清涼寺は、嵯峨釈迦堂の名前でも知られており浄土宗の寺院です。山号を五台山(ごだいさん)と称し中世以来「融通念仏の道場」としても知られている。
現在の本堂は元禄十四(1701)徳川五代将軍網吉、その母、桂昌院や大阪の豪商泉屋(後の住友)吉左衛門らの発起により再建されました。
本堂内には本尊、釈迦堂に由来する釈迦如来立像及び地蔵菩薩立像が安置されております。
仁王門から本堂への参道の西側には法華経に由来する多宝塔があります。中にはた多宝如来が祀られております。
寺院の南側に位置する仁王門と法然上人像
清涼寺から東に向かうと大覚寺が在り、そのまま進むと広沢の池が見えてまいります。
嵯峨・嵐山から龍安寺・金閣寺へと続くコースの途中、嵯峨寄りにあります。
秋口には、毎年水を抜き鯉やフナの漁があり、一般の方にも販売されております。その時に使われる船です。
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京都の南西、西山連峰のふもと粟生の里は、法然上人が初めて『お念仏』の教えを説かれたところです。それから800年、光明寺は西山浄土宗総本山報国山光明寺として法然上人の教えを受け継いで来ております。
総門の前に立つ『浄土門根元地』という石標はそのことを表しております。
12月7日に参りましたもので、紅葉も9割近くが落葉いたしておりました。
法然上人像と御影堂
現在の建物は、1753年に再建されたもので、このお山の中心になるお堂です。
ご本尊は法然上人自作の『張り子の御影』です。これは法然上人が75歳の時『建永の法難』と呼ばれる弾圧により
四国へ流罪になったとき、弟子の願いに応えて、大切にしていた母君からの手紙を張り合わせて自らの姿を像に作り、
形見として与えたものです。
御影堂から釈迦堂への渡り廊下
釈迦堂前の勅使門
釈迦堂と信楽庭(しんぎょうてい)は季節ごとの特別拝観以外は拝観出来ません。
紅葉の参道 総門から薬医門をへて玄関に向かうゆるやかな坂道の参道です。
薬医門
嵐山 天竜寺の塔頭 宝厳院(ほうごんいん)
1461年聖仲永光禅師を開山に迎え、細川頼之によって創建され、創建時は上京区にありましたが、応仁の乱の時に
兵火にあい焼失しました。
その後幾多の変遷を経て現在地に移転再興されました。
臨済宗 天龍寺派
庭園拝観は、春3月下旬より5月下旬までと秋は10月1日より12月中旬までです。
確認の上、覗ってください。
門前には『嵐山羅漢』が祀られております。
『羅漢』とは釈尊の弟子で崇高な修行者(悟りを得た人)を意味する。
『五百羅漢』を天下の景勝地・嵐山に建立する事により、人類の安心立命と嵐山の守護・景観保全を祈念するとともに、
有縁無縁の菩薩を弔うものであります。
夢窓国師曰く『山水ニハ得失ナシ、得失ハ人ノ心ニアリ』
『百人一首』で知られる小倉山の中腹にある常寂光寺は、日蓮宗の寺院でもとは藤原定家の山荘でした。
土地は当時の豪商角倉家が寄進したと言われており小早川秀秋らが堂宇の建立に寄与したと伝えられております。本圀寺から移築された仁王門は南北朝時代の藁葺きの門で、晩秋に、紅葉が散りかかる風情はみごとです。ここは京都屈指の紅葉の名所でもあり楓におおわれた石段を上がると、伏見城の客殿を移築した本堂、その背後に均整のとれた美しい重文の多宝塔が建っております。
仁王門
鐘楼前の銀杏の落ち葉です。
本堂の西側の庭園
妙見堂裏手の竹林
多宝塔
金城実作のレリーフ 1997年4月吉日
常寂光寺より大河内山荘に向かう途中にある池に写り込んだ景色です。
大河内山荘は、百人一首で著名な小倉山の南面に、時代劇の名優大河内傳次郎(1898~1962)が、昭和6年34歳から64歳で
亡くなるまでの、30年間の歳月にわたり、消えることのない美を求めて、こつこつと創り上げた庭園です。
お茶席 この山荘は入場料にお抹茶が含まれており、お茶席で戴いてから散策に向かいます。
庭園への入り口の中門
庭は回遊式借景庭園になっており、数多くの松、桜、楓などが四季を彩り、大乗閣からは嵐山や霊峰比叡山が望むことが出来ます。
御堂
滴水庵前の灯籠 少し上に上っただけで楓が落葉しておりました。
眼下に保津川を望める高台です。 山全体の紅葉も見ごたえがありました。
大河内山荘から亀山公園を抜けると保津川下りの終点の大隅川に出ます。
二尊院
『百人一首』で名高い小倉山の東麓にあって、本尊に釈迦如来と阿弥陀如来の二尊を祀るため、二尊院とよびますが、正しくは『小倉山・二尊院華台寺(けだいじ)』といい、明治以降天台宗に属しております。
嵯峨天皇の勅願により慈覚大師が834年に開山したといわれております。
また、総門は豪商角倉了以が、伏見城の『薬医門』を移築したものです。
総門をくぐってからの参道(紅葉の馬場)
八社宮前の紅葉
勅使門(唐門)
釈迦如来は、人が誕生し人生の旅路に出発するときに送り出してくださる『発遣の釈迦』といい、阿弥陀如来は、
その人が寿命をまっとうした時に極楽浄土よりお迎えくださいます。
これを『来迎の阿弥陀』といいます。
共に鎌倉時代の春日佛師作と伝わっております。
百人一首発祥の地の石碑 この奥に坂東妻三郎のお墓があります。
階段左手に弁財天堂が有り階段上には湛空上人廟や
角倉了以の墓所などがあります。
高桐院 表門
高桐院は細川幽斎公の長子忠興三斎公により1601年に建立された大徳寺塔頭の一つで、開祖玉甫紹宗和尚は幽斎公の弟でありました。
細川三斎公は、83歳の高齢で卒去され、遺言によって遺骨は高桐院にまいそうされました。
表門から参道は天然石の敷石道になっており、鍵の手に唐門に続いております。
書院は千利休居士の邸宅を移築したものです。
茶室前の手前の紅の葉はつつじの紅葉です。
書院の奥には二帖台目の名茶席松向軒があり、この茶席は1628年
三斎公の手で建立されました。
客殿南庭は江戸時代の初期に造園されたものです。
墓所前のつくばい
細川三斎公及びガラシャ夫人の墓石は、生前愛好した石灯籠をもってそれにあてられています。
本阿弥光悦翁旧跡 光悦寺
京の北、鷹峰三山(鷹ケ峰・鷲ケ峰・天ケ峰)を見渡す景勝の地に光悦寺はあります。
この辺の一帯を鷹ケ峰光悦町と呼び、1615年徳川家康公が本阿弥光悦翁に野屋敷としt与えた土地です。
光悦翁はそこに一族縁者をはじめ、種々の工芸にたずさわる多くの職人と共に住居を構え、光悦翁を中心とする工芸集落を営みました。
また同時に本阿弥家先祖供養の霊屋として位牌堂を設けたが、光悦翁の死後、寺として日蓮宗光悦寺となり今日に至っております。
境内の一角には苔むした光悦翁の墓碑が佇んでいます。
山門をくぐってすぐにある茅葺の鐘楼
光悦垣
三巴亭茶席の東側にある光悦垣または、臥牛垣とも称し特徴有る垣根に囲まれた内露地には石灯籠と手水鉢が有ります。
三巴亭の南側に位置する大虚庵茶席 了寂軒茶席
本阿弥庵茶席
紅葉したどうだんツツジと鷲ケ峰、鷲ケ峯を挟んで左に鷹ケ峰、右に天ケ峰が見渡せます。
常照寺縁起
寂光山常照寺は洛北にあり俗に鷹峰三山と呼ぶなだらかな三つの丘陵を西に望むところにあります。
このお山は1616年本阿弥光悦の土地寄進とその子、光瑳の発願によって寂照院日乾上人を招じて開創された鷹峰檀林(学寮)の旧跡です。
吉野門
吉野門とは、寛永の時代に天下の名妓として一世を風靡しその才色兼備を謳われた二代目吉野太夫(松田徳子)が
光悦の縁故により日乾上人にまみゆるやその学徳に帰依し寛永五年、23歳のときに自ら巨財を投じて朱塗の山門を
寄進したのが今に残る吉野門です。
吉野太夫は、六条三筋町(後の島原)の名妓で、和歌・連歌・俳句・書・茶道・華道・音曲・囲碁・双六など諸芸に優れて
いただけでなく、その美貌は唐にまで伝わっていたと伝えられています。
また、四月の桜の季節には名妓慰霊のため島原の太夫道中による墓参、供茶法要が営まれ、今では京都の名物行事と
なっております。
おび塚
吉野門をくぐりすぐ右手に帯塚があります。
この塚は、女性の心の象徴『帯』に感謝し祈りを捧げる全国初の帯塚が在洛の各界名士の発起によって昭和44年5月
縁の吉野門のほとりに建立されました。
宝蔵
本堂
鬼子母尊神堂
右奥、鬼子母尊神は、もともと子供を殺して食べる悪鬼でしたが、仏の教えを聞いて懺悔し、改心してのち子育て、
子授けの神様、信仰する者を守る神様となりお堂に祀られています。
遺芳庵茶室
遺芳庵茶室のこの窓は、吉野太夫が好んだとされており、俗に吉野窓とも呼ばれております。
茶席は墓地の北側の谷を望むところにあり毎月佳人を偲んで釜がかけられるそうです。