から塔頭の成就院さんに向かいます。










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京都大晦日雪景色 NO 1 建仁寺から清水寺 12/31/2010

2011年01月08日 | 洛東 東山 清水寺方面

  

  2010年最後の日、大晦日に降り続いた雪は午後になってもやむ気配が無く市内の交通網に影響が出ました。 タクシーを呼んでもいつになるか分ら
  ず、仕方なくノーマルのタイヤで危なっかしく建仁寺の駐車場まで辿り着きました。








  
  京都で日中これほどの雪が降ったのは、二年振りの事となり折角なので散歩がてらに清水さんに向かいました。







  
  建仁寺さんは、大晦日ということでこの日は拝観はなされておりませんでした。  拝観入口のある庫裡もひっそりとしておりました。








  
  庫裡と法堂を結ぶ渡廊下








  









  
  雙龍図が天井に描かれている法堂







             
            双龍図 法堂の天井には、小泉淳作の双龍図が、平成14年に創建800年を記念して描かれました。







                     
                     正面の須弥壇には本尊の釈迦如来座像脇侍迦葉尊者・阿難尊者が祀られております。








  
  法堂の東側、西来院へのエントランス。








  
  法堂








  
  法堂








  
  六月に特別公開がある半夏生の庭で有名な両足院山門
  







            
            書院前の庭園は、半夏生の庭と呼ばれており、池畔にはクチナシの白い花も咲き涼感を感じさせます。昨年は、6月11
             日から7月11日まで公開されておりました。






                     
                     池のほとりを彩る半夏生









  
  開山堂の前に建つ茶碑 開祖、栄西禅師は比叡山で天台密教を修め、その後二度の入宋を果たし、日本に禅を伝えました。 また、中国から茶種を
  持ち帰り栽培することを奨励し、喫茶の法を普及させた『茶祖』としても知られています。









  
  開山堂前から庫裡方面です。








  
  三門 『望闕楼(ぼうけつろう)』 大正12年、静岡県浜名郡雄踏町から移築されたもので、楼上には釈迦如来と二尊者と十六羅漢が祀られております。
  御所を望む楼閣と言う意味で『望闕楼』と名づけられました。






  
  三門から望む法堂








  









  
  開山堂の正面(西側)が三門になります。








  
  この道を東に進み右に曲がりますと清水道に出ます、さらに東大路を渡りますと八坂の五重塔が見えてまいります。








                     
                     この清水道に電線が無いのは、景観を重視した地元の方々が独自で電線の地中化をなさ
                     れたそうです。年度末に道路を掘り返すお金を是非こういった事業に向けてもらいたいもの
                     です。




                     









                     
                     正式名称は、霊応山法観寺と号し、聖徳太子が創建したと伝えられる臨済宗建仁寺派に
                     属する寺院です。法観寺五重塔(高さ36.4m)は、室町時代の永享十二年(1440)に足利
                     義則が再建したもので、内部の須弥壇には金剛界五仏が安置されております。金剛界五
                     仏とは(大日・釈迦・阿シュク・宝生・弥陀)のことをいいます。








                     









  









  









                     









  
  左の道の向こう側が建仁寺方面で、手前に進みますと二寧坂があります。








  
  五重塔の南側の道を進みますと二寧坂に出会いさらに進みますと左手に料亭坂口の庭園入口があります。 現在は、入口に松栄堂や観光客向けの
  お店が出来ており庭園を眺めながらお茶や甘味が頂けるお店もあります。








  









  









  









  
  三寧坂の手前にある霊山興正寺別院参道








  
  この三寧坂を上り左に折れると清水さんの門前通りに出ます。







                        









  
  雪景色の京都には中々出会うことが出来ないので、観光スポットの寺院は人の列が絶えることがありません。










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嵯峨野 直指庵 秋紅葉 12/03/2010

2011年01月07日 | 洛西 嵐山・嵯峨野 高雄

  

  浄土宗 祥鳳山(しょうおうざん) 直指庵(じきしあん) 直指庵は、南禅寺で臨斉禅を学んでいた独照性円(どくしょうしょうえん)が正保3年(1646)に
  営んだ草庵「没蹤(ぼつしょう)庵」が起源です。その後、独照が明(中国)の日本黄檗宗の禅開僧・隠元(いんげん)禅師をこの地に招請し、教えを受
  けてから帰依者も増え次々と伽藍が建ちならび大寺院となりましたが、黄檗宗の正統を「直指人心」するという意味から直指庵と称され寺名を定めな
  かったと言われております。その後は次第に荒廃していき、諸堂は明治13年(1880)に焼失しましたが、有志の方々によって再建されました。

 

 





  
  幕末の時代には、尊王攘夷(じょうい)派の公家近衛家に仕えていた津崎村岡が再建して、浄土宗の庵寺となりました。 村岡局は、近衛家の侍女と
  して江戸城に行き、水戸藩士らと親交をもち、勤王の志士達と近衛家およびその他の公卿との連絡に当たり特に近衛卿や西郷隆盛らの運動を助け活
  躍したことから、安政5年(1858)の安政の大獄が起こると、村岡局も捕らえられて江戸に送られました。その後、放免された村岡は、北嵯峨の直指庵に
  隠居し付近の子女の教育に尽くし、晩年は嵯峨庶民の慈母であり、明治6年(1873)八十八歳でこの地で没しました。








  
  山門を入りますと、左手に楓の庭園が広がり、その奥に建てられた本堂から見下ろす形の庭園になっております。







  
  右手の階段を進みますと本堂玄関に当たりますが、庭園を回ってからにいたします。









  
  山門と拝観受付








  









  









  









  









                     
                     本堂 直指庵は悩む女性の駆け込み寺としても知られており、本堂内には心の内を打ち
                     明けるためのノート「想い出草ノート」が置かれています。







  









  









  









  
  本堂玄関








  
  本堂のお参りは後にして、右手奥に続く諸堂を先に回ります。








                     









  
  本堂の向かって右手にある二河白道の庭の








                     









  









  









                     
                     開山堂への階段








  









  
  開山堂 開祖の独照性円の墓といわれる石塔を中央に祀ったお堂です。








  









  
    








  
  思い出草観音菩薩像 境内の一番奥まったところに建っており、五千冊以上の思い出草ノートに綴られたさまざまな苦しみや悲しみを取り除いてくださ
  り、願いを汲み取ってくださる観音様でノートを持っておられる姿をなされております。






  









  
  観音像の向かい側には、五千冊の思い出草ノートが納められている道場があります。








  
  観音像から本堂側に戻ったところに建つ水子地蔵堂








  
  水子地蔵堂の前に佇む村岡の墓石 本名・津崎矩子は大覚寺の寺侍津崎左京の娘で 天明6(1786)年 嵯峨に生まれ8才で公卿の近衛家に仕えた
  と言われ侍女から村岡局となりました。 明治6(1873)年に88才の生涯を閉じたと言われており、明治24(1891)年12月には、明治天皇より朝権の回
  復に貢献したとして勲章が贈られたそうです。

  





  
  水子地蔵尊 水子地蔵をお参りすれば、子宝に恵まれるといわれており、別名「子授け地蔵」ともいわれております。 
      






                     
                     水子地蔵前にある待合より本堂方面 右手の階段を上がれば開山堂で、左手が道場です。








                     
                     道場への竹垣
  







  









  
  道場玄関








  









  









  









                     









  









  









                     









  









  









  









                     
                     こちらの本堂で、ノートに書き込みをなされます。








  










  
  本堂中央には、本尊の阿弥陀如来像が祀られ、となりの中庭は、四月頃日本石楠花が満開になります。 







  










                     









  









                     









  









  









  









  









  









  








  
  直指庵の駐車場は、7台程しか駐車出来ませんのと手前200㍍位まですれ違いが出来ませんので紅葉シーズンは、マイカーの方はお気を付けくだ
  さい。大覚寺の駐車場に止めて行かれるのも良いかもしれません。






  

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鷹峯 源光庵  秋紅葉  12/01/2010

2011年01月06日 | 洛北 西部 鷹峯方面

  

  光悦寺から徒歩1分の距離にある源光庵は、大徳寺開山・大徳・宗峰妙超(しゅうほうみょうちょう)の法嗣(ほっす)第二世徹翁(てっとう)が隠居所として
  創建した事に始まり、元禄七年(1694)卍山道白(まんざんどうはく)によって臨済宗から改宗し現在は、曹洞宗の寺院となっております。

 







  
  道白は曹洞宗復活を志して本堂に「復古禅林」の額を掲げ自ら復古道人と称したといいます。







  
  源光庵の最初の門には「源光普遍」と書かれた額が掛り、源とは仏教においてはお釈迦様を意味しており、まさに普遍に照らす意を表しているそうです。







                   









  









  
  山門をくぐり左に進みますと二階建の楼門かあります。その二階には曹洞宗の証といわれる輪が左右に見えます。二階内部には十六羅漢が控えて
  おり屋根の棟鬼には寺院の門には珍しい鯱が据えられており防火の役割をしているそうです。





  
  楼門の手前右側にある鐘楼








  









  
  正面に控える本堂 元禄7年の創建で、卍山禅師に帰依した金沢の富商、中田静家居士の寄進により建立されました。御本尊は、華厳の釈迦牟尼
  を安置し脇立に阿難尊者、迦葉尊者を祀っております。








  









  









  









  
  書院と本堂の間の庭園です。









  
  書院より  








  









                     









  









                     









  
  本堂には、仏教の真理を表わす「悟りの窓」左と「迷いの窓」右があります。








  
  右側が角窓の「迷いの窓」で、この四つ角には生老病死・四苦八苦〟という意味が
  込められ、煩悩から逃れられない人間の生涯を象徴しています。






  
  左側の丸窓の「悟りの窓」には、円形の窓枠に「禅と円通」を表し宇宙を表現し、何事にも捉われない大らかな境地を教えています。







                     
                     本堂の南側の天井には、血天井があり、伏見桃山城からの遺構で1600年7月に徳川家
                     康の家臣である鳥居元忠と配下の1800余人の武将が、伏見桃山城で石田三成の軍勢と
                     交戦し、武運あえなく討死し残る380余人が自刀し相果てた時の痕跡で、現在も血ででき
                     た手跡や足跡があちこちに残っており、それらの魂を弔っております。









  
  本堂西側








  
  枝で燃える紅葉も美しいですが、散りたての落ち葉が別世界を演出してくれておりました。







  









  









  









  









  









  
  本堂








  









  









  









                     









  









  









  









  









  









  









  









                     










  












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