京都市内から車で約1時間、50kmにある岩船寺(がんせんじ)は京都府木津川市加茂町に位置し、真言律宗の寺院です。山号は高雄山(こうゆうざん)
と号し、 開基は行基と伝えられておりまする。アジサイの名所として知られ「アジサイ寺」とも呼ばれる境内には、30種5千株の紫陽花が咲き誇ります。
岩船寺の名は門前にある岩船(いわふね)にちなむと説明されております。
岩船寺は京都府の南端、奈良県境に近い当尾(とうの)の里に位置すますが、この地区は行政的には京都府に属しますが、地理的には奈良に近く、
文化的にも南都の影響が強いとされているところです 。浄瑠璃寺にも近く付近には当尾石仏群と称される鎌倉時代を中心とした石仏(多くは自然の
岩壁に直接刻んだ磨崖仏)や石塔が多数残り、その中には鎌倉時代の銘記を有するものも多いそうです。当尾には中世、都会の喧騒を離れて修行
に専念する僧が多数居住し、多くの寺院が建てられたと言われ、今に残る石仏・石塔群はその名残りであるといわれております。
岩船寺は寺伝によりますと天平元年(729年)に聖武天皇が出雲の国不老山大社に行幸の時、霊夢によって、この地に阿弥陀堂の建立を発願し大和
国善根寺に籠居しておられた、行基菩薩に命じて建てられたことに始まります。その後、平安時代初期の806年に弘法大師空海と甥の智泉(ちせん)
大徳が阿弥陀堂において、伝法灌頂(密教の儀式)を修せられたため灌頂堂となりました。
806年智泉大徳は、新たに報恩院を建立され、さらに813年には嵯峨天皇が智泉大徳に勅命して皇子誕生を祈
念され、後の仁明天皇を授かったので、嵯峨天皇の皇后が皇孫誕生の事もあって堂塔伽藍が整備、その時に寺
号も岩船寺と改められました。 以上はあくまでも寺伝であり、中世以降の火災で古記録が失われているため、
草創の正確な時期や事情ははっきりしていないもようです。
最盛期には四域十六町の広大な境内に三十九の坊舎があり、その威容を誇っておりましたが、承久の変(1221年)によって大半が焼失し、その後再
興された堂塔も再度の兵火よって次第に衰え、江戸時代初期の1624年には本堂、塔、坊舎、鎮守社等の十棟程度になっておりましたが、当時の住
僧文了律師がこの荒廃ぶりを嘆き自ら世上に出て訴え続け、ご勧進と徳川家の寄進とにより本堂や本尊の修復を成し遂げられたと云われております。
その当時には興福寺の末寺であったそうです。
その後、江戸時代の本堂も老朽化のため本堂再建事業により昭和63年四月に落慶し現在に至っております。 なお現在は関西花の寺第十五番札所
に指定れております。
御本尊の阿弥陀如来坐像を祀る本堂
本堂前の山側(東側)に建つ地蔵堂
地蔵堂の右手に佇む石宝の不動明王像
厄除け 地蔵菩薩 石造 鎌倉時代
かしわば紫陽花と五輪石塔 鎌倉時代
山門
本堂に祀られる、本尊阿弥陀如来坐像の像内には天慶9年(946年)の銘があり、この像が当初から岩船寺の本尊であったという確証ありませんが、
「岩船寺」の存在を示す最も古い記録は、寺の西方にある岩船不動明王磨崖仏(通称一願不動)の銘記で、そこには弘安10年(1287年)の年記ととも
に「於岩船寺僧」の文字がみえます。
本尊阿弥陀如来座像 (平安時代)重要文化財 天慶九年(946) 作者 行基 本尊の周りを固める四天王立像は、
鎌倉時代の作で東に持国天(右奥)、南に増長天(右手前)、 西に広目天(左手前)、北に多聞天(左奥)が配されており
ます。 阿弥陀如来坐像は、高さ2.4メートルという大きなもので、一本の榧(かや)から掘り出されています。胎内には経
文などの銘文があり、その中に、「天慶九年丙午(946)九月二日梵字奉書」という銘文があったことから、貞観彫刻の重
厚さと和様という日本的な美術表現をもつ過渡的な仏像として、美術史上の基準される仏像で、紅色の彩色が残る衣が
古様を示しています。
本堂には、その他にも普賢菩薩騎象像(左)が厨子に入って安置されています。普賢菩薩像は平安時代に造立されたもの
で、像高三九・五㎝の可愛らしい坐像で、菩薩像が乗っている白象は、後世に補われたものです。 右側は、釈迦如来坐像
です。
十一面観音像 (鎌倉時代) 薬師如来像 (室町時代)
十二神将像の一部、頭上には十二支が一体づつ乗っております。 不動明王像 (室町時代)
三重塔 825年智泉大徳入滅後、十年を過ぎて847年に仁明天皇が智泉大徳を偲んで宝塔を建立されたものと伝わります。 鎌倉時代に再建され、
現存する塔には 「嘉吉二年(1442)五月二十日」の銘があります。 岩船寺の山門をくぐると、正面の奥まった高台に朱塗りの色鮮やかな三重塔が
建っています。表面は板壁、初層は心柱や四天柱がなく、 中央に須弥壇を設けて二本の来迎柱を配置する構造で、室町時代の特徴を示しています。
初層内部には壁画が描かれていて、近年の修理の際扉絵も含め復元されました。
本堂と三重塔の間にある阿字池 阿字池とは阿弥陀如来の種字すなわち梵字の阿字を顕していると言われます。池の形を梵字の「阿」に見
立てた命名で、密教的解釈による池の名称だそうです。
十三重石塔 1314年に妙空僧正の造立と伝えられ、軸石のくぼみの中から水晶の五輪舎利塔がみつかってお
り、高さ6.2メートルで、切石で造られた方形の基壇から相輪まで完全に残る珍しいもので、重要文化財に指定さ
れています。
阿字池
三重の塔前に咲いてた未央柳 (びょうやなぎ)別名(美女柳(びじょやなぎ)や、美容柳(びようやなぎ)とも呼ばれるそうです。
三重塔の南側には、紫陽花園が広がり、その中に鐘楼が建ちます。
報恩の鐘 生かされていることに感謝し、真心をこめてお撞き下さい。 合掌とあります。
中央は桜の木です。
藤棚で見つけた藤の実、中の豆を出して炒って食べると美味しいとの事ですが、経験が無いので今度試してみたいと思います。
ベンチもあり、ゆっくり休憩も出来るのですが、6月末の炎天下では座っている方は居られませんでした。 桜や紅葉の季節ならいいかもしれませんね。
三重塔の西側の歓喜天(聖天)を祀る社、岩船寺は、聖武天皇をはじめ各天皇の祈願所として世にしられており、その後の高僧平智僧都が心願成就
祈願のため歓喜天を祀って以来七百有余年霊験有って今も商売繁盛、招福、結縁を願う人々のよりどころになっております。
歓喜天の前に山道があり貝吹岩という案内板が出ており、暑かったのですが、この日は時間に余裕があったので、
恐る恐る進んでみました。
貝吹岩までの距離や所要時間が書いてなかったので、途中で引き返そうかと悩みましたが、約5.6分で目的地
に到着しました。
眼下に広がる景色を見たとたんに、暑さと息切れが飛んで行ってくれました。
貝吹岩
岩の向こう側は、断崖絶壁になっており、岩の上に乗って法螺貝を吹く気にはなりませんでした。
歓喜天の社まで戻ってまいりました。今までいろんな寺院を回ってまいりましたが、三重の塔を上から眺められる所はなかったように記憶しております。
三重の塔の各階の四隅に天邪鬼が、鎮座しております。
相輪 お寺の多重塔の天辺には相輪と呼ばれる飾りがあります。塔(仏塔)というのは元々、お釈迦様のお墓で
インドではそれをストゥーパと呼びます。 相輪の一番下の部分から花の形をした受花(うけばな)の上には大抵
の相輪は9つの輪が乗り、それを九輪(くりん) と呼びます。さらに九輪の上には水煙(すいえん)という相輪の中で
も最も華やかな飾りがあります。水煙は本来、火炎を意味しているそうなんですが、塔が燃えてしまうと困るので
あえて水煙という名前がついているそうです。九輪と水煙には小さな風鐸(ふうたく)、つまり青銅製の風鈴がつい
ています。相輪によっては風鐸がつかないものもあります。そして水煙の上には二つの玉があります。下側の玉
は竜車(りゅうしゃ)、上側は宝珠(ほうじゅ)と呼ばれております。
天邪鬼(あまのじゃく)は、「天探女(あまのさぐめ)」という悪神の名前が転訛したといわれ、人の心の内を探り意に逆らうという、ひねくれた神であった
そうです。また、仏教では「あまのじゃく」を人間の煩悩の象徴としております。 東寺の五重塔にも居りますが、仏教的にはいつも反対ばかり言う、天邪
鬼にお釈迦様が 罰として「家の守り神」にしてしまったという説があります。 お釈迦様が天邪鬼に素直な心をもちなさいという教えなのでしょう。
三重塔から阿字池を左手に進み本堂前に戻ります。
本堂南側の身代わり地蔵さんです。
本堂前の沙羅双樹(夏椿)
山門前にある石風呂は、鎌倉時代に三十九あった寺塔の僧侶が身を清めたという風呂だそうです。
浄瑠璃寺まで2kmの距離なので、途中の石仏を回りながらお参りなされる方が多数おられました。 駐車場有。 電車の方は、JRの加茂駅からシャ
トルバスが運行されているようです。
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私もまだまだ行ったことのない寺院が沢山ありますので、リクエストがございましたら、是非伺いますので遠慮なく仰ってくださいませ。
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