宝泉院(ほうせんいん)は、左京区大原にある天台宗の寺院です。
1012年寂源が大原寺(勝林院)を創建し、その住職の坊として平安末期頃よりの歴史をもち現在に至っております。
三千院の参道を進みますと、右手に三千院の御殿門を見つつさらに突き当りまで進みますと勝林院があります。
勝林院の参道途中、右手にある法華堂、後鳥羽天皇の御冥福を祈って建てられたものです。
この橋を渡り突き当りが、勝林院です。
勝林院・本堂 平安時代の847年に唐から帰朝した慈覚大師円仁は、中国仏教の伝統的な儀式音楽である声明音
律業(声明 しょうみょう)を日本に伝え、その後弟子たちにより比叡山に伝承されてきました。そして、平安中期の10
13年に慈覚大師の九代目の弟子・大原入道こと寂源上人が、この大原に声明道場として大原寺(現在の勝林院)を建
立しました。
本堂の中心に祀られている本尊・阿弥陀如来像は、平安中期の仏師康尚の作といわれております。
現在は、本堂のみが残っており境内の規模も入り口から見渡せるため、わざわざ中に入る方も少なく、宝泉院に向かわ
れます。
勝林院の向かって左手が、宝泉院です。
宝泉院の入り口から見た勝林院の本堂。
正面に見えるのが、樹齢600年と言われる五葉松(近江富士)です。
宝楽園庭園は(仏神岩組雲海流水回遊花庭)を趣向し、地球太古の創世に遡り、その原初の海を創造した庭園ですと、
説明には書いてあります。
三尊石は、阿弥陀仏・観音菩薩・勢至菩薩の来迎の姿を表した岩組みになっているそうです。
台付花桃、四季折々の花木が配置されており百花繚乱と言われる庭園ですが、この時期は花を咲かせている樹は残念
ながらありませんでした。
海流水を思わせる白川砂は、夜半にその砂に月光が照り映えて、銀砂幽玄の世界がそこ
に現れるそうです。
猿田彦神社
書院玄関横の池
書院玄関
書院に入りすぐ左手にある鶴亀庭園は、江戸中期作で、部屋の中から格子ごしに観賞する庭園で池の形が鶴、築山が
亀、山茶花の古木を蓬莱山とみる名園です。
こちらの庭も緑の色が強調されとても綺麗な景色でした。
額縁庭園 客殿の西方にあり柱と柱の空間を額に見立て観賞する庭園です。 庭の名前を盤桓園(ばんかん)と言い立
ち去りがたい庭園という意味だそうです。
庭先のつくばいにある水琴窟 竹筒に耳を傾けると心地よい音色が響きます。
何度か訪れておりますが、人気のある寺院だけに無人の庭園を撮影するのは中々難しいです。 先ほどまで中学生の
団体が40名ほど入っておりお行儀が良くなく閉口いたしました。
樹齢6百年を誇る五葉松
血天井 慶長五年(1600)関が原合戦前、徳川の忠臣・鳥居元忠以下数百名が豊臣の大軍と戦い伏見城中で自刃し、
その武将たちの霊をなぐさめ、供養のために、自刃した場所のものを天井にして祀ったものです。
法然上人縁の岩 次は、宝泉院南側にある実光院に向かいます。
寂光院(じゃっこういん)は、左京区大原にある天台宗の寺院で山号を清香山と称します。開基(創立者)は聖徳太子と
伝えられておりますが、諸説があるみたいです。
平清盛の娘・建礼門院が、平家滅亡後隠棲した所でもあり、『平家物語』ゆかりの寺として知られております。
ご本尊は六万体地蔵菩薩尊が祀られております。
参道の途中右手にある、茶室「狐雲」
山門と本堂 本堂は、2000年5月の火災により焼失いたしましたが、すぐに再建され、災禍にあった御本尊も修復され
た後、本堂に安置されております。
本堂前西側の汀(みぎわ)の池と御神木の松 樹齢千年銘木でありましたが、本堂の火災によって傷みが激しくなり、
2004年遂に枯死してしまいました。
諸行無常の鐘楼
祇園精舎の鐘の声 諸行無常の響きあり 沙羅双樹の花の色 盛者必衰の理を顕す
千年姫小松の石碑
書院
本堂の向かって右手にある回遊式四方正面の庭
本堂と鮮やかな紅色をしたがく紫陽花。
本堂前に鎮座する南蛮鉄の雪見燈籠は、太閤豊臣秀吉の寄進で桃山城にあったものだそうです。
宝物殿の前から見上げた鐘楼
同じく山門
門前のお漬物屋さん。
寂光院を後にして、三千院に向かいます。 川の左手が駐車場ですが、門前の駐車場は
10台くらいしか停められませんので、観光シーズンや週末はご注意ください。手前にもいく
つか駐車場はありますが、道が細くすれ違いができませんので、混んでる時は手前で停め
て歩かれる方が、時間ロスは少ないと思います。
萬福寺(まんぷくじ)は、宇治市にある黄檗宗(おうばくしゅう)大本山の寺院です。山号は黄檗山、開山されたのは、
1654年中国福建省から渡来した隠元隆(いんげんりゅうき)で、御本尊は釈迦如来を祀っております。
日本の近世以前の仏教各派の中では最も遅れて開宗され、黄檗宗の中心寺院で、中国・明出身の僧隠元を開山に請じ
て建てられたため、建物や仏像の様式や儀式作法から精進料理に至るまで中国風で、日本の一般的な仏教寺院とは異
なった景観をしております。 日本三大禅宗(臨済・曹洞・黄檗)の一つ黄檗宗の大本山です。
尚、隠元の来日と萬福寺の開創によって、新しい禅がもたらされただけでなく、さまざまな中国文化が日本にもたらされ、
隠元の名に由来するインゲンマメのほか、孟宗竹(もうそうちく)、スイカ、レンコンなどをもたらしたのも隠元だといわれて
おります。
左下にあるのが、総門で方丈池を挟んで三門から左手の開山堂、天王殿、大雄宝殿、法堂と上のほうに回って行きました。
総門を入った所を右手に進むと放生池に出ます。
放生池と三門
総門を入って左側に有る隠元やぶと呼ばれている竹薮。
白沙村荘にも有りました石碑です。
飲酒をしている者やきつい匂いのする物を食べている者
入山するべからずとの意味です。
屋根上左右に乗る魚のようなものは鯱ではなく、摩伽羅という想像上の生物でヒレの代わりに足が生えており、マカラは
サンスクリット及びパーリ語でワニを表す言葉で、東南アジアでは仏教寺院の入口などに用いられているそうです。
三門の白塀
三門くぐって、天王殿の方からの眺めです。
駐車場に車を停めると境内の外側を回り、この門を通って境内に入ります。
開山堂の門
開山堂 参道両脇には、蓮の鉢植えが並びます。
まだ、数本しか咲いていませんでしたが、各鉢ごとに種類が違いました。
紅孔雀 王子蓮
錦 旗 曙風涼日
大酒錦 曙
開山堂・法堂正面の匂欄は、卍及び卍くずしの文様になっています。
各お堂を結ぶ回廊
開山堂東側の寿塔
回廊には、煎茶道の祖・売茶翁(ばいさおう)ゆかりの寺としても知られているため、行灯には煎茶道の刻印があります。
寿堂の回廊を挟んだ石庭
合山鐘
開山堂から天王殿に向かう回廊です。
手前、天王殿と大雄宝殿
内部中央には、弥勒(みろく)菩薩の化身とされる布袋像が安置され左右を四天王が守っております。
大雄宝殿
先週伺った貴船神社が、絵馬の発祥と知りましたが、祈願の木札自体が絵馬と呼ばれるようになって久しいのでしょうね。
私は絵馬は神社で祈願するものと思っておりましたが、祈願をする対象に絵馬を使うだけで、神社・仏閣は関係無いみた
いですね。
大雄宝殿は、1668年の建立で日本の一般的な寺院の「本堂」「仏殿」にあたる建物です。
本尊釈迦三尊像(脇侍は阿難と迦葉)の両側に、十八羅漢像を安置しております。
建物の前には白砂を敷いた「月台」があります。
拝観できる最も奥の建物の法堂です。
後は、来た道の反対側の回廊を通り出口に向かいます。 見方にもよりますが、所要時間
は優に一時間以上は掛かったと思います。
駐車場から境内に向かう途中にある塔頭のみみずく地蔵、頭を撫ぜながら大きな耳のそばで願い事をするそうです。
みみずく地蔵のお庭のがく紫陽花です。
鞍馬寺(くらまでら)は、左京区鞍馬本町にある仏教寺院で、宗派はもと天台宗に属しておりましたが、1949年以降独立
して鞍馬弘教総本山となっております。
京都盆地の北に位置し、豊かな自然環境を残す鞍馬山の南斜面に位置する鞍馬は牛若丸
(源義経)が修行をした地として著名です。
鞍馬寺は、狛犬の代わりに虎が鎮座いたしております。
仁王門は湛慶作の仁王尊像を祀り、俗界から浄域への結界とされております。
ケーブル乗り場の手前にある幼稚園の入り口にあるお地蔵さん。
鞍馬寺への輸送機関としてケーブルカー(鞍馬山鋼索鉄道)を運営しており、宗教法人と
しては唯一の鉄道事業者ともなっています。
標高差120m距離200mを4分で運んでくれます。
ケーブルを降りてすぐのところに有る多宝塔 は、1959年(昭和34年)再建されたものです。
ここから、本殿金堂までは、約500mの歩きです。
最後の階段の途中にある寝殿は、貞明皇后さま鞍馬山行啓の際の御休息所として使われた建物です。
寝殿向かい転法輪堂の手水場
一尺六寸の阿弥陀如来を祀る転法輪堂の屋根越しに見る貴船の山々。
本殿金堂 三尊尊天を祀り、地下には宝殿があります。
翔雲台
開基は、鑑真の高弟鑑禎(がんてい)とされており、本尊は鞍馬寺では「尊天」と称します。「尊天」とは、毘沙門天王、
千手観世音菩薩、護法魔王尊の三身一体の本尊です。
仁王門の前にも居りました虎は、毘沙門天がお山に降りてこられたのが、
寅年の寅の日、寅の刻と言うところから虎が守っているそうです。
閼伽井(あかい)護法善神社
本殿金堂の向かって左側にある光明心殿 護法魔王尊を祀り、護摩供を修する道場です。
本坊金剛寿命院 お寺の寺務所です。
奥の院に向かう階段ですが、今回は遠慮しておきました。この道を
進むと1.5kmで貴船神社に到着します。
奥の院には、義経縁の「背比べ石」や「義経堂」などいろいろ見所が
ありますので、時間の許す方は、まず鞍馬寺にお参りして、徒歩で
貴船に回られるルートをお勧めします。
入山される方には、杖の貸し出しがあります。
灯篭には、毘沙門天が彫られております。
帰り道は、ケーブルを使わず歩いて下ります。距離にして約800m時間にして15分の行程です。
中門 もともとは仁王門の脇にあって勅旨が使った勅旨門が移転されました。
双福苑 朱塗りの橋の両側に大黒天と恵比寿さんが祀られこの一帯を双福苑と呼ぶそうです。
いのち(愛と光と力の像)鞍馬山の教えのシンボルとなっております。
鞍馬の火祭りは、氏子である由岐神社のお祭りです。
由岐神社(ゆきじんじゃ)は、鞍馬寺の鎮守社であり、通称靫明神(ゆきみょうじん)いいます。
祭神は元は宮中に祀られておりましたが、都で大地震・天慶の乱が起き、当時の天皇である朱雀天皇の勅により、
天慶3年(940年)、鞍馬の地に遷宮をし、北方鎮護を仰せつかったもので、例祭の鞍馬の火祭は、そのときに里人が
かがり火を持って神霊を迎えたことが始まりとされております。
大杉社(願掛け杉)樹齢800年樹高53mの杉が3本そびえております。
由岐神社の正面鳥居
魔王の滝 崖の上のお社には魔王尊石像がお祀りされております。
吉鞍社 魔王の滝のすぐ下手にあります。
ゆっくり歩いてたら30分掛かりましたが、新緑の中霊気宿る山を歩いていると気力が高まる様な気がいたしました。
貴船神社へは、叡山電鉄の貴船口駅からさらに徒歩であれば、30分掛かりますが、3月から11月の期間はシャトルバス
が運行しております。車で行かれる方は、神社の駐車場は少なく、停める所が無いのでお気を付けください。
貴船神社(きふねじんじゃ)は、京都市内から小一時間北に走った左京区にある神社です。式内社(名神大)、二十二社
の一社で、日本全国に約450社ある貴船神社の総本社です。
樹齢800年を誇る大木が壮観です。
水神である高龗神(たかおかみのかみ)を祀り、古代の祈雨八十五座の一座とされるなど、古くから祈雨の神として信仰
されてまいりました。
また、縁結びの神としての信仰もあり、小説や漫画の陰陽師による人気もあり、若いカップルや女性で賑わっており、その
一方で縁切りの神、呪咀神としても信仰されており、丑の刻参りでも有名です。
貴船は古くは、「気生根」とも書かれ大地のエネルギー「気」の生ずる根源という意味で、古来ここに参拝する方は、御神
気に触れ気力の充実することから運気発祥(開運)の信仰が篤いです。
古来より、晴れを願うときには白馬が、雨を願うときには黒馬が奉納されてまいりましたが、実際の馬に代わって木の板
に描いた馬が奉納されたこともあり、このことから絵馬が発祥したとも言われております。
桂(御神木) この桂は樹齢4百年で、根元からいくつもの枝が天に向かって伸び、上のほ
うで八方に広がり、これは御神気が龍の如く大地から勢いよく立ち昇る姿に似て御神徳を
象徴し、まさに御神木と仰がれる由縁です。
本殿裏側の雪の下
本宮から奥宮までは、約700メートル離れており車の無い方は、徒歩になります。
奥宮の拝殿は59年ぶりの大改修が行われており、シートで覆われておりました。
御船型石
社伝によれば、神武天皇の母である玉依姫命が、黄色い船に乗って淀川・鴨川・貴船川を遡って当地に上陸し、水神を
祭ったのに始まると伝えられており、社名の由来は「黄船」によるものとし、奥宮境内にある「御船型石」が、玉依姫命が
乗ってきた船が小石に覆われたものと伝えられています。
貴船川に掛かる川床では、シーズンに向け準備も整い9月まで営業なされます。
京都市内の料理屋さんは、夏の閑散期に貴船の料理屋に板前を派遣したりして相互の
協力関係が築かれております。
祇王寺は、右京区嵯峨野にある真言宗大覚寺派の尼寺で、祇王・祇女とその母、および仏御前が隠棲した往生院の
跡地にあります。
写真は、祇王寺への参道右側にある、檀林寺の土塀です。
現在の祇王寺は、昔の往生院の境内であり、往生院は法然上人の門弟良鎮に依って創められたと伝えられ、山上山下
に亘って広い地域を占めていが、いつの間にか荒廃して、ささやかな尼寺として残り、後に祇王寺と呼ばれる様になりま
した。
拝観入り口
庭園の苔庭は、緑一色に覆われ新緑の美しさを強調しております。
山門
草庵玄関前のつくばい
仏間入り口前の庭園
祇王寺の主人の「まろみ」ちゃん、首輪に名札が付いておりました。
仏間の隣、控の間の吉野窓 影が虹の色に表れるのを以って一名虹の窓とも称されております。
仏壇中央が本尊大日如来像、清盛公、祇王、祇女、母刀自、仏御前の木像
が安置されております。
祇王、祇女の像は、鎌倉末期の作で作者は不明で有るが眼が水晶で鎌倉
時代の特徴が表れております。
参道を下ってきたところに有る喫茶店の鉄線です。
化野念仏寺(あだしのねんぶつじ)は、嵯峨野にある浄土宗の寺院です。化野は、鳥辺野(とりべの)と並ぶ平安京以来
の風葬の地でありました。
参道に佇む釈迦・彌陀二尊像は、本尊の阿弥陀仏座像と共に鎌倉彫刻の秀作とされております。
811年、空海が五智山如来寺を建立し、野ざらしになっていた遺骸を埋葬したのに始まるとされ、法然上人が念仏道場を
開き、念仏寺となりました。本尊は阿弥陀如来像が祀られております。
境内の8千体を数える石仏、石塔は古来あだし野一帯に葬られた人々のお墓でした。
仏舎利塔と鳥居(トラナ) トラナとは、インドの仏教やヒンドゥー教寺院にみられる門のこと
で、サンスクリットで「塔門」を意味するそうです。
仏舎利塔の内部は、納骨堂になっており一時預かり納骨、永代供養納骨など、御遺骨を納めていただけます。
右手の茅葺のお堂は、「みず子」の霊を供養するみず子地蔵尊です。
六面六体地蔵 お地蔵様はあらゆる所お祀りされてあり、一番身近に拝むことの出来る
仏様です。
地獄・餓鬼・畜生・修羅・人道・天道の六つの世界を六道といいます。
この六面六体地蔵さまはそれぞれにお地蔵様が居られ人々を救われる姿を現したものです。
人道 畜生 地獄
餓鬼 修羅 天道
本堂と繋がっている庫裏
探し物がありぶらりと立ち寄った竹製品などを扱うお店です。 目的の物は無かったのですが、お二人のお店の女性の
方が別の店にまで電話を掛け探していただき、接客の対応に感銘いたしました。ぜひ見習わせていただきたいと思いま
した。
嵯峨野のお土産は是非、念仏寺の井和井さんで買ってあげてください。見ているだけでも楽しいです。
清凉寺(せいりょうじ)は、右京区嵯峨にある浄土宗の寺院です。山号を五台山(ごだいさん)と称し嵯峨釈迦堂の名で
親しまれております。中世以来「融通念仏の道場」としても知られており、現在は浄土宗の寺院となっております。
御本尊は釈迦如来で国宝に指定されております。
本堂(釈迦堂)
一切経蔵 徳川中期の建築で、傅(ふ)大士と笑仏を祀っております。
輪蔵 輪蔵には明版本の一切経が5408巻が収められ、矢印の方向に一回転回ることで、
一切経を読んだのと同じ功徳があるとされております。
経堂の四隅を守る四天王像
仁王門 たびたび焼失の目にあっておりますが、1776年に再建され、楼上には十六羅漢
を祀り、阿吽の金剛力士が左右を守護しております。
釈迦堂の向かって右側にある阿弥陀堂 光源氏のモデルと言われている、嵯峨天皇の第12皇子、源融公(みなもとの
とおる)縁のお堂です。
本堂(釈迦堂)
国宝 釈迦如来は、日本三如来の一つに数えられる屈指の霊像です。
東大寺の僧、然が宋へ渡航中の985年、台州の開元寺で現地の仏師に命じて1体の釈
迦如来像を謹刻させた。その釈迦像は、古代インドの優填王(うてんおう)が釈迦の在世中
に栴檀(せんだん)の木で造らせたという由緒を持つ霊像を模刻したもので、実は模刻像と
霊像とが入れ替わったとする縁起を持つため、「インド - 中国 - 日本」と伝来したことから
「三国伝来の釈迦像」と呼ばれております。
釈迦如来像の中に収められている、絹で出来た五臓六腑、中国においては千年の昔より
人間の体の構造を知っていたことを示すものです。
本殿裏側より庭園を抜け庫裏に通じる廊下があります。
庫裏の玄関
小堀遠州作といわれる、枯山水庭園 江戸時代
池の中に浮かぶ弁天堂
忠霊塔
古潤筆による清涼寺縁起の一部を拡大した壁画。 本堂の裏側にあります。
鐘楼 梵鐘の刻印には、1484年11月吉日とあり寄進者の名も刻まれております。
多宝塔 1703年建立
法然房源空24歳 求道青年像 法然上人が、24歳のとき釈尊像の前に七日間お籠もりに
なり、釈迦如来さまとの出会いは新しい仏教を開く道に踏み出した上人の決意をいっそう
確固たるものになされたとのことです。
えびす屋の新人研修です。 何時来てもこの場所で客待ちをしております。
宇治市にある天台宗系の寺院で、山号は明星山、西国三十三所第十番札所のお寺です。宝亀年間(770年)光仁天皇の勅願により南都大安寺の僧
行表が創建したものといわれており、初め御室戸寺と称しましたが、三井寺の修験僧隆明が中興した際に、現寺名に改称されました。
花の寺として親しまれ、特に五月のつつじ、石楠花、紫陽花で有名な寺院です。
駐車場から、参道を登り受付を済ませ200m上ると山門があります。参道の右手は、紫陽花とつつじの山が広がります。
今日の状況で4,5分咲きだそうです。
不動明王の像が誇らしげに建っております。
本堂前の勝運の牛
牛の口の中の珠を触ってお願いすると、勝運が訪れるとの事です。
賓頭盧さんが、あまりにもリアル過ぎて遠目で見るとミイラの様に見えてしまいました。
鐘楼と三重塔
三重の塔は、元禄17年(1704年)建立の全高16メートルの高さがあり、もとは兵庫県佐用
郡三日月村(現・佐用町)の高蔵寺にあったものを、明治43年(1910年)に当寺が買い取っ
て参道西方の丘上に移設し、その後境内の現所在地(鐘楼の東隣)に移されました。
階段を登った所右手に、四ヶ国語のガイドマシンがあります。日本、英語、中国、韓国です。
本堂にお参りした後、山門に戻る途中にある庭園入り口に向かいます。
庭園「与楽苑」の入り口です。 庭園は、枯山水と池泉回遊式に分かれており、その後に紫陽花苑へと続きます。
この場所が、餌場になっており立ち止まると鯉が集まってまいります。
五分咲きという事でしたが、充分に紫陽花を堪能する事が出来ました。
紫陽花の花の色は、土壌の酸性が強いところが、青い花になりアルカリ性が強いところは、赤が強くなるそうです。
13日から28日の期間中に夜間ライトアップも行われるようです。18時~21時(20時半受付終了)
紫陽花の向うに見える丘が、つつじで5月上旬には、赤白ピンクの花が咲き乱れます。 来年は是非その時期に訪れたいと思います。
庭園の散策が終わり出口を出たところに、宇治の名産品や清水焼のお店が出ております。
こちらの窯元は、店舗を持たずになさっており、以前何処かで見たことがあると思いお話しを伺ったら、4月は仁和寺に出店されてたとの事で、小物を
買わせていただいた、記憶が蘇りました。
前回は、花菖蒲でしたので、勾玉池の周囲を囲む散策路に、まだ少し早いものもありますが、何十種類もの紫陽花が植
えてありましたので、図鑑の様になってしまいましたが、搭載します。
紅剣
伊予残雪
紫陽花は蕾の状態から、こんな感じで満開を迎えます。
ユングフラウ 紅テマリ
美里テマリ 紅 剣
別子テマリ 伊予残雪
伊予獅子テマリ 紫紅梅
剣の舞 白甘茶
マイコ 美里ナデシコ
土佐神楽 白甘茶
秋篠テマリ 白マイコ
白甘茶 乙女の舞
大 虹 伊予丸
美方八重 黄 冠
藍 姫 舞 姫
花吹雪 ジャパーニュミカコ
楊貴妃 天狗塚錦
舞 姫
伊予残雪 白甘茶
あまりの種類の多さに、花と名前を一致さすのに手間取りましたが、多分間違いないと思います。この多種の紫陽花は、
勾玉池の南側に大体一株づつ植えられております。
梅宮大社(うめのみやたいしゃ)は、京都市右京区にある神社で、現在は神社本庁に属さない単立神社となっております。
酒造の神、また子授け・安産の神として信仰されており、旧称梅宮神社といいます。
前回は、梅の時期にお邪魔しましたが、今回は花菖蒲と皐月、ちょっと早めの紫陽花が
咲き乱れておりました。
紫陽花は、次回に搭載することにして今回は、花菖蒲をアップします。
花の咲いてない茎は、かきつばたで、五月の上旬頃に咲いてた様です。
池中亭茶室
本殿北側に位置する勾玉池 池の周辺の散策路には紫陽花が、これからピークを迎えます。
梅で有名な神社なので、庭園入り口の大木では梅の実の収穫をされてました。
次は、何十種類もの紫陽花を紹介します。
毎年、何度となく寄せていただく成就院さんにお客さんの会合でお邪魔しました。 本来は、33年に一度しか御開帳な
されない御本尊の千手観音の特別拝観の最終日だったので、特別にお参りさせていただきました。 次の御開帳は24
年後と言うことになります。今回の御開帳は、西国三十三所観音霊場巡りを中興された花山法皇様の一千年大遠忌に
あたる平成20年に三十三所の観音霊場がこぞって御本尊の御開帳を行い、その一環として昨年秋と今年の春の特別
御開帳となりました。
成就院は、清水寺の塔頭の一つで、室町時代、応仁の乱の兵火にあった清水寺を復興した願阿上人によって創建され、
以後、清水寺の本願職を伝統いたしました。現在の建物は、徳川三代将軍家光公が1639年に再建したものです。
成就院の庭園は、相阿弥原作・小堀遠州の補修とも、松永貞徳の作とも伝えられる江戸時代初期を代表する名庭で国
の「名勝」に指定されております。
庭園の面積は焼く1500平方㍍でさほど広くはありませんが、正面の高台寺山を大きく借景
し山中に一基の石灯篭を立てて巧みに遠近法を活用して庭と周囲の山景とを結びつけ、
庭に無限の広大さを感じさせてくれます。
縁先の誰ガ袖(たがそで)手水鉢は、豊臣秀吉の寄進と伝えられております。 お家の方による、一輪の皐月が心憎いです。
池右端の手鞠灯篭
縁側から左手に回ると、西庭がありもう一つの手水鉢が鎮座しております。その手前の
二本の竹筒からは、水琴窟からの音色が聞こえてまいります。ここにも一輪の皐月が。
西庭
上の写真の右側の形としては珍しい三角灯篭
西庭、手水鉢の後ろに繁る樫の木
庭園東側、音羽山腹には四角形や円形に刈り込まれた樹木が幾十にも重なり、その上に
位置する護摩堂(持仏堂)は東福門院の寄進で本尊十一面千手観音・不動明王はじめ幕
末、西郷隆盛らと国事に活躍した月照・信海の兄弟上人ほか歴代住職が祀られております。
池泉中央、中島の烏帽子石(えぼし)と蜻蛉灯篭(かげろう)
この庭園は、月の成就院庭園と賞され、月明かりで見るととても素晴らしいと言われておりますが、本日は月の姿が見えませんでした。
庭園公開は、年二回春と秋になります。秋は夜間拝観となりますので、ライトアップはされておりますが、月明かりの下眺める機会に恵まれるかもしれません。 それ以外にも定期観光バスなどでコースに入っている事が有りますので観光ガイドなどで調べてみてください。
成就院の皆さん遅くまでありがとうございました。
平安京最古の史跡 現在は殊に御霊会(祇園祭の神輿の巡行)は、神泉苑が起源とされております。
神泉苑(しんせんえん)は、二条城南にある東寺真言宗の寺院で、本尊は聖観音です。元は平安京大内裏に接して造営
された禁苑(天皇のための庭園)でした。 また、言い伝えでは源義経と静御前が出会った場所と言われております。
延暦13年(794年)の平安京遷都とほぼ同時期に、当時の大内裏の南に接する地に造営された禁苑であり、当初の敷
地は二条通りから三条通りまで、南北約500メートル、東西約240メートルに及び、池を中心とした大庭園でした。
神泉苑の弁天様は、安芸の宮島、京都繁昌神社の弁天様と御同体で日本三体といわれており、悪縁を断ち良縁を結び、
商売繁盛の神様です。
弁天様は、歌や音楽を司るインドの女性の神様で、お姿は青の衣を付け頭に白蛇の宝冠を戴き、常に片足を立てて、手
には琵琶を弾いておられます。
矢剣大明神社(やつるぎ)
神泉苑には竜神が住むといわれ、天長元年(824年)に西寺の守敏と東寺の空海が祈雨の法を競い、空海が勝ったこと
から以後東寺の支配下に入るようになったという。
歳徳神(としとくじん) 日本で唯一の恵方社です。 今年の恵方は、寅卯(東北東)です。
その方向に向かって礼拝し幸運を授かって下さいと書かれておりました。
中世以降は荒廃し、慶長8年(1603年)、徳川家康が二条城を造営した際には神泉苑の
敷地の大部分が城内に取り込まれて著しく規模を縮小した。
鯉塚と亀塚 下の台座には生き物を大切にしましょうと書いてあります。
聖観音を祀る善女龍王社
瑠璃光院の帰りに立ち寄った蓮華寺は、北白川から大原方面に入ったすぐの所高野川沿いに佇んでおります。
天台宗の寺院で、もとは七条塩小路にあった西来院という寺院で、応仁の乱に際して焼失したものを江戸時代初期の
1662年に、加賀前田藩の家臣、今枝近義が、祖父の縁のあるこの地に再建したものです。
開山にあたり比叡山延暦寺の僧が招かれたことから、比叡山延暦寺を本山とし、延暦寺実蔵坊の末寺のひとつとして
天台宗に属する寺院となり、また、現在の寺号は、かつて同名の廃寺の跡地であったことに由来すると言われております。
山門を入ってすぐ左手には約300体といわれる石仏群が居並んでおり、これらは京都市電河原町線の敷設工事に際して
発掘されたもので、河原町周辺はかつて鴨川の河原で、戦災や天災による死者や刑死者の屍が打ち捨てられる遺棄葬
の場であったために、そうした死者を弔うための石仏群が、工事によって掘り起こされ、供養されているのがこの石仏群
です。これらの石仏群はいずれも大日如来像で、中央には地蔵菩薩像が配されています。
庫裏の手前を本堂に入る入り口ですが、ここからは入れないようになされてます。
書院から眺める池泉鑑賞式庭園 作庭者は不明とされております。
この庭園は浄土宗的な形式に従い、池の対岸に浄土を描く形をとっており、こうした浄土宗的な庭園は池の周囲を巡り
歩くことを想定して作庭されることから池泉回遊式と呼ばれますが、蓮華寺の庭園は規模も小さく、書院からの鑑賞を
旨とした池泉鑑賞式の庭園です。
書院に描かれた鷲の杉戸絵
庭園の奥には水量の豊かな湧水があり、それを導いた池が庭園の中心にあり、池は「水」の字の形に作られており、
「水字形」と呼ばれるものだそうです。池の右手前には舟石(ふないし)と呼ばれる石が配されている。
舟石を置く庭園は稀少でありますが、とりわけ蓮華寺の舟石は入舟の形をしている点でさらに珍しいものとなっている。
舟石を置く庭園のほとんどでは、出舟の形があしらわれており、出舟とは、向こう岸に理想郷(浄土)を見出し、彼岸を
想念させるものであり、それに対し、入舟は浄土を此岸に見出す思想を表すものだそうです。
書院からスリッパを履き本堂に向かいます。
本堂前の庭園には、蓮華寺形灯籠として知られる2基の灯籠が佇んでおります。蓮華寺形灯籠は、「基礎は六角で蓮弁
がつき、竿は丸竿で中央部が膨らみ、中台は蓮弁のある六角形で唐草文をあしらってあります。火袋も六角で前後に
四角の穴を穿ち、笠は急勾配の長めで九段の葺地を表し、頂上に宝珠が乗る独特の形をしており茶人たちに好まれたと
言われております。
本寺は天台宗の寺院でありますが、造営に黄檗宗僧が関わったこともあり、本堂の様式は
全く黄檗宗のそれであり、本堂入り口には石川丈山の筆による寺額が掲げられており、
堂内中央の須弥壇には螺鈿厨子に収められた本尊、釈迦如来像が安置されております。
土蔵 庫裏の手前にある土蔵は(非公開)、1872年(明治5年)の学制まで、男女共学の寺子屋の教場として使われて
いた形跡が残されいるそうです。
新緑に覆われた、参道の帰り道です。雨が降った後だったので、緑が生き生きとしており
ました。